📉89】90】─1─日本の研究力低下、このまま中国に後れをとってもよいのか。〜No.204No.205No.206No.207 ⑱ 

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 日本人がノーベル賞をとれなくなる日
 旭化成の吉野彰名誉フェローがノーベル化学賞を受賞した。日本出身の受賞者は27人となる快挙だが、国を挙げて科学技術研究に取り組む中国に比べると、日本の研究支援はあまりにもお粗末だ。人文系も含め学問熱が冷めつつある日本。ノーベル賞受賞が途絶えるだけでなく、真の政治指導者も生まれない事態にならないか。

 日本の研究力低下、このまま中国に後れをとってもよいのか
 『掛谷英紀』 2019/10/11
 掛谷英紀筑波大学准教授)
 現在、大学では運営費交付金の削減、研究論文の本数や引用数の低下、博士課程の定員割れ、博士号取得者の雇用難などが問題になっている。今後、こうした問題が日本の研究力の低下をもたらし、将来的にノーベル賞受賞者を輩出できない国になるのではないかといった議論が盛んに行われている。
 これらの問題は、主に理学系、生命系の研究者の関心事である。著者自身は情報系、工学系を専門にしているので、事情は若干異なる。工学分野は企業からの資金援助が受けやすく、また博士号取得者でも企業に就職しやすい。しかし、工学系は工学系で別の問題を抱えていることはあまり知られていない。
 そこで、本稿では、最初に現在懸念されている研究力低下の問題に対してデータに基づく分析を行い、次に普段あまり語られていない工学系の研究現場で起きている問題を紹介することにする。
 ノーベル賞受賞者数を研究力のバロメーターにするならば、まずは過去の受賞者のデータを見るところから始める必要があるだろう。
 本年度、ノーベル化学賞を受賞した旭化成名誉フェローの吉野彰氏(71)までの自然科学分野での日本人(後に外国に帰化した人を含む)ノーベル賞受賞者と、その生年(西暦下2桁)を並べると以下のようになる。
 「06朝永振一郎、07湯川秀樹、18福井謙一、21南部陽一郎、25江崎玲於奈、26小柴昌俊、28下村脩、29赤崎勇、30鈴木章、35根岸英一、35大村智、36白川英樹、38野依良治、39利根川進、40益川敏英、42本庶佑、44小林誠、45大隅良典、48吉野彰 54中村修二、59田中耕一、59梶田隆章、60天野浩、62山中伸弥 ※敬称略」
 注目すべきは、1907~18年生まれと1948~54年生まれの間にある空白である。前者については、研究に最も打ち込める30代に戦争を経験した世代であり、大きな研究成果を得るのは不可能に近かっただろう。一方後者は、その前後の吉野彰氏、中村修二氏、田中耕一氏の3人が博士課程に進んでおらず、いずれも企業における研究成果による受賞であることを考えると、大学の研究という意味では1945~59年の生まれの間の空白と見ることもできる。
 この原因の一つとみられるのが、1947~49年生まれの団塊の世代が当事者であった70年安保闘争である。左翼学生運動が大学の研究教育活動を妨害し、施設を破壊したことの後遺症が、この知の空白を生んだと考えられる。2013年の平和安全法制制定時も、主に文系の大学教員とごく一部の学生に、大学を拠点に反対運動を盛り上げようとする動きがあったが、そういう政治的動きが大学で過激化、暴徒化することが、研究力の維持に対する最大の脅威の一つであることが分かる。
 また、当然ながら、これまでのノーベル賞受賞者は、全て1990年代の大学院重点化より前に学生時代を過ごしている。博士課程の定員割れ、博士号取得者の雇用難といった問題は、大学院重点化で大学院の定員を増やしたゆえに起きている現象である。大学院進学者が少なかった時代に多くのノーベル賞受賞者を生んでいること、さらに博士課程に進学していないノーベル賞受賞者も多数輩出されていることを考えると、博士号取得者が計画通り増えないからといって、今後ノーベル賞級の研究ができなくなるという結論にはならない。
 著者の専門分野に話を移そう。情報系、工学系では、日本の優位がまだ残っている分野と、日本が完全に後れてしまっている分野がある。まだアドバンテージがあるのはハードウエア分野である。もちろん、ここでも日本の優位性は小さくなっているのは事実である。筆者の専門分野の一つである電子ディスプレイについても、10年前までは日本企業に存在感があったが、民主党政権が超円高政策で日本の製造業に致命的なダメージを与えて以降、産業の中心は韓国、台湾、中国にとって代わられた。
 しかし、研究については日本もまだある程度勝負できている。最大の理由は、国内に優良な部品を作れる中小企業がたくさんあることだ。これが、新しい実験装置や試作機を作るのに非常に役立つ。筆者自身、国際会議などで「お前の使っているこの部品はどこで購入できるのか?」と聞かれることがよくある。ハードウエア分野の研究力を維持する上で、日本の国内の中小製造業がもつ技術やノウハウは、今後も大事に守っていく必要がある。
