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引揚げの歴史の中には、不当にも日ソ中立条約を破棄したソ連軍・ロシア人共産主義者による非人道的日本人難民(女性や子供)大虐殺が存在する。
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舞鶴市
引き揚げの史実と引揚者をあたたかく迎え入れたまちの歴史を次世代へ継承! 『引き揚げ第1船入港日10月7日 舞鶴引き揚げの日』
[2020年9月10日]ID:5359ソーシャルサイトへのリンクは別ウィンドウで開きます Facebookでシェア
10月7日は『舞鶴引き揚げの日』です!
『舞鶴引き揚げの日』条例 制定の背景
舞鶴引揚記念館では、昭和63年の開館以降、引揚体験者や舞鶴市民の皆さんと共に引き揚げやシベリア抑留の史実を継承するとともに、平和の尊さを国内外に発信する取り組みを進めてきました。
引き揚げ最終船の入港から60年以上が経過し、戦争を知る世代が少なくなる中、引き揚げやシベリア抑留の史実、また、博愛の精神をもって引揚者を迎え入れた舞鶴市の歴史を次世代へ継承するとともに、平和に対する意識の高揚を図るさらなる取り組みを進めていくことが重要であると考え、舞鶴港に引き揚げ第1船「雲仙丸」が入港した日10月7日を「舞鶴引き揚げの日」と制定しました。
次世代へ引き揚げの史実を継承!平和へのメッセージを発信!
舞鶴市では、昭和20年10月7日、引き揚げ第1船「雲仙丸」の入港から昭和33年9月7日の引き揚げ最終船「白山丸」の入港までの13年間にわたり、およそ66万人と遺骨1万6千柱を迎え入れました。
当時の舞鶴の人々は、終戦直後で食糧も物資も充分でなく自分たちの生活もままならない状況でしたが、お茶やふかし芋をふるまい心身ともに疲れ果てた引揚者を、まちぐるみであたたかく迎え入れました。これらの記憶は、次世代の子供たちにも伝えたい「まちの歴史」です。
『舞鶴引き揚げの日』の制定をきっかけとして、戦争を知らない世代にわかりやすく「引き揚げの史実」を語り継ぎ、「あたたかく引揚者を迎え入れたまちの歴史」を伝え、平和への願いを発信するさらなる取り組みを進めていきます。
『舞鶴引き揚げの日』協働で目指す「3年間で市民認知度100%」プロジェクト
「引き揚げやシベリア抑留の史実」「まちぐるみで引揚者を迎え入れたまちの歴史」「恒久平和への願い」を、まちぐるみで次世代へ継承する取り組みへとつないでいくため、令和元年度に協働で目指す「3年間で市民認知度100%プロジェクト」を立ち上げました。
「舞鶴引き揚げの日」の認知度を調査するため、街頭アンケートを実施したところ、プロジェクト1年目の認知度は「33%」でした。
プロジェクト2年目となる今年度も、認知度アップを目指して取り組みを進めますので、ご協力をお願いします!
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産経新聞 iRONNA編集部
「引き揚げ者の街」舞鶴に刻まれた記憶
戦後75年の節目を迎え、先の大戦について考える機会が増えたことだろう。中でも終戦を迎えながら帰国に困難を極めた「シベリア抑留」は戦後を象徴する歴史の一つだ。その主な引き揚げ港となった京都府舞鶴市に「舞鶴引揚記念館」がある。同館の資料に改めて目を向ければ、歴史を超えて語り継ぐべき「戦後」が見えてくる。
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終戦直後の引き揚げ、なぜ「国民的記憶」にならなかったのか
『加藤聖文』 2020/10/07
加藤聖文(国文学研究資料館准教授)
今から75年前、大日本帝国という、現在の日本国よりも広大な支配領域を持つ国家が存在していた。
大日本帝国は台湾、朝鮮半島、大連と旅順を含む遼東半島の先端部(関東州)、サハリン島の南半分(南樺太)、ミクロネシア(南洋群島)を支配していた。さらに満洲国といった傀儡(かいらい)国家を通じて中国東北を実質的に支配し、日中戦争が始まると、中国本土にも蒙古自治邦政府、南京国民政府といった傀儡政権を樹立した。最盛期には東南アジアも占領した。
