🗡60〗─1─日本陸海軍は極秘に原爆開発を進めたが失敗した。~No.188No.189No.190 @ ⑯

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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 昭和天皇東条英機仁科芳雄。荒勝文策。
   ・   ・   ・   
 科学技術が理解せずで進歩を阻害したのは、軍人ではなく、最高学府を優秀な点数で卒業した文系エリート官僚であった。
 文系エリート官僚は、知的財産に関心がなかった。
 西洋の近代学問こそ最高の学問と確信する文系西洋礼賛主義者は、日本は幾ら頑張っても西洋に適わないとの認識から、日本人科学者・技術者が発明した科学技術を否定し、特許で守ろうとしなかった。
 陸軍大学や海軍大学を優秀な点数で卒業したエリート軍人官僚も、同様に、軍事技術に理解を示さなかった。
 軍国日本を破滅に追い遣ったのは、科学技術に理解力がなかった優秀な点数で卒業した文系エリート官僚やエリート軍人官僚そして自分の専門に閉じ籠もり蛸壺化・ガラパゴス化した科学技術者であった。  
   ・   ・   ・    
 科学者の昭和天皇は、理系論理思考と文系現実思考で科学技術の重要性を認識して、科学技術の可能性を理解し、科学技術がもたらす結果を想像していた。 
   ・   ・   ・   
 昭和天皇は、アメリカや中国との戦争を避ける事を希望し、戦争の早期和平を望み、原爆は非人道的な大量無差別破壊兵器であると確信して開発中止を命じた。
 昭和天皇は、文系現実思考と理系論理思考をバランス良く持っていた、開明にして英明・聡明な優れた天皇であった。
 その実績・功績は、歴代天皇の中でも群を抜き、明治天皇に匹敵する。
 その意味に於いても、新たに「昭和神宮」を造営し、祭神として祀ってもおかしくはない程である。
 昭和天皇は、世界で初の原爆・核兵器に反対した国家元首であり、それを実行した唯一の国家元首であった。
 昭和(ヒロヒト天皇は、世界で最も嫌われている天皇陛下であり、朝鮮人テロリストや反天皇反日的日本人暗殺者から幾度も命を狙われた天皇陛下どもある。
 世界で、昭和(ヒロヒト天皇を褒め称える発言や、良く言う論文は皆無である。
 特に、ユダヤ人の間では。
 そして、中国人、韓国人・朝鮮人、ロシア人らも同様に昭和天皇を憎んでいる。
 天皇戦争犯罪
 天皇の戦争責任。
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 昭和天皇は、非人道的大量無差別殺害兵器である原爆に猛反対し、その原爆を使用したアメリカに対して強う口調で非難した。
 アメリカは、原爆を使用した正当性「戦争を早期に終結させる為であった」を守るべく、昭和天皇を許さなかった。
 事実。原爆を使用しなくても、昭和天皇の命と地位を保障する「国體護持」を認めれば、原爆投下を行う前に軍国日本は降伏し戦争は終結していた。
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 原爆投下は、破壊力と人体への影響を知る為の実験であった。
 つまり、科学技術史上初めての放射能兵器による貴重な実地人体実験である。 
 日本人は、次世代エネルギー・原子力開発におけるモルモットにされた。
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 歪曲していえば、日本人は人類が手にする未来のエネルギーの発展に貢献した事になる。
 人類に対する尊い貢献である。
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 1770〜1831年 ドイツ人哲学者ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル「知識を増やすことと、人格を高めること、すなわち教養を身につけることができるこのが人間の特徴だ」
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 軍国少年は、日本国語による子供向け科学雑誌で最高軍事機密の原爆を知っていた。
 日本の科学雑誌は、英語などの西洋語ではなく日本国語で翻訳出版され、子供でも自由に読めた。
 日本の子供の知識欲は、欧米の子供には負けてはいなかった。
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 2015年7月23日 産経ニュース「【戦後70年】もう一つの「戦争裏面史」原爆開発競争 京都帝大「F研究」秘話 被爆地で新型爆弾の正体突き止めた“皮肉”
 京都帝大の荒勝文策博士らが原爆投下直後の広島で行った調査の資料(京都大総合博物館所蔵)
