📉54】55】─1─日本における文系現実思考と理系論理思考の融合は、好奇心と集中で成功させた。~No.113No.114No.116No.118 @

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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 哲学的論理学。
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 昭和天皇以来、日本皇室は多元的文系現実と一元的理系論理で均衡のとれた思考で行動している。
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 日本の成功の秘訣は、今まで見た事も触った事み聞いた事もないモノと出遭う「驚き」と「ときめき」である。
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 明治の成功は、不条理追認・曖昧容認・不合理受容の多種多様な文系的現実思考の上に、西洋の合理的哲学的科学的単純明快な理系的論理思考を、対立させず拒否させず絶妙に混ぜ合わせ、日本人に教育で根付かせた事にあった。
 明治から大正にかけて、硬直した儒教的空想観念思考を排除し、日本的文系現実思考と西洋的論理思考で柔軟的に行動していた。
 昭和に入り、江戸時代の曖昧な情緒的教養を持った大人が死に絶えるや、皇国史観・愛国教育で閉塞的排他的な硬直化した儒教的空想観念思考に支配的され、文系情緒思考と理系論理思考を融合した柔軟性が失われていった。
 軍国主義者・民族主義者・国粋主義者及び国際主義者らは、大日本帝国が世界的地位を得て指導的行動を取る為には、昭和天皇は他国の王公と同じように国家元首大元帥として帝王学を体現して毅然とするべきで、植物学者の如き軟弱な学究肌を持つ事に猛反対した。
 彼らは原理主義者的に、矮小的文系現実思考で排他性を強め広義的理系理論思考を理解せず拒絶し、科学的数値や技術的進歩を軽視して、アメリカなど自分より優位者に対して精神力で立ち向かおうとした。
 だが。日本本来の文系現実思考と理系論理思考の均整がとれた柔軟な多様思考は、絶対価値観に基づく画一的単一的一元思考で動いている世界では非常識として理解されないどころか排除される。
 世界の非常識的日本文化は、西洋的有用と日本的無用の両極を均整とれた形で併せ持つ事で成り立っている。
 文系と理系の何れかに偏り、有用と無用の均整を失うと、昭和前期同様に柔軟的曖昧な日本的思考は一方向に自己破壊的に暴走する。
 無軌道な暴走を防止しているのが、文系的現実思考と理系的論理思考の複合思考を象徴し守護する日本皇室である。
 それ故に、科学絶対主義を信奉するマルクス主義者は、是が非でも曖昧で情緒的な日本思考の保護者である日本皇室を廃絶しようとして。
 陰謀をめぐらし、大虐殺と大流血で暴力的に廃絶しようとしたのが共産主義者であった。
 戦前の日本は、人民革命で天皇制度を破壊しようとしたソ連・ロシア・中国共産党日本共産党ファシスト中国=国民党・朝鮮人独立テロリストと死闘を繰り返した。
 欧米列強は、国體(天皇制度)を死守しようとした日本を軍国主義者と糾弾し、自由・民主主義の大義を掲げて軍国日本と戦う共産主義者を全面的に支援していた。
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 文系現実思考と理系論理思考のカギを握っているのは、英語能力ではなく、日本国語能力である。
 日本国語能力が低下すれば、文系現実思考も理系論理思考も成熟しない。
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 戦前の日本人が、「進歩のない者は決して勝たない。負けて目覚めることが最上の道だ。日本は進歩ということを軽んじ過きた。私的な潔癖や徳義にこだわって、真の進歩を忘れていた。敗れて目覚める、それ以外にどうして日本が救われるか。俺達はその先駆けとなるのだ」(吉田満著『戦艦大和の最期』)と語った事に対して頭を垂れるしかない。
 現代日本人。とくに1980年代以降、「戦前の日本が愚かだったのは、科学を軽視し、技術の進歩を理解せず、精神至上主義で凝り固まっていたからである」と、公の場で、鬼の首を取ったかのように得意顔で発言する戦後生まれの知識人・専門家ほど醜悪な存在はいない。