1945年、大日本帝国は第2次世界大戦に敗れたことによって崩壊する。私たちは昭和天皇が国民に終戦を伝えた玉音放送が流れた8月15日を境に、大日本帝国の時代であった戦前と、日本国の時代となる戦後を切り分け、この年を起点に「戦後何年」といった呼び方をしている。
大日本帝国が崩壊すると、歌謡曲『リンゴの唄』(霧島昇、並木路子)が流れる平和な時代がスタートしたように思われがちだが、ここには大きく見落とされた現実がある。
大日本帝国が支配領域を拡大するにつれて、そこに日本人が渡っていった。国際化社会といわれる現在ではビジネスパーソンなどが海外に移り住み、アジアには約40万人の日本人が居住している。この数は敗戦時の樺太(サハリン)にいた日本人とほぼ同じである。同時期のアジアには、現在の9倍に近い350万人の民間人が居住しており、現在の大阪市の人口、270万人より80万人も多い。
これだけの日本人が敗戦によって「外国」となった地域に残留することになった。彼らが日本へ帰還することは海外引き揚げと呼ばれ、帰還者らは引き揚げ者と呼ばれた。ただし、彼らが平穏無事に帰還できたわけではない。
ポツダム宣言を受諾する際、日本政府は在外出先機関に対して民間人の現地定着方針を指示した。
理由は二つある。一つは物理的な理由だ。敗戦時、民間人350万人と、ほぼ同数の日本軍将兵がいた。
合計すると、当時の日本人口の1割にあたる700万人が残留しており、彼らを短期間で帰還させることは輸送能力から見て不可能であった。しかも、日本軍将兵の本国帰還を求めたポツダム宣言に従い、将兵を優先しなければならなかった。
その他にも機雷除去による港湾施設の回復や、住居や食糧の提供など課題は山積していた。そのため3~4年は帰還できず、その間は現地で自活することを求めたのである。
もう一つは、日本政府の国際情勢に対する見通しの甘さだった。日本政府はポツダム宣言を受諾すれば戦争は終わり、海外に残留する民間人や将兵は、連合国が人道的に取り扱ってくれると期待していた。満洲や中国本土では、数年間の自活を可能とするための代償として、旧ソ連軍や国民党に労務提供を持ちかけるほどであった。
しかし、現地定着方針は完全な失敗に終わる。現地の社会情勢が日本政府の予想をはるかに超えるほど悪化したからである。
中国では国民党と共産党との内戦が始まっていた。さらに、大戦最末期に旧ソ連軍が進攻した地域(満洲・北朝鮮・南樺太)は、直接の戦場となったことから社会的混乱が激しくなり、在住日本人の大量難民化にともなって死者が激増した。
戦争とは究極の国家エゴであり、自国の利益を犠牲にしてまで他国を優先することはあり得ない。旧ソ連は独ソ戦で荒廃した国土の復興が第一であって、そのためには占領地にあった工場も個人資産も戦利品として持ち出し、労働力が足りなければ将兵をシベリアへ連行した。中国も復興のために日本人を利用し、できることは何でもさせた。そして、海外引き揚げに最も重要な役割を果たした米国も同じだった。
米国は、数年はかかるとみられていた日本人の帰還を、自国の船舶を使ってわずか1年余りで完了させた。しかし、これは日本への同情が理由ではなく、中国の安定化を図る上で残留する日本人、特に無傷で敗戦を迎えた100万人を超える支那派遣軍が障害となっていたからである。
日本政府の甘い見通しは外れたが、結果的には敗戦から1年余りという予想を超えた早さで大半の日本人が帰還できた。この外れた見通しと結果のギャップが、海外引き揚げの歴史を覆い隠してしまった。
早く帰還できたとしても引き揚げ者にとって、国家の庇護を受けられないまま難民状態に置かれた1年余りは、戦争が終わったとは決して言えない状況であった。
引き揚げ者は、崩壊した大日本帝国の清算を一身に引き受けた人々であり、犠牲者は満洲を中心に30万人近くに上った。亡くなった人の数では東京大空襲の8万4千人、広島の原爆の14万人、沖縄戦の民間人9万4千人を大きく上回る。しかも、犠牲者の慰霊は民間有志に限られ、今も遺骨は現地に埋もれたままである。
