📉25】─1・A─ゆとり教育。平成の教育は波乱と混乱に満ち、モラル頽廃と学力低下をもたらした。1996年。〜No.52 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 高学歴出身知的エリートは、ゆとり教育など戦後教育改革を実行し、子どもの学力を低下させ想像力を奪い、日本の競争力や生産能力をも衰退させていった。
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 戦後とくに、ゆとり教育導入のような例は数多く存在している。
 それが、西洋や世界の潮流に乗り遅れるな、「バスに乗り遅れるな」である。
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 日本は、欧米が失敗して断念した政策を失敗する事が分かっていながら導入し、当然の結果として手痛い被害を被る事がままある。
 その最たる例が、帝国主義化・植民地主義化・軍国主義化の原因となった西洋式近代化である。
 日本が拒否した西洋式は、キリスト教化とマルクス主義化(共産主義化)であった。
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 明治時代の日本人は、現代の日本人とは違い、西洋を見ながら試行錯誤を重ねて日本流に変えながら導入して近代化を進めていた。
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 昭和64(1989)年1月8日改元され平成元年となる。
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 2019年5月号 正論「サヨナラ平成その光と陰
 『ゆとり教育』を生んだ危ない思想  八木秀次
 平成の幕開けの1980年は教育史においても画期的な年となった。11月に国連で『児童の権利に関する条約』が採択されたのだ。この条約は、『そもそも、発展途上国における子どもの人権環境を改善することを「主なる」目的としている』(波多野里望著『逐条解説児童の権利条約』有斐閣 1994年)ものだったが、一方で『自己の意見を形成する能力のある児童』には『意見表明権』が与えられるなど、子供(満18歳未満)が成人と同様、『市民的権利』の主体であると解釈させる余地を持っている。
 そこには『年齢及び成熟度に従って相応に考慮されるものとする』などの限定が付いているが、この条約の批准を求めた日教組や、平成元年にそこから分かれた共産党の全教などはそこを無視し、批准によって子供観がコペルニクス的に転換すると主張した。すなわち子供は大人の『保護の客体』から『権利行使の主体』へと転換すると主張し、条約を『子どもの権利条約』と呼んだ。
 我が国は条約を平成6年に批准したが、文部省(当時)は事務次官通達を出し、『学校では児童生徒に権利と義務をともに正しく理解させる』『表明された意見が(学校で)必ず反映されるということまで求めているものではない』と現場に留意するよう求めた。しかし、教育界での混乱は止まらなかった。
 『生徒人権手帳「生徒手帳」はもういらない』(三一新書、1990年)と題する本が出され、『自分の服装は自分で決める権利』『飲酒・喫煙を理由に処分を受けない権利』『つまらない授業を拒否する権利』『行事への参加を拒否する権利』『「日の丸」「君が代」「元号」を拒否する権利』『自由な恋愛を楽しむ権利』『セックスするかしないか自分で決める権利』等々が『生徒の権利』として喧伝された。
 『援助交際』を正当化
 『援助交際』が流行後大賞にノミネートされたのは平成8年のことだった。女子中高生による『援助交際』(売春)が、『性の自己決定権』として正当化され、あたかも新しい生き方のように、社会学者やマスコミで持ち上げていた。
 平成10年3月、4月には、埼玉県立所沢高校で生徒の大多数が『日の丸・君が代』を拒否すべく学校主催の失業式・入学式に出席せず、生徒の『自主管理』による代替行事を開催した。平成12年3月には、東京・国立第二小学校で、卒業式で屋上に国旗を掲揚した校長に、児童が 謝罪を求める事件が起きた。
 国旗・国歌法制定の切っ掛けとなった広島県世羅高校の校長自殺事件が起きたのは、平成11年の卒業式の前日だった。国旗掲揚の実施について教職員と揉めていたのが理由だったが、そこで使われたのも『生徒の権利』だった。
 平成12年12月には、全国初の『子どもの権利条例』が川崎市で制定され、『ありのままの自分でいる権利』『自分に関することは自分で決める権利』が保障された。
