⛻60】─1─株仲間を、徳川家康は採用し、田沼意次は発展させた。~No.119No.120No.121 

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 徳川家康が、楽市楽座に株仲間制度を取り入れた。
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 江戸時代の重商主義重農主義と現代の商業主義・市場至上主義は違う。
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 2021年1月8日 YAHOO!JAPANニュース
 悪者じゃなかったの?歴史的評価が大逆転した2人
 (花園 祐:上海在住ジャーナリスト)
 「歴史の評価は公正中立」と言われることがありますが、筆者は決してそんなことはないと考えています。というのも、歴史的評価というのはその時々の思想や政権の影響を受けやすく、かつては英雄視された人物が後の時代には大悪人のように批判されることも少なくないからです。
 【写真】足利義教肖像画。日本史に残る真の「天才」、足利義教の容赦なき戦い
 日本の歴史においても、いわゆる皇国史観(日本の歴史が万世一系天皇を中心に展開されたとする歴史観)の影響で、南北朝時代の武将を中心に戦前と戦後で評価が全く異なる人物が数多く存在します。足利尊氏北朝方武将の評価が好転したのに対し、新田義貞などの南朝方武将があおりを食う形で暗転したのは、まさにそのケースです。評価が揺るがなかったのは楠木正成などごく一部の武将だけでしょう。
 近年においても実証的な研究や議論が進んだことに伴い、かつての嫌われ者が人気者になるなど、歴史的評価が大きく変わった人物が少なからずみられます。
 そこで今回は、ここ20年くらいで評価が大きく変わったと筆者が感じる2人の人物を紹介したいと思います。
■ 江戸時代以降、完全な悪役に
 近年において再評価が最も進んだと筆者が感じる人物は、石田三成(1560~1600年)です。
 豊臣秀吉に仕え、行政官僚として辣腕を振るった石田三成ですが、徳川家康に対抗するために西軍を興し、関ヶ原の合戦(1600年)を引き起こしました。しか関ヶ原では味方に相次いで裏切られたことで敗北に至り、一時は逃亡するも捕縛され、最後は京都で斬首されました。
 徳川家康に盾突ついたという経緯から、江戸時代に石田三成は完全な悪役として批判され続けていました。
 明治以降もそうした評価が続き、関ヶ原で多くの味方に裏切られたこともあってか、「頭はいいけど人望のない嫌味な奴」というイメージが広がっていました。
 しかし近年になり、石田三成の評価を見直す動きが広がっています。最終的に敗北したとはいえ、豊臣家から政権を簒奪(さんだつ)しようとする徳川家康の思惑を見抜き、勝算が薄いとわかっていながらも戦いに挑んだことから、「滅びゆく政権に殉じた忠臣」というような評価がなされるようになってきました。
■ 悪人エピソードの多くは後年の創作
 なぜ石田三成は再評価が進んだのか。1つの理由としては、石田三成のこれまでの悪人エピソードが近年の研究により、否定されるようになったことが大きいでしょう。
 たとえば豊臣秀吉が甥の豊臣秀次切腹を迫ったのは、石田三成が讒言(ざんげん)したためという説が、かつては広く流布されていました。しかしこの説は現在ほぼ否定されています。その他の悪人エピソードについても、多くが江戸時代にイメージ操作的に後から作られたものということが明らかになってきています。
 とはいえ、その尊大な態度から石田三成は周囲から人望がなかったというのはほぼ間違いないようです。ただこの点についても、業務に私情を挟まず粛々とやるタイプの人間だったゆえに反感を買っただけ、という見方もされるようになってきました。
 こうした再評価を受けてか、昨今では「不器用だけど根は真っすぐ」的なイメージが持たれ、ゲームなどに登場する石田三成のビジュアルはイケメン化が進み、やたらとキャラクターとして人気が出ています。もしかしたらイケメンに描かれるようになったから再評価が進んだのかもしれない、という気がしないでもありませんが・・・。
■ 「賄賂老中」は今や時代の先駆者? 
