🌌9}─1─大河の大洪水が農耕を発展させ古代文明を生んだ。~No.36No.37  ⑥ 

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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 日本文明の稲作神話は、水稲(すいとう)を行っていた長江文明からを受け継いだ。
 日本文明は、麦・ヒエ・粟・陸稲(おかぼ)などを栽培していた黄河文明の亜流文明ではない。
 日本民族日本人は、乱婚を繰り返してきた混血の雑種民族である。
 南船の長江と北馬の黄河
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 アクアスフィア・水教育研究所 代表 橋本淳司の公式ページ
 アクアコミュニケーターの知恵
 水をめぐる争いのはなし | Story of the battle for water
 なぜ文明は大河の近くで誕生したか
 人間が集落を発展させ、大きな都市つくり始めたのは、いまから約8000年前と考えられている。
 とくに紀元前3000年から紀元前2000年にかけて、メソポタミア、エジプト、インダス、中国の4つの文明が生まれた。
 これらをまとめて「世界四大文明」とよぶ。
 どれも大河の近くで誕生したことに由来して、「世界四大河文明」とよぶこともある。
 メソポタミア文明は、チグリス川とユーフラテス川にはさまれた場所で発展した。
 現在のイラクにあたる地域である。
 豊かな土地に野生の麦がはえ、人びとはそれを育てながらくらした。
 エジプト文明は、ナイル川下流域の土地にさかえた。
 もともとエジプトは、雨が少なく気温も高い、気候のきびしい地域である。
 しかし、ナイル川が毎年おこす洪水によって、川そいの土地に養分をふくんだ土がもたらされ、人びとは農耕によって収穫をえることができた。
 インダス文明は、インダス川の流域で発展した。
 現在のパキスタンとインドにまたがる地域である。
 人びとは、豊かな土地を利用して作物をつくりながらくらしていた。
 中国文明は、黄河、長江という2つの川のほとりで発展した。
 黄河のまわりではヒエやアワを、長江のまわりでは米をつくりながら、人びとは暮らしていた。
 では、なぜ文明は川の近くで誕生したのだろうか。
 川の周囲の土は養分を多くふくみ、作物を育てるのに適している。
 また、くらしに使う水を手に入れるにも水辺が便利だ。
 飲み水はもちろん人びとが衛生的な暮らしを保つのに必要な大量の水を確保することもできた。
 遠くの町へいったり、ものをはこんだりするにも川が便利だった。
 船を川にうかべれば、重い荷物でも、大量にはこぶことができる。
 同時に学問も発達した。
 治水や灌漑の技術、水を管理する法律、農作業の時期を知るための天文・暦法など。
 水辺での便利な生活を享受する術を身につけながら、人間社会は大きく発展したのである。
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 ウィキペディア
 氾濫農耕(はんらんのうこう)とは、河川の氾濫が引いた後の肥沃な沖積土を利用して耕作し収穫する農耕のこと。古代文明の発生した場所で行われた基本的な農耕である。
 インダス文明の場合は、毎年6月~8月に繰り返されるモンスーンのもたらす雨によって、インダス川が増水し、氾濫が引いた後に肥沃な沖積土が堆積して土壌が更新される。そのようにして更新された沖積地を耕地として、冬の初めに小麦を蒔き、翌年のモンスーンのもたらす雨期の前に収穫する。
 氾濫農耕の利点は、洪水そのものを制御しないため、氾濫を予防するための大規模な治水工事や灌漑水路維持のための浚渫が不要であったことである。農業用水を氾濫の引いた後に形成される自然の貯水池や耕地近傍の河川から得られたことから、ある程度の水が得られればよいという条件も自ずから満たされた。結果として耕地確保のための土木工事は季節的な小規模なもので済ませることができた。ただしこの利点は安定した洪水がおこったナイル川流域に典型的なものであり、氾濫規模が一定でないインダス川には妥当しない。インダス川流域では収穫は不安定で、耕地流出もおこり、氾濫後に河川の流路の変更があった場合には新しい耕地をさがして耕作しなければならなかった。この洪水と収穫の不安定さが農産物の余剰の蓄積、およびそのための技術の発展を促し、派生的にインダス文明の発生に関係したのではないかと一部の研究者は考えている。
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 四大河文明(river civilization)或いは 大河文化(river culture)とは、農業や国家、或いは 文明が大河やその支流に沿って位置しているものである。
 歴史
 最初の偉大な文明は全て大河の流域で成長した。もっとも古い文明は中東において、前3300年から前2500年にティグリス川とユーフラテス川流域のメソポタミアと名付けられた文明で、メソポタミアは川の間の土地を意味した。エジプトのナイル川渓谷は前5500年の早期に農業住居が見られるが、エジプトの文明としての成長は3100年頃に始まった。三番目の文明は前2600年頃に現在のインドとパキスタンの一部であるインダス川で成長した。第四の大河文明は前1700年頃に中国の黄河沿いに現れた黄河文明として知られるものである。