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 吉川良三「三菱電機には、『1位を目指さなければならない』という気負いや、『寝食を犠牲にして働く』という必死さが薄い。だからこそ、必要な時に大きな改革に踏み切り、正しい戦略を立てることができた。『プライドよりも生き残る事が大切』と割り切れる事が、彼らの強みでしょう」
 「東大出の技術者は、自分の知識や判断に自信を持つあまり、道を誤ってもそれを認められない人が少なくない。でも三菱電機の場合は、こだわりが弱くてのんびりした京大的な気風のおかげで、ダメな事業はきっぱり諦め、別の道を探す柔軟性を持てたのかも知れません。
 厳しい競争に勝ち残ろうとして無謀なリスクをとる企業が多い中、『負ける勝負はしない』という慎重さが、逆に強みになっているのでしょう」
 「私の発言で撤退を決めたとは思いませんが、少なくとも三菱電機の経営陣に、『勝てない』と見た分野からはためらわず退く決断力がある事は間違いありません」(東京大学大学院ものづくり経営研究センター特任研究員)
 三菱電機某幹部社員「うちは半導体もそうですが、携帯電話事業でも儲からないとみて、08年にいち早く撤退している。結局『目立つ事には手を出してしまうと、大抵ろくな事がない』と分かっているんです。
 過去の失敗の御陰で、エレベーターとか自動車の部品とか、地味で格好悪い事業に専念して、確実に儲けを出す会社に変わる事ができた。華はないけど、これが三菱電機なりの『選択と集中』という事なんですよ」 
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 明治時代の日本産業は、欧米の国際金融資本からの巨額の借金や国際企業の技術支援を受けて支配される事なく、近代化の為に少額の民族資本で世界的な著名な学者や最先端技術を持った有能な技能者を数多く招聘して指導を仰いだ。
 そして、巨額の利益を上げている欧米の最先端産業ではなく、地味でありながら生活に必要な隙間産業に活路を見出した。
 日本の近代化は、バランスが取れた理系理論思考と文系現実思考で、乏しい民族資本のみで「選択と集中」を行い、技術革新として最先端科学と伝統技術を組み合わせてメイド・イン・ジャパンを作り出して成功した。
 表舞台に於ける主要産業で欧米の国際企業と争っても勝てない事が分かっていた為に、欧米が撤退した分野や手を出さない分野に活路を見出した。
 生物の歴史において。弱小生物は、強大生物や競争相手の少ない生活環境の悪い不毛地帯に逃れて生き残った。
 日本は、ある意味で、何時の時代でも弱小生物であった。
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 2015年10月号 WiLL「今こそ『論理的思考』の教育を D・アトキンソン
 ……
 自分自身の矛盾に気がついていない人が多いのです。
 誤解してほしくないのは、私は『日本人は馬鹿だ』とか『日本人は頭が良くない』とか言いたいのではありません。
むしろ逆で、私個人は日本人は頭のいい人が多く、海外に比べて日本の教育制度は全体として大きな成果をあげていると思っています。
 ですが、高学歴で素晴らしい頭脳を持っている人でも国策、国の方針などの議論をする際、出る言葉は『論理的思考』とは程遠いものだったりします。非常にもったいない。
 平和安全法制の議論にしてもそうです。日本が戦後、平和でやってこられたのは日米安保があったからにほかならないわけですが、反対派は平和憲法があったからだといいます。これはどう考えても無理がある。
 アメリカがいつまでも味方でいてくれるかどうかわからない。アメリカを縛る意味でも安保法制が必要だと考えるのが普通でしょう。
 英語教育の問題点
 なぜ、日本人は論理的思考が苦手なのか。私は教育の影響が大きいのではないかと思います。
 日本でこの話になると西洋と東洋の違いの論議になり、西洋は元々、議論文化でロジック主義だから日本とは違う、と言われます。たしかに14世紀までは、支配層のロジック教育は黄金時代でした。その後、その文化が崩れて19世紀に入り、産業の発展によって民主主義が発展されるに伴い、再び次第にロジック教育を強化するようになりました。また、機械化が進めば進むほど、ロジック教育の強化が重視されてきました。昔からの文化とは必ずしも言えないのです。