帝国の遺児となった引き揚げ者が故国にたどり着いたとき、大日本帝国は日本国という国になっていた。作家のなかにし礼が、満洲からの引き揚げ船で聞いた『リンゴの唄』を「残酷」と感じたのは、引き揚げ者と戦後日本の深くて越えがたい意識の断層をよく表している。
短期間で終了した海外引き揚げは、戦後日本の中で、国民的記憶にはならなかった。日本は戦後復興から高度経済成長を経て経済大国化していき、引き揚げ者の存在は顧みられることもなく、海外引き揚げの歴史は忘却されていったのである。
その一方で、10年にわたって長期化したシベリア抑留は、歌謡曲や映画にもなった『岸壁の母』などで広く知られることになる。京都府舞鶴市にある舞鶴引揚記念館が事実上のシベリア抑留記念館であることは象徴的である。
敗戦まで「帝国臣民」の一員とされていた朝鮮人や台湾人の存在も忘れてはならない。彼らも大日本帝国の拡大とともに居住範囲が広がり、敗戦によって現地に取り残された。
しかし、日本政府は現地定着方針を指示した際、彼らの庇護を放棄して連合国に丸投げした。彼らの祖国への帰還は日本人以上に困難であり、帰還後、さらに苛酷な政治の荒波に翻弄(ほんろう)されることになった。
東アジアから東南アジア、太平洋にわたる広大な地域に支配を拡大していった大日本帝国の歴史は、まさに日本の近代史そのものであり、多くの民族を巻き込んだ点では東アジアの近代史でもある。
海外引き揚げの歴史が日本人の意識の奥底に沈殿し社会に埋没したことで、何ゆえに引き揚げ者が発生したのか、そもそも彼らはなぜ海を渡り、そこで何をしていたのかを深く考える機会が失われ、多くの日本人が大日本帝国を忘却する結果をもたらした。そして大日本帝国の記憶を封印したことが、東アジア諸国との歴史認識をめぐる軋轢(あつれき)の一因となったとも言える。
日本の将来は、アジアとの共存なくしては成り立たないであろう。しかし、経済的利益を追求するだけではなく、歴史を振り返る中で自らの立ち位置を定め、将来を見通す目を養わなければ、時勢に翻弄されるだけに終わる。
そのような意味において、海外引き揚げという歴史を通して、日本とアジアとの関係を再認識することは意義のあることではないだろうか。
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家族愛や祖国愛…、舞鶴引揚記念館に秘められた世界的価値
『iRONNA編集部』 2020/10/07
黒沢文貴(東京女子大現代教養学部教授)
舞鶴引揚記念館に所蔵された資料の価値について語る東京女子大の黒沢文貴教授=2020年9月11日、京都府舞鶴市(iRONNA編集部、西隅秀人撮影)
舞鶴引揚記念館(京都府舞鶴市)が所蔵する資料は、海外からの邦人の引き揚げ、特にシベリア抑留に関わるものですが、この抑留と引き揚げの問題は、日本人にとって戦後の歴史の中で、本来は極めて馴染み深いものです。
ご存じの方も多いかと思いますが、シベリア抑留とは、第2次世界大戦の終戦後、武装解除された日本人捕虜や民間人たちが、当時のソ連・モンゴル領内に移送され、強制収容所に抑留されて労働に従事させられた歴史的事実のことを指します。
その数がおよそ60万人にのぼることから、家族や親戚の中に、シベリア抑留からの帰国者がいる方も多く、ある種国民的な歴史の記憶と言えるでしょう。二葉百合子さんたちが歌われた『岸壁の母』が有名ですね。
ただ、戦後50年、60年、70年、今年は75年という節目ですが、このように時が経つにつれて、当時の記憶が徐々に薄れてきていることは言うまでもありません。
そうした中で、5年前の2015年10月に、舞鶴引揚記念館の所蔵する資料570点が国連教育科学文化機関(ユネスコ)の「世界の記憶(世界記憶遺産)」に登録されました。世界記憶遺産に登録されたことで、舞鶴引揚記念館の資料が、人類が共有すべき世界的に重要な資料として認定されたわけですから、改めてシベリア抑留と引き揚げに関する歴史をわれわれが知る、よいきっかけになったと思います。
また、戦後の長い間、特に1950年以降は国内唯一の引き揚げ港となった舞鶴市の市民の方々、抑留者や引き揚げ者を、真心をもって温かく迎えた歴史を持つ舞鶴市民にとっても、この歴史の記憶がかなり薄れつつありました。
