⛻8〗─2─老舗企業の危機。飛鳥時代創業・金剛組倒産の危機。~No.27 ③ 

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   ・   ・  {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博} ・   
 グローバル化する日本では、ローカルな日本の老舗企業の価値が否定され、倒産・廃業で姿を得していく。
 欧米礼賛派は、口では消えゆく事を惜しむ言葉を言うが、心ではせせら笑いながら当然の結果と突き放して冷淡である。
 古き良き日本は、日本から消えゆく。
 日本民族日本人も、少子高齢化による人口激減で消えゆく。
 新しきモノによって古きモノが消滅する事が、人類史・世界史・大陸史の常識である。
 日本は、余りにも世界の非常識の時代が長かった。
 日本もようやく世界の常識が一般化していく。
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 2018年7月11日 産経WEST「【関西の力】飛鳥時代創業・金剛組(3)「つぶすのは大阪の恥や」倒産の危機、なにわ節の支援で再生
 金剛組の経営再建について語る当時高松建設副社長だった金剛組の小川完二会長=大阪市淀川区高松建設大阪本店(南雲都撮影)
 「どうか、金剛組を救ってください」。平成17年。材木の仕入れ先で頭を下げ続ける金剛組、植松襄一(じょういち)常務(当時)の姿があった。支払いの猶予や減額を求めて取引先を駆け回る日が続いていた。
 「身の丈を超えてはいけない」…教えに背く
 金剛組は、すべての資産を売り払ってもなお数十億円の借金が残る債務超過状態にあった。「身の丈を超えてはいけない」という代々受け継がれてきた教えに背いたことが一因だ。
 地価と建設需要が急上昇したバブル期、金剛組はマンションやオフィスビルなどの建設に手を広げる。バブル崩壊後も売り上げを維持するため、赤字になる額でも工事を受注。経営は悪化の一途をたどり、民事再生手続きの申請を準備するまでに追い込まれた。
 本業に回帰 社寺建築以外の受注を禁止
 1400年余りの歴史が途絶えようとしていたとき、支援の手を差し伸べたのが金剛組とはまったく接点のなかった高松建設だった。高松孝育(たかやす)会長(当時)に迷いはなかったという。
 「伝統は一度壊れたら二度と戻せない。金剛組をつぶすのは、大阪の同業者として恥や」
 高松建設はすぐに再建資金を手当てし、金剛組を傘下に入れた。そして18年1月、小川完二副社長を社長として送り込んだ。
 非同族の経営者が金剛組に入るのは初めて。植松氏は「歴史が壊されるかもしれない、という警戒心が社内にあった」と振り返る。しかも小川氏は富士銀行(現みずほ銀行)から高松建設に移った財務のプロで、建築は専門外だった。
 小川社長から見た金剛組は問題が山積していた。経営方針や営業戦略を議論する取締役会はほとんど開かれていなかったし、「よい素材で、よいモノを作る」ことを重視するあまり、利益は後回しにされていた。
 小川社長は、社寺建築以外の受注を禁止する「本業回帰」を打ち出すとともに、資材の仕入れの見直しや工期順守によるコスト管理を徹底。社員には業績や受注状況などの情報をオープンにし、意見交換の場も設けた。
 「『普通の会社』にすることが最大の使命」説き続ける
 「社寺建築は神聖な仕事。もうけるなんて言わないでくれ」「利益主義に走ることは、お客さまを裏切ることになる」。社内で反発の声が上がった。一方で経営状況を初めて知り「なんで、こんなにもうかっていないんだ」と驚き、怒る社員もいたという。
 疑心暗鬼に揺れる社内。社員との意見交換会は年数回のペースで開催し、小川社長は「何百年も社寺をお守りするためには、長期にわたって経営を安定させないといけない」と説き続けた。「心臓である伝統に傷をつけない」ための改革への理解は、徐々に深まっていった。小川氏が会長に就任する24年までの約6年間、金剛組を去った宮大工は一人もいない。
 経営不振のトンネルを脱した今、小川氏は「金剛組を『普通の会社』にすることが最大の使命だった。特別な戦略をとったわけではない」と振り返る。