 「これは原爆だ」。昭和20年8月6日、米軍が投下した1個の新型爆弾で壊滅した広島市。その一報を受けて現地入りし、新型爆弾の正体を原爆だと突き止めたのは、皮肉にも旧日本軍から委託を受けて原爆の研究を進めていた日本の科学者たちだった。戦後70年を前に、京都帝大(現在の京都大)の荒勝文策博士(1890〜1973年)らが残した調査資料や研究ノートが新たに見つかり、歴史のワンシーンが改めて浮かび上がった。そこに記されていたのは、戦争に引き込まれながらも科学者として懸命に使命を果たそうとする姿とともに、国家の命運をかけた原爆開発競争というもう一つの「戦争裏面史」だった。
 見つかった研究ノート
 日本では第二次世界大戦中、旧陸軍が理化学研究所仁科芳雄研究室に、旧海軍は京都帝大の荒勝文策研究室に原爆の研究開発を委託した。
 「ニ号研究」の符丁で呼ばれた仁科博士らの研究では、熱拡散法によるウラン濃縮に着手。荒勝博士らの研究はfission(核分裂)の頭文字をとって「F研究」と名づけられ、遠心分離法によるウラン濃縮を目指した。
 しかし、物資の不足などのため双方の研究とも終戦までに成功しなかったとされる。
 戦後70年を前に、京都大では、荒勝研究室に所属していた科学者が残した研究ノートが新たに見つかり、原爆開発で最も重要とされたウラン濃縮についての記述も確認された。遠心分離装置の回転数を計算した数値や必要な資材の寸法、参考にした海外論文が記され、実際に研究を進めていた様子が分かる。
 終戦後、連合国軍総司令部(GHQ)は理研や京都帝大などを捜索し、物理学の基礎研究に使われる円形加速器サイクロトロン」を破壊。「原爆の開発につながる」との理由だった。この時、日本の原子核物理学の基礎を築いた荒勝博士の研究資料も、ほとんど持ち去られたという。
 荒勝博士の孫弟子で、核開発の歴史に詳しい政池(まさいけ)明京都大名誉教授=素粒子物理学=は「理研の原爆開発に比べて京都帝大のF研究は残っている資料が少なく、分からないことが多い」と指摘。「戦後70年もたって新たな資料が出てきたことに驚いた。歴史を検証するための貴重な内容が含まれている」と語る。
 当時は日本や米国に限らず、世界中の科学者が原爆の研究を進めており、戦争の行く末をも左右する国家プロジェクトだった。
 これまでに米国側で公開された資料から、日本海軍が上海でウランを購入して荒勝博士に提供していたことなどが知られている。しかし結局、原爆開発に成功したのは、優秀な人材を集め、圧倒的な資金を投入した米国だった。
 爆心地で土壌を採取
 昭和20年8月6日、米軍は広島に原爆を投下。直後に米国のトルーマン大統領は「原子爆弾を投下した」との声明を発表したが、理研や京都帝大などの科学者たちは独自の調査を行うために現地へ向かった。
 仁科博士は8日に広島へ入り、翌日には土壌などを採取。東京へ空輸して放射能の存在を確認した。
 荒勝博士は同10日に現地入りし、爆心地近くの西練兵場など十数カ所で採取した土壌からベータ線を計測、科学的な検証で原爆と断定した。残留放射能のエネルギーや半減期を調べて核分裂の生成物まで推定したのは京都帝大のチームが最初だったという。
 この時のデータを記録した資料は、政池氏が昨年末、荒勝博士の遺族から預かった遺品約550点の中から見つけた。
 「測定時間8月12日11時20分より13時30分迄」とあり、「上田大尉持参」「西練兵場」「土壌β線放射能」との記述や、放射線を測定した手書きのグラフが丁寧に記され、一緒に見つかった封筒には荒勝博士の名前や「原子爆弾調査」などと記載されていた。
 科学者たちの調査チームは、広島赤十字病院(当時)に残っていたエックス線フィルムの感光や、負傷者の白血球数の著しい減少を確認。いずれも原爆により放出された放射線の影響と結論づけ、8月10日に開かれた陸海軍の合同会議で「原子爆弾または同じ威力を持つ特殊爆弾」と報告した。これは終戦の判断に影響を与えたとされる。
 調査に向かう前、仁科博士は関係者にあてた手紙で「トルーマン米大統領)声明が事実とすれば、我われは腹を切るときが来た。米英の研究者は日本の研究者に対して大勝利を得たのだ」と書き残している。
 「米国にも劣らない研究レベル」
 荒勝博士らの調査チームが残した資料は、後に作成された報告書のもとになったとみられる。
 荒勝博士の遺品の中から見つかった新たな資料について、政池氏は「原爆投下直後の混乱状態でも精度の高い測定が行われていたことが分かる。苦悩を抱えながらの調査だったのだろうと思う」と語る。
 その上で、荒勝博士らが当時進めていた原爆開発に言及。「日本の基礎科学の研究レベルは高く、米国にも劣らないものだったといえる。しかし、物資が足りない日本で原爆を完成させるのは無理だということも、荒勝博士たちは分かっていたはずだ」と指摘した。