こうした中で、自分たちの故郷の歴史を再認識する機会にもなったわけであり、その意味でも、ユネスコへの登録はとても意義深いものであったと思います。歴史の舞台となった場所に、歴史博物館があるということは、その地域にとっても重要なことです。
第2次世界大戦に関係する歴史は、現在に近い近現代の戦争をめぐる歴史であるだけに、常に敵味方や戦勝国と敗戦国、さらには加害と被害という観点から語られることの多い歴史です。そうした視点がどうしてもつきまとうだけに、記憶遺産としては本来、非常にハードルの高い分野であったと思います。
過去に登録された近現代史の分野の記憶遺産といえば、たとえばナチスによるユダヤ人迫害を逃れ、ドイツからオランダ・アムステルダムに移り隠れ住んだ少女アンネ・フランクによる『アンネの日記』がありますが、これを記憶遺産とすることに、あえて異論を唱える人はいないでしょう。
ですが、シベリア抑留や引き揚げとなると、そもそも終戦時になぜ約660万人もの軍人を含む在外邦人が存在したのかという問いを抜きにしては語れないこともあり、歴史認識をめぐる対立の中に引き込まれる可能性が高いため、そもそも記憶遺産に挑戦するには困難なテーマであったと思います。
とはいっても、抑留者や引き揚げ者がさまざまな困難や苦労、また筆舌に尽くし難い体験を乗り越えて舞鶴の地に降り立ったこと自体は、日本人が忘れてはならない歴史のひとコマであることに間違いありません。
シベリア抑留を経て引き揚げてきた人たちの存在は、戦争によって生まれたある種の悲劇です。戦争が終わった段階で、武装解除をされた段階で、かつてジャン・ジャック・ルソーが『社会契約論』の中で述べていたように、「武器をすてて降伏するやいなや、ふたたび単なる人間にかえった」、つまり軍人はもはや軍人ではなく、一人の人間、市民にたち戻った存在といえるわけです。ポツダム宣言に従えば、すみやかに故郷の家族のもとに帰れるはずであった人々です。
しかし、シベリア抑留者たちは、すぐには帰国できませんでした。東南アジアなど他の地域からの復員と引き揚げが進む中で、シベリア抑留者の引き揚げが始まったのは、終戦から1年以上経ってからのことであり、それも決して順調に進んだわけではありません。米ソ対立の冷戦構造もあり、長い人は11年に及ぶ抑留生活を強いられたわけです。その過程で、結果的に帰国できずに現地で亡くなられた方々が、約6万人もおられました。
翻って今現在、世界各地でさまざまな国際紛争や内戦によって故郷を失い、難民となってしまう極めて多くの人々がいます。シベリア抑留の人たちは、もちろん今日の難民や故郷喪失者とはまったく歴史的背景などの前提が違うので、同じとは言えませんが、戦争や紛争の惨禍、さらには国際情勢などが原因で、故郷への帰還が困難な人々という視点に立てば、似たような境遇と言えなくもないでしょう。
実はそうしたことも頭の片隅に置き、恐らく抑留と引き揚げの歴史をご存じではないユネスコの審査員の方々にどのようにしたらご理解いただけるのかに思いを巡らしながら、ユネスコへの申請書を執筆していました。もちろん日本が降伏した時点で、すでにソ連はドイツ軍人などの旧敵国人を大量に抑留して、祖国再建のための労働力にしていましたので、そうしたシベリア抑留と同様の同時代的な出来事も、申請書を書くにあたり重要な歴史として重視しました。
要するに、そうした人々に共通するのは、自らがコントロールできない、まったく不条理な状況に突然放り込まれ、筆舌に尽くし難い労苦を味わらなければならなかったということです。しかもそれは、なかなか終わりの見えない、心身ともに疲弊する労苦であったわけです。
国家というレベルではなく、一人ひとりの人間、個人という目線に立てば、そうした理不尽な境遇に置かれた人々が必死に残そうとされた資料には、その希少性も含めて、当然のことながら資料自体に大きな価値があります。自ずと人々に訴えかける大きな力が、資料そのものにあります。
なぜならそこに、人類共通の普遍的な思いを見いだすことができるからです。それは例えば、生への欲求、人間愛や家族愛、そして同胞愛や祖国愛という普遍的なレベルの思いです。恐らく、そうした視点を基調に据えて訴えたことが、ユネスコの委員の皆さんの胸に響き、記憶遺産としての価値を認めてもらうことに繋がったのではないかと思っています。
