📉2】─1─人はなぜ学ぶのか?生涯が勉強。〜No.2No.3 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 日本民族日本人は、「芸は身を助ける」や「芸が身を助けるほどの不仕合わせ」を実感として知っていた。
 人は、転んでもただでは起きない。
 人生は七転び八起き、事において自分の責任は取らなければならないが、生きている限りやり直しはきく。
 若いうちの無駄は、歳をとってから役に立つ。 
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 2019年11月28日号 週刊文春「福岡ハカセの パンタレイ パングロス
 福岡伸一
 なぜ勉強しなければならないか
 『なぜ勉強しないといけないんですか?』こんあ質問を学生から受けることがある。若い彼・彼女らは真剣に疑問に思っているのだ。どうして勉強するのか。社会に出てからほとんど役立ちそうもないことまでこまごもと。そんなとき、福岡ハカセは決まってこう答えることにしている。『それは○○になるためだよ』と。文春読者の諸兄は○○に何が入ると思いますか?
 2019年9月7日、オーストリアリンツにある聖フローリアン修道院で、伝説のピアニスト、グレン・グールドが、彼の名を一躍有名にしたバッハ・ゴルトベルク変奏曲を演奏した。厳粛な佇(たたず)まいの聖堂にはアーチ状の屋根と円柱が立ち並び、暗い観客席は満席。ステージにはグランドピアノが光っている。静まり返る会場。人々は皆息を呑んで見守る。おもむろにピアノはおなじみのアリアをかなではじめた。まぎれもなく、それは(ハカセを含む世界中のファンが幾度となく聞くたであろう、あの)グールドの演奏だった。
 えっ、グールドって亡くなってから30年以上経つんじゃないの。そう、そのとおり。今、ピアノを弾いているのは、グールドのあらゆる演奏を徹底的に『勉強』したAI。そのAIが、ヤマハの特別プロジェクトとしてピアノを自動演奏しているのだ。なので椅子には誰も座っていない(この様子は、YouTubeで見ることができる。〝Dear Glenn〟)。後半は、イケメンピアニスト・トリスターノ(こちらはホンモノ)とデュオまでしてみせた。
 今や、AIは『勉強』さえすれば、なんでもできるようになってきた。囲碁や将棋ならトッププロと互角に戦う。大学入試だって、東大は無理としても、MARCHならなんとかなる(と言われているらしいがこれはMARCHの一員としてはちょっと心外なこと。まるでMARCHの問題が安易みたいではないですか。そんなことはないですよ。むしろ答え方の形式、択一式か記述式かに差があるからだと思うが、今回はこれ以上絡むのはやめておきます)。人工知能の専門家、レイ・カーツワイルによれば、ほどなくAIの能力は、人間の知能と同等の容量に達し、2045年には人間を完全に追い越して独自に思考するようになる。この地点を彼は特異点(シンギュラリティ)と命名した。
 ああ、そうですか。ハカセはこの手の話にちょっと食傷気味。確かにAIは、膨大な情報を集積し、ビッグデータの中から正解を選んだり、みんなが購入しているものを推薦してくれたりについてはどんどん進化していくことだろう。
 でも、AIの『勉強』は知識を貯めるだけでしょう。その中で思考するのがAIの限界。人間の『勉強』は知識を貯めて、その中から最適解を選ぶことじゃない。むしろ人間の勉強は自分自身を壊すことに意味がある。あたりまえのルール、知っていると思ってきたこと、そういった一切の常識や既存の知識を壊し、自分自身を作り変えるために勉強が必要なのだ。生身のからだは1年も経てば、物質レベルでは、全くの〝別人〟になる。動的平衡が分解と合成を繰り返し、生命のあらゆる構成成分を入れ替えてしまうから。久しぶりに会った時の挨拶は『おかわりありませんね』ではなく『おかわりありまくりですね』が正しい。それと同時に、自分自身の精神も作り変えていく必要がある。なぜなら私たちの心はすぐに、右とか左とか上とか下とか、日本とも米国とか、ありとあらゆる既成の言葉に絡め取られてしまうから。そこから脱して、いつも新しい自分を作り出すことが人生で一番大切なことのはず。なので最初の○○にはこう入ります。勉強するのは、自由になるためだと」
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 幕府や各藩は、将軍や大名の一存ではなく、老中・家老などの重臣や専門職担当者が寄り集まり話し合う合議制で動いていた。
 自然災害で堤防が決壊した、大火で町が焼失した、そうした事を話し合って復興させる時、情理や義理では脇に置いて合理的論理的にそして専門的に話し合ってきた。
 つまり、自然災害が起これば甚大な被害が発生するもの、火事が起きれば町は焼けるもの、という原因と結果を当然として対応していた。
