🍴11}─1─寛永の大飢饉。島原・天草の乱。慶安の変(由井正雪の乱)。〜No.20 

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 世界大百科事典 第2版の解説
 寛永の大飢饉
 1641‐42年(寛永18‐19)の凶作による江戸時代最初の大飢饉。1630年代を通じて慢性的な農民の疲弊,それによる農地の荒廃現象がみられたが,37年に起こった島原の乱は,九州を中心とした大量の兵粮と軍役の徴発・動員により,農村の疲弊状況をさらに深刻化させた。40年には,西日本を中心として全国的に牛疫病が流行し,九州では大量の牛死が発生して,農耕に甚大な影響を与えた。翌41年には,西日本では干ばつに見舞われ,さらには虫害の被害をうけ,北陸・関東・東北地方では長雨と冷気による冷害に襲われ,全国的な大凶作となった。
 出典 株式会社平凡社世界大百科事典 第2版について 情報
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 島原の乱は、江戸時代初期に起こった日本の歴史上最大規模の一揆であり、幕末以前では最後の本格的な内戦である。島原・天草の乱、島原・天草一揆とも呼ばれる。寛永14年10月25日(1637年12月11日)勃発、寛永15年2月28日(1638年4月12日)終結とされている。従来、信仰的側面は表面上のもので、あくまで厳しい収奪に反発した一揆であるというのが定説であったが、事態の推移から、単なる一揆とする見方では説明がつかず、宗教的な反乱という側面を再評価する説が出ている。鎮圧の1年半後にはポルトガル人が日本から追放され、いわゆる「鎖国」が始まった。
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 慶安の変は、慶安4年(1651年)4月から7月にかけて起こった事件。由比正雪の乱、由井正雪の乱、慶安事件とも呼ばれることがある。主な首謀者は由井正雪、丸橋忠弥、金井半兵衛、熊谷直義であった。
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 江戸時代の一揆
 「百姓一揆」も参照
 1637年(寛永14年)の島原の乱以降、江戸幕府は百姓が徒党を組むことを禁じ、一揆は禁じられた。農民たちは自分たちの行為を「一揆」とは決して呼ばなかったが、農民たちが要求を通すために徒党を組む「百姓一揆」は継続して行われた。
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 江戸の火事
 日本の歴史の江戸時代における江戸の火事(えどのかじ)は、「火事と喧嘩は江戸の華」という言葉が残り、現代では「火災都市」と呼称されるほど、江戸(現在の東京都区部にほぼ相当)では頻繁に発生した。
 大火が頻発し、都市の広大な市街地を繰り返し焼き払った史実は、世界でも類例がないとされる。
 江戸の火事は祝融や回禄とも呼ばれ、大火の様相を紅葉に見立てることもあった。

 火事の回数
 関ヶ原の戦い翌年の慶長6年(1601年)から、大政奉還の行なわれた慶応3年(1867年)に至る267年間に、江戸では49回もの大火が発生した。江戸以外の大都市では、同じ267年間で京都が9回、大阪が6回、金沢が3回などであり、比較して江戸の多さが突出しているといえる。
 大火以外の火事も含めれば267年間で1798回を数え、慶長6年(1601年)からの100年間で269回、元禄14年(1701年)からの100年間で541回。
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 江戸の地震
 寛永江戸地震とは、寛永年間に、日本の関東地方南部(江戸とその周辺)で相次いで発生した地震である。地震の規模は、いずれもM6.0前後で、南関東直下地震に該当するとされる。

 寛永江戸地震(1630年)
 1630年8月2日(寛永7年6月24日)、南関東でM6.0程度の地震が発生。
 江戸では、現在の震度階級にして震度5程度の揺れがあったとされる。
 この地震でも、江戸城の石垣が被害を受けた。

 寛永江戸地震(1635年)
 1635年3月12日(寛永12年1月23日)、江戸付近でM6.0前後の地震が起きた[1]。
 戸では、震度5相当の揺れを観測したと推定されている[2]。
 長屋の塀に被害が出たり、増上寺の石灯籠が倒れたりした[1]。
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 江戸時代 か行
 【寛永の大飢饉とは】わかりやすく解説!!原因や影響(死者数)・その後の対策など
2019年5月15日 2019年5月15日
 「寛永の大飢饉」といえば江戸期に起こった飢饉のうちの1つとして思い浮かぶ人は多いと思われます。
 ではその飢饉はどんなものだったかと聞かれると中々細かくは説明できないかもしれません。
 そこで、今回はこの「寛永の大飢饉(かんえいのだいききん)」について簡単にわかりやすく解説していきます。
 寛永の大飢饉とは?
