📉6】─1─日本の悪しき「完璧主義」が子供を追い詰め苦しめ不幸にし悲劇をもたらす。~No.12No.13 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 日本の大人は、子供の事考えるのではなく、自分が思い込んでいる完璧主義や潔癖主義で子供たちを抑え込み、不寛容で追い詰め不幸にし悲劇へと追いやる。
 現代日本人の大人は、子供を守れないし救えないし助けられない。
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 日本的な「適当」には2種類あり、悪い意味での無責任な「いい加減」と良い意味での力が抜けた「程良く」である。
 日本を子供に必要なのは良い意味での程良くである。
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 良い教師は、自分より優れた子供・生徒・学生を育て、国の為、社会の為、人の為に役立つ人材社会に送り出す。
 悪い教師は、自分より優れた子供・生徒・学生を育てず、自分の思い・学説を押し付け洗脳して支配しようとする。
 現代日本には、戦前に比べて悪い教師が増えている。
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 ノルウェーから贈る「ゆとり社会」のススメ
 子供が親から虐待を受け、死亡する痛ましい事件が後を絶たない。たとえ職場では温厚で優しいとの評判でも、家に帰れば豹変してしまう人もおり、その背景には何事にも完璧を求めがちな日本社会の意識が見え隠れする。そんな環境にいる日本の子供たちの姿は、ノルウェー在住の識者の目にどう映っているのだろうか。
 大人たちの「完璧主義」がニッポンの子供を追い詰める
 『リングダール裕子』 2019/12/26
 リングダール裕子(ベルゲン大常勤講師)
 子供が親に虐待され、殺される事件が後を絶たない。心が張り裂けるようである。驚くべきことに、今年1月に起きた千葉県野田市の小4女児死亡事件では、加害者である当の父親は、職場で温厚な人として一同から好かれていたという。これはいったい何を意味しているのだろうか。
 日本の子供は両親に従い、学校では教師に、そして社会のルールに従うことを徹底的に教え込まれる。確かに、始業時間を厳守することが、交通事故に気をつけるよりも大事であるような雰囲気があると、ある小学校の教師から聞いたことがある。そんな教育環境で育った子供が大人になって、日本の社会を築いていくのだ。
 私の住むノルウェー西部ベルゲン市のある高校では、日本の高校と姉妹校になっており、年に一度学校を相互訪問している。ある年、日本から来た高校生がこちらの高校を訪問し、日本の学校などの紹介をする際に、メモを見ながら発表していた。
 ところが暗記せずに臨んだことで、その生徒は日本側の教師から怒鳴られたそうだ。その光景を目の当たりにしたベルゲンの高校生はショックを受けてしまった。
 怒鳴られた理由も全く理解できなかったし、メモを見ながら発表することがなぜいけないのか、全く腑に落ちなかった。また、日本の高校生たちは常に教師の目を気にしており、不安な様子を見せていたという。
 ノルウェーの学校でも、メモなどを見ずに発表することを生徒に要求する教師がいることは確かだ。特に試験の際には、メモを見ながらであれば成績に響く、ということは生徒自身も理解している。
 だからといって、国際交流の場でメモを見ながら発表して、注意されることはまずない。もし注意しなければならない場合でも、外国からの招待生徒の目の前では決してなく、後で当の生徒と2人きりの場所で、穏やかに行うのが普通だ。
 そもそも、日常の学校内で教師が生徒を叱りつけることはしない。常に穏やかな調子で生徒を指導しているため、生徒たちが教師の目を気にして始終怯えることはあり得ない。
 日本では前述した通り、目上の者に従順で、また完全な行為をすることを良しとする教育環境で育っていく。だから、親や教師の叱責は日常茶飯事である。
 大人になると今度は上司や客などから叱責を受け、社会に出ても叱られる環境から抜け出すことができない。私もノルウェーで日本人観光客のガイドをしていたときに、小さなミスを犯したことで添乗員から叱責され、非常に不愉快な思いをしたことがある。
 人間は不完全であり、多少の間違いを犯すことは普通であるはずだ。それなのに、日本人がなぜこれほどまでに完全さを求めるのか、不思議でならない。
 運動会などの組体操が事故多発で問題になっているのも、完全を求める日本人の意識が背後にあることが一因ではないだろうか。組体操が立派に成功すれば、保護者をはじめ、教育関係者などから多くの支持や称賛を受けられる。だが、子供たちに対する危険な行為の強制は続き、事故のリスクも一向に減らないだろう。
 ノルウェーでは、完全さを要求するのではなく、不完全さを受け入れられる土台がある。そのおかげで子供たちはゆとりを持ち、お互いの不完全さを受容しながら健やかに育っていくことができる。同時に、18歳未満の子供たちの人権を保障する国際児童基金ユニセフ)の「子どもの権利条約」を重視するため、児童や生徒たちに対して、学校が危険な行為を強制することはない。
