🗡18〗─1─ヴァーサ号博物館。平成の失敗は蛸壺的に無駄な多機能豪華を極めようとした結果である。~No.56No.57No.58 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 敗戦後の日本は、約30年間で戦後復興と高度経済成長を成し遂げ、戦前とは違う日本を造り、世界第2位の経済大国を築き上げ、希望に満ちた明るい未来を子供達にもたらした。
 1990年代のバブル崩壊後の日本は、30年経っても復興の兆しが見えないどころか失意と諦めが蔓延し、将来を生きる子供達に暗い未来を見せて絶望を押し付けている。
 現代の大人達は、思慮分別なき浅はかな自分達がしでかした愚かな失敗を認めず、自覚せず、失敗の責任を他者に押し付け、無様に逃げ回っている。
 その傾向は、高学歴出身知的エリートに多い。
 そした高学歴出身知的エリートは、勝ち組、逃げ切り世代として、定年退職して年金生活に入ろうとしている。
 戦前の失敗を教訓として学ぼうとする限り、現代日本には救いはない。
 何故なら、教訓としようとしている失敗の解釈が間違っているからである。
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 日本の産業界、製造業では、数百年はおろか1000年以上続く老舗の商店・会社・企業が数多く存在し、戦後に創業した商店・会社・企業の多くが倒産している。
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 「賢者は歴史に学び、愚者は自分の経験に頼る」と知ったか振りで公言する知的エリートの話は、本当の歴史を知らない世迷い言である以上真に受けない方がいい。
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 2019年7月11日号 週刊文春「文春図書館 私の読書日記 
 平成の30年、廃藩置県、ペリリュー玉砕  立花隆
 吉見俊哉『平成時代』(岩波新書 900円+税)は、平成の30年を『壮大な失敗とショックの30年』と総括する。そして平成の30年をふり返る話を、スウェーデンストックホルムにある『ヴァーサ号博物館』の話からはじめている。
 この博物館は、1628年に、時の国王グスタフ2世の命でヨーロッパ最大最強の軍艦をめざして各国の技術を集めて作った『ヴァーサ号』を展示している。この軍艦は、数万人の市民が歓呼して見守る中、初航海に乗りだすと、みるみる傾いて、バランスを失い、ついに沈没してしまうという、信じ難い事故に見舞われた。
 なぜそんなことが起きたのか。設計の誤りか?操船の誤りか?徹底的な査問が行われたが、判明したことは、国王が同艦をヨーロッパ1の豪華な船にしようと、あれこれ注文をつけ、部下たちがそれを全部実現しようとした上、武力上も強力な船にしようとしたため、最終的に重力バランス上で無理が生じたということだった。結局、個人的な失敗の責任者がどこかにいたわけではなく、王の命令により忠実に従おうとした忠誠競争の結果として、全体のバランスが失われるという結果になったのだということがわかって、処罰された人は、誰も出なかった。
 結局、より良いものを作ろうとした個別部門の努力の総和が、全体として大きな失敗を招くことがあるという現実の歴史的見本として、このヴァーサ号博物館が作られたのだという。
 私もストックホルムで、この博物館を数年前に見学して、このようなユニークな失敗博物館を作って、それ自体を一つの観光資源にしてしまうスウェーデンという国のお国がらに感心してしまったことがある。」
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 ウィキペディア
 ヴァーサ (戦列艦)
 ヴァーサ(スウェーデン語: Vasa)は、スウェーデン海軍の64門戦列艦
 建造から沈没まで
 グスタフ2世アドルフの命によって1626年起工。もともと砲甲板は一層の予定であったが、建造途中で二層に増やされるなど無理な構造で、さらに重武装だったため極端な重量艦になってしまった。1628年8月10日、波が穏やかな日に初航海に出たが、マストに帆を張り 1,300 m ほど帆走した地点で横風を受け、復原性の低さが災いしてそのまま横転沈没した。すぐに引き上げが試みられ、大砲や貴重品は1664年までにほぼ回収できたが、船体の回収にはことごとく失敗し、海底に沈んだ状態で放置された。
 引き上げと展示
 1950年代に入って、バルト海は水温や酸素濃度が低く、フナクイムシが生息していないことから、ヴァーサの船体が朽ちることなく復元可能な状態で沈んでいる可能性が持ち上がった。アマチュア考古学者アンデシュ・フランツェーンの尽力もあり、ヴァーサは沈没から333年経った1961年、ついに引き上げられた。長期にわたる復元作業の後、1988年12月からヴァーサ博物館にて展示中。船体や調度などが非常に良く原形を残しており、当時の戦列艦の姿、建造方法、設備などを知る貴重な資料を提供している。
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 戦前日本が目指した一点豪華主義と平成日本が追求した多機能豪華主義とは違う。
 日本海軍は、戦艦建造を超弩級戦艦「大和」「武蔵」の二艦のみで中止して空母建造に切り替え、大和型三番艦「信濃」は空母に変更された。
 主力戦闘機である「零戦」の改良を加えてが、同時並行に次期主力戦闘機の研究開発も行っていた。
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 軍事技術に携わる科学者や技術者は、研究・開発に当たって絶えず強大最強の敵軍が持つ殺傷能力の高い最新兵器の攻撃を意識し、敵軍の攻撃を跳ね返し撃破して我が軍を勝利させ、如何に多くの将兵を生還させるかが至上命題であった。
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 日本の敵は、海軍であればアメリカ海軍であり、陸軍であればソ連軍であった。
 日中戦争で日本軍が戦ったファシスト中国軍(中国国民党)は、開戦初期はナチス・ドイツヒトラーの軍事支援を受け、次にソ連軍の援軍をえていた。
 太平洋戦争が始まるまでは、アメリカ軍とイギリスの軍事産業の支援を受けていた。
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 軍事技術とは、究極の生きるか死ぬかの最終技術である。
 日本の軍事技術は、短期間であったが世界の頂点を獲得した。
 その証拠が、戦艦「大和」であり戦闘機「零戦」であった。
 日本軍事技術が目指したのは、一点豪華であって多機能豪華ではなかった。
 戦闘機「零戦」は、防御能力を犠牲にして攻撃能力に特化した自殺兵器であった。
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