 近畿大学経営学部の上小城(かみこじょう)伸幸准教授(経営戦略論)は「買収した企業の再生に取り組む際、価値観を押しつけてしまい、失敗するケースが多い。現場とのコミュニケーションを辛抱強く続けた小川氏の手法は、企業再建の見本になるべき事例だ」と指摘した。
(平成28年11月11日夕刊1面掲載 年齢や肩書き、呼称は当時)
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 伝統、文化、医学、農業、エンターテインメント、スポーツ…。関西には世界に誇れる魅力あるコンテンツがあふれている。現状の停滞を打破し、突破できる「力」とは何か。この連載では、さまざまなジャンル、切り口で「関西の力」を探る。」
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 7月10日08:00 産経WEST「【関西の力】飛鳥時代創業・金剛組(2)38代目当主は初の女棟梁 「命がけで」四天王寺五重塔再建
  昭和9年、室戸台風で倒壊した四天王寺五重塔大阪市天王寺区)の再建工事で采配を振ったのは、女性だった。金剛組の38代目当主、金剛よしゑ(1894〜1975年)。創業から千年以上続いた金剛組の歴史で初の「女棟梁(とうりょう)」だ。現場に白装束で立つその姿は、新聞や雑誌で紹介され世間の注目を集めた。
 金剛組の歩み
女の細腕で再建できるのか―いぶかる住職に「命がけでやります」
 よしゑの当主就任のきっかけは金融恐慌による経営難だった。夫で37代目当主の治一が昭和7年9月、責任を取って先祖の墓前で自ら命を絶った。金剛組存続のため当時38歳のよしゑが跡を継ぎ、懸命に作業場を歩いて社寺建築を学んだ。
 「女の細腕で再建できるのか」。いぶかる四天王寺の木下寂善(じゃくぜん)住職(当時)に、よしゑは「命がけでやります」と答えた。当時、女性は社寺建築の現場に立ち入ることさえほとんどなかった。それを覆すほどに四天王寺の存在は金剛組にとって重く大きい。
 金剛組の歴史は飛鳥時代にさかのぼる。西暦578年、聖徳太子百済から金剛組の初代当主となる金剛重光らを招き、四天王寺の建立を任せたとされる。同年に創業し、当主は代々、四天王寺を守る「正大工職(しょうだいくしょく)」の役目を与えられている。
 織田信長石山本願寺勢との争い、大坂冬の陣室戸台風…。五重塔は戦乱や天災に巻き込まれては焼失、倒壊し、その度に金剛組が再建工事を担ってきた。江戸時代には、正大工職の功績を認められ異例の名字帯刀を許されている。
 現在の四天王寺執事、南谷恵敬(えけい)さん(63)は「何度も立ち直った五重塔の歴史の中で、金剛組はなくてはならない存在だった」と話す。
 金剛組の加工センターで斗組を作る宮大工=堺市(寺口純平撮影)
 昭和の国宝の再建
 よしゑが率いた金剛組は5年がかりで再建工事を行い、昭和15年に完成。再建された五重塔は「昭和の国宝」と呼ばれるほどの高い評価を集めた。
 しかし、その輝きはわずか5年でうせる。先の大戦中の20年3月、空襲で四天王寺境内の南半分が火の海になり、五重塔はまたしても焼失した。よしゑは「目の前でわが子を失ったようだ」と嘆いたという。
 試練はさらに続いた。四天王寺五重塔再建にあたり、耐火性などに優れるコンクリート建築を採用、他の大手建設会社に依頼した。当時を知る金剛組社員は「涙を流して悔しがる者もいた」と振り返る。
 絆の象徴
 だが、金剛組はコンクリート工法を学び、四天王寺の金堂の再建を任された。30年には株式会社に組織を変更し、近代化の道を歩み始めた。
 静岡文化芸術大学の曽根秀一専任講師(企業史)は「四天王寺金剛組の千年以上も続く関係は、社寺建築業界の歴史で貴重な例だ。切っても切り離せない絆の象徴が今も残っている」と語る。
 金剛組が毎年1月11日に行う「手斧(ちょんな)始め式」。四天王寺金堂で古式の装束で大工仕事を模した作法を行い、その年の工事の安全を祈る。悲劇と波乱をくぐり抜け守ってきたものが、そこに込められている。
(平成28年11月10日夕刊1面掲載 年齢や肩書き、呼称は当時)