 寛永の大飢饉とは、江戸時代初期の1642年(寛永19年)~1643年(寛永20年)に起きた飢饉のことです。
 飢饉とは天候不順や異常気象、虫害などの自然災害や社会的影響などで食糧不足に陥り、人々が飢え苦しむ現象のこと。
 寛永の大飢饉は、江戸初期の飢饉の中でも最大のものだったと言われており、全国でおおよそ5~10万人が餓死したと言われています。
 また、江戸初期に幕府の政治は【武断政治】から【文治政治】へ方針転換しますが、この転換にも大きな影響を与えたとされています。
 寛永の大飢饉の原因
江戸初期最大の飢饉とされる「寛永の大飢饉」ですが、その原因も一つではありませんでした。
 いろんな要因が重なり合った結果とされていますが、その要因についてみていきましょう。
 ①社会的困窮
 江戸初期は幕府による幕藩体制の確立過程の中、支配体制に力技で組み敷かれていく武士は勿論ですが、その武士により支配される農民達にも多くの負担が課せられました。
 農民たちの多くは疲弊した状態になっていたのです。
 そのような中、1637年に国内最大の内乱である島原の乱が起きます。
これはキリシタンによる一揆として宗教的な要素が有名ではありますが、実は過酷な取り立てを行う領主への農民たちの不満が起こした反乱としての側面も大きかったのです。
 さらにこの乱の鎮圧のために各地の農民が駆り出されたことで、農民たちの苦しみはより強まります。
 ②労働力の低下
 1638年(寛永15年)九州で牛疫(ぎゅうえき)というウイルス性の牛の病気が発生し、西日本を中心に流行してしまいます。
 伝染力が強くまた致死率も80%を超えるこの病を発病した牛は5~6日で高熱と酷い下痢等で死亡したとされます。
 貴重な農耕のための労働力を担っていた牛が減少し、農作業への影響が出てきてしまうのです。
 ちなみに、この家畜法定伝染病は、日本では明治期を最後に現在は発生していません。
 ③小氷期と江戸期の気候
 近年各地で猛暑や洪水など異常気象からの自然災害が起こり、私達も他人ごとではない状態ですね。
 人の排出するCO2などによる地球温暖化の問題などは以前からも言われていますが、そのような人為的要素以外にも、実は地球規模で気候は周期的に変動しているそうです。
 地球は氷河が発達するほど全体的に寒冷化する『氷期』とその間の温暖な『間氷期』とを繰り返しています。
 この温暖な気候の間にいろんな命が芽吹きますが、この『間氷期』の中でも、太陽活動の低下などにより寒冷化する時期があり、これを『小氷期』というそうです。
 実は江戸期はこの時期にあたり、全体的に寒冷な気候だったということです。
 当時はヒーターなどもない時代ですし、寒さを凌ぐのは非常に大変だったと思われますが、寒冷な気候が農作物にどのような影響を与えるかは想像に容易いですね。
 ④火山の噴火と東北の凶作
 1640年(寛永17年)6月には北海道の蝦夷駒ケ岳が噴火しました。
 火山噴火による降灰は農作物の発育不良や品質不良、さらには土壌汚染までおこし以後の農作物生育にも悪影響を与えました。
 その結果東北地方を中心に大凶作になったのです。
 ⑤全国規模の自然災害
 翌1641年には夏に西日本で日照りによる干ばつに見舞われますが、反して秋には大雨となった上、東日本では長雨と冷風の影響で冷害もおこります。
 さらにイナゴなどと推測されるような虫害もあり、これらの全国的な自然災害は翌年にまで続く農作物の不作を招き、この不作が大きな飢饉へと繋がっていったのです。
 寛永の大飢饉の状況
 ①農民の逃亡
 不作に苦しむ農民の多くは田畑を捨て、逃亡していきました。
 それがさらに田畑の荒廃を招き、農作物を育てることのできない荒れ地が広がるという悪循環になっていったのです。
 しかし一生懸命育てた米が天候不順や災害で収穫できず、それでも年貢の取り立てが行われてしまえば、そりゃ逃げるしかないな~というのは非常に分かりますね。
 ②大規模リストラ
 農民が逃げて年貢が入らないと困るのは武士も同じです。