 イギリスでは教育の目的がハッキリしており、論理的思考力を身につけることが大事にされています。
 日本同様、イギリスでも国語や数学、歴史などの科目を学びますが、習う科目はすべて『論理的思考力』をトレーニングするためのツールと考えられています。
 一方、日本では教育の目的を調整する必要があるのでは、と思っています。英語教育がいい例です。
 現在、日本は初等教育から英語を科目に導入するなど英語教育の強化を推し進めています。頭が柔らかいうちに学ぶのは大切なことですが、いまの日本の現状を見ると英語を学ぶ意味はあるのか、疑問です。
 目標があるのならそれは別にして、日本では英語が必要になるほど頻繁に海外旅行へ行く人はまだ少数ですし、仕事で英語が必須となる外資系企業が日本にどんどん入ってきているわけでもありません。
 訪日観光客は傾向にありますが、2014年は1,341万人。そのうち89.1%はアジアからの観光客ですから、英語で対応する機会もあまりない。
 ……
 政府が今後、国策として欧米、欧州の留学生をより多く受け入れるとか、反対に日本からの留学生を増すとか、本気で観光立国を目指すとか、目標を明解にしたうえで英語教育を行わない限り、せっかく学んだことが生きてこない。
 英語教育は良いか悪いかを議論する前に、教育の目的をハッキリさせる必要があるのです。
 私個人は国際交流、あるいは仕事において英語が話せる、話せないは重要ではないと思っています。
 優れた人材であれば英語の上手い、下手はそこまで関係ありません。その人といることで得られるメリットのほうが重要だからです。もちろん、ビジネスマンとして英語が話せるに越したことはありませんが、ゴールドマン・サックス時代、英語が話せるだけでまったく仕事のできない、ビジネスセンスのない日本人をたくさん見てきました。
 あまりにそういう日本人が多かったので──もちろん、全員がそうだとは言いませんが──『英語が話せる日本人=使えない人材』というイメージが植え付けられたほどです。
 建設的な議論ができない
 論理的思考の問題に戻りましょう。日本人は論理的思考の教育が十分されていないためにか、根拠のないことであってもすぐ真に受けてしまう傾向があります。
 たとえば、高度経済成長神話です。よく戦後日本が奇跡の復興を果たすことができたのは、日本人が高い技術力を持ち、勤勉であったからだと言われます。
 しかし、この説には根拠がありません。厳然たる事実のようになっていますが、高い技術と勤勉さによって世界第二位の経済大国になれたあけではなく、本誌9月号でも書いたように、爆発的な人口増加が主な要因だったのです。
 こういうことを言うと、『違う!日本が技術大国・ドイツを抜くことができたのは、ドイツより優れた技術があったからだ』と反論する方がいます。
 先進国の技術力、生産性の数値はほぼ横並びで変わりません。そうなると、人口1億3,000万人の日本と人口8,000万人のドイツが同じように経済活動すれば、人口の多い日本のほうが経済規模で優るのは当然のことです。
 日本人が高い技術を持ち、勤勉なのは事実ですが、そのこととGDPの総額との相関関係は、現時点では証明されていません。
 物事にはメリット、デメリットの両面があります。ところが日本の議論では、『少しでも社会的コストがあるのならやらないほうがいい』となってしまう。
 デメリットがあるならば、そのデメリットを徹底的に分析し、どうすればリスクを回避・軽減できるのか『論理的』に考えるべきでしょう。ですが日本人は感情論に陥りやすく、建設的な議論にならないことが多い。
 論理的思考と自画自賛
 最近、日本と海外を比較して優劣をつけ、『やっぱり日本は凄い』と自画自賛する本が流行っていますが、他国と比較して一喜一憂する日本人の姿は、私の目には奇異に映ります。
 私は外国人観光客がイギリスを絶賛したとしても、特段、嬉しいとは感じませんし、貶されたとしても腹は立ちません。
 私がオックスフォード在学時代、ハーバード大学からアメリカ人留学生が来ましたが。彼はイギリスを馬鹿にするようなことをよく言っていましたが、私や友人たちは別に腹を立てることはありませんでした。アメリカ人留学生にイギリスの選挙の投票権があるわけではないし、何を言われようが関係ないからです。
 私の知る限り、イギリスには、日本のように他国と比較して優劣をつける本がありません。
