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・ ・ {東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・
日本民族日本人にとって、子供は、国の宝、子孫繁栄の源であった。
子供を守れる大人が子供を守る、それが大人の責任であった。
大人が政治・外交・経済・戦争・社会を決めて動かす以上、大人が子供の未来の為に責任を持ち犠牲になるのは当然の事である。
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助け合いの日本民族日本人は、儒教的男尊女卑の中国人や朝鮮人とは違い、弱者である女性や子供を助けていた。
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中国や朝鮮では、日本と違い、女性や子供を奴隷として売る為に誘拐事件が多発していた。
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2019年3月9日 産経新聞「園児を守れ 疎開保育に学ぶ 東京大空襲74年
疎開保育を体験した佐瀬玲子さん(右)と妹の長尾満栄さん=東京都江東区(大渡美咲撮影)
24時間体制で
10万人以上が犠牲になったとされる昭和20年の東京大空襲から、10日で74年となる。激化する空襲から幼児らを守ろうと、保母らが保育園児を集団疎開させる「疎開保育」が行われたことは、あまり知られていない。相次ぐ地震で災害時の集団保育のあり方が課題として浮上するなか、今年に入って疎開保育の実話を元にした映画が公開されるなど、改めて注目が集まっている。(大渡美咲)
疎開保育は、本土への空襲が本格化した昭和19年11月に始まった。「戸越保育所」(東京都品川区)の保母だった畑谷光代さんらの発案で、同保育所と「愛育隣保館」(墨田区)の園児計約50人が保母とともに、埼玉県平野村(現・蓮田市)にある無人の寺院「妙楽寺」に疎開した。
戦況悪化を受け、現在の小学校に相当する国民学校初等科の3年生以上を疎開させる「学童疎開」や親族を頼る「縁故疎開」はすでに行われていたが、園児の集団疎開は初めてだった。
20代の保母約10人が24時間態勢で保育に当たり、掃除や炊飯なども担った。寂しさやストレスで子供たちが頻繁におねしょをしたため、園児を5~6人の班に分けて保母が母親代わりになる「母親制度」を採用。東京大空襲後の20年5月には国の方針もあり、さらに園児の疎開が進んだ。
当時6歳だった佐瀬玲子さん(80)も、当時2歳で妹の長尾満栄さん(77)とともに疎開保育に参加した。両親や兄2人と江東区で暮らしていたが、母親は栄養失調のため19年8月に33歳の若さで死去。悲しみも癒えぬなか、20年3月10日未明、米軍の爆撃機B29が投下した焼夷(しょうい)弾が自宅を襲った。
一家は別々の防空壕(ごう)に逃げた。佐瀬さんは「シューっという音がして、何百発も爆弾が落ちてきた。都電や家の周りも全部燃えて真っ赤で、外は死体だらけ。地獄だった」。当時の記憶はほとんど残っていないという妹の長尾さんも、「姉は今もあの日の光景を忘れていない。それだけ戦争とは悲惨で恐ろしいもの」と話す。
翌日、別の場所に逃げていた父親と再会。家族全員の無事を確認したのは2週間後だった。自宅を焼け出され、港区の空き家に移り住んでいたが、姉妹が通っていた戦時託児所の保母で当時19歳だった高瀬慶子さんが、「大変でしょうから私が預かりたい」と父親に申し出た。
「空襲で怖い思いをしたので、とにかく戦争のないところに行きたかった」(佐瀬さん)と20年5月に姉妹で妙楽寺に身を寄せ、終戦まで過ごした。佐瀬さんは「環境になじむのに苦労したが、保母さんたちは本当によくしてくれた」と振り返る。
実話もとに映画
疎開保育を研究する東京福祉大の西脇二葉講師は、「東日本大震災などの災害により集団保育のあり方に注目が集まり、これまで知られていなかった戦時下の疎開保育に目が向けられるようになった」と指摘。「人手も物資も不足するなか、1年以上も24時間態勢の疎開保育をするのは相当の信頼関係が必要だったはずだ」と話している。
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この疎開保育の実話を元にした映画「あの日のオルガン」が、2月から全国公開されている。畑谷さんをモデルにした保母を戸田恵梨香さんが演じ、高瀬さんをモデルにした保母も登場。監督・脚本の平松恵美子さんは佐瀬さん姉妹に会って取材している。
【用語解説】東京大空襲
先の大戦末期の昭和20年3月10日未明、米軍のB29爆撃機300機以上が現在の墨田区、江東区、台東区など人口が密集する東京の下町を中心に焼夷弾を投下した無差別攻撃。推定約10万人の命が奪われた。東京のほか大阪、名古屋などの大都市や地方都市に対しても無差別な空襲は行われ、原爆被害とあわせると民間人の犠牲は50万人以上に及ぶ。」
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