先にも触れましたが、「戦後から何年」という節目を迎えるごとに、残念ながら記憶は薄れていきます。ただ戦後の日本は、戦前に形成された「大日本帝国」が解体され、終焉を迎えたところから再出発しました。平和な文化国家へと変化していく、その大きな変わり目に、抑留と引き揚げの歴史はあります。
ですから、戦後日本社会の一側面を表すその歴史は、まさに国民が記憶し共有すべき戦後の大きな歴史のひとコマであるといえます。また、今日のように、国際的な相互依存関係が深まり、人々の往来や交流が盛んに行われている状況においては、自国の歴史をきちんと知るということが、他国の方々との親密な交流や無用な摩擦を避けるためにも必要なことであると思います。
現在は国民国家の時代ですから、どうしても近現代の歴史は国単位で語られることが多くなります。しかし、国家は一人ひとりの人間によって成り立っています。ですから、抑留と引き揚げの歴史も、一人ひとりの個人の目線、その時代を生きた人間の苦悩や喜びに、もっと目を向けてみることが必要でしょう。歴史は一人ひとりの人間が織りなす営みによって生まれる、人々が紡いだドラマです。
その意味では、シベリア抑留の悲劇は、抑留者だけの問題ではなく、帰国を待ちわびる家族の問題であり、広くは同胞を迎える日本国民や社会の問題でもあります。抑留者とその家族にとっては、帰国後の生活の問題でもあります。
抑留者にとっても、家族にとっても、帰国と、それを待ちわびた末の再会によって、ようやく長い戦争が終わったわけです。その時点からが、真の意味での彼らの戦後の始まりであったといえます。国家レベルの戦後と個人目線に立つ戦後には、ギャップがあるという視点も、戦後を語る中では大切ではないでしょうか。
記憶遺産の審査基準には、唯一無二性がありますが、それは言葉を変えて言えば、一人ひとりの人間の生きた証となる資料を求めている、ということだと思います。誰それの残したものということが明確であることが必要であり、その点で舞鶴引揚記念館の記憶遺産に登録された資料も、その要件を十分に満たしたものばかりです。
私の舞鶴引揚記念館とのお付き合いは、同館の「あり方検討委員会」が舞鶴市に設けられて以来のことになります。特に委員会の答申に基づき同館が再び市直営となり、その後ユネスコへの挑戦を表明されてから、つまり2012年以来、その所蔵資料の調査にあたり、また記憶遺産への登録申請のための有識者会議会長としても、同館には携わってきました。
われわれ歴史研究者は、なによりも原資料に無上の喜びを感じますが、舞鶴引揚記念館の資料に初めて接したときの思いは、まさに宝の山に出会ったという印象でした。シベリア抑留に関する学術研究も、まだまだ発展途上の段階にありました。
記憶遺産の登録基準には、資料が本物であること、唯一無二の希少性、代替不可能な世界的重要性を持つものなど、いくつもの基準があり、それらを全てクリアしなければなりません。舞鶴引揚記念館の登録資料は、当然のことながら、そのすべての基準を満たしています。過酷な労働・生活環境の中で、筆記用具も満足に与えられない中で、抑留者たちは工夫を凝らし、必死の思いで生きた証として資料を残そうとしました。
しかし、強制収容所や帰還のために集結したナホトカ港での記録物の没収、さらには帰国した舞鶴での連合国軍総司令部(GHQ)の検閲により没収されたものも多く、現存していること自体が非常に貴重なものばかりです。
その他、舞鶴引揚記念館には、帰国後に書かれた回想記の類や絵画、またスプーンなどの制作物など多数の資料が所蔵されています。それらは記憶遺産の基準からは残念ながら外れますが、抑留と引き揚げの歴史を知ることのできる、貴重な資料であり、それぞれが強烈な印象を与えるものばかりです。
シベリア抑留者は、ポツダム宣言の趣旨を踏まえれば、本来すぐにでも帰国できるはずだった人々です。それが事情も分からないうちに抑留され、酷寒の地で満足な食事も与えられずに過酷な労働を強いられたわけです。そうした環境下での肉体的な消耗はいうまでもなく、精神的な苦痛にも計り知れないものがあったでしょう。そうした極限状態に置かれた人間一人ひとりの魂の叫びが、それらの資料には凝縮されているのです。
