📉71】─4─21世紀型の新教育制度では科学技術力は低下してノーベル賞は受賞できなくなる。~No.155No.156No.157 @  

思索する湯川秀樹―日本人初のノーベル賞受賞者の天才論

思索する湯川秀樹―日本人初のノーベル賞受賞者の天才論

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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 教育熱心の親は、大きくなって子供にノーベル賞を受賞させ人類の幸福に貢献させる為に教育をしているのではなく、良い学校を卒業して良い会社に就職し幸せになって欲しいから子供の教育に熱心なのである。
 親は、夢や希望、理想では生活できないし、幸せな人生を送れないという現実を、実体験しているからである。
 そこには有るのは子供の「個」のみであって、世の為人の為、国や人類の為に貢献するという「公」は存在しない。
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 日本の唯一の強みは、ノーベル賞を受賞できる科学技術力である。
 何もかも欠乏して自給自足ができない悪条件下にある日本は、好奇心を内外に広く向け、伝統と継承で科学技術力を高め、創意工夫で驚くようなメイド・イン・ジャパンを製造し輸出して生きてきた。
 ノーベル賞を受賞するのは、30年〜40年前の基礎研究における業績であって、今現代の応用技術ではない。
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 日本の底力は、文系的現実思考と理系的論理思考に基づいた堅実な基礎科学と手堅い応用技術の均衡にある。
 つまりは、日本的美意識である。
 日本的美意識には、正=均質に秩序だった調和、異・邪=秩序無視の不揃い(失敗作や不細工ではない)、変=調和の前及び調和の崩れ、の3種類がある。
 正は完成形であり、異・邪は歪である。変とは、花開く前の蕾の状態と花びらが散り始めた状態である。
 つまり、日本的美意識とは自然と人為が出しゃばることなく折り合い、相互に補完し共生した織り成す美である。
 花鳥風月と虫の音である。
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 中国の科学技術力は、巨大投資と豊富な人材で、あと数年か十数年後には日本の科学技術力を追い抜き、そして追い越していく。
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 日本は、食糧・資源・エネルギーを海外から輸入し、金融・情報・サービスそして輸送・運輸を海外に依存している。
 その大半がアメリカに由来しているがゆえに、アメリカ依存脱却論は日本崩壊論である。
 日本が頼れるのは、中国でもなければロシアでもなく、唯一アメリカのみである。
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 大学の国際的学術的レベルが低下し、教授の学生に対するセクハラなどの不祥事が増えている。
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 2017年11月号 新潮45「いまの教育制度ではノーベル賞がとれなくなる
 非正規雇用の若手研究員が激増し、日本の科学技術力の低下に歯止めがかからない。 科学をおろそかにすればノーベル賞受賞はおろか、日本全体が衰退していく。

 藤原正彦
 惜しくも今年は実現しなかったが、日本は昨年まで3年連続で自然科学部門(化学賞、生理学・医学賞、物理学賞)でのノーベル賞受賞者を輩出した。過去を辿るとノーベル賞の自然科学部門には合計22名の日本人受賞者がいるが、うち16名が今世紀に入ってからの受賞で、これは米国に次いで世界第2位という輝かしい数字である。
 しかしながら、昨今の日本の理系研究者の置かれた環境に鑑みると、中国などに抜かれるのは時間の問題だ。どころか、このままでは近い将来、日本からノーベル賞受賞者は全く誕生しなくなってゆくだろう。
 私がこう考えるのは、若い研究者たちに独創的なテーマにじっくりと時間をかけて取り組む環境が許されていない、という悲惨な状況があるからである。
 『任期付き教員』──5年などの期限付きで大学に採用される教員たちのことであるが、現在40歳未満の若い研究者たちに、この任期付き教員が激増している。彼らは民間企業でいうところの、非正規雇用契約社員派遣社員のような立場である。任期期限内に研究成果をあげらて論文を発表し、任期終了後の就職先のあてを見つけておかなければ研究の継続はおろか、食いつなぐことすらできない。
