🍙20〗─1─戦前の統計学人口推計は2025年の「若年少数、老年多数」を予測していた。〜No.89 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 江戸時代の人口は約3,000万人で、平均寿命は俗に人生50年で、若者が多く、老人が少なかった。
 現代日本の人口は約1億2,000万人で、これからの人生は100年と言われ、老人が多く、若者が少ない。
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 生物や人間に寿命があるように、国や民族にも寿命がある。 
 当然、日本国にも日本民族日本人にも寿命がある。
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 2020年1月号 中央公論「『昭和100年、老年多数』。推計は正確だったが・・・
 近代日本人口政策の失敗学
 牧野邦昭
 江戸時代にもあった人口の停滞と都市集中
 現代の日本では総人口が減少に転じている。その一方で、東京を中心とする大都市圏への人口集中と地方における人口減少という地域偏在も顕著になり、『地方創生』が政策課題となっている。2015年度以来政府が進めている『まち・ひと・しごと創生総合戦略』では、地方の雇用を創出することによる東京一極集中の是正、また若い世代の就労、結婚・子育ての支援が謳われ、2060年に1億人程度の人口を維持することが目指されている。
 しかし、人口減少が問題となったのは過去に何度もあったことである。江戸時代の享保期から弘化期(18~19世紀前半)には人口が停滞した。これは世界的な気候の寒冷化による農作物の不作に加えて、一定の生活水準を維持するための出生制限(堕胎や間引き)が行われたことが原因であった。さらに、全体としてあまり人口が増えない中で、出生率が低く死亡率の高い人口の『墓場』『蟻地獄』であった江戸などの大都市に農村人口が『吸い込まれる』ことも一因であった。
 こうして人口の停滞と農村から都市への人口移動は、農業生産に依拠(いきょ)する武士の経済基盤を脅かすものと考えられ、それゆえ多くの思想家は農村の人口を増やし、都市への人口集中を抑制することを説いた。例えば荻生徂徠は著書『政談』において、都市と農村との境界を明確にし、戸籍制度によって移住を禁止し、農民の転業を禁じるとともに既に都市に移り住んだ元農民を強制的元の居住地に『人返し』することを主張した。徂徠と同時期の儒学者の室鳩巣も江戸に集中した人口を周辺(八王子、葛西、戸塚、板橋など)に分散させることを説いた。大坂の学問所『懐徳堂』で活躍した中井竹山は、人口を増やすためには出生制限をなくすことが必要であり、子どもを育てることの重要性を説く精神的感化や、『赤子養育仕法』のような実際に行われていた施策(堕胎や間引きの禁止、養育費の支給など)をもっと行うべきであると説いた。
 ただ、人口が停滞したことは一人当たりの所得水準を高いものにして人々の生活に余裕を持たせ、それが江戸時代後期の経済発展を可能にしたとも指摘されている。人々の生活が安定したことで19世紀後半には人口は再び増加に転じ、さらに人口増加による需要の増大は民間投資の増加をもたらし、経済発展によりさらなる人口増加を促したとされる。
 人口減少に警鐘をならした高田保馬
 こうした江戸時代後期の経済発展が明治の近代化につながっていくが、経済発展とともに進んでいた人口増加については明治中期から問題視されるようになる。
 ヨーロッパでは、人口増加率が食糧生産増加率を上回るために貧困が生じるとする経済学者マルサスの『人口論』が広く知られており、日本にも早い時期に紹介されていた。それもあって人口増加は貧民の増加につながるという思想が日本でも広まり、海外移民や植民地の確保の必要性が盛んに論じられていく。特に第一次世界大戦の不況による失業者や慢性的輸入超過が問題となる中で、1920年から始まった国勢調査によって人口増加の正確な数字が明らかになり、『人口過剰』が一層問題視された、その解決策が盛んに論じられるようになった。
 その一方、将来における日本の人口減少を憂慮する意見も登場するようになる。西欧主要国では出生数を制限して生活水準を上昇させることを目指す新マルサス主義の影響もあり、人口動態が『多産多死』から『多産少死』、そして『少産少死』へと推移する人口転換が進行しており、日本も経済発展とともに将来同様の経緯をたどることが予想された。
