🗡26〗─1─戦前の日本は飛行艇大国で、世界最強の万能飛行艇を造り上げた。二式大艇。~No.85No.86No.87 @ 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 極める職人魂の日本の技術陣は、一点豪華主義として、世界が真似できないナンバーワンとその分野・職種におけるオンリーワンを目指していた。
 文系現実思考と理系論理思考で、最適な合理的な選択をしていた。
 それが、両手で持つ日本刀である。
 そこには、身を守る盾はない。
 武士・サムライは、片手に剣、片手に盾という、世界の戦いにおける常識を採用しなかった。
 日本の兵器は、攻撃力は強力であったが、防御力は脆弱であった。
 負けないように戦いながら、死中に活を求め、一撃必殺、「肉を斬らせて骨を斬る」のが剣術の極意であった。
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 2018年11月29日号 週刊文春「文春図書館 立花隆
 書店で『「紅の豚」と飛行艇時代』ではじまる本書(『語り継ぐ横浜海軍航空隊』有隣新書 1,000円+税)をよみはじめたら、面白くてつい最後ページまで読んでしまった。
 知る人ぞ知る日本の戦争時代の歴史だが、日本は戦前世界有数の飛行艇大国だった。日本の飛行艇が国際水準に達するのは、『九七式飛行艇』と『二式大艇』の2つだが、このうち二式大艇のほうは、エンジンのパワー、航続距離からいっても、火力からいっても文句なしに世界一の飛行艇だった。
 九七式には、アメリカのボーイング・クリッパー、二式大艇のほうには、アメリカのコロネド大型飛行艇がライバル機としてあったが、飛行機の本当の能力については、軍事機密がかかる部分があるから、公称の能力と、本当の実力にはかなり差があって、それは必ずしも発表されている数値だけを比べてわかるわけではない。しかし、軍事関係者はみな本当の実力差を知りたがっていたから、戦争が終わるとすぐ、日米同型機の比較実験を何度も繰り返した。いずれの実験でも日本の二式大艇のほうがはるかに上という結果が出ているので、日本機は結構今でも海外に売れている。
 これらの日本の飛行艇がどこにあったかというと、横浜である。金沢区富岡の富岡総合公園の中にある浜空神社周辺の広大な敷地の中に約1,000名の隊員が住み、大型飛行艇24機を持つ横浜海軍航空隊の一大基地があってのだ。毎朝これらの飛行艇がエンジンをワンワンかけるので、周辺の家はうるさくてたまらなかった。二式は一機当り1,850馬力エンジン四基を積んでいたから、相当うるさかったはずだ。
 日本は開戦まもなくガダルカナル島に飛行場を作りはじめ、それを阻止しようとする米軍との間で激しい衝突が起きていた。その中心になったのが、ガ島から北40キロ地点にあるツラギ島。ここに米軍は大量の軍を送り込み、2日間で陥落させた。しかし日本では報道されず、日本人は誰も知らなかった。ツラギ戦で日本軍500人全員玉砕。横浜海軍航空隊も壊滅した。」
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 海に囲まれた海洋国家日本では、島嶼戦用の飛行艇が最適飛行機である。
 主要兵器は、戦車ではなく航空機であった。
 軍国日本の航空機開発能力は、アメリカやイギリスに負けてはいなかった。
 一時期、日本の航空機はアメリカやイギリスを抜いて世界一最強であった。
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 2022年8月19日 YAHOO!JAPANニュース 乗りものニュース「実物デカッ! 鹿屋に残る旧海軍「二式大艇」は何がすごかったのか レガシーは海自US-2へ
 軍縮が生んだ巨大飛行艇の誕生
 海上自衛隊鹿屋航空基地資料館の敷地内で展示される二式飛行艇一二型。側面に回ると前後に絞られた船型の胴体形状が確認できる(吉川和篤撮影)。
 鹿児島県の東側、大隅半島の中央には海上自衛隊鹿屋航空基地があります。その横に伸びる国道269号線を車で走っていると突然、ヤシの木の合間から日の丸を付け、濃緑色に塗られた巨大な飛行機が、目に飛込んで来ます。これは旧日本海軍が太平洋戦争中に運用した二式飛行艇です。
 【激レア写真】鹿屋に保存・展示される二式飛行艇の内部の様子ほか
 同機は約170機生産されたものの、現存するのは、ここ鹿屋に残るのが世界で唯一とのこと。その全幅は38mにも及びます。なぜこんな大きな航空機が80年以上前に作られたのでしょうか。
 戦前の1930年代、ワシントン海軍軍縮条約ロンドン海軍軍縮条約などにより、旧日本海軍は軍艦の建造が制限されていました。そこで海軍は、船が造れないのであれば、代わりに陸上攻撃機飛行艇など航空機を揃えて、それらを有効に使うことで洋上の敵艦を索敵・攻撃しようとする計画を立てます。
 前者のプランが結実したものが三菱重工の一式陸上攻撃機で、太平洋戦争の序盤、1941(昭和16)年12月に起きたマレー沖海戦ではイギリス海軍の戦艦「プリンス・オブ・ウェールズ」と巡洋戦艦「レパルス」を撃沈する殊勲を挙げています。一方、後者のプランは川西航空機(現在の新明和工業)が担当する形で十三試大型飛行艇の名で開発が継続され、1941(昭和16)年1月に初飛行に成功、「二式飛行艇」として制式採用されました。
