⛻2〗─1─戦後経済の原動力は勤労動員・学徒動員・集団就職であった。大田のまち工場。〜No.2No.3No.4No.5 ① 

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 百科事典マイペディアの解説
 勤労動員【きんろうどういん】
 戦時体制下,法律・命令によって,本人の意思にかかわらず強制的に労働力を動員した。国家総動員法に基づき,労働力確保のため1939年には職業能力申告令,従業者移動防止令を出した。太平洋戦争開戦後,労働力不足が一層深刻化し,学生・生徒(学徒勤労動員)や女子(〈女子勤労報国隊〉〈女子挺身隊〉など)を無報酬で徴用し,軍需産業に動員した。それでも不足したため多くの朝鮮人・中国人を〈強制連行〉して,炭坑や鉱山で働かせた。
 →関連項目国民徴用令
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 日本大百科全書(ニッポニカ)の解説
 学徒動員 がくとどういん
 日中戦争の拡大に伴う農村・工場などの労働力不足を補うための学生・生徒の強制的動員。1938年(昭和13)6月、文部省の「集団的勤労作業運動実施ニ関スル件」の通牒(つうちょう)により、中等学校以上で夏季休暇の前後などに3~5日の勤労作業が始められた。ナチス・ドイツの「労働奉仕」に倣い、かつ精神主義的教育とを結合させたものである。41年8月、文部省は「学校報国団ノ体制確立方」の訓令を発し、学校ごとに学校報国隊(団)を組織し、軍事的要請に従って学徒を労務に動員しうる体制をつくった。
 1943年6月、閣議は「学徒戦時動員体制確立要綱」を決定し、戦力増強のための本格的軍需工場動員と「直接国土防衛」の軍事訓練の徹底を期した。44年3月に「決戦非常措置要綱ニ基ク学徒動員実施要綱」を閣議決定、中等学校以上の生徒は男女を問わず徹底的に工場に配置されることになり、45年3月には国民学校初等科を除き1年間の授業が停止され、学徒は軍需生産、食糧増産、防空防衛に動員された。その数は45年7月には340万余に達し、最大の危機にあった軍需産業での支柱的役割を果たした。その一方、学力低下は免れず、一般工員との摩擦や空腹、けが、病気、風紀問題などさまざまな問題が起きた。動員中の空襲その他による死亡者は1万0966人に達し、これには8953人の原爆死亡者が含まれ、わが国の学生史上、学徒出陣とともに最大の哀史となった。[吉村徳蔵]
 『文部省編・刊『学制八十年史』(1954)』
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 日本大百科全書(ニッポニカ)の解説
 集団就職 しゅうだんしゅうしょく
 地方の新規学卒者(中学・高校卒)が大都市の中小企業や商店などへ集団で就職することをいう。労働省(現厚生労働省)では、新規学卒者など一時に大量の赴任を必要とする場合には、計画的に集団赴任の方法を講じ、これによる赴任者を「集団就職者」とよんでいた。歴史的には、1954年(昭和29)求人難に悩む東京都区内の商店会が共同で公共職業安定所に中学卒業生の就職斡旋(あっせん)を依頼したのが最初であり、その後1957年から労働省も先の方法を講じ、集団就職に積極的に乗り出した。集団就職は、新規学卒者が第二次・第三次産業に大量に採用された高度成長期の産物である。彼らの県外就職率は、1972年まで年を追って上昇し、最高時で中卒35.0%、高卒32.5%に達している。とりわけ東北、山陰、北九州、南九州からの就職者が多数を占め、集団就職第一次産業に従事する世帯主の子弟に主として担われたことを示している。
 しかし、集団就職は1960年代後半から少なくなり、1970年代後半になると急速に減少、1980年代に入るとほとんどみられなくなり、その役割は終了した。沖縄県は新卒者の地元での就職率が低かったため、県外就職者は増大していたが、1980年代後半以降は減少を続けている。全体に県外就職率は年々低下しているが、これは、大都市における求人が低下するとともに、新規学卒者が地元での就職を希望するようになったことなどによる。しかし、地元での就職も、新規工業立地の停滞や既存企業からの求人の減少などによって困難な状況にある。[三富紀敬]
 『高沢武司他編『集団就職 その追跡研究』(1967・明治図書出版)』
 [参照項目] | 公共職業安定所
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 Mitsuri
 大田区はなぜ「ものづくりの町」に?その歴史を紐解いてみた
 2019年03月12日
 東京都大田区は、約3,400もの工場が集まる「ものづくり」の町。金属加工を専門として、「切削」「成形」「メッキ」など、一加工に特化して請け負っている工場が多く見られます。ドラマ「下町ロケット」の舞台としても知られ、その技術は「大田区に空から図面を投げ込むと、どんなものでも翌日には見事な製品になって出てくる」という言葉があるほど。
 今回は、日本の製造業を支える大田区を舞台に、町のものづくりの歴史を紐解いていきます。

