🗡25〗─3─東條英機はB29より1.5倍大きい巨大爆撃機製造計画「Z計画」を承認した。幻の富嶽。~No.82No.83No.84 @ 

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 2017年9月1日 産経ニュース「【幻の富嶽 掃射機設計図見つかる(上)】中島知久平が「Z機」と呼んだ大構想 ミッドウェー海戦で大敗…米本土工場攻撃目指す
 見つかった掃射機の設計図。昭和18年に太田工場で作製された
 先の大戦末期、米爆撃機B29に対抗すべく中島飛行機群馬県尾島町=現・太田市)で設計されながら幻に終わった爆撃機富嶽」。B29の1・5倍とされる大型爆撃機のほかに輸送機タイプの設計図などが見つかっているが、護衛用の掃射機の設計図が太田市内で発見された。掃射機の存在により富嶽を構想した中島飛行機創業者の飛行機王・中島知久平が、爆撃機を軸に各種富嶽が編隊を組んで米本土を目指していたことが浮き彫りになった。知久平は構想中の富嶽を「Z機」と呼び、起死回生を狙っていた。(前橋支局 住谷早紀)
 胴体腹部に機銃装備
 見つかった掃射機の設計図は2種類。いずれも胴体腹部に機銃400挺が縦列に装備されていたが、大きさと用途は、中島飛行機で陸軍機を作っていた太田製作所と海軍機の小泉製作所(現・大泉町)で異なる。
 陸軍機の太田製作所の設計図は昭和18年1月作製。武器と想定乗員13人を含めた全備重量が57・5トン、最大時速543キロ。護衛機以外に巨大な機体を生かし輸送機としても構想されていたとみる関係者もいる。制海権を米国に奪われていた日本にとって、新たな兵員などを送り込む上で輸送機が不可欠だったからだ。
 海軍機の小泉製作所の方は太田工場より3カ月遅い18年4月設計。全備重量90トン、乗員10人。上空1万3千メートルでの最大時速800キロで、7・7ミリ機銃400挺か20ミリ機銃150挺が搭載可能。護衛専門で、交戦時は機銃掃射で敵艦や敵機の力を削ぐと想定された。
 3つの国防危機説く
 中島知久平が富嶽を構想したのは17年6月、快進撃を続ける日本軍がミッドウェー海戦で大敗を喫したからだった。
 極秘扱いだった戦況を海外情報を通じて知った知久平は、米国が航空機中心の戦法に切り替えたことを悟り、同年暮れ、「現戦勢ヲ打開シ、必勝態勢ヲ確立スルタメニハ」との前文で始まる「必勝戦策」を書き上げる。「飛躍的新構想」と称した態勢の中心が大型爆撃機による米本土攻撃。知久平は日本の命運を握る機体を「Z機」と呼んだ。
 知久平は「必勝戦策」の中で、日本が直面する3つの国防の危機を挙げた。
 (1)「生産戦ニ因ル危機」(2)「大型飛行機出現ニ因ル危機」(3)「欧州戦局ヨリ波及スル危機」−である。
 (1)は、1対50と見積もった米国との圧倒的な工作機械生産能力の差で、“大和魂”をもってしても覆せないとした。
 (2)は、米国で進む大型、大馬力飛行機開発を指し、その後、登場するエンジン4基のB29の上をゆく6基搭載の大型爆撃機(米国ではB36建造が計画されていた)が完成し、昭和20年後半には日本本土が爆撃の危機にさらされると説いた。
 (3)は、枢軸国側の惨敗を想定、ドイツは共産主義の欧州波及を防ぐ盾として存続させられるが、日本はアジア民族蜂起の起爆剤になるため抹殺されるとした。
 3つの危機を回避するには「普通ノ構想水準ヲ甚ダシク跳躍セル」新構想、つまり常識を超えた“超弩級”の大型爆撃機を開発し、米本土の飛行場と工場を叩くしかないとした。
規格外の設計を指示
 18年1月、知久平は有能な技術者を集め「必勝防空研究会」を立ち上げ、当時としては規格外の条件を示した。
 「全長45メートル、全幅65メートル、全備重量175トン。5千馬力の発動機6機搭載。高度1万メートルを時速680キロで航行、航続距離1万6千キロ。爆弾積載量は約20トン。航続距離を減らせば50トンまで運べること」
 これは米軍が計画し終戦直後に完成したB36とほぼ同じだ。知久平は米本土攻撃用の6発爆撃機を「Z機」と呼び、「Z爆撃機」のほか装備を換えた「Z掃射機」「Z輸送機」などによる編隊攻撃を構想。設計図が見つかったZ掃射機は機関砲や機銃を積んだ護衛機として爆撃機より小ぶりな「4発機」とした。
 「隼」「疾風(はやて)」などの戦闘機、艦上攻撃機「天山」、艦上偵察機「彩雲」など大戦中に活躍する優れた軍用機を建造した中島飛行機だが、Z機の次元はまるで違う。知久平は「必勝戦策」で軍用機をより戦略的な兵器ととらえ、「飛行機ノ重要目的ハ敵ヲ爆滅スルコトデアッテ、其ノ他ノコトハ枝葉末節ノ些事デアル」と断言。日本本土を狙われる前に大型爆撃機で米国の飛行機工場を爆撃し、飛行機を生産できないほどの損害を与えなければ、勝機はないと見ていた。
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 ■中島知久平(1884〜1949) 尾島町の農家に生まれ、尋常高等小学校卒業後、海軍に入隊。まだ木製だった飛行機が将来「国防上、最重要になる」と見抜き飛行機工場長に。海軍初の制式機を設計するなどの業績を残し大正6年退役。中島飛行機を興し戦史に残る数々の名機を建造し一大企業に育て上げた。
