
- 作者:土井全二郎
- 発売日: 2012/02/23
- メディア: 単行本
関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
・ ・ {東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・
日本では、家で飼育していれば家族であり、日常であれば友であり、戦場では命を預ける戦友であった。
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日本の軟らかく泥濘みやすい土地では、集団で突撃して敵兵を撃退する騎兵部隊は不向きな兵種であった。
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強力な騎兵を持つ国が、世界最強の強国であった。
中世、ヨーロッパ・中東・北アフリカにおいて最強国はイスラム勢力のオスマン・トルコ帝国であった。
当時のヨーロッパ諸国は、騎兵よりも歩兵が主力であった為に、大型馬の騎兵団を持つオスマントルコ帝国と小型馬の騎馬軍団を持つモンゴル帝国の侵略に脅えていた。
ヨーロッパ諸国は、アラブ種に対抗する為にサラブレッド種による大型馬への馬匹改良を行い、強力なキリスト教騎士団を組織した。
幾らキリスト教騎士団を強化しても、イスラム教騎士団には敵わず、オスマントルコ帝国の侵略を食い止めるのがやっとであった。
陸軍力に劣るヨーロッパ諸国が、オスマントルコ帝国に優位に立てたのは海軍力、大型帆船による艦隊を編成できてからである。
中国に於いても主力戦力は、騎馬であった。
農耕民族の漢族は、絶えず騎馬民族による侵略を受け、異民族の帝国で奴隷の如く扱われていた。
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1862(文久2)年 日本での近代競馬は、横浜外人居住区で行われたのが始まり。
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1870(明治3)年 兵部省は、九段の招魂社(現・靖国神社)で競馬を主催した。
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1908(明治38)年 競馬の天皇賞は、明治天皇による帝室御賞盃(エンペラーズ・カップ)レースとして横浜競馬場(根岸競馬場)で第一回が開催された。
日本産馬は、サラブレッドではなく駄馬であり、農耕用で騎馬用ではなかった為に、気性が荒く機嫌が悪いと噛み付いたり蹴ったりと手に負えなかった。
農耕民である日本民族日本人は、糞尿が染みついた泥に塗れ汗だくで重労働をする事を喜びとするだけに、見立てが良いが仕事が出来ない馬よりは気性が荒く見立てが悪くてもよく働く馬に愛情を注いだ。
日本の馬は、農耕用か荷馬用であって騎馬用でもなく軍馬用でもなかった。
その為に、日清戦争や義和団事件などで、諸外国の騎馬兵から馬鹿にされていた。
敵軍隊の情報収集が戦争の勝敗を左右する時代、軍馬は主力兵器であった。
日露戦争の勝利も、騎兵による情報収集であった。
日本陸軍は、「馬匹改造計画」を立案し、軍馬育成には競走馬育成が最も有効であるとして「競馬会を奨励」した。
日本軍の主力戦力は、歴史的伝統的に歩兵で、馬は輸送、兵站に使われてい。
騎馬運用は、日本人の頭にはなかった。
サラブレッドを種馬として輸入して、日本産馬と交配して軍馬を量産し、軍事教練をかねて競馬を行った。
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日本陸軍騎兵部隊は、世界最強と恐れられたロシア陸軍騎兵コサック部隊を、斬新な戦略と戦術で撃破した。
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明治39年 明治天皇の勅諚で臨時馬政調査委員会が整備され、全国各地に富国強馬政策の係官が配備された。
富国強馬は、農村生産者による全国の馬市(セリ)での買い付けと血統重視で競走馬の徴発の二通りがあった。
サラブレッドは血統で決まり、名馬の子孫は名馬である。
菊池𥶡「あらゆるサラブレッドは、17世紀に於ける3頭の種牝馬ダーレー・アラビアン。バイエリイ・ターク。ゴドルフィン・バーブの3頭を祖先としているのである。日本に来ているサラブレッドも、みんな英国伝来の血統でハッキリしているのである。血統の不明なものは、洋種と云ってサラブレッドとは云わないのである」
軍馬は、馬体と訓練による判明した性格で、その適性に従って将校用、騎兵用、車を引く輓馬(ばんば)、荷を担ぐ駄馬(だば)に分類された。
戦車・装甲車・トラック・オートバイなど各種軍用車両が登場するまで、軍隊の主力は騎兵であった。
