🍠24〗─1─日本におけるスペイン風邪の死亡者は約45万人。~No.72No.73No.74 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・ 
 中国発生のスペイン・インフルエンザ・ウイルス=スペイン風邪が、第一次世界大戦終結を早め、無益な殺し合いを止めさせ、世界に平和をもたらした。
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 感染症パンデミックは、戦争と同じである。
 戦争が理解できない者には、世界的なパンデミックは理解できない。
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 中国人の移動によって中国ウイルスが世界に蔓延した。
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 2020年4月2月号 週刊新潮「変見自在 高山正之
 支那ウイルス 
 ……
 その少し前、第一次世界大戦末期に世界で致死性の呼吸器疾患が流行った。
 日本では『流行性感冒』と呼んだ20世紀最悪のパンデミックで1億人が死んだとも言われる。
 発生地はカンザス州の兵舎だとか西部戦線塹壕だとか諸説があった。
 最近、カナダの歴史学者マーク・ハンフリーが『支那発生で支那人が蒔いた』という説を発表した。
 それによると、大戦で働き手が不足した英仏が急ぎ苦力(クーリー)10万人を手配した。
 彼らは太平洋を越え、バンクーバーから列車で大西洋側に運ばれ、再び海路で英仏に送られた。
 そのころ支那では肺ペストに似た病が流行り、日に50人が死んでいた。
 苦力たちにも同じ症状が出て仏ノイエル・シュルメールの病院には『数百人の苦力が呼吸器疾患で死んだ』記録が残る。
 この凶悪な流行病を何と呼ぶか。当時『カンザス病』とかも候補になった。
 それを嫌がった米国がどうだろう、この際、世界の嫌われ者『スペイン風邪』にしては、と持っていったと言われる。
 それから1世紀。武漢から汚らしい伝染病が世界に蔓延し、人命も世界経済も瀕死に追い込んでいる。
 運び屋はスペイン風邪と同じ支那人。そこまではっきりしているのに習近平はとぼけ、支那外務省は米軍が持ち込んだと言い出す。
 仮に発生地がカンザスだって構わない。
 いま世界で一番恥知らずな嫌われ者は支那だ。それを『支那ウイルス』と呼んで何の不都合がある」
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 日本のメディア・報道機関は、現代と当時とでは全然違う。
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 現代日本は、戦前までの歴史を悪の歴史として切り捨てた為に伝統的な文化力と歴史力を失い、歴史そのものが理解できなくなっている。
 現代の高学歴出身知的エリートは、グローバルを採用しローカルを切り捨てている為に、日本民族が歩んできた苦難と対応・対処を理解できない。
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 昔の日本人は、起きた物事の詳細な記録を良くも悪くも全て後世の子孫の為に書き記していた。
 日本は世界的に公文書や日記の宝庫であった。
 GHQ・アメリカ軍は、日本の公文書約42万点を没収してアメリカ本国に持ち去った。
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 4月2日号 週刊文春「文春図書館
 日本を襲ったスペイン風邪  鹿島茂
 新型コロナ・ウイルスのパンデミックで思い出すのは横浜南郊で酒屋をやっていた祖父が1918年(大正7年)の秋にスペイン風邪に感染して死にかけたという我が家の言い伝えである。店番中に人事不省(じんじふせい)に陥り、数日間、生死の境をさ迷ったという。村全体で多数の死者が出たことは墓の没年を見れば一目瞭然だと古老が語っていたことを覚えている。