 政池氏は昭和34年、指導教授が弟子だった縁で、甲南大(神戸市)初代学長の荒勝博士と初めて会った。そのとき、荒勝博士は「これからの時代はコンピューターが非常に大切になる」と話していたという。「半世紀以上も前に、その重要性に気付いていた。非常に先見の明がある人だと思った」と振り返る。
 政池氏は現在、当時の様子を明らかにしようと、荒勝博士らが残した資料を詳しく調べている。
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 8月3日 産経ニュース「【戦後70年 核物理学の陰影(上)】幻の原爆開発 科学者が巻き込まれた2つの出来事とは…
 焼失を免れた旧理化学研究所37号館に当時のまま残されている仁科芳雄博士の執務室=東京都文京区本駒込
 湯川秀樹博士のノーベル賞受賞など輝かしい歴史を誇る日本の原子核物理学。しかし、草創期の終戦前後は苦難の時代でもあった。軍の依頼で極秘に行われ失敗に終わった原爆開発、その後に起きた円形加速器サイクロトロン」の破壊事件。記録や関係者の証言を基に、科学者が巻き込まれた2つの出来事の「当時と今」を追った。
   ◇   
 ≪理研「ニ号研究」≫ 
 ■幻の原爆開発、ウラン濃縮が壁
 ■実験失敗、焼失した「始終苦号館」
 由緒ある高級住宅街として知られる東京都文京区の本駒込。その一角に、昭和初期の建物が1棟残っている。かつての理化学研究所の研究棟37号館だ。この東隣にあった木造2階建ての49号館で戦時中、極秘の原爆研究が行われていた。
 研究が始まったのは戦前の昭和16年4月。欧米で核分裂反応を利用した新型爆弾が開発される可能性が指摘されていたことを背景に、陸軍が理研に原爆の開発を依頼した。核物理学の世界的権威だった仁科芳雄博士に白羽の矢が立った。
 約1年後、ミッドウェー海戦で大敗した海軍も「画期的な新兵器の開発」を打診する。仁科は原爆開発の可能性を検討するため、物理学者による懇談会を組織。だが、懇談会は「理論的には可能だが、米国もこの戦争では開発できない」と結論付け、研究は進展しなかった。
 本格化の契機になったのは仁科が18年6月に陸軍へ提出した報告書だ。核分裂のエネルギーを利用するには少なくともウラン10キロが必要で、「この量で黄色火薬約1万8千トン分の爆発エネルギーが得られる」と記した。後に広島に投下された原爆に相当する威力だ。これに陸軍が反応した。
 「米独では原爆開発が相当進んでいるようだ。遅れたら戦争に負ける」。東条英機首相兼陸軍大臣は研究開発の具体化を仁科研究室に命令。「ニシナ」の名前から、計画は「ニ号研究」と名付けられた。
  ■  ■  
 ニ号研究は原爆に使うウラン濃縮技術の確立、濃縮の確認に使う大型の円形加速器「サクロトロン」の開発、ウラン調達ルートの確保が3本柱だった。
 天然ウランには中性子の数が異なる同位体が複数存在する。核分裂するウラン235は全体のわずか0・7%で、残りは核分裂しないウラン238だ。
 原爆はウラン235の核分裂で出てきた中性子が、ほかのウラン235に衝突して瞬時に核分裂の連鎖反応が広がり、爆発的なエネルギーを放出する。ウラン238は中性子を吸収して連鎖反応を妨げるため、原爆開発にはウラン235の比率を10%に高める濃縮が必要だった。
 そこで、熱拡散法という方法でウラン235を分離し、その濃度を高めることにした。49号館には、分離筒と呼ばれる高さ5メートルの筒状の実験器具が立てられた。
 分離筒は二重構造で内側に外径3・5センチの筒があり、2つの筒の間には2ミリの隙間がある。この隙間の空気を抜いて真空にして、天然ウランをフッ素に反応させて作った六フッ化ウランのガスを注入。電熱線で内筒を350〜400度、外筒を50度にして温度差を作ると、ガスが上下に対流し、筒の上側に軽いウラン235、下側に重いウラン238が集まる仕組みだ。
 分離筒は19年3月に完成し、7月から実験が始まった。理論的にはうまくいくはずだった。だが六フッ化ウランが筒と化学反応を起こして分離できない事態に陥る。筒には化学反応を起こしにくい金メッキをすべきだったが、戦時中の物資不足で銅を使ったことが落とし穴になった。
 実験は計6回行ったが、いずれもうまくいかない。20年1月、チームの1人は日誌に「行き詰まった感あり」と記す。分離筒を作製し、実験で悪戦苦闘した竹内柾(まさ)氏は戦後、49号館を「始終苦号館」と評した。
 仁科は大阪帝国大(現大阪大)に分室を設置。陸軍が同様の分離筒を設置したが、稼働しなかった。4月14日、本拠地の49号館は空襲で分離筒とともに焼失する。既存の小型サイクロトロン中性子を当てた実験済みの試料がわずかに残っていたため、調べたところ、濃縮できていないことが判明。仁科はニ号研究の中止を決断した。
 仁科が中止の可否を陸軍に尋ねると、6月に届いた返答は「敵国側もウランの利用は当分できないと判明したので、中止を了承する」という楽観的なものだった。広島に原爆が投下されたのは、その2カ月後だった。
  ■  ■  