 ……
 その手の本が日本で流行っているのは、日本人が論理的思考が苦手なことと無関係ではないと思います。
 なぜ、日本は論理的思考の教育をあまり行ってこなかったのか。
 理由は、高度経済成長が関係しています。日本は先の大戦で、GDPが戦前の約半分(987億USAドル)になるほど、諸外国に比べてダメージが大きかった。まだいまほどコンピュータが発達していない時代ですから、復興を果たすためには、論理的思考云々よりまず、がむしゃらに働かなければなりませんでした。
 そのため、学校では朝から晩までしっかりと真面目に仕事をこなせる人材を育てる必要があったわけです。簡単に言えば、社会の秩序の方が大切でした。
 つまり、日本のこれまでの教育は、国の成長に必要な人材を育てる意味では成功してきたと言えます。ために、『これまでの詰め込み教育はよかった』云々という議論は、私はナンセンスだと思います。
 日本が爆発的な人口増によって、経済成長できる条件に恵まれていたことも関係しています。
 たとえば、企業は人口が増えているのでマーケットがどんぢん大きくなり、創意工夫しなくても消費者はばんばんモノを買ってくれました。
 これまでの教育制度は、そぼ時代に見事に合っていたのです。
 新たな戦略が必要
 ですから大量生産、大量消費の時代は終わりました。これからは人口減少の時代に突入し、マーケットも縮小していきます。
 企業は大量生産時代、過剰につくった工場などを縮小せざるをえなくなり、また、競合他社からシェアを奪い取らなけばならなくなります。新しい市場、商品開発はどうすればいいのか、戦略を立てる必要が出てきます。その時、これまでのように『ただ目の前の仕事をこなせばいい』という人間では、問題を解決できません。これからは、論理的思考が否が応でも求められるのです。
 ……
 先ほども触れましたが、論理的思考の教育というと、西洋では太古の昔から論理的思考のトレーニングをしているかのよう思われる方もいますが、『論理的思考力を身につける』とハッキリと目標に掲げ始めてからは、まだ100年も経っていません。
 イギリスは1931年、帝国から連邦に統治システムが変わり、市場を失うなど、大英帝国時代とは状況が一変しました。それによってこれまでにない問題が生じ、国民に論理的思考力が求められるようになった背景がありかす。いまだに憲法がなく、曖昧が好きなイギリスの教育制度は必要にかられて論理的思考を強めてきました。
 これは、イギリス人の価値観の押し付けでは決してありません。イギリスと日本は条件が似ていると思います。今後、人口増加の時代から激減の時代に日本は突入していきます。イギリスと同様、これまで直面したことのない問題に日本は対処しなくてはならなくなる。
 その時のためにも、論理的思考のスキルを教育で身につける必要があるのです。」
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 12月31日・16年1月7日新年特大号 週刊新潮 「愚見妄語 藤原正彦
 理系のリスク 
 ケンブリッジ大学で物理を修めた作家C・P・スノウは、『理と文の間に話が通じ合わなくなった』と1950年代に嘆いた(『2つの文化と科学革命』みすず書房)。その30年後にケンブリッジで暮らした私にとっては、2つの文化の懸隔(けんかく)は我国の方がはるかに大きいという印象だった。我国には理系と文系という言葉がある。これに当たる言葉は海外で耳にしたことがない。旧制高校が理系と文系に二分されていたことから始まったという。それが新制大学に受け継がれ、理系か文系かで受験科目が異なるため、高校でもある学年から生徒はこの二群に類別されることになった。理系か文系かは通常、数学が得意か不得意かで決められている。得意な人と不得意な人の間に、当初は本質的な違いはほとんどない。それが大学へと進むにつれ、違いが目立ってくる。理系学生は、日進月歩の科学技術に関し学ぶことが多く、研究室での実験などに追われながら、文系のように遊びや読者のヒマを持てない。文系に比べると、遊びも知らない、読書も知らない、女も知らない、ということになる。