 というわけで急にスペイン風邪が気になり書架から故・速水融氏の力作『日本を襲ったスペイン・インフルエンザ 人類とウイルスの第一次世界大戦』(藤原書房 4,200円+税)を引き出して読み始める。2006年の刊だが、いまこそ緊急復刊されるべき本だ。
 日本歴史人口学の開祖の著者は『大正デモグラフィ』(文春新書)を著したときスペイン・インフルエンザ(スペイン風邪)が世界人口20億(現在は約77億)の時代に2,000~4,500万の死者を出した最悪のパンデミックであるにもかかわず、日本語の研究書が皆無に近いことに気づき、執筆したのだ。
 インフルエンザの最初の兆候が現れたのは1918年春、スペインではなくアメリカ・カンザス州の兵舎だった。第一次大戦に出征する新兵たちの間で感染が広まり、死者も出たのだが報道されることもなかった。アジアでもほぼ同時に発生し、日本では夏場の力士たちが感染したため『力士風邪』という名前がついたという。著者はこうした同時多発性に注目して、渡り鳥が運んだトリ・インフルエンザのヒトへの感染が原因ではないかと推測し、この最初の流行を『春の先触れ』と命名する。『春の先触れ』はヨーロッパでは中立国のスペインで5、6月に流行した後、塹壕戦を展開中の英仏両国に広まったため、後に『スペイン・インフルエンザ』と呼ばれるようになる。ウイルスはとりわけ総攻撃準備中のドイツ軍を痛撃した。ドイツ軍を事実上指揮していたルーデンドルフはマルヌの敗戦派新規参戦のアメリカ軍ではなく、インフルエンザが原因であると回想している。
 このようにインフルエンザは第一次大戦に大きな影響を与えたが、死亡者は比較的少なく、7月頃には消滅したかに見えた。だが、そうではなかったのである。『1918年8月後半、おそらくフランス西部(例えば、ブレストなど)から、アフリカ、シエラ・レオーネのフリー・タウンのごった返す港町で、ウイルスは変異した。(中略)インフルエンザ・ウイルスは、世界一周の後、変異し、凶暴化して人類に襲いかかってきたのだ』
 しかし、凶暴化はまだ認識されていなかったため、アメリ東海岸の港では『変異したインフルエンザ・ウイルスに感染した下船患者と、これから大西洋を渡ってヨーロッパの戦線に向かおうとする若者とが交錯することになった』
 最初にウイルスが牙を剝いたのはボストン基地の兵舎だった。『(9月)22日には兵営の兵士の20パーセント近くが罹患(りかん)し、月末にかけて何千人もの患者が病院に殺到し、医者や看護婦は早朝から深夜まで対応に追われ、ついには彼ら自身罹患してしまう』。1日に100人もの兵士が死亡し、棺桶もなく積み上げられた。まさに100年後の現在、武漢やイタリア北部で起こっていることである。上陸したウイルスは、兵営を襲い、多くの兵士が渡航前・航海中に命を落とした。アメリカ軍の第一次大戦戦没者は約10万人だが、その8割がスペイン・インフルエンザによる病死だった。凶暴化したウイルスはとくに健康な肉体を好んだのである。感染はアメリカ兵を介して前線に広まり、戦場から帰還した詩人・ギョーム・アポリネールは感染して休戦の前々日に死亡。『死亡者は通常のインフルエンザと異なり、健康な壮年層に多かった。フランスでは若くして死亡した詩人の名にちなんで「アポリネール症候群」と呼ばれている』
 凶暴化した殺人ウイルスは1919年の春まで世界中を暴れまわったが、夏になると終息したかに見えた。しかし、またもフェイントだったのである。なぜなら、1919年の秋からターミネーターのように蘇生し、致死率を高めたからである。
 著者はこの2度に渡る流行を『前流行』と『後流行』に分け、日本における感染実態の分析に入る。日本には意外にも統計資料がたくさん残されているほか、インフルエンザの侵攻と拡散を如実に示す新聞記事が地方紙に豊富に見いだされるからである。
 まず『前流行』は1918年9月末から10月初頭に始まった。『新愛知』が『日紡大垣工場に奇病発生』と伝え、滋賀県大津の歩兵第9連隊で400名の患者発生を報じているからだ。工場、兵営、学校がクラスター感染を引き起こし、インフルエンザは都市部から農村部へと広がり、死亡率を高めていった。被害が大きかったのは京都・大阪・神戸で、死者は火葬場の処理能力を超えて増加した。福島県の人口276人の農村では6人を残して『全村惨死』。東京では島村抱月が罹患して死亡、女優で愛人の松井須磨子後追い自殺するという悲劇も生まれていた。