 引用元:コトバンク
 工場数:4,362(東京都市区町村 第1位)
 従業者数:35,741名(東京都市区町村 第1位) 
 製造品出荷額:7,796億円(東京都市区町村 第3位)
    (※工業統計調査報告調べ、2008年時点)
 
 「仲間まわし」で発展した町
 大田区は、家族経営や、工場と住居が一緒の場合が多く、小規模な町工場が発展してきた地域です。従業者数9名以下の企業が全体の3/4を占めるため、一工程に特化した加工を一工場で担うことがほとんどですが、近隣の工場同士が協力して、お互いの専門技術を補い合う方法で進めることもあります。
 例えば、自社工場では切削作業しかできなくても、近隣の穴あけ専門の工場や研磨専門の工場に後工程を依頼して、地域のネットワークを使って納品する方法です。これを「仲間まわし」といって、特に大田区では、あまりに近距離で自転車で回れてしまう程のコミュニティであるため「ちゃりんこネットワーク」とも呼ばれます。このネットワークは、大田区の工場が独自の発展を遂げたカギであるといえます。

 大田区のものづくりの歴史
 日本有数のものづくりの町大田区が、どのような歩みを経て発展し今日に至るのか、その流れをみてみましょう。
 
 江戸期:麦わら細工の始まり
 引用元:歴史探偵「江戸自慢三十六興 大師河原 大森細工」
 大田区の工業は、江戸時代の麦わら細工(麦稈真田)製作工場に始まります。
麦稈真田とは、麦の茎を加工して組みひもに編み上げたもの。女性の手仕事による麦わら細工は、後に工産物として評価され、明治には花形産業として開花します。

 明治末期:東京瓦斯(がす)の建設
 引用元:大田区工業ガイド2011
海苔養殖が伝統産業だった大田区で、工業化がだんだんと進むのは明治末期からです。明治41年に、東京瓦斯大森製造所の建設が許可されたのが最初の出発点といえます。また、この時期は、大森駅蒲田駅が開設され、都市のインフラが整ってきた時代ともいえます。
 
 大正期:住工混在地域の誕生
 引用元:三井住友トラスト不動産 東京都大森・蒲田
 耕地整理・区画整理が進む大正時代になって、やっと工場進出の条件が整います。東京湾沿いに工場が見え始め、関東大震災の後には、都市部にあった多くの工場が大田区に転入してきます。大田区近代工業が進み始めると共に、次第に京浜工業地帯の輪郭が形成され、多摩川沿いに住工混在地域が作られました。

 昭和前期:軍需品で発展
 昭和に入ると、戦争による工業技術の発展と都市の急速な工業化が進みます。戦車や機関銃など、軍需品の需要が高まり、大田区もその担い手となりました。工場から出る煙や振動の問題が怒り出したのもこの時期です。
 太平洋戦争による影響で焼野原となる大田区ですが、戦災を免れた機械や資材を駆使して、復興に取り組みます。軍需産業からの転換を図るため、洗面器やリヤカー、農機具の製造を開始しました。
 そんな中、朝鮮半島での動乱による軍用資材の「特需」、アメリカ軍からの軍需品の「新特需」が起こります。これらの出来事により、技術面や品質管理の面で海外から厳しい修練を受けた大田区は、技術力に磨きをかけ、世界に誇る工業都市としてのスタートを切りました。