 石田三成と並んで、かつて悪者イメージが強かったものの近年になって「実は大した奴だった」と再評価が進んでいる人物がいます。それは江戸幕府老中の田沼意次(たぬま・おきつぐ、1719~1788年)です。
 田沼意次は、株仲間などの商人組織を優遇し、多額の賄賂を受け取り、その政務や人事を恣意的に決めていたという“賄賂政治家”のイメージが強く持たれていました。田沼意次の所領のあった静岡県牧之原市では、「田沼と言ったら賄賂」というイメージを逆手に取り、筆者も一度は誰かに送ってみたい「ワイロ最中」という土産菓子を製作、販売するまでに至っています。
 そんな元農水大臣を彷彿とさせる田沼意次ですが、近年になって「本当に、それほど突出して賄賂を受け取っていたのか?」という疑義が呈されてきています。
 そもそも田沼意次が老中だった第10代将軍・徳川家治(とくがわ・いえはる、1737~1786年)の時代、賄賂という金銭の付け届けはごく一般的で、誰もがやり取りする習慣でした。田沼意次以外の幕閣のみならず、後年に田沼意次を批判してその政策を改めた「寛政の改革」でお馴染みの松平定信すらも、ほかならぬ田沼意次へ賄賂を贈っていたことがわかっています。
 ではなぜ田沼意次のみが“賄賂にまみれた政治家”とみなされるようになったのか。理由は大きく分けて2つあると考えられます。
 1つ目は、石高の低い立場から、側用人、老中と大出世を遂げたことで周囲の嫉妬を買ったためです。側用人出身でありながら異例と言えるくらいの大出世を遂げたことから、どんな手を使ってでも出世しようとした人物と見られていたようです。
 2つ目は、田沼意次が実施した商人活動を重視する政策が、商人との結託行為と見られたのではないかということです。どの時代も、政治家と商人との距離が近いと賄賂が疑われるものです。
 ただし、この商人および商業活動を重視するという政策は、田沼意次の再評価にもつながっていきます。
■ 開明的な重商主義政策だった? 
 田沼意次の商業活動重視政策の内容をみると、株仲間の公認のほか、国内鉱山や蝦夷地の開発、海外から輸入していた薬草などの国内生産化など、現代でいう産業開発ともいうべき政策が並んでいます。
 当時の日本は税収の大半を米で得るなど、あくまで米が流通の中心であり、貨幣は従ともいうべき状態でした。しかし田沼意次は幕府財政の再建に向け、新田開発も手掛ける一方で、全体として商取引の活発化、それに伴う貨幣による税収増を図っていた節があります。こうした貨幣経済への脱却ともいうべき重商主義的な政策は、時代を先取りした改革であったとする見方が近年なされるようになってきました。
 田沼意次の改革は、内外からの批判や自然災害を受け、結果的には失敗に終わっています。ただ、その改革の先進性が高かったことは間違いありません。田沼意次への批判は前述の通り、異例の出世ぶりへの嫉妬によるものが多かったこともあり、実証的検証が進むにつれて再評価されるようになったとみられます。
■ 歴史的評価は二転三転する
 冒頭にも書いた通り、歴史的評価というのは案外常ならぬものです。今回は石田三成田沼意次の近年における評価の逆転を取り上げましたが、今後彼らの評価が再び低下して元に戻ることも十分ありうるでしょう。
 とはいえ、歴史上の評価というものは、そうした変遷を経て固まってくるところもあります。二転三転する評価の変遷を眺めるのも歴史の楽しみ方の1つと言えるかもしれません。
 花園 祐
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 株仲間
 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説
