🍙27〗─1─飢餓作戦。朝鮮半島からの食糧緊急移送計画阻止。~No.172No.173No.174 

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   ・   ・{東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・ 
 アメリカ軍は、飢餓作戦で日本国民から食糧を奪った。
 1945年 日本と朝鮮・中国との交通・輸送路はアメリカ軍によって遮断され、よほどの幸運がなければ海峡を無事に渡る事ができなかった。
 当然、朝鮮人が日本に来る事はあり得なかった。
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 日本は、食糧・物資・エネルギー(石油)などの自給力がなない為に海外から必要量を輸入していた。
 食糧である米を、東南アジアの三大穀倉地帯であるベトナム仏印)・タイ・ビルマ(イギリス植民地)から輸入した。
 輸入量を減らす為に、国内での食糧=米増産ではなく、台湾と朝鮮での食糧=米増産であった。
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 2019年11月30日 朝日新聞関門海峡 船の道(山口、福岡県)
 機雷2,000発 戦いの爪痕
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 海峡の歴史には戦いの影がつきまとう。太平洋戦争末期には船の墓場と化した。
 1945年3月、沖縄に上陸した米軍は、日本の海上交通を断って兵糧攻めにする『飢餓作戦』を決行。海上自衛隊下関基地隊によると、終戦までに機雷約1万1,000発が国内の主要港湾や海峡に敷設された。このうちほぼ半数の約4,990発が関門海峡にばらまかれた。本州と九州だけでなく、日本と朝鮮半島や中国大陸を結ぶ補給路として、最も重要な『海の道』だったからだ。海峡は沈没船であふれ、至るところにマストが突きだしていたという。
 同年5月には15日間にわたって通峡が禁止されたが、沈没船に阻まれて機雷除去は進まず、米軍の狙い通り海峡は機能不全に陥った。終戦までに113隻が触雷したとみられる。
 当時の被害を記録した写真類は、日本側にはほとんど残っていない。要塞地帯に指定され、軍事機密を侵すとして現代のように気軽に取ることなどできなかったからだ。
 そんな中、ひそかにシャッターを切った人がいた。下関市内でカメラ店を営んでいた上垣内茂夫さん(故人)だ。同年6月、7月の空襲で焼け野原になった直後の市中心部を撮影。『憲兵に見つければ連行されるのに、命がけで撮影していました』。長女の照子さん(86)は振り返る。
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 米軍の資料を見ると、この海域にも機雷が投下されたはずだ。……
 爆発物除去の任務を担う海自下関基地隊がこれまでに対応した機雷は330発。だが、なお2,000発ほどが海底に眠っているとみられ、5年前にも機雷を海中で爆破処理した。終戦から74年を経ても、海峡の戦後は続いている。」
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 ウィキペディア
 飢餓作戦(Operation Starvation)または餓死作戦は、太平洋戦争末期にアメリカ軍が行った日本周辺の機雷封鎖作戦の作戦名である。この作戦はアメリカ海軍が立案し、主にアメリカ陸軍航空軍の航空機によって実行された。日本の内海航路や朝鮮半島航路に壊滅的打撃を与え、戦後も海上自衛隊の戦術思想や日本の海運に影響を残した。
 背景
 1945年(昭和20年)3月下旬、沖縄諸島への連合国軍侵攻が迫り、日本の東南アジア方面との南方航路は閉鎖に追い込まれた。これにより、日本に残されたシーレーンは、大連など華北との航路と、羅津など朝鮮半島に向かう航路のほか、本土内航路のみとなった。これらの残存航路では、本土決戦に向けた部隊・軍需物資の本土集結と、国民生活に必要な食糧や石炭の輸送が行われていた。特に、雑穀や塩、石油代用の穀物油の輸入(日本領、外地からの移入)が重要視されていた。
 連合国側は、日本のシーレーンに対する通商破壊を主に潜水艦と航空機によって行ってきた。特にアメリカ海軍の潜水艦は多大な成果を上げていたが、残された航路が沿岸に限られてくると、潜水艦による攻撃は難しくなってきていた。そこで、チェスター・ニミッツ元帥率いるアメリカ海軍が中心となって日本本土周辺に対する機雷による海上封鎖作戦が立案され、「飢餓作戦」と命名された。

 結果
 軍事的成果