 幕府は勿論各藩の財政は年貢米が入らないことで非常に苦しくなっていきます。
 財政が苦しいということは、経費を抑える必要があるということ、つまり人件費の節約も検討されてしまいます。
 各藩で大規模なリストラも行われ、各地に牢人が増えていきました。
 また、この時期財政困窮以外にも幕府による【武断政治】のためにお家取り潰しなどが数多くあり、仕える藩がなくなった為に必然的に牢人となってしまう武士も多くいたのです。
 ③地獄絵図
 食べるものが無く飢えに苦しむ様はいろんな書物に残っているようですが、飢餓状態であるということは人でなくなる状態なのかというくらいに悲惨な内容もあります。
 貧しいゆえの身売りなどは普通に行われ、飢餓から逃れる手段の一つともなっていたようです。
 東北の村などでは逃亡の際に足手まといになるということで、未就学児くらいの子を川に溺死させたりしたそうです。
 また京都でも屍が路上に積み上げられ、軒下には赤子が捨てられ、餓死した子供などは犬に食べられていた…等の記録もあるようです。
 現実かと疑うくらいに恐ろしい、まさに地獄絵図のようだったのです。
 現在の飽食時代からは考えも及ばないでしょうが、過去の日本では頻繁に起こったことだったのです。今目の前の食事を大切にしていきたいものですね。
 寛永の大飢饉への対応
 ①幕府の対策
 飢餓の影響が明らかになると、時の将軍徳川家光は諸大名に対して、領国の飢餓対策を指示します。
 この時譜代大名も領国に戻ったので、以後譜代大名も参勤交代をするようになったそうです。
 餓死者も増加し、逃亡者が都会に集中してくるようになると、身元が分かるものに関しては諸藩へ引き渡していきました。
 さらに、一人1日5合を基本として支給していた玄米などの扶持米(ふちまい)を米不足への対処のために各大名から江戸に集めたりしました。
 ②領民への直接指示
 幕府は大名への指示以外にも、領民たちへの直接の命令を下します。
 倹約令は勿論のこと、身売りの禁止や、米作りへ専念してもらうために米以外(タバコなど)の栽培禁止、雑穀を使用する食品の製造販売の禁止や災害被害にあった人々を助ける救済小屋の設置など、様々な具体的な策を出していったのです。
 1643年には田畑永代売買禁止令を発布し、農民の農地離れを何とか食い止めようともしました。
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 寛永の大飢饉の影響
 ①政治の方針転換
 先の島原の乱、この大飢饉、さらに将軍の代替わりに起こった由井正雪の乱などを通して、幕府は武力や厳しい刑罰などで治めていく【武断政治】の限界を感じます。
 その結果、4代家綱の時代から礼節を重んじて制度で治めていく【文治政治】へと政治の方針を転換していくのです。
 ②百姓成立(ひゃくしょうなりたち)
 幕府政治の財政の基本が年貢米であることから、その担い手である農民(百姓)を大切に育てることが必要だとし、「百姓撫育(百姓成立)」という考えで幕府は百姓を戦乱や飢餓のない安定した生活ができる状態にしていこうとしました。
 それにより幕政の安定と庶民の生活の向上が推し進められていくようになるのでした。

 まとめ
 ✔ 寛永の大飢饉は、1642年~1643年に起こった大飢饉のこと。
 ✔ 飢饉のきっかけの1つして西日本で流行した『牛疫』による牛の大量死がある。
 ✔ 蝦夷駒ケ岳の噴火による降灰は東北地方の凶作をまねいた。
 ✔ 西日本の干ばつ、東日本の冷害などの自然災害で全国的な不作が起こり、飢饉が全国的なものになっていった。
 ✔ 飢饉の影響で農民の逃亡や牢人の増加など社会不安も大きくなっていった。
 ✔ 幕府も倹約など様々な対策を行い、各藩にも領国内の飢饉対策に取り組むように指示を出した。
 ✔ 飢饉後、幕府の政治は「武断政治」から「文治政治」に代わり、農民を耕作に専念してもらうようにするためにも「百姓成立」という方策がとられていった。