 この飛行艇は、開発するにあたり先に述べたような敵艦の主砲射程や、艦載機(空母搭載機)の行動半径の外側から攻撃できる(いわゆるアウトレンジ)長い航続距離と、陸上機並みの攻撃力および飛行性能を兼ね備えることが求められました。元々、飛行艇は胴体が着水するために大きな船型の形状をしており、重量や空気抵抗も自然と増えるため、陸上機と比べ速度や機動性などで不利な面を抱えています。しかし、川西航空機の設計チームは海軍の要求に応えようとゼロから基礎設計を行い、陸上機に負けない高性能を持つ4発エンジンの大型飛行艇を完成させたのです。
 戦闘機も撃退した攻撃力
 太平洋戦争中、洋上を飛行する二式飛行艇。胴体上部や前後に20mm機関砲各1門を搭載した動力銃座が見える(吉川和篤所蔵)。
 こうして誕生した二式飛行艇は、その巨体ゆえに「二式大艇」とも呼ばれました。性能は、優れた機体設計と、爆撃機用の高出力エンジンである三菱「火星」を4基搭載したことで、全長28m、全幅38mの大型機にも関わらず、一二型で最高時速470km/hに達したほか、主翼や胴体各部に設けられた計14個の燃料タンク(合計1万7千リットル)により航続距離も最大で8000kmを超えるなど、まさに陸上爆撃機に比肩する高性能を有していました。
 そのため、優れた飛行性能を活かして太平洋上での攻撃や偵察、救難、気象観測などに多用されただけでなく、輸送型「晴空」も36機作られて南方での物資や人員の輸送に用いられています。
 また、当時の飛行艇としては強力な武装も特徴のひとつでした。大口径の20mm機関砲5門を機体前後や上部の動力銃座、上側面左右の銃座などに配置しており、加えて7.7mm機関銃4挺(内3挺は予備)を備えていたほか、主翼下に爆弾2tまたは航空魚雷2発(17号機まで)を搭載可能でした。この武装アメリカ軍機ともたびたび空中戦で渡り合い、時にはB-25双発爆撃機やB-17四発爆撃機を返り討ちにしたこともありました。
 特筆すべきは、1943(昭和18)年11月のケースでしょう。南太平洋戦域でアメリカ陸軍のP-38双発戦闘機3機に襲われた二式大艇は、エンジン2基が停止して1名の負傷者を出しながらも敵機1機を機関砲射撃で撃退、辛くも基地に帰り着いています。
 しかし、いくら重武装二式大艇でも太平洋戦争末期になりアメリカ側に制空権を握られるようになると、敵戦闘機の餌食になることも増えます。また、その巨体ゆえに敵機から隠れたり移動したりするにも、他機と比べ準備が掛かることから、空襲などでも失われることが多くなりました。
 結局、1945(昭和20)年8月の終戦時における稼動機は、二式大艇5機と輸送機型の晴空6機の11機だけでした。しかも、さらに数日のうちに8機が処分や事故で失われてしまいます。こうして、戦後アメリカ軍が引き渡しを求めた際、残っていたのは、香川県詫間海軍航空隊の3機だけになっていました。
 残された機体と現代へ続くレガシー
 海上自衛隊のUS-2。川西航空機が戦後、社名を変えた新明和工業が開発した大型の救難飛行艇で、二式大艇から受け継いだDNAを今に伝えている(画像:海上自衛隊)。
 戦争中からこの二式大艇の性能に注目していたアメリカ海軍は、詫間基地に残された3機に目を付けます。そのなかで最も状態の良かった一二型の第426号機がアメリカ本土に送られることとなり、入念な整備ののち横浜経由でアメリカ本土に渡りました。
 アメリカ本土に到着した二式大艇426号機は、バージニア州ノーフォーク海軍基地で各種テストを受けますが、離水能力以外はアメリカ海軍のPBY「カタリナ」飛行艇を上回る性能だったそうです。その後、エンジン故障により飛行できなくなったことで、スクラップも検討されますが、関係者の反対により梱包されて基地に残されました。ただ、このことが426号機の運命を変えたと言えるでしょう。
 こうして426号機が永い眠りについている間、日本では二式大艇の返還運動が起きます。一方、アメリカ側も当初は426号機を永久保有するつもりでしたが、経費削減の影響から手放すことを決定しました。
 こうした経緯から、東京お台場の船の科学館が引き取りに名乗りを上げ、二式大艇426号機は1979(昭和54)年11月、約30年ぶりに里帰りを果たします。翌1980(昭和55)年7月から同館敷地内で屋外展示がスタート。その後、鹿児島県の海上自衛隊鹿屋航空基地資料館に移譲され、2004(平成16)年4月からは鹿屋航空基地の一角で展示されるようになっています。
 ちなみに、移譲時の取り決めにより二式大艇の機体は5年おきに塗装を塗り直すことになっているため、屋外での展示にも関わらず劣化は最小限で抑えられています。とはいえ、構造上は仕方ない部分に雨水が浸透して引き起こす腐食などに加えて、毎年の台風や風雨によるダメージが一定程度あると考えられるため、できれば屋内での永年展示が望まれるでしょう。
 二式大艇を作り上げた川西航空機は戦後、新明和工業と名前を変えてYS-11旅客機を製造するとともに、戦前戦中のノウハウを活かして海上自衛隊向けに大型の飛行艇PS-1やUS-1などを開発・生産してきました。いまも、その技術や伝統は、海上自衛隊向けの救難飛行艇US-2に連綿とつながっています。
 もし鹿屋に訪れる機会があるのなら、この大きな二式飛行艇二式大艇)を目の当たりにして、過去と現在の日本の飛行艇に思いを馳せてみるのも良いのではないでしょうか。
 吉川和篤(軍事ライター/イラストレーター)」
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 ウィキペディア
 川西 H8K 二式飛行艇
 用途:飛行艇
 製造者:川西航空機
 運用者:大日本帝国海軍
 初飛行:1941年1月
 生産数:167機
 生産開始:1941年 - 1944年
 運用開始:1942年2月
 退役:1945年
 運用状況:退役
 