 昭和中期:工業用地の拡大
 引用元:三井住友トラスト不動産 東京都大森・蒲田
それまで続いていた海苔養殖も昭和中期に廃業になると、広い海苔干し場の多くは工業用地に様変わりします。大田区産業会館が開館した後、大田工業連合会が他府県中卒者を対象に集団求人を求め、労働力確保に努めました。東京23区内では工場数・従業者数ともに三本の指に入るようになり、だんだんと工業都市としての頭角を現していきます。

 昭和後期①:都内一番の工業区へ
 引用元:株式会社福島製作所
1965年からのいざなぎ景気の下、大田区は都内で一番の工業区として発展していきます。当時の工業統計では、鉄鋼、非鉄金属、金属製品、一般機械、電気機械などの機械金属系7業種が全体の80%を占めるまでになり、現在の金属加工特化型の原型が生まれたのもこの時期といえます。次第に大規模企業の区外移転が進むにつれ、区内には量産型の機械金属加工を中心とする中小規模工場が増加・残留しました。

 昭和後期②:「仲間まわし」の誕生
 引用元:ジャパンアーカイブ
昭和後期に訪れたオイルショックは、「仲間まわし」という独自のネットワークを生み出しました。
 仕事量の激減と親企業からのコストダウン要求に苦しんだ中小規模工場は、一社依存型の企業体質を反省し、一つの加工分野に特化して複数企業から受注することで、リスクを分散する体制づくりを進めました。専業化にあたり、競合の少ない分野へ進出し、地域内で各専門技術を補い合うことで、付加価値の高い高度な完成部品や製品の生産を可能にしたのです。これが、「仲間まわし」の始まりといえます。

 平成~現在:工業の衰退・技術の発展
 平成に入ると、バブル経済が崩壊し、GDP伸び率がマイナスを記録し始めます。一方で、アジア諸国の成長は著しく、日本でも製造業の生産拠点を国外にシフトする動きが出始めました。これが、「産業の空洞化」です。
大田区も経済停滞期を迎え、打開策として技術の高度化や産学連携を模索する工場が増え始めました。2003年までの3年間で、大田区では工場数が約1,000減少するという危機を迎えます。
今日残っている大田区の町工場は、この厳しい危機の中で、自社製品や自社技術を独自開発したり、優れた技術を用いて顧客へ課題解決の提案を行ったりと、独自のノウハウを身につけた工場たちなのです。

 まとめ
 いかがでしたでしょうか。戦争やオイルショックなど、大田区が工業を発展させてきたターニングポイントは決して明るいものとは言えません。しかしそこには、「どんな困難も築き上げてきた技術で乗り越えてみせる」という信念が感じられます。日本の誇りともいえる、強い底力に支えられた技術力に、これからも注目していきたいですね。

(参考文献:大田区工業ガイド)
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 大田区
 輝け!大田のまち工場
 大田区には約3,500の工場があり、「ものづくりのまち」として知られています。「ものづくり」といっても、デジタルカメラやゲーム機などの最終製品を造る工場ばかりではなく、主に金属を素材とした「削る」「磨く」「形成する」「メッキする」といった、ひとつの加工を専門に請け負っている工場がほとんどです。
 こうした工場が集まった大田区は、世界でも特異な「ものづくりの達人が集まったまち」です。それは「大田区に空から図面を投げ込むと、どんなものでも翌日には見事な製品になって出てくる」という言葉にも表れています。そして、そんな言葉が生まれた背景には大田区ならではの特徴が関係しています。