 旧帝大筑波大学など規模の大きい大学を加えた主要11大学において、この任期付き教員の数は、2007年に7,214人であつたのが、2013年には1万1,515人にまで増えている。あるいは、東京大学で任期のない、正規雇用と言える40歳未満の教官は2006年に903名であったが、2016年いは383名にまで落ち込み、全体の4割にも届かない。
 一方で、先に述べた22名は、それぞれ40代前半までに、正規職員として雇われた環境での研究で、後年ノーベル賞を受賞した。若い頃に、結果がいつ出るともわからない基礎研究に没頭した結果である。しかしどうだろう、数年先の自分のポストがあるかどうかわからない不安定な状況で、短期的に成果をあげることや次の職探しに奔走することを強いられていては、野心的なテーマに取り組み人類の進歩に貢献するような成果をあげられるとは、到底思い難い。
 資金不足で人員削減
 こうした状況を導いた元凶は、小泉政権が打ち立てた新自由主義に端緒がある。グローバリゼーションの流れの中で、規制緩和を推進し、『官から民へ』『小さな政府』を掲げた小泉政権は、2001年に国家公務員削減政策を打ち立てた。規制を作る側の人々である公務員の数を減らせ、という発想である。もともと日本は先進国の中で人口比の公務員数が少なかったが、これにより一層少なくなってしまった。
 さらに2004年度、それぞれの個性を伸ばした自由な運営を可能にするため、国立大学が法人化された。そのメリットも多く期待された一方で、財政面のコントロールのため、ますます大学が文部科学省に跪(ひざまず)く結果を招いた。
 国立大学法人は『校費』と呼ばれる国からの運営費交付金に依存している。しかし国は、2004年度の法人化に伴い、この校費を毎年1%ずつ減額することを掲げ、実行してきた。1%は、おおよそ100億円にあたる。今年度は、前年度比で微増を見たが、2016年までほぼ毎年減額が続けられ、トータルで04年に比べて12%が減らされた。大学の財政の43%がこの校費によって占められているため、その打撃は小さくない。留学生の受け入れやAO入試といった新しい施策への努力も求められるため、大学はこの1%ずつの校費削減に対して、2、3%の人員削減によるコストカットを敢行するしかなかったのだ。
 たとえば私は、お茶の水女子大学を8年前に定年退職したが、私の退官後に数学科の教授は補?されなかった。人件費の確保が追いつかないため、空いたポストに後任があてがわれない、といったことがどこの大学でも頻発している。こんなことでは、例えば歴史学科において江戸時代の専門家がいなくなればそのまま、その大学の研究から近世日本が抜け落ちる、カントの研究者が退官すればその哲学科からカント研究がなくなる──といった風に穴が開いていくのだ。学術的損失のみならず、後任がいないということはそのまま、若手研究者に譲られるはずだった教授職のポストが消失している、という意味でもある。
 もう一つ、重要な問題として定年延長がある。例えば東京大学では2004年から順次、定年が60歳から65歳まで引き上げられた。最近の60代はまだまだ活発に研究が可能であるから、これはいい。問題は再雇用や嘱託といった雇用契約の変更がない点だ。つまり、給料が下がらないまま5年多く働けるのである。当然、これがただでさえ縮小する校費を食っている。その煽りもあって、若い研究者たちが任期付きの職にしかあり付けなくなるのだ。過去20年で40歳未満の研究者は5,000人減、というデータもある。若者をちやほやする老人は多いが、未熟で無知な若者に対しては徹底的に批判し、鍛える必要がある。一方、経済面や労働条件ではできるだけ手厚く保護すべきだ。我が国の将来を担う人々だからである。
 校費が減らされてきた他方で、競争的資金は増えている。競争的資金とは、これまで無条件に日本中の大学にばらまかれてきた資金を反省するもので、特定の研究に対して提供される目的の決まった予算のことである。広く日本中から応募された研究課題について、専門家がそれぞれの必要性や重要性を評価し、高いと認められた研究に資金が提供されるシステムがいくるもあり、研究費などが有名だ。例えばiPS細胞の研究で著名な山中伸弥教授の研究室には膨大な資金が配分される、といった具合である。しかし、三重大や鹿児島大といった地方大の研究室には全く資金が回らない。地方にもコツコツと小さな研究を積み上げている優秀な研究者は多くいるが、評価されやすいテーマやアピールが伴わないために破産寸前の運営状況で、研究すらままならなくなっている。
 私の知人に東京大学のとある著名な研究室の教授がいたが、彼は、競争的資金を勝ち取り、何億ももらったところで使いきれない。最新の機器を揃え、外国人留学生を招いて、設備投資も人材投資も潤沢なのに、まだお金が余っている。本当は地方大学に回したいのだが制度上できないのが残念だと義憤に駆られていた。立派な学者だ。おりた予算を使い切らないと今度は、将来的に予算を減額されてしまうという危機感もある。そのために不要に高額な椅子を揃えたり、パソコンを最新のものに買い替えたり、といったことをしている研究室は少なくない。
