🌌11}─1─中華皇帝の優先的治世は黄河の水を鎮める治水であった。~No.40No.41 ⑦ 

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 ウィキペディア
 黄河洪水。死者90万~200万人。1887年9月28日。
 1887年黄河洪水(1887ねんこうがこうずい)は中国(清)の黄河で起きた壊滅的な洪水。黄河は周りが標高のより低い平原だったため堤防の中を流れていたが、そのため洪水が頻発していた。この1887年9月(光緒13年8月)に起きた洪水で少なくとも90万人が死亡し、記録が残る中で最悪の自然災害の一つとなった。
 洪水
 数世紀にわたって、黄河の流域に住む農民たちは堤防を築いて氾濫を防いでいたが、時間が経つにつれて沈泥がたまり、水位がどんどん高くなった。1887年、このように沈泥がたまった川に加えて連日の大雨で9月28日(8月12日)に水位が堤防を越え、大規模な洪水が発生した。
 堤防の決壊は河南省鄭州近くで起きたとされた。花園口の近くは低地の平原が広がったため洪水は中国北部においてすぐさまに広がり、その範囲は5万平方キロメートルに達した。洪水の被害は死者90万、ホームレス者2百万とも、死者2百万近くともされる。洪水の直接的な被害のほか、その後のパンデミックで多数の人が死亡した。記録が残る中で最悪の自然災害の一つとされたが、後の1931年中国大洪水では4百万人近くが死亡したという。
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 AFP BB NEWS
 中国・伝説の大洪水、初の証拠を発見 文明史書き換えか
 2016年8月5日 6:34 発信地:マイアミ/米国 [ 北米 米国 ]
 中国・重慶の湖広会館に展示される禹王の像を清掃する作業員(2015年11月1日撮影)。(c)AFP/STEPHANE DE SAKUTIN
 【8月5日 AFP】中国の黄河(Yellow River)で4000年前に大洪水が起きたことを示す初めての証拠を発見したとの研究結果が4日、発表された。この大洪水は、夏(Xia)王朝とその後の中国文明の誕生につながったとされる。
 米科学誌サイエンス(Science)に発表された研究結果によると、大洪水が発生したのはこれまで考えられてきたよりも数百年遅い紀元前1920年。これは、禹(Yu)王による夏王朝樹立の時期が通説よりも遅かったことを意味し、この発見により歴史が書き換えられる可能性がある。
 禹王はこの大洪水で、水の流れを元の水路に導くために必要なしゅんせつ工事を指揮し、治水の才能を発揮した人物として名声を得た。研究を主導した南京師範大学(Nanjing Normal University)地理科学部の呉慶竜(Wu Qinglong)教授によると、禹王は秩序の回復を果たしたことにより「中国初の王朝である夏朝を樹立する聖なる権能を手にした」という。
 禹王の物語は儒教に基づく統治制度の基礎となったが、近年では洪水が実際に起こったことを疑問視する学者も現れ、王朝国家体制を正当化するための作り話にすぎなかったのではないかと指摘していた。
 地質学者からなる研究チームは、青海(Qinghai)省の黄河に沿って調査を行い、土砂崩れによってできた天然ダムの名残や、せき止め湖や突発的洪水で生まれた堆積物を調べた。
 論文を共同執筆した米パデュー大学(Purdue University)地球大気惑星科学部のダリル・グレンジャー(Darryl Granger)教授が電話記者会見で語ったところによると、調査の結果、過去1万年間に発生したことが分かっている中でも最大級の大洪水があったことが示された。その際の水位は、現在の黄河よりも38メートル高い位置まで上昇したという。
 これほどの大洪水が起きると、岩屑(岩石の破片)などの堆積物が攪拌(かくはん)され、古い土壌と新しい土壌が混ざるため、研究チームは堆積物ではなく、大洪水の原因となったとされる地震の犠牲者の骨から大洪水が発生した年代を測定した。
 研究チームによると、この地震により発生した土砂崩れが、川をせき止めて天然ダムを形成。これが後に決壊し、大洪水が発生した。研究チームは、地震で崩壊した建物のがれきの中から見つかった3人の子どもの骨に対し、放射性炭素年代測定を実施。その結果、3人が紀元前1920年に死亡したことが分かった。同地域ではちょうどこの時期、大きな文化革新が起きたという。(c)AFP/Kerry SHERIDAN