 この飢餓作戦で出撃したB-29爆撃機は延べ1529機で、投下された機雷の総数は12135個ないし12239個に上った。作戦期間中に機雷で沈没した日本商船は約30万総トン、損傷船も約40万総トンに達したのに対し[13]、アメリカ軍の損害はわずか15機喪失(損耗率1%未満)であった[7]。延べ出撃機数は、日本本土空襲を担当した第21爆撃集団のB-29全体の約5.7 % にとどまり、効率的な作戦だったと評価されている。
 飢餓作戦は日本の最後のシーレーンを麻痺させ、瀬戸内海は機帆船などの小型船以外は航行不能となった。特に日本の5大港のうち残存していた大阪港と神戸港が封鎖されたことは、荷役能力を大きく低下させたばかりでなく造船能力も低下させて損傷船の復旧を遅らせた[17]。潜水艦の魚雷攻撃と異なり、機雷では大型船は損傷しても沈没は免れることが多かった。だが、修理設備のある港湾も機雷で封鎖されると修理できずに船腹が減少した。機雷の危険を避けるために沖に出て航行すれば、今度は潜水艦の餌食となった。
 朝鮮半島との日本海航路の遮断は満州方面からの雑穀や塩の輸送を妨げ、本土の日本国民を文字通り飢餓状態に陥らせた。食糧事情の悪化は日本政府に暴動の発生を恐れさせるほどであり、飢餓作戦と並行して鉄道網への攻撃が本格的に行われていれば、日本はもっと早期に降伏していたとの見方もある。
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 バーニー作戦( 英語: Operation Barney)は、太平洋戦争末期の1945年6月にアメリカ海軍の潜水艦部隊が行った日本海での通商破壊作戦である。対馬海峡から日本軍の機雷を回避して潜入し、日本に残された数少ないシーレーンを襲って複数の商船を撃沈することに成功したものの損失も受けた。
 背景
 1945年(昭和20年)4月の沖縄へのアメリカ軍上陸により、日本と東南アジアの占領地を結ぶ南方航路は閉鎖された。日本に残されたシーレーンは、黄海日本海を航行する大陸航路と、国内航路だけとなっていた。アメリカ軍爆撃機が機雷を投下する飢餓作戦により瀬戸内海すらも封鎖されつつある中、国民生活維持に不可欠な食糧や地下資源を輸送する日本海航路は重要度を増していた。
 結果
 本作戦でアメリカ潜水艦が撃沈した商船・徴用船は明確なものだけで27隻の多数に上り、1000トン級・2000トン級の小型貨物船が多くをしめたものの、合計トン数は5万4千総トン近くに達した。さらに漁船などの小船多数や潜水艦伊122も撃沈しており、『戦史叢書』は22日までの被害船を38隻以上としている[10]。本作戦の成功により、1945年6月のアメリカ潜水艦による戦果は、前月比2.5倍以上の商船43隻(9万2千総トン)撃沈に跳ね上がった。味をしめたアメリカ海軍は、終戦までに6隻の潜水艦を日本海に送り込んでいる。
 本作戦に衝撃を受けた日本軍は、飢餓作戦による機雷封鎖の拡大もあり、日本海シーレーンの途絶も時間の問題と考えるようになった。日本海での輸送作戦に関する陸海軍中央協定が締結され、6月28日、大本営海軍部は、日本海が航行可能なうちに大陸方面からの物資を出来る限り輸送する日号作戦を発令した。敵潜水艦の再侵入を防ぐための対潜機雷堰構築も残存敷設艦艇を集めて継続され、宗谷海峡には6月末に2線、津軽海峡には8月3日に1線を敷設してさらに2線の追加を予定した状態で終戦の日を迎えた。なお、日本側は、バーニー作戦での侵入経路について、濃密な機雷堰が完成したばかりの対馬海峡が突破されたとは思わず、機雷堰が未完成の宗谷海峡から侵入されたものと判断していた。  ・  ・  
 日号作戦(にちごうさくせん)は、太平洋戦争末期に日本が陸海軍合同で行った日本海における戦略物資の海上輸送作戦のことである。食糧事情が悪化する中、本土決戦に備え、日本海航路の遮断前に満州及び朝鮮半島から日本本土へ可能な限りの食糧などを輸送するために実行された。
 背景
 1945年6月1日時点での日本の勢力範囲。
 1945年(昭和20年)3月に東南アジア方面との南方航路が閉鎖されて以降、日本に残された重要なシーレーンとなったのは、日本海を経由する朝鮮半島との航路であった。東シナ海経由の華北航路とならんで、本土決戦に向けた部隊・軍需物資の移動や、国民生活を維持するための食糧輸送に極めて重要だった。
 これらの航路の遮断は、配給制度の破綻を招くおそれがあった。太平洋戦争開始前の日本本土の食糧自給率はカロリー換算で約8割で、残りは台湾や朝鮮半島満州、東南アジアからの移入に依存していた。戦時中も主食の国内生産量は大きな変化が無かったため、シーレーンの遮断は食糧事情の悪化につながったのである。工業用を含めた塩の自給率はさらに低く、食用・飼料用だけでも大幅な不足が生じており、1945年秋には飼料用塩の配給停止が予測されるほどだった。