 思考までが変わってくる。理系は論理的に考えようとするし、文系は現実をよく見ようとする。理系の軸となっている数学は完全に論理的なものだ。万人の認める公理から出発し、論理の道筋に沿ってすべての定理が証明される。ここで大事なのは、ある方法により『Aは正しい』と証明されれば、他のどんな方法を用いても同じ結論しか出てこない事だ。『Aは正しくない』といういう結論が出ると数学に矛盾が生まれてしまうからだ。数学には永遠に矛盾が出ないと信じられている。これを証明することはできない、ということが証明されている(ゲーデル不完全性定理)が、有史以来、一度も矛盾が出ていないから誰もそう信じている。だから理系の人は学問以外のことであれ、論理が一本通ればそれが唯一つの真理と確信し、教養という制動も持たないから他の意見を強く排斥しがちだ。実社会に万人の認める公理などなく、むしろ地球上の1人一人が別の公理を持っていると言ってもよく。自ら公理では論理的に正しくても、他人から見ると誤りと映ることもある。文系は元々論理などは胡散臭いものと思っているから、1つの結論にたどり着いても、他の方向から考えるとどうかと色々吟味する。一本調子で猪突猛進の理系、注意深く慎重に進み、時にはウロウロするばかりで前に進めない文系、という対照的な二種の人間が生ずる。
 この傾向は理系の政治家を見るとはっきりする。元首相の田中角栄氏(一級建築士)、鳩山由紀夫氏、菅直人氏はみな理系で自らの信念により猛進した。共産党委員長の不破哲三氏と志位和夫氏も同様だった。ソ連では、フルシチョフ、ブレジネフ、コスイギン、エリツィンと指導者は軒なみ理系で党の教義を脇目もふらず貫いた。バランスのとれたゴルバチョフは法学部卒であった。中国でも最近の国家主席3人、江沢民胡錦濤習近平はみな理系だ。サッチャー英元首相は化学、メルケル独首相は物理学の出身で、共に鉄の女として周囲の批判など物ともせずその信条により驀進(ばくしん)した。サッチャーは徹底した新自由主義財政赤字を克服したが、同時に弱者や地方には血も涙もない政策を行ない、よき伝統の多くを破壊し。後の政権がいくつかの改革を元に戻さざるを得なかった。メルケルはヨーロの盟主として弱者ギリシアをいたぶりつつドイツだくが儲かる仕組みを確立し、一方では人道主義を高らかに唱え巨大な難民を許し、ヨーロッパを台無しにしようとしている。ちなみに、何と言われようと告げ口外交など反日を貫く朴槿恵大統領も理系だ。会社のような組織に明確な目標がある場合は理系は強いが、国内外の全方向に目配りしながら微妙な舵取りが必要となる指導者には、理系はリスクが大きいと言えるかも知れない」
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 藤原正彦「まず国語を徹底的にやって、読書を好きにして、活字文化を復興しないと日本人が沈んでしまいます。英語どころの騒ぎじゃない。
 それからIT教育といって小学校からパソコンと戯れていたら、日本からパソコンを作ったり、素晴らしいソフトを書く人がいなくなってしまう。そういう仕事をするためには、きちんとした論理的思考を育てないといけない。数学を叩き込まないといけない。
 国語を小学校でやって、中・高校で数学、あとは歴史教育が必要です。縄文・弥生はともかくとして、現代史を」
 「数学をするには国語が分かっていなければならない」
 「万葉の時代から、庶民が歌(和歌で気持ちを表していた)を詠んでいた。……素晴らしい伝統の『伝統』です。」
 「なぜ日本だけが(ノーベル賞を受賞している)かというと、(日本国語による伝統的)文化や芸術の厚みがあるからです」
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 2016年新年特大号 週刊新潮 「もう一度 ゼロからサイエンス 竹内薫
 理系発想法
 ……
 本当は、理系と文系の違いなどない。それはきわめて日本的でローカルな話であり、グローバルな違いではない。だが、そうは言っても、日本人の多くが、理系と文系を区別する『マインド』になっている以上、そこには、なにがしかの発想や行動の差があるはずだ。その差に注目して、日本人は『理系だ、文系だ』と騒いでいるに違いない。いったい、それは何なのか、改めて考えてみよう。
 理系発想法その1。まず、『難しくなどない』があげられる。文系人間を自称する人々にとって、理系の話はやたら難しく感じられるようだ。そして、理系人間を自称する人々にとって、それは(難しくなく)楽しい話なのだ。数式や化学式は、難しいのか、それとも楽しいのか。