 焼失を免れた37号館の2階には、仁科の執務室が当時のまま残っている。まるで時間が止まったかのような空間だ。仁科記念財団の矢野安重常務理事(67)は、この部屋で今も遺品の整理を続けている。「濃縮実験の状況から、仁科は本当に原爆を開発できるとは思っていなかっただろう」と心中を推測する。
 仁科は米国も太平洋戦争中には開発できないと考えていた。それだけに広島の原爆には計り知れないショックを受けた。現地調査に赴く直前、研究員にあてた手紙にこう書き残した。
 「ニ号研究の関係者は文字通り腹を切る時が来た。米英の研究者は理研の49号館の研究者に対して大勝利を得たのである」
 科学者としての敗北感と自責の念がにじむ。
 次男の浩二郎氏(83)は現地調査から帰宅したときの仁科の様子を覚えている。「悲惨な状況を目の当たりにして、大きな衝撃を受けていた」
 仁科は原爆だけでなく、原子力のエネルギー利用にも関心を持っていたとされる。戦後は原子力の安全利用のための国際的な枠組みづくりを訴えた。
 「原爆開発には失敗したが、あれ以上に戦禍を拡大せずに済んだという意味で、父はほっとしていたかもしれない」。浩二郎氏は静かに語った。
   ◇   
 ■ニ号研究に参加 福井崇時氏(91) 「証拠、川に捨てた」
 −−原爆研究のニ号研究に関わったきっかけは
 「大阪帝国大の1年生だった昭和19年春、理学部物理学教室の助教授だった奥田毅先生から『(ウラン濃縮に使う)分離筒の世話をしろ』と言われた。理研が空襲で危なくなったので、阪大に分室を作ったと後で聞いた」
 −−どんなことをしたか
 「分離筒をポンプで真空にする作業をした。停電するとポンプが止まって油が逆流するので、そのための世話をした。問題は、分離筒は当時の日本の製作技術としては無理な構造だったこと。溶接が不完全で漏れがひどく、真空にならないので全然だめだった。20年春、理研から六フッ化ウランが持ち込まれたが、分離筒の真空度が悪く、入れても意味がないので注入しなかった」
 −−原爆を開発できると思っていたか
 「こんなもので、できるはずはないと思っていた。原爆を作ろうにもウランがない。ウラン235も分離できていない。原爆の卵のもっと向こうの、よちよち歩きの状態だった。原爆を作るなら、きちんとシステムや組織を作らなくてはいけないのに、日本は米国と比べて方針がなく、バラバラだった。われわれ学生に分離筒をやれというのも、むちゃくちゃだった」
 −−終戦後はどうしたか
 「進駐軍が来て分離筒を見つけると、えらいことになると思った。阪大が理研の出店(でみせ)であることは隠していたからだ。詳しく調べられると、先生方に累が及ぶ。証拠は隠せと思った。川に捨てれば分からなくなるので終戦の数日後、誰にも相談せず同期生と2人で、理学部のすぐ隣にある筑前橋から土佐堀川に3本の分離筒をばっと捨てた。もう70年もたっているので、さびて腐っているだろう」
 −−仁科芳雄博士はなぜ原爆研究に取り組んだと思うか
 「軍の研究に参加すれば兵隊に行かなくて済むので、周囲の研究者や学生を温存するため参加したのが本心。後に先生がおっしゃっていた。それと研究を守りたいということ。われわれは守ってもらったわけです。だから僕は戦争の被害者とはいえない」
   ◇   
 【プロフィル】仁科芳雄
 にしな・よしお 明治23年、岡山県里庄町生まれ。大正7年、東京帝国大電気工学科を卒業し理化学研究所入所。10年から昭和3年まで渡欧し量子力学を研究。6年、仁科研究室創設。21年、理研所長、戦後初の文化勲章。24年、日本学術会議副会長。26年1月死去。
 ≪京都帝大「F研究」≫ 
 ■不可能だった遠心分離
 原爆開発の研究は、海軍の依頼を受けた京都帝国大(現京都大)でも並行して行われていた。核分裂の英語(フィッション)の頭文字を取って「F研究」と呼ばれた。
 研究は戦局が深刻さを増した昭和18年5月に委託されたが、本格化したのは19年秋からだ。原子核研究の草分けだった荒勝文策(あらかつ・ぶんさく)教授を中心に、理論面で湯川秀樹博士らも参加した。
 ウラン濃縮は理研とは別の方法を試みることになり、遠心分離法を採用した。天然ウランを容器に入れて高速回転させ、遠心力を利用してウラン235を分離する方法で、洗濯機の脱水と同じ原理だ。
 遠心分離機は、荒勝研究室の講師だった清水栄京大名誉教授らが独自に設計する一方、東京計器製作所(現東京計器)にも設計・作製を依頼した。
 1カ月後に終戦を迎えることになる20年7月。F研究に関する海軍と京大の最後の合同会議が琵琶湖岸のホテルで開かれた。ここで海軍出身の東京計器顧問、新田重治氏が遠心分離機の構造を説明している。
 「その図面が出てきたのですよ」。核物理学の歴史を調べている政池明京大名誉教授(80)が明かす。今年6月、清水氏の遺品から見つけた。記録がほとんどないF研究を裏付ける貴重な証拠だ。図面は劣化して見にくいが、「完成 昭和20年8月19日」との記載が見える。終戦の4日後に完成させる予定だったのか。米国の資料によると、東京計器は遠心分離機の製造中に空襲で被災し、装置は失われたという。