 一連の主張の背景にあるのは、19世紀英国の思想家、J・S・ミルが『自由論』(1859年)で主張した『他者加害理論』とされた。自分に関することは、他人に迷惑を掛けない限り、何をしてもよいというのが近代社会の原理だ、というものだ。しかし、ミルでさえその次の段落では、自己決定権は未成年者には認めるべきではないと主張している。子供は判断力が未熟なために他から与えられる害よりも自ら招く害の方が大きいからだ。このミルの限定部分については当時、意識的に読み飛ばされて『子どもの権利』『子どもの自己決定権』だけが主張された。
 平成の教育を象徴する『ゆとり教育』も、以上の発想と考えを共有していた。いわゆる『ゆとり教育』は平成14年4月に施行された学習指導要領によるものだった。学習指導要領は10年ごとの改訂であるから、その前の10年間の教育観が背景にある。
 平成13年10月の日教組大会に遠山敦子文部科学大臣が送ったメッセージには『日教組の平成7年以来の運動方針に示された路線や方向性が、各県・各学校段階にいたるまで定着し、日教組が教育改革において積極的な役割を果たされていることを強く期待します』とある。平成7年は、村山富市内閣の時代だ。
 村山内閣は平成6年6月30日から平成8年1月11日まで続き、平成10年の連立離脱までは社会党社民党は政権の一員で、日教組は有力支持基盤だった。『平成7年以来の運動方針』とは、対立していた文部省と、社会党が政権に就いたことに伴って『歴史的和解』をしたことを指す。文部省に影響力を行使できるようになり、それは社民党が政権を離れた後まで続き、平成14年4月の『ゆとり教育』の学習指導要領施行に至ったことが確認できる。
 このときの学習指導要領は、直前の学習指導要領の学習量を3割削減するというものだった。それ以前に、戦後の最大の学習量から段階的に3割削減してきたから、結局、かつてから半減するというものだった。さらに週3時間、科目横断的で何をしてもよい『総合的学習の時間』を設けるというものであった。
 学習内容も、円周率は『3でよい』とか、英単語の学習は中学3年間で『100個でよい』とか、『台形の面積は教えなくてよい』というものだった。『ゆとり教育』を理論面から支えた国立教育政策研究所のOB・現役の学者が、『ゆとり教育学力低下を招く』との批判に応えて書いた本には『分数にしても、小数にしても重要なことは分数の意味を理解することであって、計算は計算機の方が正確かつ迅速にしてくれるのである。子どもたちに分数や小数の不思議さやおもしろさを教えるべくであって、計算は計算機に任せるべきである。(中略)漢字や英単語など識別できれば充分で、正確にスペルしなくてもよい時代にある』(『学力低下論批判』黎明書房、2001年)と書かれている。
 しかし、簡単な分数や小数の計算ができなくて、どうして『おもしろさや不思議さ』を理解でキリノか。多くの人々の懸念通り、『ゆとり教育』は子供たちの学力を大幅に下げることになった。
 『ゆとり教育』の背景にあったのは『子ども中心主義』と呼ばれる教育思想だった。学ぶ側の子供の『主体性』を重視する発想だった。『指導』ではなく、『学習』であり、教師は『指導者』ではなく、『学習の支援者』であるという発想だった。そこには子供を『自己決定の主体』と考える、『子どもの権利』と同じ発想があった。
 米国の教育専門家も疑問視
 平成11年夏、米国から『経済と教育研究所』の所長が来日し、文部省OBとの間で日本の教育改革に話題が及んだ。その際、その所長は肩をすくめて『合衆国が以前やって失敗したと同じ〝改革〟を、ジャパンはこれから進めるのですね。なぜ?』と述べたという(斎藤貴男著『機会不平等』文藝春秋、2000年)。1960年代から70年代に米国は同じ発想によって社会腐敗や学力低下、国力衰退を招いていた。そのことを知らないのか?と、この米国人の所長は疑問視したのだ。
 『ゆとり教育』は、国民の批判が強まり、早くも平成14年1月には遠山文部科学大臣が緊急アピール『学びのすすめ』を発表し、『学習指導要領は最低基準である』と明言するに至った。平成15年10月には中央教育審議会が学習指導要領の一部を改めるよう文部科学大臣に答申し、12月には学習指導要領の記述が改められた。平成28年5月には馳浩文部科学大臣が『ゆとり教育との決別宣言を明確にしておきたい』と発言するに至った。今日、『ゆとり世代』と揶揄される若者は、明らかに一時代の愚かな教育政策の犠牲者だ。
 平成16年11月、中山成彬文部科学大臣が『全国学力テスト』の復活を提案し、平成19年に、43年ぶりに全国の小学6年性、中学3年生に全員調査を開始した。再び日教組を支持基盤とする民主党政権の誕生により、抽出調査に移行したが、第2次安倍晋三政権で悉皆(しっかい)調査に戻った。都道府県・市町村・学校ごとの成績状況が客観的に把握させ、学力向上や指導力向上に寄与している。これらの動きとともに『生徒の権利』や『子どもの自己決定権』主張の動きも萎(しぼ)んでいった。『子どもの権利条例』制定の動きもそれほど拡がっていない。
