🗡47〗─1─陸軍鉄道連隊の鉄道敷設技術力と輸送運行管理能力は世界トップレベルであった。満鉄「アジア号」。関門トンネル。新幹線。~No.149 @ 

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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 軍部、日本陸軍は、大陸戦に於ける勝利は輸送能力が重要な鍵である事を痛感していた為に、鉄道技術の充実強化に全力を上げていた。
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 1867(慶応3)年12月 江戸幕府は、江戸〜横浜間の鉄道敷設権をアメリカ公使館のポートマンに付与した。
 明治新政府は、「敷設権が付与された慶応3年12月は、すでに大政奉還が行なわれ明治新政府ができていたので、幕府との契約は無効」として、ポートマンの権利を認めなかった。
 軍人は、外国企業に国内の鉄道を作らせる事は国家滅亡の危険があるとして、自力敷設を求めた。
 明治新政府は、軍部からの外国企業排除要請を受け、鉄道敷設資金を外国国債で調達するべくロンドンで発行した。
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 1872年 明治政府は、日本人だけで品川〜横浜間で鉄道路線を施設し仮運転を開始した。
 近代産業によるもの作りの始まりである。
 欧米企業以外での鉄道敷設完成は、日本だけであった。
 欧米企業は、資金を提供して中国やオスマン・トルコ帝国で鉄道を施設し植民地支配を拡大していった。
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 1896(明治29)年 軍部は、朝鮮や満州でロシア軍と戦う為の陸上輸送手段は鉄道である事を考えて、市ヶ谷の陸軍士官学校構内に鉄道大隊の編成事務所を開設した。
 鉄道兵は、工兵とは異なり、線路敷設・運用・復旧・修理など鉄道関連全般に特化した特殊技能集団であった。
 鉄道大隊は、人員は418人で、鉄道2個中隊、電信一個中隊、材料敞で編成された。
 訓練の為に全国の鉄道敷設現場に投入され、線路敷設はもとより鉄橋やトンネルの建設など広範囲な土木工事、線路の復旧作業や運用、修理や管理などで技術を磨いた。
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 1904(〜05)年 日露戦争の勝利は、鉄道大隊による軍需物資輸送のお陰であった。
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 1907年 軍部は、輸送部門強化の為に鉄道大隊を鉄道連隊に拡充し、12個中隊に増強した。
 日本の鉄道の営業キロ数は、9,000キロを超えた。
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 1918年 軍部は、シベリア出兵で鉄道連隊の必要性が再認識されて、二個連隊に増設された。
 第1鉄道連隊は千葉に、第2鉄道連隊は津田沼に、司令部が置かれた。
 鉄道連隊は戦闘に関係ない後方任務であったが、シベリア出兵で赤軍ゲリラによる攻撃を受ける事が多くなった為に戦闘訓練が強化された。
 軍部は、シベリヤにはソ連・ロシアが敷設した鉄道網と機関車・輸送車両がある為、輸送網を破壊する為に潜入する事と攻撃に参加して確保する事を作戦目的とする鉄道戦闘列車隊を編成して、ハバロスク方面に投入した。
 ポーランド人戦争孤児とユダヤ人難民及びロシア人難民達は、鉄道列車隊によって赤軍の攻撃から保護され、日本陸軍輸送船に乗船させられて日本に送られた。
 日本軍は、孤児や難民を戦死者(戦死者は靖国神社の祭神)を出しながら保護するという人道的貢献を無償で行っていた。
 ロシア人戦災孤児も、日本人軍国主義者がロシア人共産主義者兵士から助けた。
 国際社会は、日本軍の人道的貢献を認めず、人道的貢献した戦死者を神として祀る靖国神社を否定する。
 長坂晃「鉄道の健全は全作戦の生命である。従って鉄道部隊は名こそ補助兵種であったが、実際には作戦の鍵を握る重要な基幹部隊となったのである」(『鉄道兵ものがたり』