 荒勝研が独自に設計した新たな図面も見つかった。20年3月に作製され、「空気タービン式超遠心分離装置」との表題がある。容器を圧縮空気で浮かせて摩擦を減らし、高速回転させる仕組みで、方眼紙に詳細な構造が書かれている。
 清水氏の研究ノート3冊と資材リストも残されていた。ノートは皇紀で日付が記されており、海外の論文を熱心に読み込み、遠心分離機の材質や構造を研究した様子がうかがえる。
 政池氏は「ウランを入れる容器の材料として、零戦(れいせん)用に開発された軽量で強い超々ジュラルミンという合金を使うことが書かれており、興味深い」とページをめくる。
 荒勝研究室には中国・上海の闇市場で海軍が購入した約100キロのウラン化合物が運ばれたという。だが遠心分離機は結局、完成せず、実験に使われることなく終戦を迎えた。
 ただ、完成していても、実は当時の遠心分離法ではウラン濃縮は不可能だった。それを既に知っていた米国は別の方法で原爆を開発した。遠心分離法による濃縮は、容器内に温度差を設けて対流を起こす技術などを併用することが必要で、実用化したのは戦後になってからだ。
 F研究は極秘だったニ号研究と比べオープンに行われ、研究も基礎的な段階にとどまった。戦後、荒勝研に所属した竹腰秀邦京大名誉教授(88)は「荒勝先生は原爆を開発できるとは思っていなかっただろう。終戦に間に合う見込みはなかった。時代に翻弄された科学者といえるのではないか」と話す。
 京大に当時の面影はないが、その名残をとどめている場所がある。生協本部が入っている「花谷(はなたに)会館」。F研究に加わった荒勝研の大学院生、花谷暉一さんの遺族が寄贈した建物だ。優秀だった花谷さんは広島の原爆被害調査団に同行した際、枕崎台風による土石流で命を落とした。会館の由来を知る学生は、今では少ない。
   ◇   
 ≪学徒動員≫ 
 ■「ウラン採掘」終戦日まで
 終戦が迫っていた昭和20年4月。ニ号研究による原爆開発で起死回生を狙う陸軍は、福島県石川町の山間で、旧制私立石川中(現石川高)の3年生約60人を学徒動員し、ウランの採掘を開始した。
 「毎日、家から10キロ歩いては集まり、午前8時半ごろから午後4時ごろまで『黒く光る石を探せ』と働かされたものです」。有賀究(きわむ)さん(84)は、今はのどかな水田が広がる採掘場跡を前に、こう振り返った。
 重機はなく、スコップやつるはしで岩肌を砕く重労働。わらじ履きの足はすぐ痛くなり、腹も空いて仕方がなかった。米軍機の機銃掃射にも襲われた。
 陸軍将校から「君たちが掘っている石がマッチ箱1個分もあれば、ニューヨークを吹き飛ばす爆弾が作れる」と言われた。「お国のために頑張らなくては」と精を出した。
 原爆開発に必要なウランは当時、日本ではほとんど産出しなかった。陸軍はドイツや朝鮮半島から秘密裏に運ぼうとしたが、いずれも失敗。戦前から微量のウランを含む「ペグマタイト」という鉱石を少量産出することで知られる石川町に、望みをつないだのだ。
 同町文化財保護審議会委員の橋本悦雄さん(66)は「戦局が悪化する中で、軍としては苦肉の策だったのだろう」と話す。
 ニ号研究は6月に中止されたが、町には情報が伝わらず、採掘は終戦当日まで続いた。学徒による採掘量は1トン近くともいわれるが、どこに運ばれたかは不明で、何の役にも立たなかった。
 前田邦輝さん(85)は「自分たちが掘っていたものが何だったのか、戦後数十年たって初めて知って驚いた」。結局、ウランは採れなかったが、それでよかったと思っている。「科学者は純粋に研究したかっただけなんだろうが、軍部にどう使われたか分からないからね」と語った。
 ≪科学と戦争≫ 
 ■情報、物資の差で成否
 原爆は核物理学が急速に進歩した「科学の時代」と第2次世界大戦が不幸にも重なって生まれた。
 ドイツのアインシュタインは1905年、特殊相対性理論を発表。物質の質量がエネルギーに変わり得ることを証明し、これが原爆開発の素地になった。38(昭和13)年にはドイツの物理学者ハーンらが、ウラン235に中性子を当てると核分裂して巨大なエネルギーを放出することを発見。核物理学の飛躍的な進展とともに、新兵器への応用も現実味を帯びてきた。
 ドイツでは当時、戦況悪化で原爆はあまり研究されていなかったが、米国はヒトラーが先に作るのではないかと疑心暗鬼に陥り、42年に原爆開発の「マンハッタン計画」を始動した。
 一方、戦前の日本の核物理学は欧米と肩を並べる水準で、科学者は原爆開発の可能性をほぼ同時期に把握していた。しかし、開戦後は海外から科学技術の最新情報を入手できず、研究に必要なウランや金属も調達できなくなった。
 米英は44年の時点で計3670トンのウランを確保していたが、日本は多くても1トン程度。理研がウラン濃縮で大量生産に不向きな熱拡散法を採用したり、装置に不具合が生じたりしたのも、開発に必要な資材の不足が影響している。