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 BBC NEWS JAPAN
 2016年08月6日
 ジョナサン・ウェブ科学担当記者、BBCニュース
 古代中国で大洪水が起きたとされる黄河流域
 中国最古の王朝、夏の成立につながったとされる、伝説の黄河の大洪水が実際に起きていたことを示す地質学の研究論文が5日、米科学誌サイエンス電子版に掲載された。
 夏王朝の始祖、禹は川岸の浚渫(しゅんせつ)や水路の変更で黄河の治水に成功したとされる。
 大洪水の科学的な証拠はこれまで見つかっていなかった。
 研究チームによると、紀元前1900年頃、地震によって起きた土砂崩れで、山峡を通る黄河が半年から9カ月の間せき止められた。その後、ダムのように水をせき止めていた土砂が崩れ、16立方キロに及ぶ水が下流の低地帯に流れ込んだ。
 こうした出来事が実際にあったと示す証拠は、現在の青海省にある、黄河がせき止められた場所の沈殿物や、何キロも離れた下流まで流れた堆積物の調査で発見された。
 論文の主執筆者、南京師範大学・地理科学部の呉慶竜教授は、2007年に現地を調査した際、ダムになっていた場所の堆積物を偶然見つけたと話す。「それで、25キロ下流にある先史時代に住民に放棄された喇家村を連想することにつながった。しかし当時ずっと、この破滅的な洪水の証拠が何であるべきか、全く分からなかった」。
 世界最古の麺が見つかった場所として知られる喇家遺跡は、中国のポンペイとも言われ、洞窟住居や多くの文化遺跡は大規模な地震によって地下に埋まっていた。
 古代中国で大洪水が起きたとされる黄河流域
 中国最古の王朝、夏の成立につながったとされる、伝説の黄河の大洪水が実際に起きていたことを示す地質学の研究論文が5日、米科学誌サイエンス電子版に掲載された。
 夏王朝の始祖、禹は川岸の浚渫(しゅんせつ)や水路の変更で黄河の治水に成功したとされる。
 大洪水の科学的な証拠はこれまで見つかっていなかった。
 研究チームによると、紀元前1900年頃、地震によって起きた土砂崩れで、山峡を通る黄河が半年から9カ月の間せき止められた。その後、ダムのように水をせき止めていた土砂が崩れ、16立方キロに及ぶ水が下流の低地帯に流れ込んだ。
 こうした出来事が実際にあったと示す証拠は、現在の青海省にある、黄河がせき止められた場所の沈殿物や、何キロも離れた下流まで流れた堆積物の調査で発見された。
 論文の主執筆者、南京師範大学・地理科学部の呉慶竜教授は、2007年に現地を調査した際、ダムになっていた場所の堆積物を偶然見つけたと話す。「それで、25キロ下流にある先史時代に住民に放棄された喇家村を連想することにつながった。しかし当時ずっと、この破滅的な洪水の証拠が何であるべきか、全く分からなかった」。
 世界最古の麺が見つかった場所として知られる喇家遺跡は、中国のポンペイとも言われ、洞窟住居や多くの文化遺跡は大規模な地震によって地下に埋まっていた。
 一方で、紀元前1900年あたりで夏王朝が始まったとすれば、石器時代から青銅器時代の移行期と一致することになる。考古学者らはすでに、黄河流域の発掘品で存在が知られる初期青銅器時代の二里頭文化と夏王朝の関連性を指摘していた。
 論文のもうひとりの共同執筆者である台湾大学のデイビッド・コーエン教授は、今回の論文について、さまざまな証拠が絡んだ注目すべき研究だと話す。
 「とても大きな突発的洪水の地質学的証拠そのものが信じがたく素晴らしいが、加えて、とても、とても正確な時期が特定できる喇家村の破壊と同時に起きたという一致だ。その上、これほどまでの規模の洪水が、黄河流域の青銅器時代の始まりと洪水の伝説両方の時期と一致している。ただただ驚くべき話だ。さまざまなアプローチの研究がつながった。ただただすごい幸運だ」
 米ワシントン大学地形学を研究するデイビッド・モンゴメリー教授は、岩石から得られる情報と古代の神話や伝説の関連に関心を持ってきた。今回の研究には関わっていないが、論文の論評を書いている。
 モンゴメリー教授によると、世界に残る洪水伝説の中でも、禹の伝説は変わっているという。「生き残ろうとする話ではない。基本的に洪水した土地から水を流し出すという、治水技術の話だ」。