 軍国日本は、難民を差別せず嫌がらせもせず、日本人同様に受け入れていた。
 難民の保護と救済に積極的に手を差しのべたのは、日本皇室である。
 日本皇室が、ポーランド人戦争孤児に支援の手を差しのべた。
 日本の心を体現しているのは、日本皇室である。
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 軍国日本と日本人軍国主義者の「人道に対する貢献」は、感謝されるどころか無視されるか、最悪な事例では憎まれる。
 人には、恩義を感じ恩義に答えたいと思う善人がいれば、恩義を仇で返す悪人もいる。
 分かり合える人もいれば、分かり合えない人もいるし、どちらとも言えない人もいる。
 日本人にとって、アメリカ人やイギリス人は常識を共有して分かり合えるが、中国人やロシア人や朝鮮人は価値観が違う為に分かり合えない、ユダヤ人はどちらとも言えない。
 ロシア人や中国人や朝鮮人は、日本人に対して恩を仇で返す。
 ユダヤ人は、どちらとも言えない。
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 1923年9月1日 関東大震災。首都圏の国鉄及び私鉄は絶望的破壊で、鉄道建設業者のみでの復旧再開の目途が付かなかった。
 軍部は、鉄道復旧は震災復興の要として、西日本方面からの救援物資輸送の為に東海道本線と銚子港や千葉港からの救援物資輸入の為に総武本線の復旧が最優先として鉄道連隊を投入した。
 鉄道連隊の実戦さながらの復旧工事は突貫工事で行われ、翌月には主要幹線でほぼ全線が開通した。
 その復旧の早さに、世界は驚愕した。
 さらに、演習を兼ねて首都圏の鉄道インフラ整備充実として東武野田線(現・東武アーバンスカイライン)や小湊鉄道などが敷設された。
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 軍部は、太平洋戦争終結までに第20鉄道連隊を増設し前線に送りだした。
 泰緬鉄道計画や河南省飢餓地帯救出作戦などにも、鉄道連隊が主力部隊として活躍した。
 河南省では、餓死寸前の中国人を救うべく、抗日軍の攻撃で破壊された鉄道を復旧させ、抗日ゲリラの破壊工作から鉄道を防衛し、大量の食料や医薬品を運び込んだ。
 日本軍は、抗日軍や連合軍と戦いながら中国人被災者500万人以上を餓死や病死から救助した。
 鉄道の復旧・保全と救援物資輸送に戦って戦死した日本人兵士は、全て靖国神社の祭神として祀られた。
 国際社会は、河南省に於ける人道的貢献は侵略行為でり、泰緬鉄道建設同様に残虐な戦争犯罪であるとして断罪している。
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 1927年12月30日 日本初の地下鉄が、東京の上野駅ー浅草駅の2.2キロで開業した。
 運賃は、どこで乗り下りしても10銭(現在の約200円相当)の均一料金。
 着工は開業2年前の1925年だった。
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 1931年9月1日 上越線で、世界最長(9,702メートル)の清水トンネルが開通した。 
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 1940年 軍部は、南方資源獲得に多くの輸送船を南方に投入すると中国戦線への兵站輸送が弱くなる為に、それを補う手段として鉄道輸送力の強化が急務となった。
 戦時下に於いては、民需より軍需が優先され、軍事利用されない時に民間利用が許された。
 帝国議会は、大東亜経済圏建設に伴い朝鮮半島や中国大陸への輸送需要が急増した為に「広軌幹線鉄道計画」通称「弾丸列車計画」を承認した。後の、新幹線計画の元になった高速鉄道建設計画である。
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 1942年 本州の下関と九州の門司の間に、世界最初の海底トンネル「関門トンネル」(1936年着工)が完成した。
 軍部は、下関と釜山を結ぶ連絡船での軍需物資輸送が急増した為に、下関から朝鮮までの海底トンネルを計画に取り掛かった。
 さらに、東京から海底トンネルを通過して満州や北京まで直通のさせる弾丸鉄道計画案も考えられた。後の新幹線計画の原案である。