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 7月9日 08:00 産経WEST 「【関西の力】飛鳥時代創業・金剛組(1)聖徳太子ゆかりの匠集団 社寺の倒壊食い止める耐震の技巧
 飛鳥時代に創業し、歴史を刻み続ける企業が大阪にある。社寺専門建築会社、金剛組だ。1400年余り、数多の試練を乗り越えてきた。現代にも通用する精巧な技術を受け継ぎ、磨きをかけている。
 斗組の作り方
 「命」を守る
 奈良県天理市、善福寺本堂の新築工事現場。柱などの部材を積んだトラックが到着すると空気が張り詰めた。「傷をつけるな。ゆっくりと運べ」
 声を掛け合うのは「現存する世界最古の企業」と称される社寺専門建築会社、金剛組大阪市天王寺区)の宮大工たち。堺市の同社加工センターから搬入された部材は、簡単に替えが利くようなものではない。
 「絶対に髪の毛1本分もズレてはいけない」。加工センターで宮大工の棟梁(とうりょう)、木内繁男さん(66)は力を込める。傍らには現代の一般的な建築では使われない特殊な形状の鉋(かんな)や鑿(のみ)。これらを駆使し「社寺の『命』を守る」のだと言う。金剛組は、宮大工の集団である「組」を8つ抱えており、8つの「組」には現在、計約120人が所属する。
 精密機械並み
 金剛組は西暦578年、聖徳太子建立とされる四天王寺(同)建築のために設立された。以後、四天王寺が戦乱や天災などに襲われるたびに建て替えや改修を担う。一方、各地で社寺の建築、江戸城大阪城住吉大社といった文化財の復元、修理も手掛けてきた。
 今年4月の熊本地震では、熊本城や阿蘇神社(熊本県阿蘇市)などの国指定重要文化財も損壊した。地震国・日本で古くから磨き上げられてきた木造建築技術は、いまなお必要とされている。
 源福寺の平戸昭秀・前住職(左)と、同寺本堂建築工事に携わった加藤恭成棟梁
 金剛組の宮大工が受け継ぐ巧みな技の一つが、天井や軒下を支える「斗組(ますぐみ)」だ。縦、横、斜めと複雑に部材が絡み合う。くぎなどの金物をほとんど使わず、接合部にはわずかなゆとりを持たせている。地震で建物が揺れると、接合部のゆとりによって斗組がきしむ。このときに生じる摩擦などで揺れの影響が小さく抑えられる仕組みだ。
 一見、豪華な装飾のようだが、木造建築研究家、上田篤さん(86)は「精密機械のような細工が、社寺の倒壊を食い止める」と説明する。四天王寺五重塔は落雷や台風被害などで7度失われ再建してきたが、地震での倒壊は一度もない。
 進化のDNA
 金剛組の近年の仕事の一つに源福寺本堂(大阪府豊中市)がある。斗組のほか壁の下地に板を斜めに張って補強する「筋(すじ)かい張り」なども採用し、平成6年10月に完成した。
 7年1月の阪神大震災。同寺周辺でも木造住宅や社寺の多くが倒壊・半壊したが、同寺本堂は一部の柱や装飾「風鐸(ふうたく)」のほかに被害はなかった。当時の住職、平戸昭秀(しょうしゅう)さん(85)は「自分の命と同じくらい大事な本堂が無事で安堵(あんど)した」と振り返る。
 工事に参加した棟梁の加藤恭成(やすなり)さん(45)は「阪神大震災前は木造の地震対策が発展途上だったが、金剛組は先駆的に耐震技術をふんだんに取り入れていた」と言う。
 日本には、屋根と瓦の間に土を入れている社寺が多く残るが、その重さが倒壊の大きな原因になる。金剛組は土を入れない「空葺(からぶ)き工法」で負荷を大幅に減らしている。また、約10年前からは改修時に壁の状況などを詳しく調査。収集したデータを診断ソフトに取り込んで震度6強の地震でも倒壊しない造りを目指しているという。
 伝統の技には進化のDNAも宿っている。
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 伝統、文化、医学、農業、エンターテインメント、スポーツ…。関西には世界に誇れる魅力あるコンテンツがあふれている。現状の停滞を打破し、突破できる「力」とは何か。この連載では、さまざまなジャンル、切り口で「関西の力」を探る。」


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