 二式飛行艇は、大日本帝国海軍飛行艇。初飛行は1941年(昭和16年)。略符号は「H8K」。レシプロエンジン装備の飛行艇としては当時世界最高の性能を誇る傑作機とされる。通称は二式大艇(にしきだいてい)。二式大型飛行艇とも言う。なお、輸送型は「晴空(せいくう)」と呼ばれていた。九七式飛行艇の後継機として、同じく川西航空機で生産された。 連合軍におけるコードネームは「Emily(エミリー)」。

 活躍
 1943年11月には、アメリカ軍のP-38ライトニング双発戦闘機3機と40分交戦した玉利義男大尉機が1機を撃退し、自機もエンジン2基停止と230箇所被弾、乗員1名負傷という状態で帰還、その後日本本土に戻された。さらに1944年以降は、既に前線においては有効な編隊を組む事すら難しくなっていた日本軍多発機の中にあって、防御が弱かった一式陸攻などに比べると遥かに連合軍にとって危険な相手だった。B-25ミッチェルやB-17といったアメリカ軍の大型陸上機を積極的に追撃して撃墜した記録もある。その攻撃力から「空の戦艦」などとも呼ばれた。
 このように頑丈な本機であったが、1945年に入ると太平洋戦線においては連合国軍に対して戦況が悪化して制空権が奪われ、敵戦闘機の攻撃が増えると足の遅さに加え重防御も耐え切れず、消耗していった。機体を短時間で退避、隠蔽させることも難しく、基地や水上に置かれたまま連合国軍機の空襲で破壊されたものもあった。さらに川西航空機の生産力が局地戦闘機紫電改に集中したこともあって1943年末の時点で生産数が低下、1944年は二式大艇12型33機・輸送型「晴空」24機、1945年はわずか2機の生産であった。製造に大量の資材を使い、航空燃料の消費も多かったことも、生産打ち切りの一因とされる。
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 二式飛行艇(川西 H8K)
 飛行艇(英語: flying boat)とは、水面発着出来る機体のうち、胴体部分が水面に接するように設計された飛行機である。日本工業規格 (JIS) では「水上にあるとき、主に艇体によってその重量を支持する水上機」と定義される。この点で「フロートによってその重量を支持する」フロート水上機と区別される(JIS W 0106 航空用語(航空機一般))。
 水面で機体を安定させる為に、主翼に補助フロートを備えるタイプと、胴体側面下部に横に広がった張り出し部分(スポンソン)を有するタイプがある(これらがないと横風を受けた時に傾いてしまう)。現在は格納式の降着装置を装備し、陸上からも発着できる水陸両用タイプが多い。