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 タイは、連合軍から、日本軍が国内に敷設した泰緬鉄道の線路の全面撤去と鉄橋の破壊命令を拒絶し、日本・タイ両国の友情の証として残し使用し続けている。
 日本鉄道連隊と工兵隊は、戦後も使える様に安全な鉄路や永久橋を建設していた。 
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 1945年12月 日本政府と国鉄は、戦後復興の為には鉄道網の復旧が急務として、失業した多くの旧軍技術者を集めた。
 国鉄の中。次世代の交通システムは、建設費及び補修点検費、広い整備施設など無駄が多い蒸気機関車ではなくコンパクトですむ電動モーターの電車に切り替えるべきであると考える少数派が存在していた。
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 1947年 国鉄の島英雄は、官民から鉄道車両の技術者と旧軍の航空技術者を集めて高速台車振動研究会を発足させた。
 アメリカ産業界は、機関車などの車輌を日本に売り込み鉄道網を支配する為に、GHQを動かして電動による高速鉄道計画に圧力を加えた。
 日本側は、GHQ占領下ではアメリカの圧力に逆らっては戦後復興は捗らないとして表向きは活動を休止しながら、密かに研究を続けた。
 そうして生まれたのが、世界を驚嘆させた世界最速の記録を出した東海道新幹線せある。
 戦前に培った軍事技術は、戦後復興と経済成長に威力を発揮していた。
 残念ながら、最先端技術は軍事部門から生まれる事が多く、軍事産業を軽視してヒト・モノ・カネを投入しない国は最貧国として発展しない。
 戦後日本の経済発展は、戦前・戦中の軍事技術に依るとこが多かった。
 日本経済の衰退は、軍事技術の遺産を食いつぶし、最先端軍事技術開発を忌避して行わず、新たな非軍事技術を創出できなかった事にある。
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 満鉄「アジア号」
 ウィキペディア
 あじあは、日本の資本・技術で経営されていた南満州鉄道が、1934年(昭和9年)から1943年(昭和18年)まで大連駅 - 哈爾濱(ハルビン)駅間の約950Kmを連 京線・京浜線経由で運行していた特急列車である。超特急とも呼ばれた。
列車は流線形のパシナ形蒸気機関車と専用固定編成の豪華客車で構成される。そのほとんどすべてが日本の技術によって設計・製作されており、当時の日本の鉄道技術水準を示すものとして重要である。(→新幹線の歴史も参照)
 沿革[編集]
 北京の中国鉄道博物館に展示されている展望車。「あじあ」で使用されたテンイ8形ではなく「大陸」用のテンイネ2形だが、同時代に同じ技術陣によって設計された姉妹車で、デザインや構造に共通点が多い。
 1932年(昭和7年)の満州国成立当時、黄海に突出した港湾都市大連と、首都新京との間は南満州鉄道連京線によって結ばれており、大連港を発着する日本への定期船と連絡していた。
 「あじあ」は、この区間の速度向上のため、世界水準を目標に計画された列車である。1933年(昭和8年)から1934年(昭和9年)にかけて、比較的短期間で開発が進められた。「キング・オブ・ロコモティブ」として知られた設計責任者・吉野信太郎は、アメリカン・ロコモティブ社に2年半も留学。帰国後の1927年(昭和2年)に「パシコ」形を設計し、その後は満鉄機関車のほとんどを手がけた。
 当時の満鉄理事には、軌間1,435mmの標準軌(当時の広軌)鉄道推進派の技術者島安次郎もいた。当時の日本国内の標準軌間は1,067mmの狭軌であるため、スピードアップには自ずと限界があった。「あじあ」は、満洲の地でその夢を実現させようと考え、開発したものともいえる。しかし島は、「あじあ」用の「パシナ」形に用いられた米国流の設計手法をまったく身に付けておらず、実際に参加したかどうかは疑わしい。後に、島は、戦前の新幹線計画である弾丸列車計画を推し進めることになるが、孫弟子にして子息である島秀雄が設計した高速蒸気機関車もまた米国流の設計手法ではなくドイツ流、それも1920年代の設計手法での設計に過ぎない。「パシナをちょっと良くすればいい」と述懐していたが、設計手法が異なるので意図が不明である。
