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2019年10月22日 産経新聞WEST「【高僧・行基】土木と社会福祉で聖武天皇を支える
京都府の南西端にある大山崎町は古代から交通の要衝だった。奈良時代、平城京と山陽方面を結ぶ山陽道が通り、桂川、木津川、宇治川の3川が合流し淀川を形成するあたりにあって、水運の拠点にもなっていた。この川に行基(ぎょうき、668~749年)が山崎橋を架けたのは、神亀2(725)年のことである。(編集委員・上坂徹)
桂川、宇治川、木津川の合流地点。このあたりに、行基の山崎橋がかけられていた=京都府大山崎町から八幡市(本社ヘリから、鳥越瑞絵撮影)
古代から交通の要衝
『行基年譜』(年譜)や『行基菩薩傳』(平安時代末)によると、山崎橋は行基の仏教の師である遣唐使僧、道昭(629~700年)が架橋したものの、橋桁が朽ち果てていた。行基は橋脚だけが残っていたのを見て、再建を思い立ったという。
『続日本紀』では、行基が畿内に建立した寺院(道場)は49カ所あるとしており、『年譜』には所在地リストが記載されている。そのうちの一つが「山崎院」で、山背(城)国乙訓郡山崎郷(現在の大山崎町)にあり、天平3(731)年に建立されたとある。
推定地の発掘調査では、遺構は確認されていないものの、平城宮と同型の瓦や壁画片、塑像、人名瓦などが出土している。瓦の人名は行基の「知識」(行基に帰依して付き従った人たち)に関わる氏族名で、橋の建造にも参加したとみられる。
『年譜』では架橋と同じ神亀2年に、対岸の河内国交野郡一条内(現在の大阪府枚方市)に、49院の一つ、久修園院(くしゅうおんいん)を建立したとある。山崎橋は山崎院側と久修園院側を結ぶ位置にあったとみられる。このあたりは奈良時代の幹線道路・南海道が通っており、橋は山陽道と南海道をつなぐ重要な役割をもっていたようだ。
伝道と事業をセット
一方、行基の前にこの場所に橋を架けた道昭について、『続日本紀』では、遣唐使に随行して入唐し、伝奇小説「西遊記」の三蔵法師のモデルとなった玄奘(げんじょう)三蔵に禅を学んだことなどを記している。
帰国後は仏教を教える一方、各地を回り橋を架けたり、井戸を掘ったりという社会事業を行ったという。道昭も山崎橋近くに、古い寺を改修して寺院を営んだことが分かっている。
山崎院関係の発掘調査をしている大山崎町教委の古閑正浩主幹は「見つかった人名瓦は、『秦氏』など地元を拠点とした氏族名ばかりで、土塔の人名瓦と共通したものはありませんでした。事業に協力した知識は特定の人たちではなく、現場ごとに地元の知識が協力していたのでしょう」と話す。
さらに、「行基は社会事業と寺院建立をセットで展開しています。伝道と社会事業の一体的な行動を、師である道昭から学び、それをより、大規模に行ったのでは」と指摘する。
大僧正に任命
行基の架橋事業ついて、『年譜』では、山城(京都府南部)で山崎橋、泉大橋(相楽郡泉里=現在の京都府木津川市)の2カ所。摂津で高瀬大橋(嶋下郡高瀬里=現在の大阪府守口市)、長柄、中川、堀江(いずれも西成郡=現在の大阪市)の4カ所としている。
このうち、泉大橋は地名から、木津川市を流れる木津川に架けられたと推測できる。近くには『年譜』に示された49院の一つで、天平12(740)年に建立された発菩提院泉橋院があったとみられる。
この時代、聖武天皇は都を次々と変えた。天平12年に、平城京から恭仁京(くにきょう、木津川市)に遷都。その造営中に紫香楽宮(しがらきのみや、滋賀県甲賀市)の建設を始めた。16(744)年に難波宮(大阪市)に都を遷したものの、翌年には紫香楽に行った後、平城京に還都した。
泉大橋は恭仁京に近く、泉橋院の建立時期に築造されたとすれば、恭仁京遷都との関連がうかがえる。『続日本紀』には、17(745)年に、恭仁京に向かう聖武天皇の車駕(しゃが=行幸で乗る車)が「泉橋」にさしかかったときに、人々が「万歳」の声をあげたという記載がある。同年、行基は聖武天皇により、大僧正に任じられている。
また、摂津国西成郡に架けられた3つの橋の具体的な位置は不明だが、橋の名から、難波宮周辺地域とみられる。難波宮は遷都の前から、平城京の副都として整備が進められており、その動きに連動していた可能性はある。
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【解説】聖武天皇の彷徨5年
聖武天皇は神亀元(724)年、第45代天皇として即位した。文武天皇の第1皇子で、母は藤原不比等の娘、宮子。夫人は不比等の娘、光明子。遣唐使を派遣し、唐の文物・制度を導入した。
