📉45】─1─衰退した日本を再生するには、大学教育の仕組みを変える必要がある。~No.956 @ 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 日本の未来を開くのは、文系か理系の一刀流から文系・理系の二刀流に大転換する事である。
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 歴史は、起きるべくして起きるが非連続性で同じ事を繰り返さない。
 生き残るのは、強者ゆえの必然ではなく、弱者ゆえの偶然と幸運であった。
 生存や存在には、創造神による「天の配剤」などはないし、救世主の奇跡もない。
 強者・勝者は退化し、弱者・敗者は進化する。
 歴史は、前に進むすすものであって、後ろに後退するものではない。
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 2019年1月号 正論「大国日本・百年の計
 文理の二刀流が未来をつくる   吉見俊哉
 AIには『日本百年の計』は設計できない
 AIは未来を予測できるのか
 ……
 歴史という非連続の空間
 さて、AIは日本百年の未来を設計できるのか?これが今回の編集部からの問いだ。結論からいえば、その答えは『NO』だと思う。なぜならば、歴史は連続的には変化しないからだ。数週間や数ヶ月、3年や5年の長さならともかく、30年、50年、100年という長期でみれば、歴史には必ず非連続な断層が存在する。
 たとえば、高度成長期の価値観と、2010年代の価値観は質的に異なる。価値の体系が、どこか途中で転換しているのだ。連続的なデータ空間という条件下で力を発揮するAIは、この質的な転換を予測できない。
 同様の理由から、1789年のフランス革命や1914年の第一次世界大戦の勃発も、仮にその時代にAIがあったとしても、予測はできなかっただろう。1868年の明治維新にしても、同じ事がいえるはずだ。歴史には、その構造が根本から変わる瞬間があり、その非連続性の主体は人間である。人間たちの行為が、歴史を内側から変えたり、変えなかったりする。これは一種の賭けなのであって、その結果をAIは予測できない。
 幕末に活躍した志士、坂本龍馬高杉晋作らは、多くが1830年生まれの同世代人で、彼らの同世代的な連帯が、倒幕と維新を成就(じょうじゅ)させた。しかし、それは後世から見た『結果論』にすぎない。彼らは歴史を変えられたかもしれないし、変えられなかったかもしれない。どっちに転ぶか、最後の段階まで誰も分からなかった。
 長きにわたる歴史では、非連続性を生むかもしれない危険がいくつもある。歴史とは、そうした危険とそれに遭遇した人びとの賭け、その結果として非連続的な切断が繰り返される過程だともいえる。この非連続性がうまれる瞬間は、事前に計算できるようなものではない。
 そうした歴史の切断は、まったくもって泥くさい、人間的な瞬間なのであって、この瞬間を理解するには、そうした出来事の現場に身を置く、つまりそこにいた人びとの立場に立って歴史を現在として生き直すしかない。
 現状を疑い、判断する力
 このように、歴史が技術的なAIの予測の範疇(はんちゅう)を超えているとすると、私たちはいかに日本の100年先までを設計できるのだろうか。答えは簡単で、私たち自身が、外からの傍観者としてではなく、内部の主体として歴史の中に身を置き、未来に賭けることによってである。
 そしてこの未来に賭ける知力を身に付けるには、文系的な知識や思考法の習得が大変重要な意味をもつ。
 そもそも学問の有用性には二通りある。一つは、目的に対して有用な手段を提供するもの。手段的な有用性の知だ。この知は、目的を達成するために必要な技術、ノウハウを開発するもので、工学が得意な分野である。
 もう一つは、目的、価値そのものを創出する、価値創造的な有用性の知。私たちがいま当然と思っている価値を批判し、それとは異なる価値の基準を見つけ出していく知で、概して文系的な知ということができる。
 歴史が非連続なものとすると、いくら現在を延長していっても、未来には辿(たど)り着けない。現在の延長線上で『未来はこうなる』と予測し、その未来のために必要な技術の開発に励んでも、20年、30年という時間のなかでは必ず非連続が生じる。手段的な有用性は、目的が変わらなければ有用だが、その目的が変化すると途端に役に立たなくなる。1990年代に日本の家電メーカーが熱心だったプラズマテレビとか、その前のビデオテープの規格競争が好例だ。テレビ時代の先にどんな情報社会が来るのかについての想像力が欠けていた。