 1934年(昭和9年)11月1日から運転を開始した「あじあ」は最高速度130Km/h、大連 - 新京間701Kmは所要8時間30分で表定速度は82.5Kmに達した。これは、当時日本の鉄道省で最速の特急列車だった「燕」(最高速度95Km/h、表定速度69.55Km/h)を大きく凌ぎ、戦前の日本最速である阪和電気鉄道の超特急(表定速度81.6Km/h)に匹敵する蒸気機関車牽引による高速運転である。ただし満鉄の軌道が標準軌の平坦線という好条件を考慮すると、速度的には当時の鉄道先進国における標準並でしかなかったことも事実である。例を上げると、当時アメリカ(南部)には最高速度180Km/hを超す蒸気機関車牽引列車が存在し、ヨーロッパではイギリスで1934年登場のA4型により203Km/hが記録され、営業列車が恒常的に160Km/hを超え、ドイツで気動車によって最高速度150Km/hを超す高速列車が運行されていた。
 なお、「あじあ」の名称は、30,066通の懸賞応募の中から決定されたものである。
 1935年(昭和10年)9月には新京からハルビンまで運転区間が延長され、大連 - ハルビン間953.3Kmを12時間30分で走破している。当初この区間は軌道が脆弱なため、軸重の大きい「パシナ」形機関車は使用できず「パシイ」形機関車で牽引していたが、軌道が改良された後も機関車は「パシロ」が用いられ、最後まで新京 - ハルビン間に「パシナ」形は投入されなかった。
 1938年(昭和13年)10月30日に下り「あじあ」が連京線太平山駅で転覆し、乗務員1名が死亡、2名が重傷を負う事故が発生したが、乗客は軽傷のみであった。
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 2016年9月18日 産経ニュース「【満州化物語(32)】特急「あじあ」の機関車設計者は「キング・オブ・ロコモ」と呼ばれた男だった…
 特急「あじあ」のパシナ型機関車。その巨大さがよくわかる。上段右から3人目が吉野氏(吉野康司氏提供)
 ケタ外れのパシナ型
 終戦直後、大連へ進駐してきたソ連(当時)や中国の鉄道関係者は『キング・オブ・ロコモ(機関車王)』と呼ばれた男を探していた。世界に衝撃を与えた満鉄の超特急「あじあ」のパシナ型蒸気機関車を設計した中心人物である。
 吉野信太郎(のぶたろう)。満鉄工作課機関車係主任、工作課長、大連工場長を歴任し、満鉄が作った機関車十数種に携わった名技術者だ。
 そのころすでに病身であり、昭和21(1946)年10月には、肝硬変のため50歳の若さで亡くなってしまう。大連から内地(日本)への引き揚げが始まる直前のことであった。
 パシナ型機関車はあらゆる面でケタ外れだった。まずは巨大さ。最高時速130キロの「あじあ」を牽引するには強力なパワーを持つ機関車が必要だ。全長25・7メートル、全高4・8メートル、動輪直径2メートル。満炭満水時の重量は203トン。当時、世界最大級であり、内地の東海道線で特急「燕(つばめ)」を引いていたC51やC53(いずれも動輪直径1メートル75)と比べてひと回り大きい。
 2つ目は「流線形」の斬新なスタイルだ。濃い藍色の曲線ラインのカバーを機関車全面に取り付けるもので、約3割空気抵抗が減り、よりスピードアップができる。半面、カバー自体の重量がデメリットになるが、吉野らは他のあらゆる部分を切り詰めることでバランスを図った。
 そして、何より驚かされるのは「短期間」である。満鉄重役会議で「あじあ」建造の社議決定がされた昭和8年8月23日から、一番列車が発車した9年11月1日までわずか1年2カ月あまりしかない。設計開始から試運転まではたった7カ月だ。吉野らは「設計と製造を同時進行で行う」離れ業で、世界に轟く名機関車を“自前”で作り上げたのである。
 「この列車(あじあ)はアメリカのどこの会社から購入したのか?」
 営業運転開始前、「あじあ」に試乗したアメリカの記者団は満鉄側にこんな質問を投げかけた。日本人がこれほど優れた列車を造れるはずがない、という侮蔑が表れていた。
 「設計・製造とも自社・自国でやりました。材料も一部を除いて国産品を使っています」
 信じられない、といった表情で記者団は、次の質問を放つ。
 「(その技術者たちは)アメリカのどこの大学を出たのか?」