 著名な社会学高田保馬は、人口増加は社会を発展させる要因であるとして、当時の日本における『人口過剰論』を批判した。その主張を現代風に言えば、人口増加による分業の発達は多様性をもたらし、分業によって生まれる余裕や多様な人々の間のコミュニケーション、競争の促進によって多くの知識が生み出される、分業の発達や知識の増加は経済を発展させるため、人口増加はマルサス的な経済発展の制約的要因ではなく、むしろ促進要因になる。高田の表現を用いれば『殖えさへすれば』『之に応じてすべての文化的活動ことに経済的活動が盛んにな』るため、『国内はなほなほ多数の人口を養ひ得る余地がある』ことになる。
 その一方、高田は社会学者のテンニースの議論を参考にして、社会は血縁や地縁に基づく『基礎社会』(共同体、ゲマインシャフト)から、必然的に個人主義的な利益社会(ゲゼルシャフト)に移行していくとした。高田によれば、社会が利益社会になっていけば人々は個人主義に基づいて自分の生活水準を優先しはじめるため、家庭における子どもの数を減らそうとするようになり、社会の出生率は低下していく。完全に利益社会となっている西欧諸国では、社会の構成員が自己の豊かな生活を実現するために子どもの数を減らし、人口は減少に向かっている。一方でまだ利益社会に至っていない日本で、個人主義的傾向が弱いため人口は増加していると高田は指摘した。
 第一次世界大戦後の1919年にパリ講和会議で日本代表が提案した人種差別撤廃提案が否決されたことに憤る愛国者でもあった高田は、このような西欧諸国との人口増加率の違いを利用することで、日本は西欧に対抗し国際的な平等を実現すべきであると主張した。高田によれば、西欧諸国は人口減少によって衰退しつつあるが、日本も利益社会化が進めば出生率低下は避けられない。日本は個人主義傾向へ向かう速度を遅らせ、現在の人口増加を維持して文化的・経済的発展を実現しなければならず、そのためには現時点で馬鈴薯や甘藷を主食にするなどして生活水準を切り下げてでも増加する人口を養わなければならないとした。それゆえ高田は人口増加を放任いなければならないと主張し、1926年には雑誌の論説で『産めよ殖(ふ)えよ』と訴えた(『産めよ殖えよ』または『産めよ殖やせよ』という言葉は旧約聖書『創世記』の一節『産めよ、増えよ、地に満たせよ』からきた言葉として日本でも早くから知られ、新聞の見出しなどにも使われていた)。
 しかし、第一次世界大戦後の世界的な農産物過剰によって米の価格が下落し、さらに1918年の米騒動をへて、政府は台湾や朝鮮での米作を奨励して安価で 内地に流入したため、内地の米価格も下落し、農家の生活は苦しくなっていた。さらに1929年以降の世界恐慌によって主要な輸出品であった生糸も輸出が激減し、農村は窮乏を極めることになる。
 農村の窮乏は人口とは直接関係のない理由で生じたものであったが、実際に苦しむ農民とそれに同情的な人々から見れば、『山がちで狭い日本における過剰人口が貧困の原因である』という説明は強い説得力を持つものであり、人口増加を好ましいものとみなす高田の主張は全く認められないものであった。それゆえ、1931年の満州事変と翌年の満州国の建国は、困窮した農民に新天地を与えるものとして多くの国民から支持されることになる。
 戦時下の『生めよ育てよ』
 しかし、満州国建国とそれに続く華北子分離工作を原因として1937年に日中戦争が勃発すると、軍需産業の拡大が先行する形で重化学工業化が進展し、これにより第二次産業(鉱工業)に従事する人口が急速に拡大したのに対し、第一次産業農林水産業)人口は減少する。急速に進行した工業化とそれに伴う人口の都市集中は、これまで人口増殖を支えてきた農村人口の縮小を通じて人口増殖力を減退させ、民族の危機を招くものと考えられるようになった。
 実際に1938年半ば以降、青年層の軍隊への大量動員もあり出生率低下は顕在化していた。わずかな期間で人口過剰が解消されたどころか、人口の減少が懸念されるようになったのである。
 このまま出生率が低下していけば、西欧諸国と同様に日本もいずれ人口減少を迎えることは容易に予想できた。特に将来の人口推計は、出生率と死亡率の趨勢に基づいてかなり正確に計算することができる。
 厚生省人口問題研究所(現在の国立社会保障・人口問題研究所)研究員だった統計学者の中川友長は1940年、出生率と死亡率の低下傾向を基に将来人口の予測をしており、日本国内の総人口は昭和75(2000)年の1億2,274万人をピークとしてその後減少し、昭和100(2025)年には1億1,178万人になると、かなり正確に予測していた(実際の人口のピークは2008年の1億2,808万人であり、1975年以降、実際の人口は中川推計よりも多くなっているが、これは中川の想定以上に平均寿命が延びたことによる。中川推計の正確さは研究者の間では比較的よく知られている)。