 米国のマンハッタン計画には12万人が参加し、研究費は当時の22億ドル(103億円)に上った。これに対し日本の原爆研究者は数十人で、研究費もニ号研究で2000万円にすぎない。組織も陸海軍で一本化されておらず、開発体制はあらゆる面で脆弱(ぜいじゃく)だったといえる。
 核開発史に詳しい山崎正東京工業大名誉教授(70)は「こんな状況で、日本は初めから原爆など開発できるはずがなかった。予想通りの結果に終わった」と話す。」
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 8月1日 産経ニュース「【戦後70年 核物理学の陰影(下)】悲運の加速器、海底に沈む 「米国の誤謬、もはや絶望」
 理研跡地に保存されている、戦後最初に再建されたサイクロトロンの磁石=東京都文京区
 理研・仁科博士
 終戦から3カ月が過ぎた昭和20年11月24日の朝。東京・駒込理化学研究所に突然、2台のブルドーザーがやってきて、門や建物の塀を壊し始めた。
 「全てのデータを押収し、理研、大阪帝国大(現大阪大)、京都帝国大(現京都大)のサイクロトロンを破壊せよ」
 米陸軍省原子核の研究装置である円形加速器サイクロトロン」を原爆製造用と誤認し、連合国軍総司令部(GHQ)に破壊命令を出したためだ。
 サイクロトロンは電磁石で作った円形の軌道で電気を帯びた粒子を加速し、実験試料にぶつけて核分裂を起こしたり、放射性同位体を作ったりできる。当時の核物理学の最先端装置だった。
 理研には大小2台のサイクロトロンがあった。小型は仁科芳雄博士が12年に世界で2番目、国内で初めて製作したものだ。大型は当時の世界最大級で、重さは磁石だけで200トンもあり、6年かけて18年末に完成した。
 仁科が日本陸軍から依頼された原爆開発の「ニ号研究」では、小型を使ってウラン濃縮の成否を確認し、大型の開発計画も盛り込まれたが、いずれも原爆を製造する装置ではなかった。
  ■  ■  
 仁科は戦後、GHQと交渉し、放射性同位体を作って生物学や医学への応用研究に使う許可を得ていた。新たな時代に向け、希望をつなぐ装置のはずだった。それが一転して破壊される事態に直面した。
 仁科が将兵に猛然と抗議する様子を米ライフ誌が伝えている。
 「これは私の研究生活10年分の成果である。原爆とは無関係だ」。壊さないでくれと嘆願する傍らでは妻と女性秘書がすすり泣いていた。
 仁科は東京・有楽町のGHQ本部にも乗り込み「なぜ破壊するのか。米政府は科学者に意見聴取したか」と問いただした。科学者なら装置の価値を理解し、壊せというはずがない。彼らの意見を確認するまで、破壊作業を停止させるためだった。だが回答は「ワシントンの科学者も承知した上での決定だ」。
 仁科は言葉を失う。「科学者も含めて米国全国民の誤謬(ごびゅう)であるため、もはや絶望なることを知り退出した」。後の書簡にこう記したが、米側の回答は虚偽だった。
 将兵らはアセチレンバーナーで焼き切るなどしてサイクロトロンを破壊。数百トンもの残骸をクレーンで巨大なトレーラーに積み込んで運び出し、東京湾に沈めた。科学に対する理不尽で侮辱的な行為は、日本の敗戦を象徴するものだった。
 全ての破壊が終わった日の晩。次男の浩二郎氏(83)は「まるでお通夜のようで、憔悴(しょうすい)した表情の父を前に、誰も一言も話せず重苦しい雰囲気が広がった」と振り返る。
  ■  ■  
 ニ号研究の分室が置かれた大阪大でも同様の光景が繰り広げられた。当時学生だった福井崇時(しゅうじ)名古屋大名誉教授(91)は壁を壊すブルドーザーを見て、度肝を抜かれた。「やられたと思った。悲しかったですよ。放心状態だった」
 理研の大型サイクロトロンは仁科が心血を注いで作った。開戦で海外からの学術情報が途絶し、物資不足で製作が困難を極める中で、サイクロトロンの発明者で親交があった米物理学者のローレンス博士の元に弟子を派遣。博士は敵国側でありながら協力した。
 仁科は破壊の翌年、博士に宛てた手紙で、こう心情を吐露している。
 「あなたが助けてくれて建設したサイクロトロンは、不幸なことに太平洋の底深く永遠に消えてしまった。それは、ただ破壊されるために作られたといえるかもしれない。戦争のせいで、研究には全く使うことができなかったのだから」
 失意の仁科はその後、所長として理研の再建に追われ、研究生活に戻ることなく世を去った。
   ◇   
 □非難と謝罪
 科学史に汚点、行方は謎
 科学史に汚点を残したサイクロトロンの破壊は、なぜ起きたのか。関係資料によると、米国の原爆開発計画に関わった陸軍のブリット少佐が原爆開発装置と思い込み、パターソン陸軍長官の承認を得ずに独走。GHQに対して破壊命令を出すよう働き掛けたことが原因だった。