 この答えは“半分正解”というべきか。吉野ら満鉄の多くの技術者は日本や満州・関東州の学校出身だったが、社内の制度でアメリカで先端技術を学んだ経験があったからである。
 国鉄は弾丸列車で対抗
 吉野は、大連の南満工業(後に工専)から旅順工科学堂(同工大)を経て、大正7(1918)年に満鉄に入社している。満州における技術者のエリートコースと言っていい。
 パシナの設計に取りかかったときは37歳。すでに満鉄の急行「はと」を引くパシコ型蒸気機関車の設計に携わっており、工作課の若きエースだった。
 孫の吉野康司(やすし、56)は「自室は機関車の設計図でいっぱい。根っからのエンジニアで自宅の設計や暖房システムまで自分でやった、と聞きましたね」
 満鉄の技術者には吉野と同様に南満工専と旅順工大の出身者が多かった。東京、京都帝大などの出身者が多い日本の国鉄鉄道省)にライバル心を抱いても不思議ではない。
 大正4年に旅順工大を卒業し満鉄に入社した高橋恭二は「あじあ」の思い出を同校の同窓会誌に寄せている。《(満鉄急行「はと」の)機関車を自前でつくったが、内地の「燕」の方がちょっとだけ早かった。負けてはいかんということで「あじあ」をつくろうということになったのです》
 ところが、「燕」よりも平均速度で15キロも早い「あじあ」がデビューするや、今度は国鉄の技術陣が羨む番となった。狭軌(1067ミリ)でスピードを出しにくい国鉄に比べ、満鉄は国際標準軌(1435ミリ)を採用。潤沢な資金力で先端技術を獲得している…。
 「あじあ」に刺激を受けた国鉄は、昭和10年代初めからいわゆる「弾丸列車計画」に着手する。飽和状態にあった東海道山陽線と並行する標準軌の新線(東京−下関)を建設。朝鮮の釜山まで海底トンネルを掘り、さらには朝鮮・満州・北支までつなぐ。新造する機関車の動輪直径はパシナを上回る2メートル30センチ、蒸気機関車で150キロを目指す壮大なプランである。
 名機関車D51から戦後の新幹線まで携わった国鉄の技術者、島秀雄(しま・ひでお=1901〜98年、元国鉄技師長)も弾丸列車計画に加わり、視察のため、2度渡満している。5歳上で旧知だった吉野のアドバイスも受けたに違いないが、プライドがそうさせたのか、詳しい記録を残していない。
 弾丸列車計画は昭和15年から用地買収やトンネル工事に着手するも、開戦によって計画は頓挫。島の夢は四半世紀後の東海道新幹線開通(39年)を待たねばならなかった。弾丸列車計画の用地やトンネルの一部は新幹線に生かされた。
 満鉄の吉野は、パシナの後もディーゼル併用で最高時速140キロの高速機関車「ダブサ」や1500キロ無給水走行可能な「ミカク」などの設計などに関わり続けた。「満鉄特急『あじあ』の誕生」を書いた天野博之(80)は「(吉野は)早く亡くなり、知られることが少なかったが、もっと高く評価されるべき技術者だった」。=敬称略、隔週掲載(文化部編集委員 喜多由浩)」
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 10月2日 産経ニュース「【満州化物語(33)】美人揃いのロシア人ウエートレスに…冷暖房も全車両に完備 超特急「あじあ」の旅は何とも豪華だった
 特急「あじあ」の食堂車。ロシア人ウエートレスが評判だった(満鉄パンフレットから)
 満鉄自慢の超特急「あじあ」は、パシナ型蒸気機関車と客車(1〜3等)・食堂車・手荷物郵便車の計7両編成。列車全体が流線形の美しいフォルムで統一されていた。
 最後尾の展望1等車は「あじあ」の売り物のひとつ。それまでの開放デッキ型の展望車と違って、大きな曲面ガラスをはめ込み、豪華な安楽イスやソファ(定員12人)でくつろぎながら満州の景色を楽しめるサロンになっていた。
 1等車の逆サイドには、コンパートメントの特別室がある。大人4人が楽に座れる個室で、政治家や軍の幹部、会社社長らがよく利用したという。
 豪華・高速の「あじあ」は料金も高い。1等車に乗って大連から新京(701・4キロ)に行くと、特急料金を含めて36円90銭(昭和9年の営業開始時)。約8時間半の乗車で、現在の価値で7万円強。食堂車で食事(和・洋定食とも1円50銭)や名物のあじあカクテル(50銭)を楽しめば、さらに財布は軽くなる。
 給仕係は「美人揃い」
 「あじあ」の食堂車に金髪、碧眼のロシア人ウエートレスが登場するのは、10年にハルビンへの延長運転開始以降である。