 また同時に少子高齢化も進行し、昭和100年には『現在何れの国に於ても見るを得ぬ如く若年人口の少数、老年人口の多数なる年齢構成』となることが予想されていた(中川友長「将来人口の計算に就いて」『人口問題研究』第1巻第二号、現在は国立社会保障・人口問題研究所HPで閲覧可能)。
 こうした情報は一般にも公開されており、厚生省人口問題研究所が1941年8月に刊行した『人口政策の栞(“しおり”若しく“はかん”)』では、中川の執筆と推測される同じ内容の将来人口推計が説明されている。
 『人口の都市集中による総人口減少』という江戸時代と同様の問題に対応するため、1940年9月には第二次近衛文麿内閣で『国土計画設定要綱』が閣議決定され、国土計画による『人口ノ量的増強ト之ガ地域的職能的ノ適正ナル配分』が謳われる。この時期に人口政策関係者(戦後に厚生省人口問題研究所長となる舘稔、都市計画の権威の石川栄耀)から提案された国土計画は、小都市を中心とする生活圏を単位として都市と農村との調和を図り、都市人口を抑制しようとするものであった。
舘(たち)や石川らも参加した財団法人国土計画研究所の理事長となった高田保馬はこうした国土計画を支持し、人口増加のために『基礎社会』である農村の人口を維持していくことを主張した。
 さらに1941年1月、企画院が起案した『人口政策確立要綱』が閣議決定される。その内容は、『東亜共栄圏』を建設して健全な発展を図るためには一定の人口を確保することが必要であり、人口増加の『永遠ノ発展性ヲ確保スル』ために、昭和35(1960)年の人口1億人を目標に、高い出生率と死亡率低下を実現して、民族の量的及び質的発展を確保するとし、このために諸施策を講じようとするものであった。
 同要綱では死亡率低下のための乳幼児死亡率の改善、結核予防などのほか、出生率上昇のための婚資貸付制度や家族手当制度の確立などが謳われているが、これらは定常人口を確保するためにスウェーデンで導入された出産・育児支援政策など、既に少子化が進んでいた1930年代のヨーロッパ各国(スウェーデンのほかドイツ、イタリア、フランス等)で政治体制の違いを超えて実施されていた政策を参考にしたものだった。
 なお戦時中の人口政策のスローガンとして有名なのが『生めよ殖やせよ国のため』であるが、これは1939年に厚生省民族衛生研究会が、なちの優生学的なスローガンを参考として『結婚十訓』を発表した祭、その最後に挙げられたものである。ただし1941年に『結婚十訓』を基にした『結婚十訓』が公式に発表されているが、人口増加における死亡率低下の重要性を強調するためか、最後は『生めよ殖やせよ国のため』ではなく『生めよ育てよ国の為』になっており、太平洋戦争中は公式には『生めよ育てよ』というスローガンが使われた。こうしたスローガンは『日本の人口が減少する』という危機感から生まれたものであった。
 戦後に再び強くなった人口過剰論
 しかし第二次世界大戦後、日本は植民地を失い、多くの引揚者が内地に帰還し、また多くの男性が復員したことで第一次ベビーブームが起き出生数が急増する。加えて戦災により経済力が低下していたこともあり、明治から昭和初期にかけてと同様に再び人口過剰が問題視されるようになる。こうした中で、戦時中における人口減少への危機感は忘れられてしまう。
 日本を占領した連合国の一部には、人口圧力が日本の軍事的な海外進出の要因となったことから、出生率を低下させることが必要であるという考えがあったことは否定できない。しかし近年の研究では、連合軍総司令部(GHQ)は出生率の抑制の必要性はある程度認めていたものの、その手段としては避妊を考えており、むしろ日本側の方が人工妊娠中絶の推進に積極的であったとされる(豊田真穂『占領下の「人口政策」──優生保護法の中絶条項を中心に』比較家族史学会監修『人口政策の比較史』所収、日本経済評論社)。
 戦時中の1940年に優生学に基づき成立した国民優生法は、その名に反し、人口増加を優先するため実態はむしろ中絶を抑制するものであったともいわれる。それに対し、戦前から新マルサス主義に基づく産児制限運動を展開し、戦後は衆議院議員となった加藤シヅエらの提案により48年に成立した優生保護法は、中絶を認める要件を緩和するものであった。翌49年の同法改正で経済的理由による中絶が可能になったこともあり、出生率は大きく低下していく。生活水準を維持していくための出生制限を必要とし、それが広く行われたという意味で、江戸時代と終戦直後の日本は同じだったといえる。
 総人口に占める従属人口(年少人口と老年人口の合計)の割合の低下による生産年齢人口の負担減少(人口ボーナス)は日本経済の発展に寄与し、高度経済成長が実現するが、それと同時に出生率の低下が問題視され始める。60年代中頃以降、『厚生白書』では出生率低下が問題とされ、出生率の回復の必要性が訴えられた。