記憶遺産に登録された多数の資料の中でも、最も印象的なものの一つに、シベリアで抑留されていた北田利氏が家族に宛てた「俘虜(ふりょ)郵便はがき」があります。これは往復はがきになっていますので、奥様も返信を出されています。
ただ、これらのはがきが全て宛先に届けられたわけではありません。抑留者と家族との間を結ぶ唯一の手段がはがきでしたが、それが届いているのかどうかに、当事者は非常にやきもきします。そうした北田夫人の心情は、夫人が残されたノートがあり、その中にはがきの内容も書き写されており、はがきとしては今日現存しないものでも、その内容を知ることができます。
北田氏は、抑留者の中でも最長となる11年間抑留されていました。その間の帰国を待ちわびる家族の心情や様子が、その夫人のノートには克明に記されています。11年間の心の変化や子供たちの成長ぶり、冷戦状況の中でなかなか帰国が実現しないもどかしさなど、さまざまな家族の思いがつづられており、まさに涙なくしては読めない内容です。心を打たれます。家族にとっても、夫が抑留されているということが、いかに過酷なものであったのかが、よく分かる資料です。
ユネスコの世界記憶遺産に登録されたことで、私自身は一定の役割を果たせたと思っています。ただ、記念館が所蔵する資料は、そもそも約1万6千点もあります。同種のものも多数ありますが、たとえば俘虜郵便はがきにしても、それら一つひとつの内容を精査していけば、強制収容されていた時期や収容所の場所による違いも見えてくるはずですので、それらの調査も今後の課題だと思っています。そうした調査を積み重ねていくことによって、シベリア抑留の実態や全体像が、より正確に明らかになってくるのではないでしょうか。
シベリア抑留の研究には、ロシア側の資料の利用が不可欠ですが、その意味で、舞鶴引揚記念館がユネスコの登録申請に向けて、抑留者のロシア側の送り出し港であったナホトカ市との共同申請を模索したことや、登録後も関連資料を調査する目的でロシア、中国、ウズベキスタンなどに調査団を派遣していることは、大いに評価できるでしょう。戦後も75年が経過して、新たな資料収集には困難がつきまといますが、実態や実像をさらに明らかにするための調査や研究は、今後も続けていければと思います。
さらに、そうした学術研究の進展や新たな資料の発見によって、シベリア抑留研究もより深まりを見せていくことになります。また時代の変遷に伴い、歴史解釈や歴史認識も変わることがあります。ですから舞鶴引揚記念館の展示の仕方や内容も、そうした変化の中から生まれる最新の知見を参考にしながら変えていく必要もあるでしょう。
正確な歴史的事実を国民が知るためには、舞鶴引揚記念館のような歴史博物館の果たす役割には極めて大きなものがあります。抑留と引き揚げの歴史をのちの世代に残していくためにも、かつてのような全国規模での応援が強く望まれるところです。
最後に、ユネスコ世界記憶遺産とは、登録資料の世界的価値の認定ですから、今は新型コロナの関係で海外の方の来館は難しい状況ですが、コロナが終息した後には、ぜひ世界各地から舞鶴引揚記念館においでいただければと思っています。もちろん日本各地の方々、特に若い方々の来館も切に願っています。(聞き手、iRONNA編集部)
くろさわ・ふみたか 歴史学者、東京女子大現代教養学部教授。1953年、東京生まれ。上智大文学部史学科卒。同大学院文学研究科博士後期課程単位取得満期退学。博士(法学)。専門は日本近現代史。都立日比谷高校、西高校の教員を経て、宮内庁書陵部に入庁。宮内庁書陵部編修課主任研究官として「昭和天皇実録」の編修業務にあたる。外務省「日本外交文書」編纂委員のほか、軍事史学会会長も務める。著書『大戦間期の日本陸軍』(みすず書房)で第30回吉田茂賞を受賞。その他の著作に『歴史に向きあう』『二つの「開国」と日本』(共に東京大学出版会)など。
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