 天野博之著『満鉄特急「あじあ」の誕生』には、当時の新聞記事の引用でこうある。《白系ロシア人の娘65人の応募者を面接し(略)11人を採用した。女学校を卒業した16歳から21歳の美人揃い…》。白系−とはロシア革命(1917年)から満州などへ逃れてきたロシア人のことだ。
 旅客専務として「あじあ」に乗務した冨祐次(とみゆうじ、98)はロシア人ウエートレスのことをよく覚えている。「食堂車に配置されたウエートレスは大体が3人ぐらいで、内1人はロシア人だった。ハルビンなどに住んでいた娘が多く、日本語も上手でしたよ」
 天野書によれば、彼女たちの教育は同じ満鉄経営のヤマトホテルのサービス学校が担当。接客はもちろん、英語、日本語もみっちり仕込んだという。
 ヤマトホテルは食堂車の調理も任されていた。昭和13(1938)年11月3日(当時の明治節)のメニューが残っている。
 「和定食」は吸物▽御飯(とろ鮪)▽鍋物(かんとう煮)▽甘味−など。「洋定食」はスープ▽魚料理(鮮魚カレー煮)▽肉料理(鶏肉包焼=つつみやき)▽デザート・コーヒーの豪華版だ。
 旅客専務は「列車長」
 冨が務めた旅客専務は「列車長」とも言うべき役割で、特別室などを使う賓客の接遇、車内でのサービス(案内、検札、乗車券販売)を担当する。当時は案内放送がなく、停車駅が近づくと、大声で車内を触れて回ったという。
 「『あじあ』はやっぱり特別な列車でしたね。車内も飛び切り豪華だった」
 「あじあ」の運行は1日1往復。ハルビン−新京間は線路の状態が悪く、重いパシナ型機関車が入れないため、旧型のパシシ型などが引いていた。
 満鉄のハルビン電気区で信号関係の業務に携わっていた田伏正七(たぶせまさしち、98)は駅構内に職場があり、出勤時間の少し後に「あじあ」が出てゆく。「(ハルビン駅の)駅舎から貨物線をはさんで本線があったので『あじあ』が出発するのが毎朝見えましたね」
 一方、到着便のハルビン着は夜もとっぷり更けたころになる。乗客を降ろした旅客専務の冨は市内の満鉄宿泊所に1泊。翌日は、ロシアムード漂うハルビンの街へ出かけ、時には劇場やホテルの喫茶室へ行く時間もあったという。
 世界一の列車を造れ
 「あじあ」のもうひとつの目玉は当時、世界でも珍しかった全車冷暖房完備のシステムだろう。
 昭和8年8月末、満鉄鉄道部工作課車両設計主任だった市原善積(よしづみ)は、客車の構造、空調装置の調査研究のため、鉄道先進国のアメリカへの長期出張を命じられている。このとき、副総裁の八田嘉明(はったよしあき)から「世界一の列車を設計してもらいたい…(欧米の列車以上に)優秀豪華な列車を設計・製作するよう心得てもらいたい」と強烈なハッパを掛けられた。
 当時、ヨーロッパで空調付きの列車は皆無に等しく、アメリカの独壇場だった。市原は米メーカー各社を精力的に回って、リポートを送り、満鉄は米キャリア・エンジニアリング社製の採用を決める。
 市原は、当時アメリカにも《列車全車両に(空調装置を)設備したものはなく…》(快々的“大陸特急”「あじあ」号の設計から出発進行まで)と書き残している。だが、天野書によればすでにアメリカでは《全車両空調付の列車も運転されていた》という。
 たとえ“世界初の全車エアコン付き”でなくとも、オール・ジャパンで造り上げた「あじあ」の価値や下がるわけではない。
 「あじあ」1編成の製作費は約53万円(現価で約10億5千万円)。アメリカの最新列車に比べても遙かに安価で、市原は《われわれの誇りとするところであった》(同)と記している。=敬称略、隔週掲載(文化部編集委員 喜多由浩)」
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 10月16日 産経ニュース「【満州化物語(34)】特急「あじあ」を牽引したパシナ型機関車は日本に戻らなかった…中国側が「返還」に応じず
 大連に残されていたときのパシナ型機関車=2012年11月(河崎真澄撮影)
 教科書の「あじあ」
 満鉄映画製作所が製作した記録映画集に、満州の大地を颯爽と走る特急「あじあ」の映像が残っている。線路以外何も見えない荒涼たる景色をバックに、黒い煙をモクモクと吐いて疾走する剛力ぶりと、流線形のしなやかなフォルムのコントラストが面白い。
 「あじあ」ほど、多くのメディアやグッズに取り上げられた列車もなかろう。映画、絵はがき、切手、カルタ、紀行文や教科書にも登場し、その存在は、満鉄のみならず、満州全体の象徴となってゆく。
