🥂201}─1─岸信介が現代日本の社会保障や福祉の基礎を築いた。~No.645No.646 

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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。  
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・    
 日本人には、良い日本人が2割、悪い日本人が3割、空気圧・同調圧力で流されるどっちともいえないようなあやふやで卑怯な日本人が5割。
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 岸信介は、現代の日本人から最も嫌われた政治家である。
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 岸 信介(1896年〈明治29年〉11月13日 - 1987年〈昭和62年〉8月7日)は、日本の政治家、官僚。旧姓佐藤。
 満州国総務庁次長、商工大臣(第24代)、衆議院議員(9期)、自由民主党幹事長(初代)、自由民主党総裁 (第3代) 、外務大臣(第86・87代)、内閣総理大臣臨時代理、内閣総理大臣(第56・57代)、皇學館大学総長 (第2代) などを歴任し、「昭和の妖怪」と呼ばれた。
 第56・57代 内閣総理大臣
 内閣 第1次岸内閣
 第1次岸改造内閣
 第2次岸内閣
 第2次岸改造内閣
 在任期間 1957年2月25日 - 1960年7月19日
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 岸信介は親中国派であったが、中国共産党ではなく台湾であった。
 旧軍人達も、中国共産党を敵として台湾に味方した。
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 1980年代頃までの日本は人口爆発期であったが、これ以降は人口増加は止まり人口減少が始まった。 
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 2020年7月31日・8月7日号 週刊ポスト「あの長期政権は何を残したのか
 岸信介 (57年2月~60年7月 1241日)
 安保より貧困追放!
 国民皆年金を創設した『キシノミクス』の功罪
 今年8月24日に安倍晋三首相の『連続在任期間』は大叔父である佐藤栄作首相の記録(7年8ヵ月)を抜き、歴代最長となる。
 『歌手1年、総理2年の使い捨て。一内閣一仕事でいい』
 そう語ったのは竹下登首相で、一つの内閣が達成できる仕事はせいぜい一つという意味だ。事実、第2次安倍内閣までの6代の総理(その一人は安倍首相)は在任ほぼ1年ごとに交代し、政権が不安定で『何も決められない政治』と言われた。
 では、歴代最長の安倍政権はこの国と国民の将来に何を遺すことができたのだろうか。それを検証するために、歴代の長期政権が遺した足跡を同時代の証言で辿っていく。
 シリーズ第1回は『昭和の妖怪』と呼ばれた安倍首相の祖父・岸信介首相(在任1241日)である。
 祖父の経済政策は『アベノミクス』と正反対だった!?
 『社会主義にだって賛成する』
 岸信介首相は、『日米安保条約を改定したタカ派再軍備論者』というイメージで語られる。
 戦前の東條内閣の商工大臣を務め、敗戦後、A級戦犯に指定、逮捕されながら不起訴となり、『自主憲法制定』を掲げて戦後政界に復帰すると、わずか4年で総理大臣にのぼりつめた。
 首相に就任した岸は訪米してアイゼンハワー大統領と会談し、日米安保条約を改改定する。この新安保条約が現在まで60年続く日米同盟の基礎となっているのは間違いない。だが、安保条約に反対するデモ隊が国会や首相官邸、岸の私邸にまで押しかける中、条約を国会で強行採決したことが強権的なイメージを後世に残した。
 新安保条約の発効を見届けた岸は60年7月19日に退陣する。
 ……
 安倍首相は安保改定を『隷属的な条約を対等なものに変えた』(『美しい国へ』)と祖父の大きな功績と受け止めている。