 モンゴメリー教授は、黄河流域の山峡の大洪水に説得力があるのは、特に、遠く離れた下流で川岸を破壊し、流れを変える洪水だったと語られるからだという。
 川の氾濫(はんらん)との戦いが禹の伝説の中心になっているが、モンゴメリー教授は、このような洪水の対策はまさに何十年もかかると指摘する。
 「先史時代の出来事の出どころを証明するのは非常に難しい。しかし、研究チームはとても面白い論証を提出した。地質学者が今後も、いろいろと反論し、調査し、議論をし続けることになるだろう。それが我々がすることだからだ」
 モンゴメリー教授は、純粋に地質学的な面で、洪水の証拠を見つけたのは、大きな、興味をそそる発見だと指摘した上で、「しかし、中国の洪水伝説の源を説明するという文化的な連関は、無視するにはあまりにも興味深い」と語った。
 (英語記事 Rocks tell story of China's great flood)
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 治水とは、洪水・高潮などの水害や、地すべり・土石流・急傾斜地崩壊などの土砂災害から人間の生命・財産・生活を防御するために行う事業を指し、具体的には、堤防・護岸・ダム・放水路・遊水池などの整備や、河川流路の付け替え、河道浚渫による流量確保、氾濫原における人間活動の制限、などが含まれる。
 歴史
 概観
 治水の始まりは、文明の始まりと強い関連性がある。世界四大文明に代表される多くの文明社会ではその草創期に氾濫農耕が行われ、農耕の発展により生産物余剰が蓄積されて都市が発生し、都市住民の維持を目的として安定した農耕体制を確立する必要に迫られた。安定した農耕を確立するためには、治水と灌漑の導入が不可欠であった。治水・灌漑の導入には労働力の集約を要したが、この労働力の集約を通じて初期国家が形成されたと考えられている。また、文明が発祥した地域の多くでは洪水が毎年定期的に発生したので洪水時期を推測するための暦法天文学が発生し、治水構造物を作るための土木技術や度量衡なども発達した。
 歴史上における治水技術は主に台風・モンスーン地帯にあたる東アジアで発達していったが、近代的な治水技術はヨーロッパの中でも低地に国土を拡げてきたオランダで著しい進展を見せた。19世紀 - 20世紀以降は、高度に発達した土木技術を背景に成立した近代的治水技術によって水害による被害が著しく軽減されたものの、20世紀末期頃からヨーロッパを中心にそれまでの治水技術が自然環境に大きな負荷を与えていたことへの反省がなされ、自然回帰的な治水を指向する動きが強まっている。一方、多くの発展途上国ではいまだ十分な治水対策がなされず、繰り返される水災害に悩まされている地域も少なくない。
 日本
 日本の治水は、次に挙げる理由により多大な困難性を有している。まず、日本列島が3-5枚の大陸プレートが複雑に衝突し合うその上に立地していること。ゆえに急峻な地形が多く、安定した地質帯が存在せず、国土は脆く不安定な地質に占められている。さらに台風・モンスーン地帯に当たるため、河川や崩壊による侵食が著しい。また、河況係数(=多水期の河川流量/渇水期の河川流量)が非常に大きく(ヨーロッパ河川の概ね10倍以上)、出水期に洪水が発生しやすい。日本では人間活動・生活の大部分が沖積平野上で営まれているが、元来沖積平野は河川洪水の氾濫原であり、洪水被害を受けて当然の地域なので治水が非常に難しい。また比較的安定している洪積台地も農地や住宅地などの拡大・開発が進んだため、土砂災害が発生する確率が増大している。そのため、日本では水害や土砂災害による被害を非常に受けやすい地理的条件が生まれており、ここに日本における治水の特殊性・困難性がある。
 以下、日本の治水史を概観する。
 先史・古代の治水
 日本の治水の歴史は弥生時代に遡るといわれている。この時代は、洪水を避けるため扇状地や河川から離れた地域で水田が営まれる例が多かった。また、氾濫から集落・耕地を防御するための排水路や土手の遺構が発見されている。