 破壊が報じられると、米国の科学者は「人類に対する犯罪だ」「理不尽な愚行」などと強く非難。仁科芳雄博士は、米国の科学者も承知の上だとしたGHQの説明が嘘だったことを知る。
 暴挙に対する怒りの声は大きく広がり、米マサチューセッツ工科大の科学者らは陸軍長官に抗議文を送付。終戦直後、仁科にサイクロトロンの使用許可を出すよう勧告した米物理学者は少佐の罷免を求めた。
 こうした事態を受け長官は「陸軍省の軽率な行動を遺憾とする」との声明を発表。破壊命令が誤りだったことや、科学者の意見を聞くべきだったことを認め、謝罪した。
 連合軍はドイツで物理学者を逮捕して尋問したが、サイクロトロンは破壊しなかった。米国の終戦処理における失態ともいえる破壊事件は、日本の原子核研究に深い傷跡を残した。
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 破壊された計4台のサイクロトロンは海に沈められたとされるが、その行方は不明な点も多い。理研の残骸が捨てられたのは東京湾で、米ライフ誌は「水深4千フィート(約1200メートル)の海底」と伝えた。米国立公文書館の資料から近年、場所は横浜沖と分かったが、それ以上の情報はない。
 引き揚げることはできないのか。そんな話が関係者の間でしばしば出るが、多額の費用と大掛かりな捜索が必要だ。仁科の関連資料を整理している理研の富田悟氏(63)は「引き揚げれば科学史上、非常に価値のある資料になるが、実現は難しい」と話す。
 大阪大の投棄場所は大阪湾とされるが、詳細は不明だ。撤去を目撃した福井崇時氏によると、占領軍がいた大阪市住吉区杉本の市立大学運動場に運ばれたが、その後は分からないという。
 京大の行方は全く分からない。琵琶湖に捨てたとの俗説には否定的な見方が多く、大阪湾ともいわれるが、はっきりしない。米国は破壊の翌年、GHQに聞き取りをして追跡調査したが、突き止められなかった。
 戦後、荒勝文策教授に師事した池上栄胤(ひでつぐ)大阪大名誉教授(85)は「昭和32年ごろ、オーストラリアの大学教授が京大を訪れ、『自分の所に京大のサイクロトロンの磁石がある』と話したと先輩から聞いた」と証言する。該当する豪州の大学に問い合わせたが、手掛かりは得られなかった。真相は謎のままだ。
 立命館大の中尾麻伊香専門研究員は大学院生時代から約9年間、京大のサイクロトロンと核開発史を研究してきた。「部品の一部が残っていると聞いたことをきっかけに、戦時中の原爆研究を知った。調査するうちに知られざる科学者の思いや情熱に触れ、興味深いと感じた。失われた磁石の行方も探りたい」と話す。
 破壊されたサイクロトロンの関連資料を探し、継承する努力は今も続く。京大では今年、新たに図面が見つかった。政池明京大名誉教授(80)は「日本の原子核物理の基礎となった図面だ。科学史を調べる上で非常に意義がある」。仁科の執務室で発見された図面は、現在も関係者が大切に保管している。仁科記念財団の矢野安重常務理事(67)は「きちんと後世に伝えていかなくては。それが私たちの責任だ」と話した。
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 □断絶と再建
 戦後、世界水準へ発展
 サイクロトロンの破壊で実験が断絶した日本の核物理学。復活の契機となったのは、その発明でノーベル賞を受賞したローレンス博士の来日だった。昭和26年5月に理研を訪ねると、破壊された小型サイクロトロンの予備の磁石が放置されているのを見て「これですぐに再建すべきだ」と提案。仁科芳雄博士の死後4カ月のことだった。
 意気消沈していた研究者は奮い立ち、大阪大、京都大でも次々にサイクロトロンが再建された。だが世界では、より高いエネルギーを得られるシンクロトロンという新たな加速器の時代に入っていた。出遅れた日本は30年になって東大が原子核研究所を創設、シンクロトロンを建設して本格的な素粒子実験を始める。創設時はサイクロトロンを建設した阪大の菊池正士教授を所長に招き、後にノーベル賞を受賞した朝永振一郎博士も尽力した。
 高エネルギー加速器研究機構は平成13年、加速器「Bファクトリー」(茨城県つくば市)で物質の起源を説明する理論を実証し、提唱者の小林誠益川敏英両氏のノーベル賞につなげた。さらに高性能の加速器が年内にも完成予定で、世界的に注目を集める。
 高エネ研の菊谷英司史料室長(62)は「今や日本は、次世代加速器国際リニアコライダー(ILC)の建設候補地になるほど世界での存在感を得た。戦前から加速器を作ってきた先人の知識と経験が土台になっている」と話す。
 九州大の森田浩介教授(58)は16年、理研加速器で113番目の元素を発見した。日本が初めて見つけた新元素として認定が期待され、元素名は仁科にちなむ「ニシナニウム」も候補の一つに挙がる。
 森田氏は「自分たちで世界最高の実験装置を作り、成果を出すのが仁科先生の教えだ。その精神は脈々と受け継がれている」と話す。