 期限付きの資金に頼る雇用
 さらに、この競争的資金は資金自体に2年、3年、5年といった期限が付いている。このため、資金が配分されたあるプロジェクトに必要な人材として、期限付きのポストが創出される。資金が尽きた時、プロジェクトの更新がなされなかった時にクビになるのは、この期限付きの職に就く若手研究者だ。
 大雑把に言えば固定費である校費が高年齢教官に費やされ、期限付きの資金が任期付き若手教員を生み出す、という構造なのだ。
 この結果、何が起きたか。大きく分けて『三つの減少』があげられる。
 まず一つが、日本の論文数の減少だ。イギリスの権威ある総合化学雑誌『ネイチャー』の日本版では今年、特集を組んで過去10年で日本の科学が大失速していることを明らかにした。記事によると、2005年から2015年の10年間、世界で発表された論文数が80%増えた一方で、日本発の論文は14%増にとどまっている。研究開発費も他国が軒並み増やしている中、我が国は17年間ほぼ横這いである。『ネイチャー』ははっきりと『日本では2001年以来科学への投資が停止して』いると記しているが、まさに2001年からの『小泉・竹中構造改革』の負の遺産なのだ。
 二つ目の減少は、若手研究者による独創的な研究だ。数年ごとに首を切られる環境にある任期付き教員は、常に次の職を求めて就職活動を行わなければならない。他大での公募情報に目を配り、年間50も100もアプライする。そのための書類作業だけを考えても少なくない時間を取られてしまう。教員の本分として大学の講義も持つため、その準備も必要であろう。任期があるばかりでなく、こうした日々の時間的制限もある中で、次のポストを得るための成果を作るべく、彼らは手っ取り早いテーマで論文の数を稼ぐことになる。じっくりと腰を据えて、リスクが高くオリジナリティに溢れる研究に没頭することは難しいだろう。
 三つ目は、博士課程進学者の減少である。博士課程を修了したとしても、そのあとポスドクとして数年間を過ごし、やっと助教になれたところで任期付きの職にしかありつけない。いつ失職するかしれない状況で40歳を迎えるようでは結婚もままならない。そのような研究者たちの置かれた状況を目の当たりにしては、博士号への意欲も削がれるというものだ。加えて、学生たちの間では『博士課程なんかに行ってしまっては民間企業への就職ができなくなる』という認識が、一般常識として共有されている。新卒一括採用制度が依然として根強いこの国では、博士課程を終了した30歳間近の人間にひらかれている就職口が非常に少ない。こうしてここ何年も修士課程の修了者は増える一方で、博士課程への進学率は下がり続ける、という状況が続いている。博士号取得者には自動的に中高の教員免許を与える、などといった優遇措置も必要だ。博士課程に進む際の保険となる。
 現況が続くとしたら、いずれ科学を志す少年少女さえいなくなるだろう。日本は終わる。
 競争的資金には一定の存在意義もある。競争的資金がほとんどなく、豊かな校費のみで成り立っていた時代、一度手にした教授職を奪われることは不祥事でも起こさない限りありえないため、ろくに研究もせず毎日魚釣りに行っていてもクビにならなかった。これを打開する一案として日本は、競争原理を生かして成果への効率をあげているアメリカに倣い、競争的資金を増やしてきた。しかし一部だけを真似て日本も同じになれると思ったのは早計だった。アメリカには新卒採用制度といった言葉すら存在しないし、大学の研究職と民間企業の間でも人材交流が盛んにある。仮に研究から退いた場合でも年齢制限などなく就職先が確保できると安心できれば、博士課程進学者は増えるだろう。
 日本企業としても、専門的な知識を持った博士課程修了者を雇ってじっくり研究開発に携わるといったことを積極的に行えば、長期的なイノベーションに大きな効果が期待できる。既存の事業を遂行できる学生ばかり採用するのは、大局観がないと言わざるを得ない。株主の意向を汲む企業が直ちに採用計画を転換させることは難しいのだろうが。
 大学と国の体制を変えるには、どんな手段が可能だろうか。一定の競争的資金による競争はもちろん重要であるが、現況はあまりに偏りがあるので加減しなければいけない。少数の天才だけでは学問は発展しない。底辺の広いピラミッド型にして初めて頂点が高くなるのだ。校費を増やし、任期なし教員をもっと増やす。その代わり、定期的に評価制度を取り入れる、年功序列ではない給与体系にする。また、60歳以上の教官は再雇用にして給与を3割カットするなどの具体的な解決策を考えるべきだ。
 競争的資金の過剰な増加にはもう一つデメリットがある。期限付きのプロジェクトのため、任期付きの助教、任期付きのポスドクを多数配下に従え、教授たちは研究の時間を削った書類を書く作業に追われている。その昔、アメリカに留学した頃、いつも書類仕事ばかりしていた教授の背中を思い出す。