 しかも、1945年は、天候不良と肥料不足から、代用食として重要な小麦の凶作までが重なった。同様に米も非常な凶作が予想されていた。同年4月に成立した鈴木貫太郎内閣は情勢を踏まえて食糧確保を重視し、新たに始まった国家船舶制度に基づき、船腹を優先的に食糧輸送用に割り当て始めた。
 日本軍も大陸方面航路の防備を放置していたわけではなく、1943年(昭和18年)5月以降に東シナ海などに機雷を敷設し、敵潜水艦の侵入を阻止しようとしていた。1945年3月26日に海上護衛総司令部が発令した対馬海峡機雷堰敷設だけで、6000個の九三式機雷が使用されている。しかし、1945年6月6日に、9隻のアメリカ海軍潜水艦が高性能ソナーにより機雷を回避して突破に成功し、「天皇の浴槽(The Emperor's Bathtub)」とあだ名していた日本海での通商破壊を開始した(バーニー作戦)。これにより日本商船27隻(計54000総トン)が沈められ、日本海軍は日本海でも本格的に対潜護衛を行わなければならなくなった。
 また、3月末から、アメリカ軍は従来の潜水艦や航空機による通商破壊に加え、航空機による機雷敷設で日本周辺の海上封鎖を行う「飢餓作戦」に着手した。関門海峡や瀬戸内海が最初の攻撃目標になり、内海航路すらも麻痺し始めた。B-29爆撃機の行動範囲から、日本海側へも攻撃の手が及ぶことが予想された。
 7月の作戦経過
 6月28日、陸海軍中央協定に基づき大本営海軍部は大海指第524号を発し、海軍総司令長官小沢治三郎中将に日号作戦開始を指示した。
 積み出し港には朝鮮半島沿岸の諸港が利用され、中でも羅津が中心となった。陸揚げ港としては、機雷封鎖で瀬戸内海の主要港が使用不能のため、北部九州から北陸地方にかけての日本海側の港が広く使用された。山陰地方西部では江崎港(山口市)や油谷湾などの小港に仮設桟橋を設置してまで利用した。荷役用の艀を瀬戸内海からも回航し、上陸用舟艇も代用に投入した。作業員としては本業の沖仲仕に加えて兵士も出動した。
 ソ連参戦による終焉
 7月末にも予測されるソ連の対日参戦前に朝鮮半島からの食糧緊急移送が試みられ、羅津・清津・雄基の3港に向けて約40隻の商船が出発した。8月10日までに積み取り完了して帰還するよう指令されていたが、まだ多くの船が積み出し港に停泊中の8月9日未明にソ連軍による空襲が始まり、羅津所在の商船15隻のうち貨物船のめるぼるん丸など13隻などが失われた。護衛の第82号海防艦も羅津沖で沈没したほか、雄基でも少なくとも3隻の商船が撃沈されている。なお、羅津を目指して航行中の一船団は海防艦屋代、第87号に護衛されて転針し、元山へ無事に入港できた。
 ソ連軍地上部隊により満州及び朝鮮半島北部が攻撃を受けたことで満州方面からの食糧移送は完全に終了した。それからまもなく、日本軍は降伏した。
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 1945年 アメリカ海軍による海上輸送路遮断で、東南アジアからの輸入は途絶え、台湾・朝鮮からの移入も不可能となった。
 国内においても、アメリカの空襲で陸上輸送が破壊され、各地で食べ物が不足し始めていた。
 コメの遅配が続き日本国民は餓えていたが、空腹を精神力・気力で耐え忍んでいた。
 それが、本土決戦・一億総玉砕という馬鹿げた掛け声であった。
 そんな食糧不足の国内には、爆食いする200万人以上の朝鮮人と数万人の中国人そして日本食が食えない数千人の連合国軍兵士捕虜がいた。
 アメリカ軍が徹底した飢餓作戦を続けていれば、日本人は空腹で戦うどころか立てなくなっていた。
 つまり、軍国日本は原爆投下やソ連参戦がなくとも飢餓で降伏するしかなかった。
 昭和天皇も政府も軍部も、それが分かっていたから、6月頃から極秘で降伏交渉を始めていた。
 降伏交渉を極秘で国民に知らせなかったのは、敗戦・敗北を知った国民が精神力・気力を失った後の惨事を防ぐ為であった。
 ウソの情報を垂れ流していた大本営発表には、それなりに意味があった。
 大本営発表を否定し、真実を国民に知らせるべきだったという現代日本人は、事実を見極め目がない為に真実を理解できない。
 日本の最終戦術は、「肉を斬らして骨を斬る」という捨て身の特攻戦法しか残っていなかったが、それさえも食糧不足で不可能になった為に、「窮鼠猫を噛む」的困窮に国民を追い込み絶望感を糧に戦いを強要するしかなかった。
 日本人に残された戦いとは、竹槍や石礫や素手で航空機、軍艦、戦車、大砲、機関銃と戦う事であった。
 精神力・気力で戦うという意味において、日本民族日本人は中国人・朝鮮人とは違っていた。
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 自衛隊は、違憲である。
 左翼・左派・ネットサハなど反戦平和市民団体は、自衛隊の廃止を求めている。
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