 残存する最も詳細な記録は軽巡洋艦『矢矧(やはぎ)』の『戦時日誌』。1918年11月にシンガポールで上陸を許したがために艦内汚染が広まった『矢矧』は翌年1月に気息奄々(きそくえんえん)で帰還。乗組員プラス便乗員469名の9割が罹患し、死者48名。罹患しなかったのはシンガポールで便乗した巡洋艦『明石』の乗組員で、彼らはすでに罹患して免疫をもっていたのだ。
 『この第一撃に人々はよくも耐え、大きなパニックにはならなかった。しかし、どこかに潜んだウイルスは、次の出番を静かに待っているのである』
 1919年の秋の『後流行』は九州から始まったが、全国的に拡大したのは12月に入ってからだ。当時、新兵の入営は12月1日で、兵舎内に潜んでいたウイルスが何の免疫も持たない新兵に襲いかかったのだ。『後流行』は東京でも猛威をふるい、1月には毎日300人近い死者を出し、シベリア出兵でも多数の戦病死者を記録した。
 著者は詳細な残っている神奈川県の数字を分析して郡別対人口死亡グラフを作成し、『前流行』と『後流行』は別のウイルスという説を退けて、次のように結論する。『「前流行」期に死亡率の高かった郡は、「後流行」期には低く、逆に「前流行」期には低かった郡は、「後流行」期に高かったことを示している。やはり、スペイン・インフルエンザ・ウイルスへの抗体免疫の有無が原因と言えないだろうか。そうだとすると、「前流行」のウイルスと「後流行」のウイルスは、同じHINI型だったことになる』
 では、スペイン・インフルエンザにより日本全体では最終的にどれくらいの死者を出したのだろうか?この点に関して、さすがは偉大な歴史人口学者だけあって資料の数字を鵜呑みにせず、批判的な検討を加えている。すなわち、従来、内務省衛生局『流行性感冒』を典拠に死者38万5,000人と推計されていたが、これは少なすぎるという。
 『有効な方法とは、「超過死亡(excess death)」概念の適用である。ここでいう超過死亡とは、ある感染症が流行した年の死亡者数を求めるに際し、その病気やそれに関すると思われる病因による平常年の死亡水準を求め、流行年との差をもってその感染症の死亡者数とする考え方である』
 この超過死亡概念によると『われわれの計算では「前流行」の「インフルエンザ死亡者」は26万647人、「後流行」は18万6,673人、合計45万3,152人で、この数は、従来言われてきたどの死亡者数よりも多い』
 願わくは新型コロナ・ウイルスが『春の先触れ』でないこと!拳々服膺(けんけんふくよう)すべき一冊。」
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 何時の時代でも、中国人が行く先々で中国発祥のウイルスが猛威を振るい、夥しい犠牲者が発生する。
 古くは、中世ヨーロッパで人口の3分の1を死に追いやった悪魔のペスト(黒死病)である。
 江戸時代に流行した致死率の高い疫病は、長崎の唐人屋敷(中国人の居住地)から日本全国へと広がった。
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 世界、特にアメリカは、日本を嫌い、日本人を信用していなかった。
 そして、中国人も朝鮮人も日本・日本人に敵意を見せていた。
 日本と近隣諸国との間での友好・善隣の話は、中国との間ではほんの僅かで、朝鮮との間にはほとんどない。
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 帰化人は、天皇に忠誠を誓い、日本国の発展の為に働いた。
 渡来人は、天皇への忠誠を拒否し、自分の利益の為にのみ働き、時として日本国に叛旗を翻して暴動や反乱を起こしていた。
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 利益なく混乱のみ予想される時、都合の悪い情報を公表しないのが世界常識である。
 そして、不都合な事実を隠蔽し嘘を発表する大本営発表も、日本だけではなくアメリカなど全ての国で行われていた。
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