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靖国神社と軍馬。
陸軍省、農林省、帝国馬匹協会は、昭和13年に、明治天皇が軍馬育成の「馬匹改良の勅諚」を発した4月7日を「愛馬の日」と定め、軍主導で各種行事を行った。
日本政府は、翌14年に、「愛馬の日」を制定した。
日本陸軍は、軍馬を擬人化し、戦友として大事に扱い、戦死若しくは病死すれば人間同様に丁重に埋葬し懇ろに弔い、そして軍神の一員として祀った。
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1945年1月 大本営は、支那派遣軍に対して、河南省洛陽の南およそ300キロにある湖北省老河口と湖南省蕋江(しこう・ズイコウ)方面の攻略を命じた。
両地区には、アメリカ空軍の航空基地があり、中国軍を支援する為の膨大な軍需物資や大量の燃料が集積されていた。
世界戦史、最後の騎兵戦の始まりである。
支那派遣軍総司令官岡村寧次大将は、第12軍隷下の騎兵第4旅団(豊橋。旅団長・藤田茂少将)を主力とし、戦車第3師団を支援部隊とし併進させ、他に第39師団、第110師団、第115師団、第117師団の各師団からも一部を派遣させた。
騎兵第4旅団の本部がある河南省帰徳は、老河口から北東に直線で約300キロ離れて、実質行程は約350キロで山岳地帯の粗悪狭隘な道しかなかった。
騎兵の特性である奇襲を成功させる為には。行軍中を敵索敵機に発見されず進む必要があった。
騎兵第4旅団には、騎兵第25連隊と騎兵第26連隊が属し、総兵力3,600人、軍馬総数3,700頭であった。
3月1日 騎兵第25連隊(古沢末俊大佐)と騎兵第26連隊(山下彦平大佐)の兵馬2,500は、攻略部隊の第1次集結地・汝南に向けて出発し、同月10日に到着した。
終結した攻略部隊は、敵に発見されないように夜間行軍を開始した。
3月26日 騎兵第26連隊は、老河口城を見下ろす馬屈山陣地を夜襲して占領し、3昼夜にわたる敵の猛反撃をしぎ、そして無防備な老河口飛行場を攻略した。
3月30日 騎兵第25連隊は、早朝に、馬を下り歩兵となって老河口城への総攻撃を開始したが夥しい死傷者を出して苦戦した。
騎兵第26連隊も、老河口城南門城壁を攻撃した。
第115師団を主力とする攻略部隊が加わり、騎兵部隊は旅団命令に従って後方に退いた。
4月8日 攻略部隊は、老河口城を占領し、アメリカ空軍の飛行場や燃料と軍事物資を破壊して目的を達成した。
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駐タイ英国軍最高司令官イーバンス少将は、古都ナコンナヨークに駐屯していた第37師団に対し、武装解除と共に軍馬約3,000頭を日本人兵士の手で銃殺もたは撲殺処分するように命じた。
『ナコンナヨークの碑』と題した師団史(『軍馬慰霊2題』)「タイ・ナコンナヨークの終結
第37師団主力 師団長・佐藤中将(陸士29期)
人員 約1万名
日本馬 約1,500頭 大陸馬 約1,500頭
10月初め、英司令官は『日本馬は銃殺し、大陸馬は撲殺せよ』と命じ来た。英司令部は山砲一個中体に対し、拳銃一挺と銃殺する馬の頭数だけの拳銃弾、1頭一発を支給し予備弾はゼロであった。敗戦の責め苦を背負わされた悲運の軍馬たちに、我が将兵のやり場のない悔し涙がとめどもなく流れ落ちた。射手が口の中で『般若心経』を唱えながら引き金を引いた。
馬は既に死期を悟っていたのか、悲しげな眼を射手に向けて立っていたが、一発の命中弾で壕内に倒れ伏した。大陸馬(支那馬、ロバ、ラバ)1,500頭の処理は、十字鍬(しゅう、くわ)やハンマーで、額の急所を叩いた。馬も兵もまさにこの世の地獄であった」
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戦争の悲劇は、人間だけではなく、馬も、犬も、鳩も、平等であった。
日本民族は、命は馬も犬も鳩までも人間と同じ命と信じ、馬や犬や鳩の魂も人間の魂と同じように貴いとし、霊魂を分け隔てなく神として祀った。
馬や犬や鳩の死骸は、人間の遺体と同様に懇ろに埋葬して弔った。
日本民族にとって馬や犬や鳩は、家畜ではなく、家族の一員であった。
馬や犬や鳩などの動物は、日本の神として大切にしてきた。
日本民族は、馬や犬や鳩などの動物と共生していた。
ゆえに、共に生きてきた馬や犬や鳩が死ぬと、日本民族は涙を流して悲しんだ。
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戦場でも、日本が戦う中国や東南アジアの大地とアメリカが戦ったヨーロッパやアフリカの大地とは土壌が違っていた。
アジアは雨量が多く、中国の大地は軟弱であり、東南アジアの大地はジャングルに蔽われていた。