 飛行艇の歴史
 最初の飛行艇
 世界最初の旅客をのせた飛行艇は、1914年に就航したアメリカのベノイストXIVである。
 世界最初の定期旅客便として、乗客定員1名で、フロリダ州のタンパとセントピーターズバーグ間34.5Km を運行した。

 飛行艇の黄金時代
 1930年代は飛行艇の黄金時代であった。

 第二次世界大戦
 各国とも、輸送および長距離哨戒の任務に使用した。日本海軍の川西二式飛行艇二式大艇)は速度、航続力ともに優れた(爆撃、雷撃も可能な)万能飛行艇であった。
 また、アメリカ海軍のカタリナ飛行艇二式大艇に性能面で大幅に劣るものの、運用面で成功し、連合軍機として英米海軍で太平洋・大西洋その他の海域で、哨戒、救助活動に活躍した。
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 川西 H8K 九七式飛行艇
 主翼支柱に爆弾を搭載した九七式飛行艇
 用途:偵察機雷撃機
 分類:飛行艇
 設計者:橋口義男、菊原静男
 製造者:川西航空機
 運用者:大日本帝国海軍
 初飛行:1936年(昭和11年)7月14日
 生産数:179機(輸送機型を除く)
 生産開始:1938年(昭和13年)
 運用開始:1938年1月
 運用状況:退役

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 九七式飛行艇は、大日本帝国海軍飛行艇。初飛行は1936年(昭和11年)。略符号は「H8K」。純国産としては最初の実用四発機であり、第二次世界大戦初期の長距離偵察などに活躍した。通称は九七大艇きゅうななだいてい、九七式大艇きゅうななしきだいてい。後継の二式飛行艇同じく川西航空機で生産された。 連合軍におけるコードネームは「Mavisメイヴィス」。

 開発経緯
 川西航空機(現新明和工業)は九七式飛行艇二式飛行艇、戦後のPS-1、US-1など大型飛行艇のメーカーとして有名だが、これは日本海軍が意識的に川西を大型飛行艇メーカーとして育成した結果である。九七式飛行艇は川西が製作した2番目の大型飛行艇で、前作は1929年(昭和4年)に海軍の指示でイギリスの名門飛行艇会社ショート・ブラザーズ社に設計を依頼し、1931年(昭和6年)に初飛行した複葉3発の九〇式二号飛行艇であった。
 ワシントン海軍軍縮条約ロンドン海軍軍縮条約により世界各国は海軍休日に突入、日本海軍は航空兵力の拡大によって軍艦の劣勢を補おうとした。第一次世界大戦終了後に日本が統治を委任された南洋諸島は軍事施設を置くことが禁止されていたが、日本海軍は飛行艇を活用することで、来襲する米艦隊に対抗することを意図していた。1933年(昭和8年)3月17日、海軍は川西に対し八試大型飛行艇の開発を指示(設計図とモックアップ作成のみ)、川西社内で研究中に九試大型飛行艇の開発が内示され、八試大艇は計画中止となった。
 1934年(昭和9年)1月18日、日本海軍は当時アメリカで民間旅客機として開発されていたシコルスキー S-42や、サンフランシスコ - ハワイ間無着陸編隊飛行を行なったアメリカ海軍のP2Y-1(en)に刺激され、これらを上回る性能を持つ飛行艇として九試大型飛行艇を川西に発注した。
 試作1号機は1936年(昭和11年)7月14日に初飛行に成功、報告を受けた山本五十六航空本部長が川西鳴尾製作所にかけつけ、関係者の労をねぎらっている。7月25日に海軍に引き渡されて試験飛行を行う。試験の結果、機体性能は良好である一方で馬力不足が指摘されたが、増加試作機に金星エンジンを搭載することで解決。1938年(昭和13年)1月8日に制式採用された。
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