 東京都文京区の理研跡地には、戦後最初に再建された小型サイクロトロンの磁石がひっそりと置かれている。傍らの碑文は、物理学者たちの奮闘の歴史を今に伝える。
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 □京都帝大・荒勝教授
 「研究の芽摘まれ残念」
 サイクロトロンの破壊は京都帝国大でも同時に執行された。平成22年に発見された荒勝(あらかつ)文策(ぶんさく)教授の日誌には、GHQに抗議する様子が記されている。
 「研究設備の破壊撤収は必要無きに非(あら)ずや。これ等(ら)は全く純学術研究施設にして原子爆弾製造には無関係のものなり」
 しかし、占領軍は建設中だったサイクロトロンの80トンの磁石を持ち去った。「惨憺(さんたん)たる光景であった」と荒勝氏は嘆いた。
 大学1年だった竹腰秀邦京大名誉教授(88)が当時を振り返る。
 「外国人が乗り込んできたのが怖くて、物理教室には近寄らないようにしていた。実験で使う部屋の一角にサイクロトロンの大きな磁石が置かれていたが、占領軍が去った後、その場所は空になっていた。ああ、日本ではこういう研究をやってはいけないのかと、半ば諦めのような気持ちを抱いた」
 占領軍は科学者の生命線である実験ノートの提出も命じた。立ち会った占領軍通訳の回想記によると、この要求に対し荒勝氏は感情の高ぶりを抑え切れず、声を詰まらせながら「没収は不当である」と強く抗議した。
 荒勝氏は戦前、台北帝国大(現台湾大)で加速器による原子核実験をアジアで初めて行った先駆者だ。壊されたサイクロトロンは、日本海軍から依頼された原爆開発の「F研究」に組み込まれたが、本来は基礎研究が目的だった。
 「日本の地から原子核研究の芽をつみ取られる事は誠に残念である」。破壊の翌月の日誌にある荒勝氏の言葉だ。
 「大変な苦労をして作っていたものが、核兵器のためと誤解され、壊されてしまった。先生の心中はいかばかりだったか」と竹腰氏は話す。
 終戦後の昭和24年、京大の湯川秀樹博士が中間子論で日本人初のノーベル賞を受賞。敗戦とサイクロトロン破壊で打ち砕かれた日本の核物理学に、一筋の光明が差し込んだ。

 破壊事件に心を痛めた占領軍通訳はその後、再び来日し、荒勝氏に心境を改めて尋ねている。回想記によると、湯川と親交があった荒勝氏は「後輩がノーベル賞を受賞したことで全てが埋め合わされた」と、きっぱり語ったという。
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 □高エネ研特別栄誉教授 仁科記念財団理事長・小林誠氏(71)に聞く
 「科学者、先端研究に立ち会う使命」
 −−戦時中の日本の原爆研究をどう見るか
 「核分裂の連鎖反応からエネルギーを取り出せば、発電用原子炉や原爆などの用途が生まれる。軍部は原爆を想定していたが、理研や京都帝大で行われたのは連鎖反応を起こす前の段階の基礎研究だ。日本の原子核研究は戦前、非常に高いレベルにあったが、原爆研究はウラン濃縮すら成功しなかった。非常にプリミティブ(幼稚)なレベルだった」
 −−開発が成功する可能性はあったか
 「無理だった。戦争で物資も人材もなかった。ウラン濃縮も、理研の熱拡散法は装置の素材に問題があったし、京大の遠心分離法も技術的に未熟だった。実際に原爆を作ってそれを使う状況に陥らなかったという意味では、開発できなくてよかったと思う」
 −−科学者が兵器開発に参加したことの是非は
 「軍事利用される可能性があるから断るという単純な問題ではない。画期的な新原理や技術について、研究を軍だけが進めるのは危険だ。最先端の知見を人類で共有するためには、科学者が立ち会う必要がある」
 −−仮に自身が兵器開発を依頼されたらどうするか
 「既存の知識や技術で兵器を開発しろというなら、可能な限りノーと答える。新たな科学的真理を明らかにする研究なら判断は難しい。断れば科学者の使命から逃げることにもなる。研究の科学的意味しだいだ」
 −−戦後、GHQはサイクロトロンを破壊した
 「とんでもない暴挙だった。サイクロトロンは兵器の研究装置ではない。原子核のほか生物や放射性同位体など、幅広い研究に役立つ純粋な科学研究装置だ。日本の原子核研究は一気に停滞し、後々まで尾を引いた」
 −−原爆研究に関わった科学者の多くは戦後、核廃絶運動などに取り組んだ
 「原爆投下で起きた悲惨な状況から、強い衝撃を受けて意識が変わった。エネルギーの大きさは当然、分かっていただろうが、どんなことを引き起こすか考える余裕がなかったのかもしれない」
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 この企画は長内洋介、伊藤壽一郎、黒田悠希が担当しました。」



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