 江戸時代,幕府,諸藩の許可を得た独占的な商工業者の同業組合。江戸時代初期以来,各業者は営業上の種々の権利 (→株 ) を保持するため,内仲間,組合などを結成していたが,幕府,諸藩は外国貿易品統制,警察的取締り,公安保持,良品の製作販売,価格統制などの目的から,この既存の仲間を公認し,保護する政策をとった。こうして御免株と呼ばれる株仲間が成立した。江戸時代中期以降になると,農村の商品生産の増加と流通機構の拡大により,既存の商人らは既得権を守るためにさらに公権力を頼り,特権化しようとした。これが認められると,未公認の内仲間が株仲間の結成を願い出て,幕府,諸藩も商工業統制の必要上,冥加金の上納などを条件にこれを認めるようになった。これを願株という。株仲間には行事 (または行司) ,年寄,年番,取締などと称する役員がおり,彼らが会所で寄合を行い,事の決定,統制を行なった。職人,奉公人についても互いに協約し,相互の利益をはかるとともに強い統制を加えた。また彼らは新規加入を制限し,仲間以外の営業を禁止して仲間外業者との競争を排除し,かつ市価を安定させ,供給量の加減を行なった。その目的は信用を第1として,取引相手を尊重し,不良品を取締り,不正商行為を排除するなど,初期にはある程度の効果をあげえたが,やがてその独占機能が価格吊上げなど権益擁護の方向へ走り,物価騰貴の弊害をもたらす結果となった。享保の改革 (18世紀前半) では商工業の統制上株仲間を設定し,さらに田沼時代 (18世紀後半) には,冥加金が幕府,諸藩の重要な財源となっていたため,多くの株仲間が公認された。しかし江戸時代後期には,物価騰貴など弊害が目立ってきたため,老中水野忠邦天保 12 (1841) 年その解散を命じた (→天保の改革 ) が,結果はかえって経済混乱を招いた。そこで嘉永4 (51) 年老中阿部正弘は問屋組合再興令を出し,従来の冥加金を廃止する一方,独占売買,価格の吊上げ,掛目減などの不法行為を禁止し,新規加入希望者への制限撤廃などを条件に株仲間を復興させた。しかし開港以後,外国貿易の開始による新たな市場が開拓されると,従来の特権と市場は大きく侵害され,明治に入ると株仲間は有名無実の存在となり,明治5 (72) ~1873年相次いで解散していった。代表的な株仲間には,初期生糸貿易の糸割符仲間,中期以後の江戸十組問屋,大坂の二十四組問屋などがある。
 出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について
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 日本史用語
 江戸時代
(かぶなかま)株仲間ってなんのこと?
株仲間(かぶなかま)とは、江戸時代に同業者どうしで結成された組合。市場を独占的に支配し安定的な営業を行うことを主な目的とした。
 解説
 どんな世界にも、かならずや常連とか古株と呼ばれるグループがあるものだ。そうしたグループはしばしば閉鎖的で新参者が加わることをきらい、仲間うちだけで盛り上がったりまったりすることを好む傾向がある。ましてや大きな金がうごく商売の世界ではなおさらそうした本能がはたらくのは当然だ。
 株仲間とは、営業上の特権をあたえられた同業者組合である。「ワシらは経験もあるしいい仕事ができる。なのでワシらだけに営業を認めてください」というわけだ。もしその願いがお上に認められれば、新入りやよそ者に商いを邪魔されることなく、安定して仕事ができるし、収入が確保できるというものである。
 江戸幕府ははじめのころ、こうした同業者でつくる株仲間を認めていなかった。かれらが力をもつことで幕政に影響が出ることをおそれたためである。
 しかし、品質や価格の安定をもたらすというプラスの面もあるため、元禄期ころに株仲間を黙認しはじめ、享保元年(1716年)からはじまった享保の改革では株仲間の結成に公認をあたえるようになった。これには贅沢品をつくらせないように業界を統制するというねらいもあった。
 そして1700年代後半の田沼時代になると、財政向上のため幕府が商人とつよくむすびつく政策がとられる。株仲間を積極的に奨励し、かれらに営業上の特権をあたえるかわりに、幕府に冥加金・運上金という名目で毎年相当の金銭を上納させるようにしたのだ。
 天保12年(1841年)からの天保の改革では、物価高騰の原因となるとされ、株仲間解散令が出されてから、株仲間は急速に下火となった。
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 糸割符制度(いとわっぷせいど)ってなんのこと?