 一方、ソフトウエアについては、日本は完全に後れをとっている。今流行の人工知能分野でも、米国勢や中国勢が先行しており、日本は全くついていけていない。筆者の専門分野の一つに人工知能を使った医療画像自動診断があるが、同分野のトップカンファレンスである「MICCAI」でも、昨年の会議における中国、韓国からの参加者数が全体の4位、5位を占める一方、日本はトップ10にも入っていない。
 発表件数も全体で300件以上ある中、日本からの発表は筆者を含めて1桁にとどまっている。今年開催された腎臓がんの自動検出の国際コンペにおいても、106の参加チーム中、中国からの参加が半数以上を占めた。トップはドイツチームだったものの、中国チームも多数上位に食い込んでいた。筆者を含む研究グループは、日本からの参加チームの中ではトップだったが、中国の上位勢には及ばない状況である。
 今の中国は、人工知能以外でも、宇宙、エネルギー、計算機など、軍事的優位を築くことに資する研究分野に重点的に投資をしている。これまでの米国の戦略と同じである。一方、日本はというと、ご存じの通り、日本学術会議の声明の影響で、多くの主要大学で防衛装備庁の安全保障技術研究推進制度に学内の教員が応募できない状態である。
 今関心を集めている自動車の自動運転技術も、米国では米国防高等研究計画局(DARPA)のグランド・チャレンジで、スタンフォード大学カーネギーメロン大学マサチューセッツ工科大学(MIT)などの名門大学が技術を磨いてきた歴史がある。そうした軍事技術の積み上げは、当然民生への応用を考える場合も大きなアドバンテージになる。防衛関係の研究を大学が禁じる日本が、軍事研究に力を注ぐ米国や中国に太刀打ちできないのは当然である。
 さらに、中国勢には、もう一つ大きな武器がある。それは、ペナルティーがないなら平気でモラル違反をすることである。例えば、学会では予稿集に論文を投稿しておきながら、学会で発表に来ない「No Show」と呼ばれる行為がある。予稿集が学会後に出版される場合は、No Showの論文は削除されるが、同時出版の場合は削除されずに実績となる。
 中国の研究者は、このNo Showを行う確率が非常に高い。また、ポスター発表で、ポスターを貼っただけで何の説明もしない「貼り逃げ」行為もしばしば見られる。実際、私が参加した学会で貼り逃げ行為をカウントしてみたところ、中国の研究グループがその7割を占めた。その学会の中国からのポスターは約35%であったことを考えると、中国の研究グループは他国のグループに比べ、貼り逃げをする確率が非常に高いことが分かる。最近、中国が論文数を増やしていることがしばしば取り上げられるが、彼らがこうした手段で数を稼いでいることは割り引いて考える必要がある。
 中国勢との競争を考える上で、最大の懸念事項は知的財産権の軽視である。筆者が研究室内で企業との共同研究を学会発表する話をしていたとき、ある中国人学生に「この研究は商品化を考えていないのですか?」と質問されたことがある。私が驚いて「商品化を考えないなら企業は研究しない」と答えると、「学会発表してしまったら、盗まれるじゃないですか」と言われた。私が学会発表の前には特許出願をすると説明したが、中国では特許をとっても誰もそれを尊重しないので、企業は学会発表しないというのが彼から聞いた話であった。
 もちろん、学会で中国企業の発表を見かけることはある。しかし、その発表内容は結果を自慢する種のものが多く、その技術的詳細に触れるものはほとんどない。われわれ自由主義国の研究者とは、学会発表の捉え方が全く違うことが分かる。
 もし、こうした違いがそのまま放置されると、自由主義国からは中国に細かな技術情報が全て開示される一方、中国からは自由主義国に技術情報は伝わらないという非対称な関係が続くことになる。そうした状況下では、技術開発において今後中国がさらなる優位を築くことは間違いない。
 米ソ冷戦では自由主義国が独裁国に勝利したが、そのときは人、モノ、金、情報の往来に制限があった。今、自由主義国と独裁国中国の間では、人、モノ、金が自由に行き交う。そして、情報については自由主義国から中国への一方通行に近い状況である。これでは、独裁国側が圧倒的に有利である。中国の軍事的脅威が現実的なものになる中、米国はトランプ政権になってこの非対称なゲームのルール是正に乗り出した。多くの日本人は、この危機的状況においても鈍感なままだが、米中対立が露見しているこの機会に、自分たちの置かれている立ち位置を考え直してみる必要があるだろう。
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