 しかし、商工省のエリート官僚出身だった岸の真骨頂は経済社会政策にあった。安保改定見据えていたのは『日本の経済的自立』と『貧困からの脱出』だったことはあまり指摘されていない。
 まだ政界復帰する前、私設秘書だった川部美智雄に語った言葉がある。
 『日本のためになるなら社会主義にだっておれは賛成する。但(ただ)しだ、今の日本を見て、戦争に敗れ、生産力は落ち、分配なんて話は何の意味もない。今はとにかく日本経済を復興させて物を増やすことだ。今、分配しようたって3つの物を10人で奪い合っているじゃないか。せめてあと7つ増やせ、そうすれば10人が1つずつ取れるじゃないか、今はその時代だ、経済復興優先の時代だ』
 それが岸の政界復帰の〝原点〟にある。
 『米国依存』の経済復興を転換
 57年2月に首相に就いた岸は就任会見で『汚職、貧乏、暴力の三悪を追放したい』と『三悪追放』をスローガンに掲げて経済政策に力を入れる。
 最初に取り組んだのは中小企業対策だ。
 当時の日本は『なべ底不況』と呼ばれる不況に直面していた。
 戦後、吉田内閣は軽工業による輸出振興で外貨獲得を目指した。外交官出身の吉田は欧米型の自由経済論者であり、GHQ主導の財閥解体独占禁止法によって自由競争を促する政策をとった。日本経済は折からの朝鮮戦争の特需に沸いたものの、米国の高い原材料を買わされたため貿易収支は赤字で、特需が終わると中小企業がバタバタ倒れた。
 吉田の路線を岸はこう批判していた。
 『中小企業は本質的に弱体なものであってこれを自由競争のまま放任すれば共倒れとなってしまうのである。これを振興する道は国家が確固たる中小企業対策を樹立し、保護助成を加えるということ以外にない』
 岸は、中小企業政策の大転換をはかる。
 中小企業団体組織法(57年)で中小企業が商工会組合をつくって生産調整、価格カルテル、大企業との団体交渉権を認めた。
 『強い中小企業の育成がなければ国際競争力には勝てない』
 というのが岸の考えであり、高い技術力をもつ分厚い層の中小企業がものづくりを支える日本の経済構造はここからはじまるといっていい。
 岸の経済政策の研究で知られている政治学者・長谷川隼人氏が指摘する。
 『吉田政権の復興政策は、軍事的にも経済的にも米国に依存して復興を進めようというものだった。朝鮮戦争を契機として繊維産業など軽工業を優先的に復興させる。その上で日米安保体制によって特需収入を持続しつつ防衛負担を抑制するという「日米経済協力」によって大規模な外貨導入をはかり、基幹産業の復興や重化学工業の育成を目指そうとしたわけです。
 これを岸は批判していました。岸は軍事的にも経済的にもアメリカという松葉杖に縋(すが)らなければ独立を維持できない状態から脱却することを国家の再建と位置づけ、輸出の即戦力となる中小企業を育成して外貨に頼らずに自前で復興を図るという考えでした。そのためには、統制経済的な政策が必要になります』
 高速道路と水力発電
 国家統制によって産業を保護しながら競争力を高めるという岸の考え方は、商工省の官僚時代に身につけたものだ。
 岸は商工省書記官時代(26年)、第一次大戦後の不況下の欧米を視察し、米国の工業力に驚き、疲弊する自由経済の大国・英国の惨状に失望して、英国以上の被害を受けながら国家主導で再建に向かう敗戦国ドイツの産業合理化運動を学んだ。
 『ドイツでは日本と同じように資源がないのに、発達した技術と経営の科学的管理によって経済の発展を図ろうとしていた。私は「日本の行く道はこれだ」と確信した』(原彬久『岸信介』)
 そう回想しているが、満州国の経営でそれを実践している。電力を得るために東洋最大と呼ばれた豊満ダム(中国吉林省)を着工し、道路インフラを整備していった。
 日本の戦後復興でも国家主導の経済発展を進めていく。
 『岸は日本初の高速道路「名神高速」の建設を57年に開始すると、翌年には道路緊急整備措置法をはじめとうる道路四法を成立させて道路整備5か年計画をスタートさせた。道路というと田中角栄首相が思い浮かぶかもしれませんが、その元をつくったのは岸です。電力については吉田首相は民間主導の石炭火力発電を重視したが、岸は発電単価が安く自給可能な水力発電に力を入れ、産業全体の生産コスト低減を図るべきと考えた』(長谷川氏)