 文明成立の原因
 諸文明は様々な理由で大河流域で成長する傾向がある。もっとも明白なのは人間と農耕が必要とする水資源へのアクセスが常に容易であることがあげられる。豊富な水と周期的な毎年の洪水により適度な塩分を含んだ土壌は農耕村落持続の必要分を越えた高い収穫を可能とした。これは都市(cityはcivilizationという用語の起源である)や建築物の建設や鉱業や交易といった非農耕業務に共同体のメンバーを参加させることが可能とした。
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 けんせつPlaza
 2016-03-22
 積算資料
 洪水と付き合う術を忘れた日本人~関東・東北豪雨による鬼怒川決壊~
 甚大な被害をもたらした関東・東北豪雨による鬼怒川決壊からおよそ3カ月が経過しようとしている。
 被災地では、今も避難所暮らしや親類宅に身を寄せている人々も数多く、周辺道路やライフラインの完全復旧までには時間がかかる見通しだ。
 被害の全貌が明らかになるにつれ、避難指示をめぐる行政側の対応が集中的に取り上げられてきたが、本稿では、長年、自治体で防災対策に取り組んできた第一人者に今回の「堤防決壊」について語っていただいた。
 鬼怒川決壊
 線状降水帯の猛威
 今年、鬼怒川を決壊させ氾濫を起こした大雨は、「平成27年9月関東・東北豪雨」と命名された。
 1時間の短時間雨量は栃木県日光市の五十里(いかり)で62mm/hであった。
 この数字も最近の1時間100mmを超す雨を何回も目の当たりにしていると、さほど大きくはないと思ってしまう。
 しかし、何よりもすさまじかったのは継続降水量であった。
 24時間降水量では同じく五十里で551.0mm、48時間降水量では栃木県日光市今市で618.5mm、72時間降水量では同じ日光市今市で639.0mmであった。
 結局9月7日~11日までに観測された総降水量は、栃木県日光市今市で647.5mmを観測、9月の月降水量平年値の2倍を超える大雨となった。
 統計期間が10年以上の観測地点のうち16地点で、最大24時間降水量が観測史上1位の値を更新した。
 これは台風第18号から変わった低気圧に向かって南から湿った空気が流れ込み、同じ場所で積乱雲が発生し続け帯状に並んで雨を降らせる「線状降水帯」を形成したことが原因である。
 氾濫面積約40㎢、死者8名、負傷者49名、床上床下浸水1万9,315戸を数える被害となってしまった。
 誤報だった利根川決壊報道
 今回、鬼怒川に続いて利根川も決壊・・・というニュースが一時流れたが、あれは完全なる誤報であった。
 上空からの映像では確かに決壊しているかのように見えたが、実はこの二つの河川の流域は菅生調整池や田中調整池など三つの調整池によって河川の流量を調整するように設計されている。
 利根川の越流堤を越えて洪水が菅生調整池に流れ込んだ様子を見て、思わず利根川氾濫と勘違いしたのであろう。
 洪水域で暮らす作法
 洪水域に発達した古代文明
 いつの頃からだろうか、私たちが洪水と付き合う術を忘れてしまったのは。
 実は日本の洪水は私たちの生活を豊かにし、経済を支えてきたともいえるのだ。
 私たちは基本的に農耕民族であり米に生活の糧を求めた。
 米は洪水域でしか栽培できない作物である。
 洪水は多くの有機物を含んだ土砂を上流から下流へと運び、豊かな実りを約束するものであった。
 先人たちは洪水という脅威をどのように避け、恵みを受け取っていたのだろうか。
 その営みこそが文化であり洪水流域で暮らす私たちの自然に対する礼儀でもあった。
 エジプトはナイルの賜物と言うが、それはナイル川の氾濫原に麦の種を撒き、そこで実った多くの小麦をローマ帝国に輸出し経済的な発展をすることができたことをいう。
 洪水期にはピラミッドを造り、国民に仕事の場を用意した。
 そのためにはいつ洪水が来るかを見極めなければならず、それが天文学と数学を発展させた。
 稲作とコミュニティーの形成
 日本でも季節の変化を記した歳時記を作り、洪水情報など観天望気の術を身につけ後世へ継承させてきたのだ。
 そこでは脅威となる洪水を災害としない知恵があった。
 まず稲作は一人ではできない。
 集団作業が必要となるのである。
 そのために人々が集まり、村という組織で一丸となって稲作に取り組む、強固なコミュニティーが形成された。
 ここではあらゆる情報が瞬時に共有されるといってもいいほどの連絡網が存在したのだ。
 洪水情報だけではなく、恵みを共有する祭や収穫物を分け合う「掟や決まり事」も定められてきたのだ。
 これがこの地域で住む「作法」であり、洪水とともに生きる文化であった。
 生活を守る知恵と礼節
 生活に根差した文化の一例を挙げよう。
 堤防は通常、モグラアナグマハクビシンなどの絶好の棲みかとなっている。
 こうした小動物が作った穴を放置すると堤防に空洞ができてスカスカになってしまう。
 その昔、江戸川・篠崎瑞江の住人たちは、毎年お花見の季節になると江戸川沿いにある水元公園の桜を観に出かけるのだが、その時はお弁当のほかに必ず丸太棒を持って出かける習慣があった。
 何をするための丸太棒か?