 誰しもが当たり前だと思っている価値観、こうなるだろうと思われている前提を正しく疑い、技術が社会を変える以前に、社会の根底的な変化が技術の前提を変えてしまうことに、日本人はもっと注意深くなるべきだ。これは、AIという魔法の箱に自分たちの未来を託してしまうのとは正反対の方向性だ。そして、当たり前を正しく疑うためには、異文化には自分たちとは違う価値観があり、いまとは違う当たり前が生きられていた歴史があったことを具体的に、深く知っていなければならない。それなしには現状を内側から相対化することはできない。
 そこで求められるのが文系的な知だ。そこで日々何が学ばれているかというと、まさにこの常識を疑う方法なのである。むしろ、そればかりをやっているといっても過言ではない。人類学者であれば、異文化の社会に行って、その社会で『当たり前』と思われている価値観の成り立ちを考察する。歴史学は、いまの『当たり前』が通用しなかった時代の『当たり前』と、そこから長い変化の過程を学んでいく。文学や哲学は、同時代の『当たり前』をちっとも『当たり前』と思わなかった人びとの深い思考を追体験していく。そうやって、異文化や過去や芸術家の『当たり前』ではない思考を学んでいるのだ。
 つまり、文系の学問を究めれば究めるほど、現在は当たり前とされるものがちっとも当たり前ではなく、それどころか奇妙なものにさえ思えるようになってくる。そういう知性を身に付けることが、現状を疑い、批判し、違う視点や価値観から物事を捉えたり、物事の別の可能性を想像したりするこにつながっていくのである。
 文系の知は、そうした力をトレーニングする。100年の計をデザインするのが政治家か、官僚か、学者か、企業家かはわからない。しかし、文系的な知を身に付けている人でなければ、100年先の未来をデザインすることなどできない。5年先はAIでも予測できる時代が来るかもしれないが、100年先を、常識を超えてデザインできるのは、『当たり前』を疑う方法を身に付けた人間なのだ。
 ソニーとアップルの違い
 しかし、日本人には明治以来、理系的な知、工学的な知を重視する傾向が強い。手段的に有用な知は、メリットがわかりやすいからだ。他方、現在の『当たり前』を疑うことに賭ける文系的な知がいったい何に役立つのかを理解するのは簡単ではない。このまさに『何に』という部分を問題にし、相対化していくからだ。
 そのために、新しい価値を生み出す基盤となる文系的知の有用性は長く理解されてこなかった。そもそも明治以来、1960年代ごろまでは、欧米という目指すべき目標がはっきりしていたから、別の目的を創出する必要がなかったともいえる。このような社会で価値の転換は、個人や集団の突発的なイノベーションに依存してきた。
 一例だが、ソニーウォークマンは世界に誇れるイノベーションだった。その素晴らしさは、それが日本の技術力の高さを示したことではなく、私たちのメディアに対する価値観の転換を含んでいたことにある。ところがじつは、ソニー自身がこのことに深くは気付いていなかったのだ。そのため、ソニーはその後、ウォークマンに並ぶような世界を驚かす製品を生み出せなかった。ソニーがアップルのようにiPoneをつくれなかったのは、けっして技術的な問題でなく。絶頂期のソニーの技術力は、アップルより先にスマートフォンをつくれる力をもっていたのではないか。しかし、企業としてのソニーには、『技術』ではない『何か』が欠けていたのだ。
 ウォークマンは、たしかに革新的だったが、ステレオという概念を完全には捨てきれない。そこにはステレオからの連続性がある。これに対してiPoneは、電話ともいえるし、パソコンともいえる。カメラともいえるし、テレビともいえる。これらの諸概念を一挙に壊し、新しいメディア概念を構築している。そしてこれは、スティーブン・ジョブズが『マッキントッシュ』をつくり、コンピュータの既成概念を壊したころからずっとやってきたことだった。