 しかし1970年代には第一次ベビーブーム世代が結婚適齢期を迎えて第二次ベビーブームが起こり、また同時期にローマクラブのレポート『成長の限界』(72年)が国際的に大きな反響を呼ぶなど、人口増加が資源や環境との関係でとらえ直されるようになり、またもや人口過剰論が息を吹き返す。74年に日本人口会議は『子供は2人までとする国民的合意』を形成することを呼びかけた。
 しかし前述の中川友長の人口推計と現実の人口とを比較すると、1955年では中川推計が9,011万人なのに対して現実の人口は8,928
万人、75年では推計は1億1,145万人に対して現実は1億1,194万人であり、それほどの差はなかった。つまり終戦直後の引揚げや2度にわたるベビーブーム、その後の急速な出生率低下は長期的に見れば短期の異常値であり、人口の趨勢に大きな影響を与えられるものではなかった。長期で見れば出生率や死亡率は、自然な低下傾向のまま推移してきたのである。そして中川が予測した通り、現代の日本が減少に転じ、『若年人口の少数、老年人口の多数なる年齢構成』となっている。
 長期的な趨勢を踏まえた制度設計を
 これまで見てきたように、現代の日本で問題となっている『出生率の低下』や『都市と地方の人口偏在』は過去にも盛んに論じられてきた問題であった。江戸時代や戦後の高度経済成長のように、出生率の低下は結果として一人当たりの生活水準を上昇させる面もある。したがって人口減少を必要以上に脅威に感じ、『生めよ育てよ』政策を無理に進めることは避けなくてはならないだろう。
 一方、経済学者のピーター・ドラッカーが『見えざる革命』(1976年)で指摘しているように、人口は長期的な推計が可能であり、その変化によって生じるであろう問題点を早い時期から『予言』することができる。ドラッカーは同書の中で人口の高齢化は社会全体に大きな影響を及ぼすと指摘しており、高齢者の増加による年金基金の役割の拡大を予測したり、高齢者を扶養するための生産性の向上の必要性を訴えたりした。
 日本では、中川友長の正確な人口推計があり、当時の政府も公認するものだったにもかかわらず、長期的な少子高齢化の動向に備え、それに対応できる制度設計が早い段階から行われてきたとは残念ながら言い難いだろう。
 高田保馬は基礎社会から利益社会への移行によって出生率は低下していき、その変化は不可逆的なものであると主張した。近年のジョブサーチ理論を応用した研究においては、親族や地域社会など身近な共同体による配偶者選択の支援には結婚確率を高める強力な効果がある一方、個人主義イデオロギーの普及によって共同体的結婚システムが弱体化すると相手探しのコストと困難が増加し、未婚化が進んで合計特殊出生率が低下することが指摘されている(加藤彰彦「未婚化を推し進めてきた2つの力──経済成長の低下と個人主義イデオロギー」『人口問題研究』第67巻第二号)。
 高田の主張を踏まえれば、共同体を復活させることは歴史の流れを逆転させるものであり困難なため、人口減少の程度を緩和する必要があれば、個人主義に基づき、子どもを持つことが負担にならないための結婚・出産・子育て支援を一人一人に行っていくべきであろう。
 その上で長期的な人口減少・少子高齢化については不可逆的な前提として受け入れ、将来に向けた維持可能な社会保障や財政などの制度設計を着実に進めていくことが求められる」
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 科学・数学の理系を理解した設計力・実行力は、現代日本より戦前の日本と1980年代までの日本の方が数段優れていた。
 昔の日本と現代の日本との雲泥の差は、判断と行動する為の情報量である。
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 「戦前の日本の失敗は科学技術を軽視していたからだ」という、知ったか振りの高学歴出身知的エリートを信用してはならない。
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 戦前のある時期まで、日本民族日本人の思考は地に足を付けた合理重視で文系現実と理系論理を均衡に保っていた。
 現代日本人の思考は、地に足がついていない非合理の思い込みで、現実無視の空想・架空・幻想に塗れた理想に偏重している。
 将来・未来に対する夢や希望は、現代日本より昔の日本にあった。
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