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 寛永の大飢饉(かんえいのだいききん)は江戸時代初期の1640年から1643年にかけて起こった飢饉。江戸初期においては慶長から元和年間にもしばしば凶作から飢饉が発生しているが、そのなかでも最大の飢饉。島原の乱とともに江戸幕府の農政転換にも影響した。
 経緯
 寛永19年(1642年)前後に最大規模化するが、それ以前から兆候は存在していた。島原の乱が収束した寛永15年頃には、九州で発生した牛疫が西日本に拡大し、牛の大量死をもたらした。寛永17年(1640年)6月には蝦夷駒ケ岳が噴火し、降灰の影響により陸奥国津軽地方などで凶作となった。
 翌寛永18年(1641年)に入ると、初夏には畿内、中国、四国地方でも日照りによる旱魃が起こったのに対し、秋には大雨となり、北陸では長雨、冷風などによる被害が出た。その他、大雨、洪水、旱魃、霜、虫害が発生するなど全国的な異常気象となった。東日本では太平洋側より日本海側の被害が大きく、これは後の天保の大飢饉に似た様相であるという。当時江戸幕府では寛永通宝を発行して貨幣の統一を図っていたが、過剰鋳造に市場への流出に加えて不作による物価高騰で銭の価値が急落し、同年12月には鋳造の全面停止に追い込まれ、同時に公定相場での寛永通宝の買い上げや東西間の交通の維持のために東海道筋などの宿場町の支援に乗り出している。不作はさらに翌19年(1642年)も続き、百姓の逃散や身売など飢饉の影響が顕在化しはじめると、幕府は対策に着手した。同年5月、将軍徳川家光は諸大名に対し、領地へおもむいて飢饉対策をするように指示し、翌6月には諸国に対して、倹約のほか米作離れを防ぐために煙草の作付禁止や身売りの禁止、酒造統制(新規参入及び在地の酒造禁止及び都市並びに街道筋での半減)、雑穀を用いるうどん・切麦・そうめん・饅頭・南蛮菓子・そばきりの製造販売禁止、御救小屋の設置など、具体的な飢饉対策を指示する触を出した。これは、キリシタン禁制と並び、幕府が全国の領民に対して直接下した法令として着目されている。またこうした政策は後の江戸幕府における飢饉対策の基本方針とされるようになる。なおこのとき、譜代大名を飢饉対策のために、領国に帰国させたことがきっかけとなって、譜代大名にも参勤交代が課せられるようになった。
 寛永19年末から翌20年(1643年)にかけて餓死者は増大し、江戸をはじめ三都への人口流動が発生。幕府や諸藩は飢人改を行い、身元が判別したものは各藩の代官に引渡した。また米不足や米価高騰に対応するため、大名の扶持米を江戸へ廻送させた。3月には田畑永代売買禁止令を出した。
 大飢饉の背景としては、1630年代から1640年代における東アジア規模での異常気象のほか、江戸時代初期の武士階級の困窮、参勤交代や手伝普請、将軍の上洛や日光社参などのように、武断政治を進めるための幕府や藩の多額の出費、年貢米を換金する市場の不備などが、様々な要因があげられる。
 幕府は武士の没落を驕りや奢侈によるものととらえ、武家諸法度などで倹約を指示していた。例えば、1635年の武家諸法度改正で、幕府は参勤交代を1年交代で行うように義務付けているが、その一方で参勤交代にあまり費用をかけすぎないように呼び掛けている。武士の困窮は百姓に対するさらなる収奪を招き、大飢饉の下地になったと言われる。
 島原の乱から寛永の飢饉、牢人の不満を背景として徳川家綱への代替わりの時に起こった討幕計画である慶安の変などを契機に幕府は武断政治の限界を思い知らされた。そして幕政は、百姓撫育(百姓成立ともいう。すなわち百姓が戦乱と飢饉から解放されて、安定した生活を営めるような状況の確立)を推し進め、諸大名に課せられていた普請役は激減し、参勤交代に代替された。また諸藩も遅れて藩政改革に乗り出た。
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