 その上、教授ともなると異常な頻度で無用な会議に出席しなけらばならない。一般企業にも言えることだが、組織の上層部では何かあった時に自分一人で責任を負いたくないから、会議ばかりしている。
 お茶の水女子大附図書館館長を務めたとき、私は会議をほとんど開かなかった。『会議は開かず、私が決める。何かあった時の責任は全て私が取ります』と言い放ち、いわば独裁をしていた。責任を取ることができる上司がいれば、それでいいのだ。くだらない会議ほど、本質的でないがゆえに判断がつきにくく、長くなる。日本中の教授たちは、書類作りと会議に忙殺され研究に注力できないでいる。学内の意思決定方法を抜本的に変えると同時に、事務の充実も必要だ。

 日本の科学技術の凋落を嘆く時、ノーベル賞に意味があるのか、役に立たない基礎科学に力を入れていても資本主義社会のグローバリゼーションの波についていけない、という意見があるが、これは見当違いだ。
 竹中平蔵が目指したような金融立国に、日本はなれない。日本人には『嘘や卑怯は悪徳中の悪徳』という感覚が染みついているからだ。他国のように『騙された方がバカだ』という精神姓を欠いているから金融立国には向かない。科学技術を力強く発展させ、画期的イノベーションにより、製造業で繁栄するしかないのだ。
 国家としての品格
 古来、日本人は美しいものを作ることによって機能性の高いものを生み出してきた。1543年にポルトガル人が種子島に鉄砲を伝えたが、わずか30年後、織田信長はそれを堺で大量生産し、見事な鉄砲隊を組織してしまった。この鉄砲は当時の世界最高水準だったという。まず真似ることからはじめ、日本人特有の美的感覚によってより機能的なものを生み出す──これが日本人の得意とするところだ。
 10年ほど前だったか、韓国の新聞社から『どうすれば日本のようにノーベル賞受賞者を育てられるか』と問われた時、私は『山に植林をしたらいい』と答えたことがある。中国の首都北京には近寄るのも憚れるような川が流れている。こうした環境では美的感受性が育たず、ノーベル賞級の研究は生まれにくい。
 基礎科学はたしかに、金儲けに直結するようには見えないかもしれない。しかし強い基礎科学があって初めて強い技術が生まれる。ES細胞、iPS細胞という日本でなされた基礎科学上の発見があった今、膨大な応用技術が生まれつつあり、膨大な富をいずれ日本にもたらすのだ。実際、世界中を見まわしても技術革新の出てくる国は基礎科学の強い国に限るのだ。イノベーションを繰り返していないと、新興国に負けてしまう。例えばどんなに日本が燃費の素晴らしい車を開発したとしても、数年を待たずして新興国はその技術をコピーしてそれより少し劣る車を半額で売り始めるだろう。消費者は当然そちらに流れていく。したがって、役に立たないように見える基礎的な学問にこそ、人を注ぎ込まなければいけないのだ。日本における基礎科学の弱体化は、大きな経済的損失を招くということを理解しなければいけない。それに加えて、基礎科学での輝かしい業績をなす国は人類への貢献として世界から尊敬される。国家の品格が格段に高まることも忘れてはならない。
 なぜここまで大学が逼迫しているのか。突き詰めて考えるとそれは、教育機関が圧力団体としては最も弱いからだ。
 例えば医療業界であれば、事情が違う。この10年間で高血圧の基準はどんどん下がって、高血圧人口は3倍になり、製薬会社はぼろ儲けした。圧力団体として医師会に力があるからだ。
 しかし大学はどうだろう。予算権を握る文科省の課長に、東大京大の学長がもみ手をしなければならない構図である。日本に限ったことではなく世界中で、教育予算は最初にカットされる傾向がある。とはいえ、だ。日本はOECD加盟国の中、小中郄大全ての予算が最下位という惨憺たる状況だ。
 今年、東京大学は2021年度までに300名を任期なし教員に転換する、という目標を掲げた。若い研究者のための判断としては素晴らしいが、この財源は運営費交付金に頼る土地運用など外部から調達した資金で賄うという。膨大な土地を有する東大だからできることで、地方大学の苦しい状況は変わらない。
 さらに踏み込めば、科学技術とはそのまま『国防』に直結している。これは、線引きできるものではない。原爆や水爆は、相対性理論から生まれた。アインシュタインの意図はそこになかったとしてもだ。あるいは量子力学の発展がミサイルシステムを可能にしている。
 私が学生の頃、整数論など500年先まで人類の役に立たない、と揶揄された。ただ美しいから、私は整数論を専門にしていたのだが、現在ではあらゆる『暗号』に用いられるようになった。国家機密にかかわるセキュリティシステムから、我々が日々使っている銀行のキャッシュカードやSuicaのような交通ICカードに至るまで、番号の振られたものには暗号が役立っている。