 大田区はものづくりのまち
 1つめの特徴は「高度な技術力」です。工場が集まるとお互いにもっと良いもの作ろうと競うため、高い技術力が育ちます。
 2つめの特徴は「仲間まわし」です。工場から工場へと加工をまわすことによって、ひとつの部品(あるいは製品)を作り上げることをいいます。
 3つめの特徴は「住工調和」です。住宅と工場がひとつの地域に混在している大田区では、お互いが理解し合える調和のとれたまちづくりを目指しています。

 高度な技術力
  大田区の多くのまち工場は、試作品やモノを大量生産するための機械の部品などを作っています。
 時代とともに消費者が求める製品は「小型化」や「複雑化」しており、企業はそれにあった新しい製品を作ろうとします。そのような状況では、技術的に非常に難しい問題がでてくることも少なくありません。大田区のまち工場はそうした要求にも応えられるように努力をし、日本工業の根幹として重要な役割を果たしてきました。
 その成果が世界的にみても高い技術力を育み、中には「オンリーワン」と呼ばれる、そこでしかできない技術や製品を持った工場も出てきています。

 仲間まわし
  工場が集積している大田区では、自分のところでは「切削」作業しかできなくても、「穴あけできる工場」「研磨ができる工場」といったように、近くの工場に工程をまわして、発注された製品を納品できるネットワークが築かれました。
  「仲間まわし」は「ちゃりんこネットワーク」とも呼ばれています。自転車でまわれてしまうぐらいに近くに、さまざまな工場が多数集まっているからこそできることです。実際に、自分の工場での作業を終わった製品を、次の工場へ運ぶ姿が今でも見られます。

 住工調和
  新しい住民も増えている大田区では、住宅と工場が共存できる「住工調和」を目指し、振動や防音にすぐれた工場や、一見すると普通のマンションのような工場など工夫を凝らした環境の整備を支援しています。
 住宅や工場がある地域は、商業も栄えます。その住・工・商のバランスの良さがまちに活気を与えます。
 工業地域・準工業地域における集団住宅建設事業にかかる開発指導

 大田区では、住工混在によるトラブルの未然防止と工業の生産環境の維持及び保全を図り、あわせて区民の安全で快適な住環境を確保し、活力ある調和のとれた都市づくりの実現を目指しています。
 このため、工業地域、準工業地域で集団住宅建設事業を計画している方は、大田区開発指導要綱第29条により、事前に書類提出等が必要となります。
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 ニュースイッチ 日刊工業新聞
 2018年07月30日
 東京・大田区の町工場、若者が離職しない会社文化はどう醸成されたか?
 “モノづくりの集積地”と呼ばれる東京都大田区には3000以上の町工場が存在する。8割以上は従業員10人以下だといわれているが、近年、都立六郷工科高校(東京都大田区)のインターンシップ(就業体験)制度の活性化や日本工学院専門学校(同)の授業設置などで、新卒社員の入社が増えている。昔ながらの職人に憧れる若者は多いが、現場の厳しさからなかなか定着に結びつかない。“職人の卵”を確保・育成する現場の現状を探る。