 《りうせんがた、まっ白な せん…日本人の 手で…りっぱに できあがった 早い、早い、とく急「あじあ」》
 これは昭和17年、満州の子供たちの教科書に掲載された文章だ。呼び物の全車冷暖房完備を取り上げた記述もある。
 《夏も すずしく、町から 町へ 走る、走る、とく急「あじあ」》
 この単元の教師用指導読本も残っている。
 《特急「あじあ」はマンシウ一の「マンシウノノリモノ」の高度な代表である。「あじあ」に乗つた児童も、まだ乗つてゐない児童もあらうが、これに寄せる親愛と憧憬は強い。この児童の感情に根ざして「あじあ」の容姿や装備や性能を知らせ…》(傍点筆者)
 「あじあ」の人気ぶりを彷彿させる文章だが、同時に教師に向けた「あじあ」や牽引するパシナ型機関車についての詳しい解説も載っている。おそらく教師にも「あじあ」に乗った人が少なかったからだろう。
 1日1往復のみ、定員は300人弱。最低の3等でも大連−新京間が、特急料金込みで18円(現価で約3万6千円)。当時の小学校教師の初任給が50円程度だったというから、気軽に乗れないのも無理はない。
 気になるのは、【指導上の注意】として《「あじあ」によつて在満日本人の技術を賛美し、満洲に於(お)ける日本の科学文化の優秀性を特に強調する》とされていることだ(同)。
 また、《満鉄の沙河口工場で製作された》というくだりも、実際はパシナ型機関車全12両のうち、満州で製作されたのは3両のみである。残り9両は、内地の川崎車両で作られた。
 17年といえば、ユニークで自由な「満鉄の教育」はすでに失われた時代である。満州でも内地と同じく、小学校は国民学校と名を変え、その教育内容は、関東軍主導で皇民化政策や戦意発揚を反映させたものが色濃くなっていった。
 子供たちに祖国を愛する心を教えることはいい。だが、それも度が過ぎると鼻についてしまう。
 絶大な人気を誇り、満州の日本人の誇りであった「あじあ」は9年11月の運転開始から8年4カ月後の18年2月末、関東軍の意向によって姿を消す。戦局は悪化の一途をたどり、軍事輸送優先の方針によって排除されたのだ。
 日本人には“非公開”
 終戦後、特急「あじあ」を牽引していたパシナ型機関車や客車は、他の満鉄の車両と同じく、中国の鉄道当局に接収され、中国各地の鉄道で活躍する。
 パシナ型機関車の行方は長らく知られていなかったが、1980年代以降、大連と瀋陽(蘇家屯)に残されていることが分かった。塗装などは様変わりしていたが、その後、再度組み立てられ、元気に動く姿が、日本のメディア関係者にも公開され、オールドファンを歓喜させた。
 「あじあ」(パシナ)は満州で花咲いた日本人の夢であり、当時の日本の技術力の高さを示すシンボルと言っていい。関係者としてはぜひとも、日本へ持ち帰りたかっただろう。
 今から約10年前、満鉄OBらでつくる「満鉄会」(今年3月解散)は、パシナ型機関車を製造した会社の後身である川崎重工OBらも巻き込む形で、返還運動を始めた。
 機関車本体は無理でも、「パシナ」のシンボルというべき2メートルの巨大な動輪1対だけでも、資金を出し合い、中国側から買い取ることはできないか。そんな思惑もあった。
 満鉄会元専務理事の天野博之(80)はいう。「パシナが発見された当時、中国は経済的にもまだまだで、金を出せば売ってくれるだろうという見方もあったようです」
 だが、中国側は応じなかった。歴史上、満州国の存在自体を認めず、「偽満」と呼ぶ中国にとって、“外交カード”にするつもりはあっても、「返還を認める」という選択肢は最初からなかったのだろう。
 大連のパシナ型機関車はその後、瀋陽に移され、現在は2両とも郊外の「瀋陽鉄路陳列館」に展示されている。だが、天野によれば、「運よく、見学できた日本人もいるが、基本的にこの施設は『教育施設であって展示施設ではない』として、日本人の入場は難しい」という。
 一方、北京の「中国鉄道博物館」には、ミカク型など、多くの満鉄機関車が展示されている。「毛沢東号」「朱徳号」など、戦後、中国の鉄道で活躍したときの名称がつけられているが、日本人が作ったことはちゃんと書かれている。=敬称略、隔週掲載(文化部編集委員 喜多由浩)」
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