 こうした岸の経済思想は後輩の通産官僚に引き継がれ、〝護送船団方式〟で外貨から日本企業を守り、育成していった。
 そして日本経済は岸内閣の下で『岩戸景気』と呼ばれる成長に向かうが、経済が成長すれば社会格差は広がる。
 『それが日本のためになるなら社会主義にだっておれは賛成する』
 そういってのけた岸は復興の次に富の分配が政治テーマになることがはっきり見えていたようだ。『貧乏追放』の公約は今でいえば貧困撲滅、格差是正である。
 実は、岸の政策の中で歴史に最も大きな足跡を刻んだのが日本の社会保険制度を確立したことだ。
 岸は3年間の首相在任中に、『国民健康保険法』『最低賃金法』『国民年金法』を次々に成立させ、社会のセーフティネットを構築していく。それまでの健康保険には農家は加入できず、厚生年金は自営業者などは対象外だった。この法律で現在の国民皆保険、国民皆年金制度の基礎ができた。
 最低賃金法については岸が国会答弁で目的を語っている。
 『日本の事情は、よく御承知の通り、特に中小企業が非常に多く、しかも従事している労働者の労働条件が悪い、賃金が低い、これを改善することが労働者にとって必要であるばかりでなく、中小企業の近代化や体質改善の上からいってもきわめて重要なものである』
 社会保障制度の父
 中小企業育成、産業インフラ整備、社会保障がいわば〝キシノミクス〟の三本の矢だった。
 アベノミクスが円安と金融緩和で輸出大企業を儲けさせ、一方中小企業や地方経済を疲弊させて社会の格差を広げたのとは正反対の政策である。
 『安保の岸』が〝社会保障制度の父〟だったとは意外に思うかもしれないが、そうした指摘に岸自身が語った言葉がある。
 『岸内閣の時代に社会保障や福祉の基礎がつくられたということが、私のイメージに合わないというか、私になじまないような印象を受けるらしい(中略)民生安定の手段として社会保障制度を志向することは、政治家として当然やるべきだあって、私としては別に気負ったわけではなかった』(『岸信介回顧録』)
 大蔵官僚で岸内閣時代に官房副長官の補佐役を務めていた藤井裕久・元財務相が語る。
 『岸さんは非常にバランス感覚に優れた政治家であり、その外交・安保政策の本質は、経済政策でもあったように思えます。安保改定のイメージから、岸さんをアメリカ寄りだと言う人がいるが、実際には国際協調主義者でした。なぜ国際協調を求めたのかというと、平和な世界は経済を良くする。国民の生活が良くなる。こういう考え方の人だったからです。
 岸内閣が57年に防衛力を漸増(ぜんぞう)させる「国防の基本方針」を策定した時、岸さんの官僚時代からの腹心だった椎名悦三郎さんが国防会議の時に「順番が大切だ」と語り、一番は国連、つまり国際協調。二番は民生の安定(国民生活)。三番が自衛隊。そして四番に日米安保を挙げた。安保改定を一番下に置いたが、岸さんは一切否定しませんでした』
 岸はその順番通りに動いた。首相になるとアジア諸国を2回歴訪して戦後賠償に取り組み、『国連中心主義』『アジアの一員としての立場の堅持』『自由主義諸国との協調』の外交三原則を打ち出して日本は国連安保非常任理事国に初当選させた。
 次に『貧乏追放』で国民年金法など社会保障法案を成立させ、最後に訪米して新安保条約を調印したのだ。
 そうやって岸が60年前に築いた日本社会のセーフティネットは、いま孫の代で壊れかかっている。それを〝歴史の皮肉〟というには切なすぎる。」
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 A級戦犯には、良いA級戦犯もいれば悪いA級戦犯もいた。
 良いA級戦犯達は、親ユダヤ昭和天皇の御稜威・大御心に添うべく、ナチス・ドイツの外圧を拒絶して数万人のポーランドユダヤ人難民をホロコーストから守った。
 さらに、日本陸軍は抗日軍(中国共産党軍・ファシスト中国軍)と玉砕するなどの激戦を繰り広げながら、その中で、河南省で餓死寸前の中国人1,000万人以上に食糧や医薬品などの軍需物資を大量に放出して助けた。
 日本軍兵士の3分の2の大量死は、戦死ではなく餓死(栄養失調死)か病死であった。