 誰だって、初めて出会った数式や化学式は理解できない。理系の『記号』の背景には、さまざまな約束事が隠されている。たとえば、積分のしかつめらしい記号(∫)を見たとき、理系人間はこんなふうに考えるはずだ(人によってちがいますけど)。
 『ああ、これは足し算の和を意味する英語のsumの頭文字sだよね。それを上下に引き延ばしただけなんだ』(歴史的には、ラテン語のsummaが由来)
 積分というと難しく聞こえるが、やっていることは、足し算にすぎない。ただし、足している数は、無限に小さな数だったりする。無限に小さな数を無限にたくさん足すことが積分であり、その結果は、無限になることもあれば、有限になることもある(学校の時間の時間に出される積分の問題の場合、計算結果は必ずといっていいほど有限だが)。
 ようするに、積分記号(∫)の周囲には、足し算や無限といった概念がフワフワと漂っている。それは、ふつうの言葉の周囲に漂う『ニュアンス』に似ている。『りきむ』のと『いきむ』のとが違うように、和記号(�堯砲叛冓ⅰⅤ罅腹蕁砲眈咩弘磴Δ箸いΔ錣韻澄�
 記号のニュアンスを感じとったとき、その記号は『難しい』から『楽しい』に変わる。難しいと感じて拒絶してしまったら、その記号は永遠に楽しくない。だから、楽しくなるまで、その記号と付き合ってみるのだ。それが理系発想法の原点だと思うのである。
 次に行こう。理系発想法のその2『前例主義の打破』。これも重要だ。ノーベル賞を受賞した人たちは、前例に則って延々と計算や実験をくりかえしているわけではない。もちろん、彼らだって、最初は前例に従って計算や実験をやっていた。そもそも、学校の教科書で教わることは、ことごとく前例なわけだから、まずは、それを習得する段階がある。でも、彼らは、ある時点で、前例を打破して、独自路線を歩み始める。それが『発見』や『発明』と言われるものなのだ。
 あるいは、会社勤めで仕事を学んだ人が、ある時点で脱サラして、ベンチャー企業を立ち上げる。それも、前例をなぞる段階から、前例打破へと飛翔したのだといえる。
 もちろん、同じ会社に勤め続けながら前例を打破する人もいる。それまでの業務処理のやり方を変えてIT化したり、工場の組み立ての過程を見直す作業だって前例を打破しているのだ。」
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 1月14日号 竹内薫 「人間がパソコン以上の能力を発揮するには・・・
 理系発想法 その2
 理系発想法その2は『前例主義の打破』だ。
 そもそも、人間の脳と人工知能の根本的な差は、この『前例打破』にある。人工知能は、機械学習によって徹底的に前例を学ぶ。だから、前例に習熟するほど能力を発揮できるような仕事は、将来的に、ほとんど人工知能が」受け持つことになる。前例主義で仕事をしている人は、やがて、人工知能に取って代わられる運命にあるのだ。
 第3次(4次)産業革命が到来しつつあり、人々は、漠然と『理系の方が失業しないのではないか』と考えているかもしれない。だが、失業するか否かは、理系・文系ではなく、前例を打破して、クリエイティブな仕事ができるか否かにかかっている。
 ……
 理系の仕事は、新製品の開発にしろ、新薬の開発にしろ、新材料の発見にしろ、とにかく前例を打破しないと話が始まらない。でも、次なる産業革命がひたひたと近づいている今、文系に分類されている仕事においても、前例打破が、生き残りの必須条件になりつつある。
 さて、前例の打破と密接に関係しているのが、理系発想法その3『事後調整』である。
 私が初めてこの言葉を耳にしたのは、通信、交通コンサルタントでジャーナリストでもある神尾寿さんとの対談であった。神尾さんは、アメリカからグーグルやアップルが生まれるのに、日本から同じタイプのベンチャーが生まれない理由として、『アメリカは事後調整型、日本は事前調整型だ』と指摘され、私は、目から鱗が落ちる思いがした。
 アメリカ国民の多くは、科学技術に絶対の信頼を置いている。日本は、科学技術立国を標榜しながら、国民の間に科学技術への不信が根強い。その証拠に、アメリカと日本とでは、科学雑誌の売れ行きが10倍も違ったりする。そのことと、事前・事後調整型の差は密接に関係している。
 科学技術は、どんどん先に進んでしまうから、社会の側は、事後調整するしかない」
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 1月28日号 竹内薫「『数学とは何か』を数学するとは?