 糸割符制度とは、中国産の生糸を、一部の商人が独占的に輸入するようにした制度。慶長9年(1604年)に導入。
 解説
 安土桃山時代の終わりころ日本の主要な輸入品は中国産の生糸で、ポルトガル商人が中国(明)から仕入れてきた生糸を日本の商人に売りさばき、莫大な収入を得ていた。徳川幕府は「なんだポルトガル人ばかり儲けやがって。オレたちにも甘い汁を吸わせろ!」と考えて糸割符制度という株仲間のしくみを導入したのである。
 この制度では、外国から持ち込まれた生糸を買うことができるのは、糸割符仲間に指定された限られた商人だけで、その商人が価格を自分たちで決めて一括購入をし、その後に一般の商人に売り渡すのである。糸割符仲間は最初は京都、堺、長崎の3都市の商人、のちに江戸と大坂の商人が加わり「五カ所商人」とよばれた。
 生糸を買うことができるのは糸割符仲間だけであるから、かれらは大きな利益を上げることができた。もちろん幕府はかれらから十分に税金を吸い取って当初の目的をはたしたのである。
 外国側にとっては日本商人が決めた額で売らなければならないから不満がつのる。そのため糸割符制度はいったん停止されたが、再び復活した。しかし日本国内での生糸の生産力があがるにつれ、この制度の必要性も低くなっていった。
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 ウィキペディア
 株仲間
 株仲間とは、問屋などが一種の座を作り、カルテルを形成することである。株式を所有することで、構成員として認められた。
 概要
 当初は同業の問屋による私的な集団であり、江戸幕府は当初は楽市・楽座路線を継承した商業政策を方針としており、こうした組織が流通機構を支配して幕府に対する脅威になる事を恐れて、慶安元年(1648年)から寛文10年(1670年)にかけて6回もの禁令が出されるなど規制の対象としていた。
 しかし、享保の改革において商業の統制を図るために組織化された方が望ましいとする方針の下に公認が与えられ、冥加金(上納金)を納める代わりに、販売権の独占などの特権を認められた。
 田沼意次時代にはさらに積極的に公認され、幕府の現金収入増と商人統制が企図された。
 自主的に結成された株仲間を「願株」、幕府によって結成を命じられた株仲間を「御免株」と呼んで区別した。
 株仲間の公認は、願株の公認を指す。
 株仲間解散令
 天保の改革を進めた水野忠邦は株仲間による流通の独占が物価高騰の原因であるとして、天保12年(1841年)から13年(1842年)に掛け、冥加金の上納を停止させ、株仲間の大半の解散を命じた(株仲間解散令)。
 しかし、当時の経済の実態は農村工業の発達と新興商人が都市でも地方でも台頭したことによって、株仲間の独占はむしろ形骸化しつつあった。また、株仲間には代金不払いなどの不正を行った仲買の情報を共有し、仲間内の商取引を一切停止するといった懲罰を加えることにより、幕府などの公権力の代わりに債権と契約履行を保証する役割があった。
 ところが、水野をはじめとした幕府首脳は幕府権力の保護を受けた株仲間の弱体化や、商取引の制度的基礎になっていたという現実を理解出来なかったために、株仲間を解散させれば、全国的な流通網を動かせると考えたのである。結果、かえって流通の混乱を招き、景気の悪化を招いた。
 なお、この政策に反対した町奉行矢部定謙は改易に追い込まれ、伊勢桑名藩で憤死している。
 株仲間再興令
 水野失脚後の弘化3年(1846年)に筒井政憲が株仲間の再興を阿部正弘に提案、嘉永4年(1851年)、提案を受けた阿部に命ぜられた遠山景元によって冥加金不要の問屋仲間として再興(株仲間再興令)。安政4年(1857年)に再び株仲間となった。再興後は株数を増やされ、新興商人を取り込もうとした。
 明治維新
 明治維新後の明治5年(1872年)、再び株仲間は解散を命じられ、以降復活することはなかった。株仲間構成員の多くは、商業組合に改組されていった。
 日本相撲協会
 日本相撲協会年寄名跡は「年寄株」とも呼ばれるが、その原型は江戸時代に形成された株仲間であり、令和の世に至り数々の問題を抱えつつもなお年寄制度は存続している。
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