 平成の教育史は波乱と混乱に満ちている。民主党政権誕生というハプニングはあったが、振り返ってみるとき、教育の正常化には第1次安倍政権での教育基本法改正(平成18年12月)が一つの分岐点になったことも特筆しておきたい」
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 マルクス主義共産主義)の革新教育とは、思考停止による愚民化教育で、学力を低下させ、社会を停滞させ、経済を衰退させる事であった。
 愚民化教育は、誰も否定できない綺麗事で行われる。
 ソ連中国共産党政府など共産主義諸国の科学教育を見れば、一目瞭然である。
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 日本の教育は、1980年代後半から、羅針盤を失い、進むべき目的地や方針をなくしたように漂流し始めた。
 自分を律しきれない不完全な教師・教育者は、教育現場を崩壊させ、子どもを混乱の坩堝に追い込んだ。
 そうした子供の人権教育を受けた子供達が、優秀な成瀬を取って2000年から社会にで、そして結婚して子供を産み始めた。
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 青少年の間で、援助交際やフリーセックス、そして下着を売るショップが流行り、手軽に大金を稼ぐ事ができるようになった。
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 暴走するPTA・分別なき保護者によって、暴れる生徒によって学級崩壊は増え、学校は無力となって生徒を取り締まる事ができず放置し、教育の混乱はさらに激しくなり鎮静化ができなくなっていった。
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 メディアは、女子学生の性の乱れを食い止めるどころか、逆に金儲け目的で面白おかしく書き立てて青少年の風紀の乱れを助長した。
 そうした時代に育った子供達は、成長し、結婚し、子供を産み、自分流の教育を始めた。
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 学校、教師などの教育現場は、事勿れ主義や問題先送りとして、生徒や親に真摯に対応する事を避けて逃げ始めた。
 その結果が、親による子供虐待と生徒間でのイジメ、そしてそれらが原因による生徒の自殺の増加である。
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 大人達は、自己保身・自己防御から、子供達を守る事なく逃げ始めた。
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 日本のリベラル派・革新派・人権派・エセ保守派・一部の保守派が行った事の多くは、自己満足のみで、現実無視・現実破壊の妄想的空想であった為に失敗している。
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 戦後教育とは、敗戦後のキリスト教価値観とマルクス主義共産主義)価値観による東京裁判戦争犯罪人史観と1980年代の日本人極悪非道の重犯罪者史観による自虐教育である。
 高学歴出身知的エリートは、その自虐教育を優秀な成績で卒業した秀才達であった。
 ゆとり教育は、そうした高学歴出身知的エリートが子どもの教育の為に始めた人権教育である。
 その目的は、日本人の学力を低下させ、子供達に罪悪感を植え付け民族主義を撲滅し反天皇意識を持たせる事であった。
 その結果、日本から伝統的家柄や古き良き家庭が急速に消えていった。
 日本共産党日教組は、主張を実現する為に「ゆとり教育」を最大限利用した。
 その先に待っているのは、反天皇反日反米の共産主義人民革命であった。
 反天皇反日反米派日本人は、60年安保・70年安保で敗北した大学生主体の反権力反権威騒動を、中高校で「日の丸・君が代」ボイコット運動として再演しようとした。
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 ソ連中国共産党などの共産主義勢力は、子供を大人の保護・管理から引き離して革命戦士に育て、共産主義大義で大人や親に対して反撃を命じ、逆らう者は親兄弟に関係なく反革命分子・人民の敵として殺すように強要した。
 スターリンの子供、毛沢東紅衛兵ポル・ポトの子供革命兵士、など。
 共産主義者は、分別が付かない子供を使い捨ての駒のように動かして、大人や親たちを攻撃させた。
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