 軍事は今後ますます、陸海空軍といった人的な戦闘力よりも、科学技術に頼っていくこととなるだろう。基礎科学が衰えることで国防がままならなり、経済力も衰退すれば、祖国日本はなくなってしまうか、凡庸な極東の島国としてしか存在しなくなる。一見役立たない基礎科学の充実が焦眉の急である所以だ。」
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 将来にわたって科学立国日本を維持するという命題に対して、政治家や官僚はもちろん企業家・経営者には期待できない。
 政治家は、数年おきにある選挙で当選する事しか興味も関心もなく。
 官僚は、今年の獲得予算の消化と来年度の税収と数年後の増税、そして退官後の天下り先にしか興味も関心もなく。
 企業家・経営者は、任期2年〜4年の内の業績と半期6ヵ月か四半期3ヵ月の売り上げにしか興味も関心もなく、その為に粉飾決算を行い、データの偽装・改竄・捏造や不祥事や不正行為を隠蔽して恥じない。
 誰も、30年〜40年後はおろか10年〜20年後さえ、自分に関係ない、自分に影響しない事などには興味の関心も薄い。
 将来、子供や孫の世代が、中国や韓国に負け、新興国に抜かれても興味も関心もない。
 中長期の利益より短期の利益。
 将来の儲けより現在の儲け。
 基礎科学より応用技術。
 口先だけの理想的正論が、日本を支配し、日本の将来を決めている。
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 政治家も官僚も企業家・経営者も口々で子供の教育の重要性を強調するが、それは建前で、本心は興味も関心もない。
 嘗て話題になった「米百俵」の話は、しょせん幻想でしかなかった。
 教育重視の「米百俵」を教訓とした、政治家、官僚、企業家・経営者は誰もいない。
 それが、現代日本の紛れもない現実である。
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 確実に、日本の科学技術力は低下し、日本人のモノ作りは衰退していく。
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 国際的日本企業で、科学技術や製品開発の信用を失墜させるような不祥事・不正が発覚し、止まるとこをしらない。
 最高学府を優秀な成績で卒業した企業エリート達は、無様に、みっともなく、頭を下げて謝罪している。
 企業エリート達の謝罪が、本心なのか狂言なのかわからない。
 日本の製造業・加工業の末期症状を思わせ惨状が、日常茶飯事的に起きている。
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 日本は多額の資金をムダな開発費に回してドブに捨てる事を嫌い、欧米でのイノベーションを期待し、国内でのイノベーションを望んではいない。
 それが、企業が溜め込んだ内部保留資金の実体である。
 日本企業がイノベーションを目指しているというのは、世間に対する欺瞞であり、世間を誤魔化す真っ赤な嘘である。
 その象徴が、メイド・イン・ジャパンの代表的産業であった白物家電業界であった。
 その欺瞞や嘘の証拠が、信用・信頼を大事にすると信じられていた日本製品の品質データの偽装・捏造そして欠陥の隠蔽などの不祥事・不法行為である。
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 中国共産党政府は、科学技術力向上の為に、日本の十数倍の予算と国際的人材を基礎研究に投入している。
 日本は、中国の潤沢な資金と豊富な人材には敵わない。
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 民主党政権は、日本は科学技術力世界一番を目指す事を止め、二番手か三番手に甘んじると公言した。
 日本が理想としたオンリーワンとは、ナンバーワン、世界一番を目指さないと言う事である。
 中国共産党幹部は、日本人が真顔で言う「オンリーワン」を聞いて素晴らしい事だと微笑んだ。
 中国資本は、将来有望な研究だが資金が不足している大学の研究室や個人の研究家・技術者そして中小企業に潤沢な資金を提供し、その成果を吸い上げ製品化し中国製品として売り出そうとしている。
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 日本人研究者にとって、日本で研究するより中国で研究した方が成果が出しやすい。
 世の為人の為、人類の幸せに貢献できるのであれば、日本で研究しても中国で研究しても同じ事である。
 日本では意欲ある研究者や技術者は報われない。


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素顔の山中伸弥-記者が追った2500日-

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