 土手沿いを歩いている時に見つけたモグラの穴を潰すためだ。
 こうして、人々は堤防を守り、自然の恵みをもたらす川と同時に自分たちの生活を守る知恵と文化を身につけていたのである。
 少し前に事業仕分けの名目で草刈り予算が大幅にカットされたが、土手の草刈りはとても重要なのだ。
 単に美観上の問題ではない。
 現在でも小動物が作った穴だけでなく堤防の亀裂などを発見するためには、草刈りは欠かせない作業なのだ。
 洪水域で暮らす作法
 洪水域に発達した古代文明
 いつの頃からだろうか、私たちが洪水と付き合う術を忘れてしまったのは。
 実は日本の洪水は私たちの生活を豊かにし、経済を支えてきたともいえるのだ。
 私たちは基本的に農耕民族であり米に生活の糧を求めた。
 米は洪水域でしか栽培できない作物である。
 洪水は多くの有機物を含んだ土砂を上流から下流へと運び、豊かな実りを約束するものであった。
 先人たちは洪水という脅威をどのように避け、恵みを受け取っていたのだろうか。
 その営みこそが文化であり洪水流域で暮らす私たちの自然に対する礼儀でもあった。
 エジプトはナイルの賜物と言うが、それはナイル川の氾濫原に麦の種を撒き、そこで実った多くの小麦をローマ帝国に輸出し経済的な発展をすることができたことをいう。
 洪水期にはピラミッドを造り、国民に仕事の場を用意した。
 そのためにはいつ洪水が来るかを見極めなければならず、それが天文学と数学を発展させた。
 稲作とコミュニティーの形成
 日本でも季節の変化を記した歳時記を作り、洪水情報など観天望気の術を身につけ後世へ継承させてきたのだ。
 そこでは脅威となる洪水を災害としない知恵があった。
 まず稲作は一人ではできない。
 集団作業が必要となるのである。
 そのために人々が集まり、村という組織で一丸となって稲作に取り組む、強固なコミュニティーが形成された。
 ここではあらゆる情報が瞬時に共有されるといってもいいほどの連絡網が存在したのだ。
 洪水情報だけではなく、恵みを共有する祭や収穫物を分け合う「掟や決まり事」も定められてきたのだ。
 これがこの地域で住む「作法」であり、洪水とともに生きる文化であった。
 生活を守る知恵と礼節
 生活に根差した文化の一例を挙げよう。
 堤防は通常、モグラアナグマハクビシンなどの絶好の棲みかとなっている。
 こうした小動物が作った穴を放置すると堤防に空洞ができてスカスカになってしまう。
 その昔、江戸川・篠崎瑞江の住人たちは、毎年お花見の季節になると江戸川沿いにある水元公園の桜を観に出かけるのだが、その時はお弁当のほかに必ず丸太棒を持って出かける習慣があった。
 何をするための丸太棒か?