 江戸の町は幾度も大火で焼け数百人・数千人の犠牲者は出たが、10万人の犠牲者を出した明暦の大火のような地獄の大火は2度と起きなかった。
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 不吉な事を口にしなくても起きる時は起きる、惨事が起きてもいいように備える、それが真の言霊信仰である。
 最悪に備えをしない言霊信仰は、嘘である。
 何故なら、日本は自然災害多発地帯であるからである。
 神仏に縋ったところで、自然災害は起きて甚大な被害をもたらすものである。
 そこに、救世主(メシア)はいないし、生き神様もいないし、恩寵や奇跡などはありはしない。
 時の運、偶然と幸運だけであり、勢いで生きるだけだる。
 生きる為に生き残る為には、自分自身で考えねばならぬが何が役立つか分からないからい、その為に手当たり次第、思いついたものに首を突っ込むだけであった。
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 優れた武士は、役職・専門職以外で、文武両道として、一芸の士、一芸一能に留まらず武芸十八般の幾つかに秀で、なおその上に、実務としての政治・経済・外交・軍事は当然として城・橋・堤防・庭園・街道・町割りなどの土木建設など、教養としての和漢の古典や仏典・経典、算盤・計算、座禅、茶道・華道・香道漢詩・和歌・俳句、書画、骨董・刀剣の鑑定、剣舞、詩吟、歌舞音曲として能舞・薪能・神楽・都々逸・常磐津・笛・尺八・鼓(つづみ)・琵琶・三味線その他、などなど、得意とす分野・種目を幾つか持っていた。
 武道の達とは、武芸百般の幾つかに特異な才能を持っていた。
 江戸時代の庶民(百姓・町人)は、日々の仕事に追われていても、人としての深み、生きる楽しみ、を得る為に幾つかの嗜みを持とうとしていた。
 貧しい武士は、庭を畑として農作物を栽培し、木を植えて果物や実を採取し、鶏などの家畜を飼って卵などを得ていた。
 さらに、百姓や町人に頭を下げ仕事を分けて貰って内職・副職・副業でわずかな現金収入を得ていた。
 さらに困窮した武士は、武士の株を豪農・豪商に高く売って庶民となった。
 文武両道とは、理系と文系両方の能力の事であり、過去・現在・未来の時間軸垂直思考と藩・主君と自分と領地・領民の空間軸水平思考の事である。
 武士道における主君に対する「忠誠心」と死ぬ事と見付けたりの「死ぬ覚悟」は、文武両道の一面だけであった。
 藩校で文武両道を武士はおろか領民まで広められた大名が、名君と言われた。
 武士道のみを極めるのは、かたわ者・半端物で一人前の武士・サムライとはいえなかった。
 藩士・武士は、いつ何時、主君から理不尽にも上意で切腹を命じられてもいいように日々覚悟して生きていた。
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 現代の日本には、武士・サムライはおろか庶民(百姓・町人)すら存在しない。
 特に、現代の高学歴出身知的エリートはそう言える。
 下級武士や身分低い庶民は、明治維新や近代化を成し遂げ、武士階級を廃止し、上級武士の特権・利権を剥奪して庶民に落とした
 上級武士の本音は明治維新や近代化に反対であったが、下級武士や庶民に騙され、愚かにも新時代への空気、ロシアの侵略という空気圧・外圧、変化を求める世間の同調圧力に流され破滅した。
 特に、ロシアの侵略という危機感・恐怖心が、下級武士や庶民を突き動かした。
 空気、空気圧・外圧、同調圧力を強硬に拒絶していれば、上級武士は没落する事なく特権・利権で安逸な生活を続ける事ができた。
 それは、現代の高学歴出身知的エリートの生き方に似ている。
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 日本民族日本人は、好奇心が強く、新奇に興味を持ち、新しい物が好きだが同時に古い物には魂が宿っているという信仰を持ち、物を大事に、捨てる時は魂を供養し、感謝して碑を建て、毎年の慰霊祭を欠かさなかった。
 昔の日本民族日本人の心理は、理系の物質主義と文系の精神主義が微妙な均衡を保っていた。
 日本民族日本人が好きな言葉は、「足るを知る」と「分相応」であった。
 日本列島は変化にとんだ豊かな自然はあったが、人間社会で巨万の富を築く食糧・資源は乏しかった。
 日本民族日本人は、独自の日本文明と固有の日本文化を持っていた。
 それは、ローカルな民族による、伝統であり、歴史であり、宗教であり、言語であった。
 そうした全ての面が、現代日本人から希薄になり、現代日本から消滅しようとしている。
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