 本格的な治水事業は古墳時代(3世紀中期 - 6世紀中期)に始まった。畿内に成立したヤマト王権は、4世紀後期から5世紀にかけて統一政権としての政治力を背景として主に河内平野の開発に着手した。当時、河内平野東部には河内湖(草香江)が広がっており、淀川や大和川の氾濫流が流入してしばしば洪水が発生していた。この洪水を防ぐため河内湖から河内湾へ排水する難波の堀江が開削され、淀川流路を固定する茨田堤が築造された。これらの治水事業は仁徳天皇の事績に仮託されている。この時代に多数営まれた前方後円墳を築造するための土木技術と河内平野を中心に行われた治水との関連も指摘されている。当時の代表的な治水遺跡として岡山市の津寺遺跡がある。足守川の旧流路に沿って約90mにわたり6000本以上の杭が打ち込まれており、堤防・護岸の跡だと推定されている。これが最古の治水遺跡の一つであるが、成立は古墳時代末期から奈良時代にかけてと見られている。
 8世紀初頭に始まる律令国家のもとでは治水は非常に重要視された。律令上、治水は国司および郡司の主要任務である勧農の柱の一つに据えられ(『職員令』大国守条、『考課令』国郡司条)、水害が発生した際の応急処置の手続きまで詳細に定められていた(『営繕令』近大水条)。また、河川などの水を公共物として農業用水などの利用や洪水対策などの方針については国家が定めるとした「公水主義」が掲げられていた。畿内近国では、淀川などの大河川で水害が発生した際に国司・郡司では対応が困難なため、中央から特に「修理堤使」や「検水害堤使」「築堤使」などが派遣されて国家直営の治水対策が実施されることもあった。また、平安京に近い賀茂川遠江国の荒玉河などでも大規模な工事が行われている。このように律令国家による治水は一定以上の機能を発揮していたが、9世紀後期から10世紀の間に律令国家体制が形骸化するのに合わせて公水主義が放棄されて地元の豪族などに用水の管理などを一任されるようになり、律令国家の治水も衰退していった。この時期の治水は小規模な用水路や溜池造営に留まるようになる。空海が築いたとされる満濃池はその代表的なものである。
 中世・戦国期の治水
 律令国家に代わって治水を担ったのは当時経済力をつけつつあった地方の富豪(田堵負名)たちである。11世紀には富豪層が経営する開発請負業者が出現するまでになっていた。ただし、彼らは決して領域的な治水対策を行った訳ではない。12世紀頃に始まる中世社会においても事情は変わらず、荘園・公領の支配者・権利者たち、すなわち荘園領主・在地領主・受領・在庁官人らは職の体系の制約の中で自らの権利が及ぶ範囲内で治水対策を施したのである。
 12世紀以降に新たに治水の担い手として登場したのは、東大寺および西大寺などの勧進僧たちである。重源や忍性に代表される勧進僧らは、勧進活動の一環として治水にも取り組んだ。勧進僧らの治水事業は、例えば備中国成羽川の開削事業などが知られている。14世紀に入り独自の自治権を獲得した村落、すなわち惣村・郷村が登場すると、これら惣村・郷村の構成員である百姓のほか国人らも自ら治水対策を講じるようになった。
 領域的・体系的な治水が本格的に復活するのは戦国時代・安土桃山時代(15世紀後期 - 16世紀末)のことである。戦国時代とは、戦国大名国人領主らの地域権力が確立し、自支配地域を領域化していく一方で他の政治勢力からの独立性を確保していき各地域に独自性の高い領国 = 地域国家が並立した時代だと理解されているが、各戦国大名は地域国家の経営者として、支配下の郷村を洪水被害から守り、自領国の安定した経営を図るため積極的に治水対策(川除普請)に取り組んだ。
 また、戦国期は全国的に水害をはじめ旱魃などの災害や飢饉、疫病が頻発していた時代で、戦国期の合戦はこうした時代背景のもと発生していたと考えられている。また、合戦と関係して築城された城郭の普請は川除普請と共通する土木技術を要し、城郭と治水は相互に技術を応用しの発達していたと考えられている。
 この時期の代表的な治水には武田信玄甲斐国釜無川流域に築いた信玄堤、豊臣秀吉による淀川沿いの文禄堤および伏見巨椋池の太閤堤などがある。また、濃尾平野などに見られる輪中堤も戦国時代もしくは室町時代後期に成立したとされている。
 戦国期の治水は大名権力の影響力と相関し、大名権力にとって高度な技術と大規模な人足動員を必要とする本格的な治水が可能であったかとする点には議論が存在する。
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