 ジョブズの凄さは、根っからのマージナルマン(境界人)であったことに加え、大学でも哲学から宗教、ヒッピー文化まで含め、たんなるコンピュータ工学にとどまらない脱領域の知性を身に付けていたことにある。20世紀の大企業家のなかで、ジョブズくらい『当たり前』を違う天才はいなかった。そのような人物だからこそ、既存のあらゆるメディア概念を破壊し、それまでとは非連続な、別のメディア概念を想像することができたのだ。
 もちろん日本の企業家たちも、1980年代から90年代にかけて、イノベーションや創造性を称賛した。しかし、彼らに欠けていたのは、もっと深いところで、『当たり前』を疑うことのできる方法論。本来的な意味での文系的な知性だったのだと思う。80年代の絶頂期の日本企業がしなければいけなかったのは、バブルに浮かれることではもちろんないし、技術をより高度化させることへの専心でもなく、その技術が向かいつつある方向性を、根本から疑ってみることだったのではないか。
 だから、日本がこれからなすべきことははっきりしている。文系は役に立たないなどとは言わず、むしろ逆に文系的な知こそ、国や産業界、リーダーたちのあいだにいかに育むかを考えなければならない。それこそ、『教育100年の計』を打ち立てることが求められている。
 日米の学生の質には差がないが・・・
 現状でいえば、残念ながら日本の高等教育には数々の問題がある。私は2017年9月から18年6月までの10ヶ月間、ハーバード大学で教壇に立った。その経験から身をもって知ったことがある。日米、とくにハーバード大学のようなトップユニバーシティと、東京大学を比べると、学生の質はまったく差がない。東大や京大の学生は、学力では世界的にも間違いなくトップの水準にあるということだ。では、何が決定的に違うのか。
 ひと言でいえば、教育の制度的な仕組みである。日本の大学教育は、学生たちの知的な思考力や想像力を世界に通用するような仕方で伸ばす仕組みになっていない。
 ……
 アメリカの大学の学生は、日本の学生よりよく勉強をするとしばしば言われる。しかし、それはアメリカの大学生が日本の大学生よりも真面目だからではなく、アメリカの大学では、よほどの覚悟がなければ『授業を切る』ことはできない仕組みになっているからだ。一科目の単位数が大きいので、一科目でも不合格になれば、その学生はたぶん卒業できない。それはまずいので、履修した科目を必死になって学ぶのである。学生が本質的に真面目だとか、不真面目だという話ではなく、学生が真面目にならざるをえない仕組みが存在するのだ。
 日本の大学は、入るのが難しく出るのは簡単。アメリカの大学は、入るのは簡単かどうかはともかく、少なくとも出るのは難しい。その根本は、それぞれの科目が精選され、その単位を得るのが簡単ではないことによる。
 このような日米の大学の仕組みの違いは、大学教授の教育姿勢にも影響している。日本の先生たちは、自分の授業がせいぜい二単位程度の重みしかないことをよくしっている……。日本の大学生はアメリカの学生より勉強したくないんではなく、する必要がないのである。
 大学教育を一刀流から二刀流に大転換
 そろそろ話を価値創造の話に戻すことにしよう。誤解してほしくないのだが、私は理系的な知の有用性を否定しているわけではまったくない。理系的な知と文系的な知、もっと正確にいえば、手段的な有用性の知と価値創造的な有用性の知。は、お互いに相乗的な関係にある。問題は、この二つをどう組み合わせるのかである。
 私がこれまで主張してきたこの問いへの答えは、宮本武蔵だ。つまり、二刀流。この仕組みも、アメリカの大学ではメジャー・マイナー(主専攻・副専攻)やダブル・メジャーの仕組みとして普及している。簡単にいえば、一人の学生が、二つの専門を学ぶのである。
 たとえば、医学部の学生が医療の勉強をしながら、文学部で哲学や倫理学を学ぶことができるとすれば、これは素晴らしい組み合わせではないか。医学的な知識に加えて、人間とは何かという哲学をもつ医者は、これからの時代にますます重宝されるに違いない。
 他にも、コンピュータ科学を主専攻としている学生が、副専攻では法学部の知的財産権を学ぶ。農学部で環境科学を専攻している学生が、文学部で中国の歴史を勉強するなど、有益な組み合わせが考えられる。いずれの場合も、理系的知を習得しつつ、それらとは別の方法で既存の価値観を疑い、批判する文系的な知を身に付けることで、思考力や想像力が格段に深まることだろう。