在位中は国内で疫病が流行し、政権を支えた貴族らも次々と病死。政権争いが激化する中、天平12(740)年には、藤原広嗣が乱を起こした。
その後、聖武天皇は遷都を繰り返す。恭仁京、難波京、紫香楽宮と移して、5年後に平城京に戻った(聖武天皇の彷徨5年)。それにより政治的混乱をも引き起こした。この間、全国に国分寺・国分尼寺を置く制度を整え、大仏造立を発願。総国分寺として建立した東大寺で天平勝宝4(752)年、大仏の開眼供養を実現した。
光明皇后とともに国家鎮護の仏教政策を遂行した一方、経済政策としては、天平15(743)年に墾田永世私財法を発して、墾田の私有を認めた。墾田増進が目的だったが、律令制の根幹をなした公地主義の変革で、律令体制崩壊を早める原因ともなった。
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【プロフィル】上坂徹(うえさか・とおる) 昭和56年、産経新聞大阪本社入社。振り出しの奈良支局で社寺・埋蔵文化財を担当。社会部では主として事件・司法の取材に当たる。東京・大阪両本社の文化部長を経て、大阪本社編集長。その後、大阪・東京各制作局長、日本工業新聞社代表取締役社長。今年7月、編集委員として10年ぶりに編集局に復帰した。」
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ウィキペディア
東大寺の仏像(とうだいじのぶつぞう)では、奈良県奈良市にある聖武天皇ゆかりの寺院・東大寺に伝来する仏像について説明する。
8世紀に日本の首都であった奈良を代表する寺院である東大寺は、「古都奈良の文化財」の一部として世界遺産に登録されている。東大寺には、「奈良の大仏」として知られる、高さ約15メートルの盧舎那仏(るしゃなぶつ)像をはじめ、日本仏教美術史を代表する著名作品が多く所蔵されている。
本項では東大寺に所在する仏像彫刻について概観する。なお、東大寺の概要については「東大寺」の項を、大仏については「東大寺盧舎那仏像」の項を参照のこと。
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東大寺盧舎那仏像(とうだいじるしゃなぶつぞう)は、奈良県奈良市の東大寺大仏殿(金堂)の本尊である仏像(大仏)。一般に奈良の大仏(ならのだいぶつ)として知られる。
聖武天皇の発願で天平17年(745年)に制作が開始され、天平勝宝4年(752年)に開眼供養会(かいげんくようえ、魂入れの儀式)が行われた。その後、中世、近世に焼損したため大部分が補作されており、当初に制作された部分で現在まで残るのはごく一部である。 「銅造盧舎那仏坐像」の名で彫刻部門の国宝に指定されている。
正式には大仏は「盧舎那仏坐像」、大仏殿は「金堂」というが、本項では以下「大仏」、「大仏殿」とする。また、文中の( )の年はユリウス暦、月日は全て和暦、宣明暦の長暦による。
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行基(ぎょうき/ぎょうぎ、天智天皇7年(668年) - 天平21年2月2日(749年2月23日)、奈良時代の日本の僧。寺と僧侶を広く仏法の教えを説き人々より篤く崇敬された。そして行基集団を形成し、道場や寺院を49院、溜池15窪、溝と堀9筋、架橋6所、国家機関と朝廷が定めそれ以外の直接の民衆への仏教の布教活動を禁じた時代に、禁を破り畿内(近畿)を中心に民衆や豪族など階層を問わず困窮者のための布施屋9所等の設立など数々の社会事業を各地で成し遂げた。朝廷からは度々弾圧や禁圧されたが、民衆の圧倒的な支持を得、その力を結集して逆境を跳ね返した。その後、大僧正(最高位である大僧正の位は行基が日本で最初)として聖武天皇により奈良の大仏(東大寺)造立の実質上の責任者として招聘された。この功績により東大寺の「四聖」の一人に数えられている。
生涯
河内国大鳥郡(天平宝字元年(757年)に和泉国へ分立、現在の大阪府堺市西区家原寺町)で天智天皇7年(668年)、父・高志才智、母・蜂田古爾比売の長子として生まれる。
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高志 才智(こし の さいち)は、飛鳥時代の人物。名は羊(ひつじ)または佐陀智・貞知(さだち)とも書かれる。姓は史。子に行基がいる。
出自
高志氏(高志史)は王仁を祖とし河内国・和泉国に分布する百済系渡来氏族。高志の名称は大和国高市郡阪合村越の地名に由来すると想定される[3]。諸書においても、行基を百済人の後裔で和泉国大鳥郡出身としている。
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