🐡5〗─1─日本の飢餓。〜No.11No.12No.13 

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 日本は甚大な自然災害多発地帯で、二次被害として飢餓と疫病が発生し、夥しい人々が無惨に死んでいった。
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 日本の飢餓。
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 養和の飢饉
 寛喜の飢饉
 長禄・寛正の飢饉
 江戸四大飢饉
 寛永の大飢饉
 享保の大飢饉
 天明の大飢饉
 天保の大飢饉
 『続日本紀』(8世紀成立)には、大宝2年(702年)9月17日条から延暦10年(791年)5月12日条の約89年間で、飢饉に関する記述が少なくとも116回を超えている。その内、天平宝字7年(763年)の記述が「14回」(20国、同じ国を含む)、天平神護元年(765年)が「12回」(17国、同国含む)、宝亀5年(774年)が「14回」(15国、同国含む)と集中している。
 また、一度に飢饉になった国の数(4国未満は省く)として、慶雲2年(705年)12月27日条で「20国」、同3年(706年)2月16日条で「7国」、天平宝字4年(760年)3月26日条で「15国」、同6年(762年)5月4日条で「畿内と5国」、天平神護元年(765年)2月15日条で「4国」、同年3月16日条で「6国」、延暦4年(785年)10月10日条で「4国」、同9年(790年)4月29日条で「14国」、同10年(791年)5月12日条で「4国」と記録されている。
 『続日本紀』に具体的に飢饉者の人数が記された条として、宝亀10年(779年)8月2日条に3千余人。延暦9年(790年)8月1日条に、大宰府管轄下(九州諸国)で8万8千人余りが飢饉になったと記録される。奈良時代では、飢饉が起こるたびに、朝廷が医者と薬と物資を各国に送っていたことが記述され、疫病と飢饉が頻繁になると天皇が天に徳を示すために大赦を行った。
 気候変動研究では、16世紀以降に寒冷化が進み、飢饉が頻発することになる。例えば、越後上杉氏の他国出兵時期と期間から口減らしの意図が考えられ、特に飢饉の続いた永禄年間に上杉謙信は関東への出兵を繰り返しており、これは戦争が飢饉を起こすのではなく、飢饉が戦争を起こしていた例とされる。
 飢饉が元で、あるいは一因として改元した例としては、寿永・寛喜・貞永・正元・宝徳・寛正がある。
 ことわざに「一年の兵乱は三年の飢饉に劣る」とあるように、日本では、飢饉の害は戦争以上のものであるという考え方がある。
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 祭祀王の天皇は、カリスマをもったリーダーとして日本の神々に「不徳」を詫びて、人々の命を助けてくれる事を祈る事しかできなかった。
 公家や武士などのトップは、リーダーシップを発揮して被災者の救済に尽くした。
 不運にも舞われて死ぬ貧しい人々は、現実に食べ物を恵んでくれるリーダーシップのトップである政治権力や宗教権威よりも、窮地にあって心・精神に癒やし・支え・慰め・励ましを与えてくれるカリスマのリーダーである天皇が持つ菊の御威光に頼った。
 天皇の正統性は、特殊な血筋・血統による特別な一系の家のみに与えられた世襲の皇統・万世一系男系天皇家であった。
 特殊な血筋・血統の正統性は、最高神である女性神天照大神を源としての神の裔である。
 日本民族日本人が大切に守ってきたのは、現実に金や食べ物を恵んでくれる俗物の「何処の馬の骨とも分からない」怪しげなトップではなく、心・精神に安らぎと勇気を授けてくれる「尊き血筋によるハッキリした家=天皇家・皇室」を構えたリーダーであった。
 日本に於いて被災者や困窮者に全身全霊で寄り添えるのは、神聖な天皇・皇族・皇室だけであり、政治家=公家、権力者=武士、宗教家・僧侶・聖職者などの俗物・俗人ではない。
 その実例が、東日本大震災であった。
 口先だけで帰る政治家・官僚・メディアは罵声を浴び、祈るだけで行動しない宗教家・僧侶・聖職者は嘲笑された。
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