 繰り返しになるが、日本の大学には世界トップレベルの賢い学生がまだかなりいる。ところが、日本の大学教育の仕組みは問題だらけで彼らの潜在力を伸ばせていない、これは政府だけでなく、私も含めて日本の大学関係者の責任でもあり、社会全体で取り組むべき課題だ。
 その際、『改革』で重要なのは、それがまさに非連続的な改革でなければならないことだ。『双方向的な授業』『シラバスの体系化』『予習・復習の充実』等、どれも大切だが、現在の仕組みに接木(つぎき)をするだけだと、かえって悪い結果を生む。すでに幹は古くなっており、新しい枝を足してもすぐに枯れるだけだ。教育100年の計をデザインするには、これまで当たり前だったことを否定するところから、まずスタートしなければならない」
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 地球温暖化は、現在の地球上で起きている科学的データを総合判断しての結果である。
 将来、このまま地球温暖化が進むのか誰も知らない。
 地球温暖化が進んで人類を含んだ多くの生物が死滅の危機に追い込まれるのか、どこかで地球温暖化が止まって昔のような寒冷化に戻るのか、誰も分からないし、AIでも結論を出せない。
 未来は、絶望的状況から超楽観的状況まで数百通り、数千通り存在する。
 悲観論者は、ネガティブに絶望的状況の中から自分の好みを感情的に選ぶ。
 楽観論者は、ポジティブに楽観的状況の中から自分の好みを感情的に選ぶ。
 それ故に、悲観論者と楽観論者が科学データをもって激論を交わした所で話がまとまる事はない。
 だが、AIが結論を出せば地球は破滅的な状況になり、人類の生存を脅かされるとの結論を出す。
 AIの結論を信じるか、信じないかは、個人の自由である。
 人間は、預言者のように未来を正確に言い当てる事はできない。
 AIは、絶対神のような未来の道を開く神託をくだす事はできない。
 未来の状況は、数百通り・数千通りの未来予測から自分が好きな未来を選べばいい。
 未来の結果がどうであれ、AIは選べないが、人は選ぶ事ができる。
 それを、「幸せ」という。
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 生物史あるいは人類史において、短期的には強者必勝・弱者必敗あるいは弱肉強食であったが、長期的には適者生存と自然淘汰として強者は死に絶えたが弱者は生き残った。
 地球は絶えず自然環境を変化させ、最適な生活居住地は不毛な荒涼たる大地となり、大地が引きされて海に沈み、海が隆起して新たな大地となる。
 生き残るのは、自然環境や居住空間に併せて生きる為に最適な身体能力を得る為に突然変異を繰り返す、柔軟性に富んだ生物だけである。
 強者のガリヴァー種は死滅し、弱者のミュータント種は生き残る。
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 突然変異はイノベーションと同じで、既存の能力を捨て去り新しい能力を獲得する事である。
 周囲を自分が生きられるように都合よく改造するのではなく、自分を周囲に合わせて改造する事である。
 自分に都合よく改造する事は他の種にも都合がいいと言う事であり、そこに熾烈な生存競争が生まれる。
 自分を周囲に合わせて改造する事は、そのに適応できる他の種は存在しない。
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 日本は技術経済大国になった瞬間、その先に目指すべき目標を失って衰退した。
 中国は日本の失敗を教訓として、経済大国なるやその先の目標を創出して動き出した。
 中国の新たな目標が、地球規模のAIIBと一帯一路構想であった。
 そして、日本はアメリカに屈服し隷属したが、中国は生存権を広める為にアメリカや世界基準に挑戦した。
 中国が日本とは違うのは、その地球規模のスケールの大きさにある。
 そして、日本の限界もそこにある。
 中国は世界規模の大国にある資格はあるが、日本は地域の大国の資格しかない。
 中国が秘めた地球規模のスケールは、アメリカ同様に、新たな時代を創り、生まれ変わった世界を動かす事が可能である。
 日本の生きる道は、中国ではなくアメリカに従う以外にない。
 何故なら、日本と中国は水と油のように異質で混じり合う事ができないからである。
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