 現代日本は、昭和天皇A級戦犯達の自己犠牲で行った歴史的人道貢献を完全否定する。
 それが、靖国神社問題である。
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 デイリー新潮
 安倍首相の思想の源流か A級戦犯の孫に迫る
 国内 政治
  『戦犯の孫―「日本人」はいかに裁かれてきたか―』林英一 著
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 2014年2月16日、安倍晋三首相の側近、衛藤晟一首相補佐官による「こちらこそ失望した」発言がまたもや日米間にきしみをもたらした。昨年暮れの安倍首相による靖国参拝、その後のアメリカの「失望した」発言。延々とくすぶり続けていた問題に油を注ぐ発言となり、菅義偉官房長官は火消しにやっきになった。
 アメリカ側も昨年12月にバイデン副大統領が日本政府に、靖国参拝は慎重にと告げていた手前「失望した」との対応にならざるを得ず、日米の間で不協和音が鳴り響いている。
 また年内に迫った日米防衛協力のための指針(ガイドライン)の改定に備え、憲法九条改正の論議を一旦横に置き、憲法解釈を閣議決定で変更するとの発言など、安倍首相念願の集団的自衛権の行使容認への動きが加速している。
 ここにはいくつもの問題がひしめき合っている。戦勝国に押し付けられた憲法を脱却しなければならない、同盟国との関係を良好に保たなければならない、近隣諸国との緊張を招いてはいけない、国内のハト派タカ派両勢力に配慮しなければならない。これらを同時に満たす解などあるのだろうか。
■準A級戦犯岸信介の孫
 さらにそこに安倍首相個人の思いが大きく関わってくる。ご存知のとおり、安倍首相は第五十六代内閣総理大臣岸信介の孫である。岸は第二次大戦の開戦時、東条内閣で大臣を務め、敗戦後、東京裁判A級戦犯として裁かれることになる。結局は不起訴となり釈放されるも、後々までA級戦犯というレッテルは決してぬぐえなかった。その後、政界に復帰し、保守合同を果たし、日米安全保障条約を批准したのも岸である。
 安倍首相の目指す「戦後レジームからの脱却」、そして諸外国に懸念を抱かせてでも強行する靖国神社への参拝。戦後日本で大きな意味を持つ日米安保を成立させた岸元首相を祖父に持ち、なおかつ岸が戦犯容疑者だったことが陰に陽に影響を与えているのであろう。
■戦犯の孫だからこそ
 今年2月に刊行された『戦犯の孫―「日本人」はいかに裁かれてきたか―』(林英一/著 新潮新書)のなかで、著者の林氏はA級戦犯の孫たちに焦点を当てている。
 “開戦時の首相”東条英機、“特務機関の「支那通」”土肥原賢二、“唯一の文官”広田弘毅、“開戦を回避できなかった外務大臣東郷茂徳、彼らの孫たちを取材・研究し、彼らの生い立ちと発言を追っている。孫たちの立場は複雑で、戦犯や戦後についての考え方もさまざまである。しかしどの孫にも共通していることは、自らを戦犯の末裔であると自覚するような体験を積み重ね、同時に、一族の宿命として、過去の歴史と向き合わざるを得なかったのである。戦犯の孫として社会のうねりに巻き込まれながら、誰もが自らの立場を鑑み、独自の考えを持つ必要に迫られ、否が応でも自分なりの言葉をもつに至ったようだ。なかでも広田弘毅の孫の肉声は特に貴重に感じられる。
 戦争犯罪や戦争責任を他人事としてとらえることができなかった彼らだからこそ、手のひらを返したように戦犯に責任を押し付けた日本人には、複雑な思いがあるようだった。
 このように「戦犯の孫」安倍首相の中にある国への思い、米国への思い、保守主義への本心を読み解くには、祖父岸信介にその源流を求める必要があるのだろう。
 また同書では「有名な」A級戦犯だけではなく、「無名な」BC級戦犯がアジア各地でどのように裁かれてきたのか、にも注目している。知られざる流転に満ちた人生を送った多くの「無名の」戦犯たちが多数いたことも忘れてはならない。
 デイリー新潮編集部
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 しんぶん赤旗
 2007年9月15日(土)「しんぶん赤旗
 A級戦犯容疑の岸信介元首相とは?