 理系発想法その4は『メタ認知』だ。教育関係や心理額関係でよく話題になる能力だが、理系の場合、特に数学で『メタ』な計算が必要とされることが多い。
 メタはギリシャ語で『超える』という意味。だから、『メタな視点』といえば、自分の視点ではなく、『自分の視点を俯瞰するような視点』を意味する。いいかえると、自分で自分の物の見方を客観的に眺めるのである。自分では正しい視点だと思っていても、周囲がそう見ているとは限らない。『他人の目を気にする』よくなどというが、まさに、自分の視点の枠を超えて、客観的に自己評価をするのが『メタな視点』なのだ。
 自分勝手な行動や他人に迷惑をかける人は、基本的にメタな視点が欠けていることが多い。
 逆に、メタ認知に優れている人は、自分の認識の誤りを自分で分析して修正するから、おのずと周囲から歓迎され、社会的な成功につながることが多い。
 ……
 数学の証明も、いったん数字にしてしまえば、『数学する』ことが可能になる。だから、メタな数学では、数学そのものを(数字に変換して)数学することが可能になるのだ。
 メタは、まるで蛇が自分のしっぽを呑み込む『ウロボロス』みたいですね。自分で自分を観察したり、数学を数学したり。文字のメタフィクションも同じ構造を持っている」
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 2月4日号 竹内薫「『コペルニクス的回転』のその後
 理系発想法その5は『コペルニクスの原理』。
 ……
 これは、地球が宇宙の中心だと思っていたら、実は太陽の方が中心でした!というのと同じように、『自分中心の考え方を改める』ことを意味する。今、太陽が中心だと言ったが、もちろん、太陽も中心ではなく、銀河の中心があるわけで、その銀河でさえも、無数に存在する銀河の中の一つにすぎない。いいかえると、コペルニクスの原理は『自分は特別でない』という『気づき』のことなのだ。
 物理学においては、地球中心説太陽中心説→銀河中心説→・・・という具合に、宇宙の中心が変わっていった。そして、今では、なんと、この宇宙そのものも特別ではなく。他に無数の宇宙が存在しているのではないか?という仮説が登場している。われわれは、たまたま、この宇宙に住んでいるけれども、他の宇宙にも知的生命体がいるはずだと考えられるのだ。こうやって、どんどん中心を改めっていって、特別な地位をなくしていくのが、学問の発展の流れであり、コペルニクスの原理なのである。
 このコペルニクスの原理の身近な応用としては、それこそ、男女機会均等法や、『この国だけが特別ではなく、他の国々の文化も考えないといけない』という多文化主義などが挙げられる」  
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 2月11日号 竹内薫「『相対性理論』の『相対性』とは  理系発想法その6
 理系発想法シリーズの続きである。前回はコペルニクスの原理をご紹介した。地球→太陽→銀河系中心→宇宙中心・・・という具合にどんどん中心が移っていくのが、科学理論の一般的な流れなのです。
 特別な中心がないという『気づき』は、絶対性から相対性への思考が発展することを意味する。音楽における絶対音感相対音感、成績の絶対評価相対評価など、世の中には、絶対と相対の両方の尺度が尺度が存在する。この2つの考え方は必ずしも対立するとは限らず、どちらの尺度の方が良いのかはケースバイケースだ。
 物理学の例を見ると、コペルニクス的転回は、宇宙の絶対中心であった地球が、その特別な地位を失って、相対化されたのだとみなすことができる。また、ニュートンの絶対空間・絶対時間という固定化された考えは、アインシュタイン相対性理論によって克服された。
 ……
 宇宙には一つの絶対的な時間があるのではなく、無数の相対的な時間が存在する。それがアインシュタイン相対性理論の思想的な意味なのです。
 …… 相対性というのは、ある意味、『中心をどこに置いてもよい』ということ。言い方を変えると『視点によって世界の見方は変わってくる』ということ。
 ……
 2つの視点があるから2つの観測結果がある。視点によって世界の見え方は変わってくる。それだけのことである」
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 福岡伸一「この本では、私の生物学やフェルメールとの出会いにも触れていますが、そこには好奇心と知識が連鎖する時間軸があります。ある知識には先行する知識があって、その知識を元に、また次の知識が生まれる。……それを学んで来たのが私たちの『教養』なんです。ネット上には、あらゆる知識が散らばっていますが、それらは時の流れを漂泊された、等価な断片にすぎない。ただの〝物知り博士〟なんですね」
 「科学と芸術、つまり〝理系と文系〟は対立するものではなく、お互いにセンスを必要とし合っている。その行き来が自由だったフェルメールの時代から続く時間軸の存在を、感じてもらえたら」(『芸術と科学のあいだ』)
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 旧名。ホロコーストに関して、天皇A級戦犯に幇助罪が成立するのか?
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 二つのブログを、五つに分けて建設する。
 プロフィールに、五つのブログを立ち上げる。 ↗
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 日本に欠如している普遍的な哲学的論理学。
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 2015年9月4日号 週刊ポスト 「大前研一 日本を甦らせるカギは『論理学』教育(ソクラテスの対話)にあり!