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2017年1月号 Hanada「感涙の歴史ノンフィクション 天皇の馬 戦歿軍馬100万の運命 加藤康男
前線の軍馬はどう記録されたか
馬への依存度
日本軍では機械化が喫緊(きっきん)の課題だったにもかかわず、自動車の生産が大きく遅れていた。原因はさまざまな理由が挙げられよう。部品等の資源輸入供給に限界があったこと、国内産業保護のためにアメリカの自動車会社への課税強化をしたため日本国内から総撤退したこと、工業生産力の貧弱性などがまず考えられる。
加えてm工業生産は軍艦、空母などの船舶、航空機、戦車、火器などが最優先され、日本陸軍がともすれば速戦即決の精神主義を重んじ、一方で、兵站(へいたん)を軽視する傾向があったことがソフト面の原因となっていたことは否めない。
わが国では豊田、日産、いすゞ(東京自動車工業)がトラックの生産をしていたものの、自動車部隊による輸送は中国大陸では実効性が薄かった。砂塵(さじん)が舞、雨で道路が泥濘化(でいねいか)するという悪路との戦い、支那兵による地雷敷設、エンジン故障など理由を数え上げればきりがない。アメリアだけが他国より遙かに進んでおり、当時の戦車のエンジンはフォードが最大の供給源となって圧倒していたのが実情だ。
一方の日本軍は、兵員、物資の輸送に徒歩行進を多用、輸送手段としては輓馬(ばんば)、駄馬(だば)に大きく依存せざるをえなかった。
馬の積載重量と軍用トラックを比較してみよう。トラック1台の積載量が約1,500キログラムだとすると、輓馬は1頭で約200キログラム、駄馬は約100キログラムという統計がある(山田朗『兵士たちの日中戦争』)。
こうした状況下で軍を編制するすると、兵と馬の構成比率はどうなるか。一例ながら、歩兵連隊の編制表(昭和16年度陸軍動員計画令に基づく)によれば、兵士5,546人に対し、馬1,242頭、臨時編制(乙師団)では、歩兵3,928人に対し、馬693頭である。これだと、馬1頭に対する兵の割合は、それぞれ4.47、5.67という比率である。
……
日本陸軍が保有する自動車数(主にトラック)は、昭和14(1939)年に2万9,000台、昭和15年、16年にはそれぞれ4万4,000台に増加するものの、その後は昭和17(1942)年3万6,000台、18年2万4,000台、19年2万2,000台と落ち込んでゆく。
ちなみに、トラック1台あたりの兵員数を日米で比較した数字では、師団平均で日本軍はトラック1台に兵49人に対してアメリカ軍はトラック1台に兵12人という大差がついていた(大塚四千男『太平洋戦争期日本自動車産業史研究』)。
煩瑣(はんさ)な数字を並べて恐縮だが、日本の軍事産業の『発達』にもかかわず、わが陸軍の兵器、弾薬、糧秣({りょうまつ}兵と馬の糧食)輸送は、ほとんど馬に頼るほかなかったという実情がこれでお分かりいただけよう。
政府も手を拱(こまね)いている場合ではなかった。農林省馬政局、陸軍省馬政課を督励し、軍馬の活動ぶりの報道、少年少女への愛馬精神普及の絵本刊行などを主導した。日本馬事会や軍用保護馬鍛錬中央会といった組織を通じ、軍馬の軍事郵便絵葉書、画報『愛馬の日』(日本馬事会刊)、軍馬ポスターの頒布など多岐にわたる宣伝作戦が実行されたのもこの時期だった。
自動車の生産が低迷するなか、前線では馬だけが頼りだった。その結果、これまでもさまざまな手記などで見てきたように、兵にとっては想像以上に馬の世話が大きな比重を占める結果となった。秣(まぐさ)や疾病(しっぺい)、怪我への対応が、兵自らの食事や休息より優先されたのは、軍隊内では当然のことだった。
そのような環境から、『輜重輸卒(しちょうゆそつ)が兵隊ならば、蝶々トンボも鳥のうち』とか、『下士官・馬・兵隊』といった悲哀と諦観(ていかん)の混じり合ったような生活感情が自然に生まれたのであろう。
記憶された軍馬たち
……
〔軍馬にも大和魂〕
……
〔大休止の刹那(せつな)、絶命〕
……
〔生まれ故郷に馬頭観音建立〕
……
〔軍馬にも千人針〕
……
ある病馬廠部隊の記録
支那事変から大東亜戦争に至るまで、陸軍の輸送力は見てきたように馬を主体に編制せざるを得ないのが実情だった。日清・日露戦争まで合わせれば100万頭とも言われる軍馬が動員されたのだから、馬の疾病、戦傷の手当をする病馬廠(びょうばしょう)は必要不可欠な部署である。だが、たとえ疾患癒えて部隊に戻れたとしても、馬を待っていた運命は過酷なものだった。
出征した軍馬はすべて現地で戦死または放置され、日本への帰還を果たすことはできなかった。
……」
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