 〈問い〉 安倍首相は、著書『美しい国へ』で、祖父・岸信介氏について、「世間のごうごうたる非難を向こうに回して、その泰然とした態度には、身内ながら誇らしく思う」と書いています。一般的に、祖父を尊敬する心情は理解できますが、岸氏がA級戦犯容疑者になったのには理由があったのではないでしょうか。岸氏とはどんな人物だったのですか?(兵庫・一読者)
 〈答え〉 1960年の安保条約改定を強行したことでも知られる岸信介元首相(1896~1987)は、戦前、農商務省(後に商工省)で超国家主義的“革新官僚”として頭角を現しました。岸は1936~39年まで、日本のかいらい国家「満州国」において、東条英機関東軍憲兵司令官、参謀長を務めたもとで、関東軍と密接な連携のもとに経済・産業の実質的な最高責任者として権勢をふるい、「産業開発5カ年計画」による鮎川財閥の導入などによって資源の略奪をはじめ植民地支配をほしいままにしました。“2キ3スケ”(東条英機星野直樹岸信介鮎川義介松岡洋右)の名で恐れられたのも、このころです。
 この時期、「満州」経済は裏でアヘン取引によってばく大な利益をあげていて、そこからの巨額の資金が岸信介氏を介して東条にわたり、それが東条が首相になる工作に使われたとの説もあります(原彬久『岸信介―権勢の政治家』〈岩波新書〉、太田尚樹『満州裏史―甘粕正彦岸信介が背負ったもの』〈講談社〉など。
 岸はその後、41年、東条内閣の成立とともに、東条がもっとも頼りにする盟友の一人として商工大臣、軍需次官(大臣は東条が兼務)をつとめ、侵略戦争遂行のための国家総動員体制、国家統制による軍需生産増進、“大東亜共栄圈”の自給自足体制確立など戦時経済体制推進の施策をすすめます。
 ですから、岸が戦後A級戦犯容疑者として戦争責任を問われたのはごく自然のことでした。1945年9月、岸は笹川良一児玉誉士夫らとともに東京・巣鴨拘置所に収監されましたが、アメリカの対日占領政策の転換とともに48年12月に釈放されました。
 岸はみずからの戦前・戦中の役割を反省するどころか、それを正しい行為とみなす世界観、価値観を終生かたくなにもちつづけました。戦犯容疑者として収監されるとき、恩師から「自決」を促す短歌をおくられたさいに、返歌に「名にかへてこのみいくさ(聖戦)の正しさを来世までも語りのこさむ」と書いています。(原彬久、前掲書)。(足)
 〔2007・9・15(土)〕
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 現代の日本に、岸信介に匹敵する高学歴出身知的エリートはいない。
 現代の政治家、官僚そして企業人・経営者、学者が幾ら寄って集ってもしょせんその程度に過ぎない。
 何が違うのか、それは、目標を必ず実現させるという強い志と不退転の覚悟による行動力、広い知識と深い教養による思考力、世界と歴史を見据えた屈折のない確かな心眼力、そして思想と哲学の有無である。
 その結果、昔の日本人は日本の為に「何か」を残したが、現代の日本人は後世の為に「何も」残さない。
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 戦前の日本人は自分で考えて決断して行動していたが、現代の日本人は他人の言う通りに生きようとしている。
 強いリーダー待望論は、昔の日本より現代の日本に強い。
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 資源少国の日本は、食糧・物資・エネルギー(石炭・石油・天然ガス・ウラン・その他)アメリカの国内及びアメリカの影響地域から米ドル建てで購入し、アメリカ軍が安全を確保している海と空を利用して輸入していた。
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 戦後日本人は、歴史教育を受ける事で歴史力をなくし、歴史を正しく評価する教養も失い、マルクス主義系学者が捏造・歪曲したニセ歴史を定説として盲目的に信じ込んでいる。
 戦後の歴史教育で高得点を取ったのが高学歴出身知的エリート達である。
 そして彼らが、親中国派・媚中派や親韓国派・親北朝鮮派である。
 現代の日本史は、A級戦犯岸信介を完全否定し、その日本再生政策を認めていない。
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