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 9月5日 産経ニュース「【幻の富嶽 掃射機設計図見つかる(下)】東条内閣が総辞職…製造中止命令 見果てぬ夢「戦争が終われば平和の飛行機に」
 平成12年、完成した爆撃機タイプのラジコン「富嶽」を見つめる「飛ばそう会」メンバー(西正裕さん提供)
 「全長45メートル、全幅65メートル、全備重量175トン。5千馬力の発動機を6機搭載。高度1万メートルを時速680キロで航行し、航続距離1万6千キロ。爆弾積載量約20トン」
 昭和18年1月、米軍が進めるB36爆撃機とほぼ同じ性能を持つ「空の要塞」を構想した中島飛行機創業者の飛行機王・中島知久平。「Z機」と名付け爆撃機、掃射機、輸送機などによる編隊攻撃で米本土の軍需工場をたたかなければ日本の勝機はない。強い危機感からだった。
 「隼」や「鍾馗(しょうき)」などの名機を作ってきた同社の有能な技術者たちも壮大さに息をのんだ。実現可能性調査を経て昼夜問わずの突貫工事で設計に当たった。
 試作機正式採用も
 並行して知久平は「必勝戦策」を内閣や軍部に配って説いた。当初は渋っていた東条英機首相も、18年9月のイタリア降伏など戦況悪化が重なる中、重い腰を上げた。Z機は壮大な姿から「富嶽」と名付けられ、19年2月、知久平を委員長とする「試製富嶽委員会」が発足、軍試作機として正式に採用が決まった。
 だが、壮大な計画は難問だらけで、結局、試作機も作れなかった。例えば5千馬力の発動機の冷却技術が当時の日本では確立されておらず、仕様の決定に手間取った。共同開発を決めたはずの陸海軍の足並みもそろわない。なにしろ同じ中島飛行機でも別工場にして作らせたほどだ。どちらが主導するかだけで議論になり、製作の遅れにつながった。
 決定的だったのが同年7月の東条内閣の総辞職。B29による米軍の本土爆撃も南方から始まりサイパンも陥落していた。後継の小磯国昭内閣は製造中止命令を発出。富嶽はあっけなく終わった。
 1年後、日本は敗れ、Z計画はもちろん各種関係書類は焼却、散逸する。
 富嶽の設計図は唯一、尾島町の中島本家で知久平の妹あやが保管、平成4年に知久平の長男・源太郎が死去した後、中島家の隣人で機械加工会社を経営していた正田公威さんが預かり、保管した。掃射機の設計図も正田家から見つかった。
 航空戦時代を予言
 知久平は海軍退役を控えた大正5年、軍関係者に送付した「職退の辞」で航空戦時代を予言していた。
 それは「金剛級の戦艦1隻で3千機、1艦隊分で数万の飛行機が製作可能。各自に魚雷を装備すれば金剛よりはるかに高い戦闘力を得る」と訴えたもので、当時としては相当、先見性に富んでいる。
 知久平は、欧米に生産力で劣る日本が戦艦建造を続けても財政を逼迫(ひっぱく)させるだけだが、飛行機なら少ない資金で量産が可能とし、技術力で米国に並ぶ日本が資金を集中させれば高性能の飛行機開発が可能で、戦争の主役になると説いた。富嶽構想もこの延長線上だったが、戦艦至上主義は敗戦まで軍部に色濃く残った。
 見つかった掃射機の設計図について、戦時中の軍用機に詳しい東洋大学講師の水沢光さんは「海軍系の小泉製作所と陸軍系の太田製作所がそれぞれ設計を進めていたことが読み取れる。中島飛行機が社を挙げ進めていたことが、具体的資料で明らかになったといえる」と語った。
 幻の機体、空を舞う
 設計段階でついえ、製造されなかった富嶽。だが群馬県太田市内では現在、定期的に雄姿を見ることができる。
 設計図を保管した正田公威さんの次男・雅造さん(69)が平成11年、中島飛行機の流れをくむ富士重工(現SUBARU)などのOBらと「富嶽を飛ばそう会」を結成、残された設計図をもとに12分の1から15分の1スケールの精巧なラジコンをつくり、これまで爆撃機、輸送機、旅客機タイプを飛ばしてきた。
 旅客機の設計図は実在しないが、Z計画を技術者に説明した知久平は富嶽の未来も語ったという。「この爆撃機は戦争が終わったら旅客機になる。平和の飛行機になる。それに乗って世界を周遊しよう」。日本の難局打開のためのZ計画だったが、知久平は、その先に平和を見ていた。「飛ばそう会」は知久平の遺志を継ぎ、2つあった輸送機の設計図のうちの1つを“旅客機”とした。
 ラジコンは展示会にも出展され幅広く活動しているが、見つかった掃射機のラジコンを作るかどうかは未定という。同会事務局の西正裕さん(80)は「会員の高齢化で製作が困難になった。一緒に活動してくれる飛行機好きな若い人がいれば」と期待を寄せている。(住谷早紀)
 ■中島知久平(1884〜1949) 群馬県尾島町の農家に生まれ、尋常高等小学校卒業後、海軍に入隊。まだ木製だった飛行機が将来「国防上、最重要になる」と見抜き飛行機工場長に。海軍初の制式機を設計するなどの業績を残し大正6年退役。中島飛行機を興し戦史に残る数々の名機を建造し一大企業に育て上げた。」


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