 ノルウェーでの例をいくつか挙げてみよう。ある小学校の教師に日本の道徳教材の話をしたところ、興味を持ってくれたので、同じ内容の教材をノルウェー語に訳して、ノルウェーの子供がどのように答えるか試してみることになった。教材に使った物語の概要は次の通りだ(子供の名前は仮に付けている)。
 「小学校の児童2人が、買い物をしにバスで街に向かった。下車の際に子供の1人、「宏くん」がお金を忘れたことに気付く。友だちの「亮くん」に貸してと頼んだが、母親に貸してはいけないと言われているために、貸してもらえなかった。ところが運転手は、誰かに借りて絶対に支払わなければいけないといい、宏くんはパニックになって泣き出した。すると乗客の1人が近づき、忘れ物をした宏くんに怒りながらも支払いをしてくれた。バスを降りると、宏くんのポケットにお金が入っているのが見つかった。」
 この話を使って日本の学校では、責任を問う。研究のために訪問した学校のある小学6年生のクラスでは、1人を除いてクラス全員がお金を忘れた宏くんに責任があり、亮くんも2人の大人も悪くないという結果になった。
 もちろん、授業の進め方はノルウェーでも各人によるが、ある教師に話を聞くと、教師としての個人意見を述べるよりも、児童たちに自由に話し合いをさせたり問題提起したりすることで、児童たちが深く考える機会を作らせることに心を砕くだろうということだった。話し合いをさせているうちに、教師がなるほどと気づくこともあるかもしれないし、同時に児童たちが他の人の意見も聞くということを学べるだろうという理由からだった。
 そうして出したノルウェーの子供たちの答えは、同じ小6であっても、日本の児童と大きな違いがあった。忘れ物はいけないし、宏くんはポケットをよく調べるべきだったが、他の3人にも責任があるというのが圧倒的多数を占めたのだ。
 亮くんは友達なのに冷たいし、運転手も融通がきかないという感想だった。その上で、支払いをした乗客と同じく、相手は子供であることを考慮すべきだったと指摘したのだ。
 教師の対応も、まず公平にそれぞれの子供たちの意見を聞くことに努めている。たとえ日本の子供のように「宏くんが一番悪い」といった多数派と違った意見であっても、あえてそれを直そうとはせず、そのまま受け入れていくのである。
 不完全さを受け入れられる「土台」は、何も教育だけにある話ではない。ベルゲン市内で、子供向けの手作り人形劇をボランティアで続けている知人がいる。手作りだけあって、劇が行われる幼稚園や地域の集会所では、子供から大人まで誰もが人形作りに参加できる。
 彼の作る人形も決して高度な技術を使うこともないので、多少のゆがみも左右非対称も気にしない。材料にしても、古新聞やトイレットペーパーの芯なども使い、素朴で温かみがある。舞台装置も大きな段ボールを切り抜いて作ったものだ。
 劇を披露する段になれば、舞台を裏から支える役回りを、見学者が名乗り出て引き受けてくれる。こうして、人形劇の場から、高齢者から子供までお茶を飲みながら楽しく談話でき、子供連れの家族もゆったりと日曜日の午後を過ごす土壌が生まれるのである。
 ノルウェーでも専門家が素晴らしい人形劇を各地で行っているが、なぜ彼の作るような素朴な劇も受け入れられるのだろうか。それは、子供たちが自分にも作れるという自信が湧き、想像力を働かせて、発達過程における子供自身の成長と教育に役立つからだそうだ。材料も家庭で普段使うものだから、さほど苦労もせずに見つけることができる。
 クリスマスが近づくと、欧米ではジンジャー・ブレッド(生姜入り菓子)を焼いて、それで家を作って盛り上げるのが定番だ。ベルゲンでもクリスマスの1カ月前から、毎年恒例のジンジャー・ブレッドでできたベルゲンの街が展示されるが、開催前に市民の作ったジンジャー・ブレッドの家を公募している。
 選ばれた中には本格的で立派な家もあるが、私と幼少期だった息子と作ったささやかな家も展示されたこともあった。こうして、個人から幼稚園、学校など誰でも自由に作った作品が街に飾られるのである。
 他にも多くの例がある。公共交通機関で遅れが出ても、多少のロスは誰も気にしないし、横断歩道などは日本のように完璧な白線を引いてあるとは限らない。多くのノルウェー人にとっては、線が何を示しているか分かれば十分であり、多少の歪みがあっても問題はないのだ。
 ところが日本では、あらゆる場面で完璧を求められる。日本の鉄道では、運転手がトイレに行く時間もなく、乗務員は常に時間厳守を強いられている。懲罰的な運転士教育や過密ダイヤが問題視された2005年の尼崎JR脱線事故を覚えている人も多いだろう。
 学校でも、子供たちの行為が一点の曇りもないように指導し、一般教師はおろか、学校教育に携わるリーダーたちも子供の権利に関する知識に乏しく、かえって強制行為を正当化していることは先述した通りだ。
 このように、日本人は学校や職場では、教師や上司から叱責や処罰を受けないように、完全を目指して最大限の努力を払う。ただ、自宅に戻れば、逆に憂さ晴らしができるようになっている。
 このような環境では、不幸な事件が連続するだけである。多少の間違いは大目に見ること、また多少の「乱れ」も受け入れることが、日本に真のゆとりある社会を形成するにあたり、重要ではないだろうか。
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