 土手沿いを歩いている時に見つけたモグラの穴を潰すためだ。
 こうして、人々は堤防を守り、自然の恵みをもたらす川と同時に自分たちの生活を守る知恵と文化を身につけていたのである。
 少し前に事業仕分けの名目で草刈り予算が大幅にカットされたが、土手の草刈りはとても重要なのだ。
 単に美観上の問題ではない。
 現在でも小動物が作った穴だけでなく堤防の亀裂などを発見するためには、草刈りは欠かせない作業なのだ。
 自然堤防
 自然の恵みである自然堤防
 鬼怒川の今回の洪水を見ると最初に越流した箇所は、自然堤防が削られていた。
 そもそも自然堤防の成り立ちは、多くの土砂を含んだ洪水が氾濫を起こすと、それまで運んできた土砂を置いて流れ去ってゆく。
 このように河川の氾濫が繰り返されることにより土砂が堆積し、周辺よりもやや高い微高地が形成される。
 これが自然堤防である。
 自然堤防は背後地の氾濫原である低湿地帯よりも水はけが良いので、家屋が建てられ畑などにも活用されてきたほか、ここに木を植え水害防備林とした所もあるほどだ。
 その意味でもこうした場所はその地域にとって大切な場所であり、祠(ほこら)が置かれ守られることもあった。
 今回、鬼怒川で最初に越流を起こした若宮戸の現場は、私有地であったので自然堤防が削りとられてしまったという報道を聞いた。
 もしそれが本当なら、これまで私たちが守り継承してきた災害と付き合う大切な「作法」を忘れてしまったとしか言いようがない。
 地域には昔から共同で管理してきた大切な土地がある。
 ため池や薪炭林、茅場、作業広場、畦道、街道、神社、仏閣など、いずれも共有地としてきたところである。
 明治維新後、地租改正の時に明治検地が行われ、全ての土地は誰かの所有物として登記された。
 この時、地域の共有物である大切な土地は、大地主や大蔵省などの名義として管理されることとなった。
 このような土地を預かった大地主は、地域の大切な共有物を管理する責任の重さと同時に名誉を得たのだ。
 【堤防破壊の主な種類】国土交通省の資料を元に作成
 浸透破堤
 堤防の中を浸透した水が川裏の法尻まで達し、一気に川裏から崩れて越流する
 ※川裏とは堤防を境にして住居や農地がある側の呼び方
 洗掘破堤
 堤防の内側が大小の岩石で削りとられ、堤防が川の内側から崩れ始めて決壊する
 越流破堤
 堤防を越えた越流水が川裏の法尻を洗掘して堤防が壊れる
 水屋造りと上げ舟
 洪水を柔軟にやり過ごす
 関東地方では氾濫原に最初にできた集落では自然堤防の上に家を造ることができたが、
 人口が増えてくると後背低地にも家を建てなければならなくなってきた。
それが水屋造りである。
 河川の氾濫があっても沈まない高さに盛り土をし、ここに家を建てるのだ。
 大きな氾濫があったときには1カ月程度水が引かないこともあった。
 そのための薪炭や食料となる米や味噌醤油なども保存する蔵を造り、ここに籠城したのだ。
 また十分な高さで盛り土ができない場合、建物の1階部分を高床構造にしたり、
 水が上がってきた場合、床や畳を1段高く上げられるように柱に桁材を通す穴を開けておき、氾濫時には仮設の中二階を造る準備をしていた家もあった。
 当然雨戸は取り外し、洪水の抵抗を最大限減らすことも行った。
 要は洪水とは戦ったり抵抗したりするものではなく、その存在を受け入れ柔軟に受け流し、恵みを最大限に受け取るものであったのだ。
 さらには洪水が来る前に便所として使っていた瓶や肥溜めには厚い板の蓋をし、その板が浮き上がらないように大きな石を重石として置いた。
 この石のことを「厠石」と呼んでいた。
 この石は漬物石よりも一回りも二回りも大きかったそうである。
 これが氾濫地域で暮らすことの災害とともに生きる文化であり知恵であり「作法」であった。
 このような地域では一生懸命働き家を建てる時は、堤防よりも高い盛り土をすることが誰もが持つ共通の目標となっていたのだ。
 このような地域の場合、どの家にも軒先に舟が吊ってあり水没エリアでも行動力を確保できるようにしてあった。
 この舟を上げ舟とか用心舟などと呼んできた。
 自然と向き合う作法を忘れた日本人
 今回の鬼怒川決壊の原因は、濁流が堤防天端を越え、民地側を滝のように流れ下る際に堤防を削って起こる越流破堤である。
 堤防の天端を洪水が越え始めれば、それは堤防が壊れる前触れであり、危機的状況に至っているということである。
 しかし、その様子を見に行った人が危険を顧みずに撮影した映像を残している現実を突きつけられると、
 もはや水害の「脅威」も、水害と付き合う「作法」も現在の日本では失われてしまったと言わざるを得ないのだ。
 土屋 信行
 1950年埼玉県生まれ。
 博士(工学)、技術士(建設部門・総合技術監理部門)、土地区画整理士
 公益財団法人えどがわ環境財団理事長、公益財団法人リバーフロント研究所理事、一般財団法人全日本土地区画整理士会理事、
 土木学会首都圏低平地災害防災検討会座長。
 1975年東京都入都。
 下水道局、建設局を経て建設局区画整理部移転工事課長、建設局道路建設部街路課長を歴任。
 03年から江戸川区土木部長を務め、11年より現職。
現在も各自治体の復興まちづくり検討の学識経験者委員をはじめ、幅広く災害対策に取り 組んでいる。
 【出典】
 月刊積算資料2015年12月号
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