 文部科学省は今年6月、国立大学法人に対し『社会に求められる人材』を育てるために『速やかな組織改革』を要求する通知を出した。その中で『とくに教員養成系や人文社会科学系の学部・大学院の組織廃止や社会的要請の高い分野への転換』を求めたことが大きな波紋を呼んでいる。
 欧米では、文学、哲学から歴史、地理さらに美術や音楽に至るまで、基礎教養的な領域を学ぶ『リベラルアーツ(一般教養)』が、極めて重要視されている。たとえばアメリカには、レベルの高いリベラルアーツが中西部を中心にいくつもあり、そこを卒業していったん就職し、再び大学院に入ってMBA、弁護士、医者などの資格を取得する人が非常に多い。
 そして私の経験から言えば、グローバルな仕事をする時に最も役に立つのは(もちろん英語などの外国語ができることが前提だが)仕事に関する知識や議論する力よりも『幅広い基礎教養』である。ディナーなどの席で、その国や地域に関する歴史、地理、音楽、美術などについて豊かな会話ができる教養があれば一目置かれ、単なる仕事相手としてではなく、人間同士としての絆が深まるのだ。
 だから私は、文科省が今回のような通知を出した理由が全く理解できない。対象となった学部・大学院が『社会に求められる人材』を育てられていないとすれば、その原因はあくまで教育の『やり方と内容』であって、リベラルアーツとしての深まりが足りないからだ。
 本来、リベラルアーツは教科書的な知識だけを問う学問ではない。歴史や地理を扱うにしても、それが現代とどうつながっているか、自分たちにとってどんな意味があるのかが問われる。
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 そういった人文系の知識と現代の事象をつなぐような問の答えを探していくのも、広い意味でのリベラルアーツではないだろうか。むしろ日本人に欠けているのはリベラルアーツであり、それを軽視するのは大きな間違いだと思う。
 〝上から〟の教育は世界に通用しない
 そもそも、なぜ文科省が人文社会科学系や教員養成系の要不要を〝上から〟決めるのか? 少子化による18歳人口の減少で学生が減って定員割れが起きたりするなら、その学部や大学院は世の中のニーズに合わなくなったということであって、自然淘汰されるだけの話である。そこに〝上から〟介入しようとしていること自体、日本の教育の致命的な問題だと思う。
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 要するに、学問というものは、教える中身よりも『やり方』の問題なのであり、それは先生個人のクオリティによって左右されるのだ。学問や科目そのものに問題があるわけではないのである。日本の国立大学の人文社会科学系や教員養成系の学部・大学院に対する社会的要請が低い(社会に役に立たない)とすれば、それは先生のクオリティが低いからにほかならない。
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 さらに、安倍政権の教育改革では『職業訓練』を重視するという。
 この職業訓練とアカデミズムとを分けているドイツ型の教育システムを日本も導入すべきだと私は提案しているが、そのためには非常に緻密な設計が必要となる。ところが安倍政権や文科省は、それを既存の国立大学の組織変更という〝小手先〟でやろうとしている。そんな安直な方法で〝社会に求められる人材〟など育てられるはずがないだろう。
 ギリシャ哲学が日本人を変える
 繰り返しになるが、学問というのは教える教科よりも中身とやり方の問題である。そして、その基本は『実況中継』だと私は考えている。つまり、ある現象を見た時に、それを自分の知っている知識で説明しようとするのではなく、より柔軟に考えて実況できるかどうか、ということだ。
 もう一つの基本は『対話』である。西洋文化においてはロゴスの世界で証拠を示しながら臨機応変に議論できるかどうかで勝負が決まる。その基本は『ソクラテスの対話(ソクラテスの問答法)』だ。これは対話を重ね、相手の答えに含まれる矛盾を指摘することによって真理の認識に導く方法で、日本ではなかなか教えられる機会がないが、アメリカのリーダーたちは全員、このソクラテスの対話=論理思考(ロジカル・シンキング)を学んでいる。
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 私は『ソクラテスの対話』、すなわち『論理学』が、教育にいては最も重要な学問だと思う。
 ところが、日本の教育では論理学がほとんど教えられていない。なぜか?
 その理由に、私は最近ようやく思いたった。結局、明治維新以来の日本は『欧米に追いつき、追い越せ』でやってきた。つまり、欧米に答えがあったから、それを覚えさえすれば自分で考え出さなくてもよかったのだ。しかし、もはやどこにも答えのない時代である。ただ答えを覚えるだけで、論理をゼロから組み立てる頭の使い方ができない人は、社会で役に立たない。
 文科省が本当に『社会に求められる人材』『世界で活躍できる人材』を育てたいなら、入試制度や組織をいじるのではなく、論理学を基礎にした〝真の教育体系〟に転換すべきである」




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