 人材を選んで採用 熱意重視、定着率向上で技術承継
 「失敗を生かしてやっとこの体系にたどり着いた」―。金属の丸棒の切削加工を手がけるエステー精工の佐川光太郎社長は苦労を忍ばせる。高い技術を後世に残すべく早急に若手社員を必要としているが、新卒採用には工場見学、インターン、筆記試験、面接の4段階を設ける。数種類の筆記試験や3段階の面接など、大手と同じような内容だ。
 同社が新卒採用を始めたのは8年前。高校や短大、訓練校などの教育機関に声をかけ、希望者を募っている。採用開始当初は興味を持ってもらえるだけでうれしく、希望があれば即採用していたという。しかし働く側と雇う側のニーズがかみ合わず、短期間で辞める事例が相次いだ。
 そこで「人材を選んで採用する」方針に切り替えた。佐川社長は「採用に時間をかけることで、定着率を上げた。何度か会社に足を運んでもらい、当社に入社したいという熱意の有無をみるのも大事だ」と明かす。
 現在、同社の現場では2人の若手社員が職人技を継承すべく腕を磨いている。優秀な社員と巡り会い、技術承継を進めている。
 一方で、意図せず女性の新卒社員が集まる町工場がある。シナノ産業では4人の女性社員が現場で働いており、うち3人は新卒で入社した社員だ。柳沢久仁夫社長は「10年前に入社した女性社員が今でも働いているのが大きい。後に続く社員が安心して入ってこられる」と話す。
 樹脂の切削加工を手がける同社では、切削油をあまり使わない。現場が汚れにくく、整理整頓もされている。モノづくり現場で働きたいという女性が、働く先を決める、決め手の一つとなっている。いわゆる“3K”の改善も採用および定着の重要なカギのようだ。
  また、定着率向上で問題となるのは就労環境だけではない。製造現場で長らく定着してきた“見て学べ”という職人の文化がその一つだ。マニュアルや動画によるわかりやすい説明で教育を受けてきた若い世代に、このやり方は通用しない。
 エステー精工では、新卒社員入社前に職人を教育したという。佐川社長は「“見て学べ”と言わないようにお願いした。丁寧な説明を心がけてもらっている。またインターン時には、既存社員全員に“教える”という行為をやってもらっている」と明かす。
 現在同社では、作業のマニュアル化にも挑んでいる。職人、若手、双方の思いをくみ、働きやすい環境づくりを進める。
 試験片製造や特殊部品の加工を手がける昭和製作所でも現場に「教える文化」を根付かせることで、高い定着率を実現している。
 13年から新卒採用を開始した同社では既に20代、30代の先輩がいる。それぞれに「先輩は後輩に仕事を教える」という文化が根付いている。自然に教え合う現場ができあがっている。
 舟久保利和社長は「アナログだが、コミュニケーションをとることが一番のこつだ」と明かす。
 
 先輩社員も成長 教えることで理解も深まる
 少人数の町工場では、教育に労力や時間を割きにくい。即戦力となる中途の人材を求める企業も多い。金属部品の加工や各種装置の組み立てを手がける関鉄工所もその一つだった。今年10年ぶりに新卒社員を採用した。関英一社長は「思ったより戦力になった。今後もタイミングをみて新卒をとってもいいと思った」と語る。
 加工を手がける各企業は、図面は同じでも、どの程度の品質を求めるかが異なる。新卒社員は技術を身につけるのに時間はかかるが、この意識は自然に身につく。他方、中途社員は技術はあるが、意識を1度変える必要がある。ここに意外と時間がかかるという。
 関社長は「最終的に技術を“身につけた”といえるまでの時間は変わらないことに気付いた」と明るい表情をみせる。今後も採用は増えていきそうだ。
 また同社では、新卒採用が既存社員の教育にもつながっている。直近の先輩が仕事を教えるため、30代の社員に直属の後輩ができ、モチベーションが上がったという。教えることで自分の仕事を見直すため、理解も深まる。人材育成という効果も生んでいる。
 若者の売り手市場が続く昨今、人材確保に悩む中小企業は多い。大田区では工業高校や専門学校、職業訓練校などの教育機関との連携が採用につながる、という恵まれた環境にある。中学生の就業体験が雇用につながった珍しい事例もある。
 また“モノづくりの街”としての周知活動も一つのきっかけとなっている。昭和製作所の女性社員は、イベントで大田区のモノづくりに関する講演を聞いて魅力を感じ、同区の町工場への就職を希望した。シナノ産業の女性社員も「手を動かすモノづくりがしたい」と希望し、同区の町工場が多く集まる就職イベントに参加した。
 日刊工業新聞2018年7月30日
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 日本経済新聞
 町工場 後継ぎニュータイプ
全4回
東京都大田区にひしめく町工場は、人気ドラマ「下町ロケット」などでも描かれ、日本のものづくりを支えてきた。1万近くあった工場は3500前後に減り、経営環境は厳しい。状況を打ち破ろうと立ち上がる後継者たちがいる。下町ならではの職人気質や義理人情を重んじつつ、工場のまちで新たな価値創造に挑むニュータイプの経営者に迫る。
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