「千年の秘技 たたら製鉄 復活への炎 ―次代への胎動 プロジェクトX~挑戦者たち~
- 発売日: 2012/07/31
- メディア: Kindle版
関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
・ ・ {東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・
人類史において、日本刀や世界の剣が造られた目的は武器として人を殺す為であった。
刀や剣は、人斬り包丁であった。
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日本刀は、日本独自の技術の粋を集めた究極の工芸品で、重要な日本文化のアイテムである。
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食の農耕=稲作と職の最先端技術=製鉄と色の文芸=和歌は、天皇の権威の象徴であった。
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日本の鉄製品は、朝鮮半島南部から伝わってきていた。
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紀元前4000年頃 シュメール人は、メソポタミア南部に移住し、紀元前3000年後のまでに数多くの都市国家を建設した。
系列不明のシュメール語を話していたが、文字は象形文字から楔形(くさびがた)文字を創り出し使用して高度な文明を築いた。
楔形文字は、アッカド、ヒッタイト、古代ペルシャなど広範囲で使用されるようになり独自の文化圏を創った。
最古の鉄は、古代シュメールの都ウルで発見された鉄片とされている。
その鉄は、鉄鉱石から洗練された鉄ではなく、隕鉄を加熱しハンマーで加工した鉄であった。
この為、その鉄は「天の金属」と呼ばれている。
硬い鉄器の登場で、青銅器の時代は終わりを告げた。
シュメール人は、地表に落ちている鉄隕石を求めて移動して行ったが、鉄隕石が発見されなくなるや地下の鉄鉱石を掘り出し製錬を始めた。
紀元前3000年頃 古代エジプトの墓の中から、幾つかの鉄製装身具が見つかっている。
紀元前2000年頃 インド・ヨーロッパ語系諸族の一派は、小アジアに移動してヒッタイト王国を建国した。
都ハットゥサがあった現在のトルコ・ボアズキョイ遺跡から鉄鉱石を溶かし製錬された鉄が発見された。
鉄の武器と馬が牽く戦車を用いた軍事力で、前16世紀に小アジア・メソポタミア・シリアの一部を征服し、前14〜12世紀には小アジアを中心に大陸帝国へと成長した。
鉄を武器とした強者は、青銅器を武器とした弱者を攻めて支配した。
前12世紀頃 海洋民に、都ハットゥサを破壊されて急速に衰えて滅んだ。
ヒッタイト人は、ヒッタイト帝国の滅亡で故郷を失い、最新の鉄精錬法をもって世界中に散らばって行った。
他の地域への高度な文明や洗練された文化の伝播は、生・平和・建国・繁栄・安定ではなく、死・戦争・滅亡・衰退・混乱で起きていた。
それ故に、100%完全な形ではなく、極一部のみが継承された。
人類の文明・文化は、そうした悲しい宿命を背負っている。
製鉄は、古代シュメールを起源として、人の移動に連れて世界中に広がり、その一つの流れが古代中国でたたら吹き製鉄法に変化して朝鮮を経て日本に伝播した。
朝鮮半島南部の製鉄職工達は、戦乱で混乱するや日本・出雲に難を逃れ、和鉄精錬法へと改良して継承した。
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日本独自の日本刀は、日本人の心の鑑であり、日本人の精神の源である。
日本刀は、日本だけの刀剣である。
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2016年2月26日号 週刊朝日「司馬遼太郎の言葉 この国のかたち──『鉄』
たたら場の威厳
日本列島に鉄が初めてもたらされたのは紀元前3世紀ごろ、弥生文化(水稲農耕の文化)とセットで伝わったといわれている。朝鮮半島から『輸入品』のだった。
〈鉄は人間に好奇心を教えた。大工道具に使われることによってより便利な建物や船舶ができ、土木道具に使われ巨大構造をつくるようになった〉
鉄の普及で農耕地が広がり、食料が増産され、人口も増えていく。
しかし、一方、人間は豊かになると必ず争いを起こす〝動物〟でもある。鉄は強力な武器となり、戦闘による死傷者も増大した。
功罪ふたつの面を持ちつつ、5世紀後半から6世紀にかけ、鉄の〝国産化〟がはじまる。鉄を多く所有する土豪が各地に出現し、巨大な古墳も造られた。
〈6世紀の後半には仏教も渡来する。また『古事記』『日本書紀』の諸記述も事実の相貌を濃くしはじめる。古代の霧が晴れてくるような世紀である〉
さらに室町期から戦国期にかけ、農業生産高が一気に伸びることで、大きく日本史は変わっていく。
まず、日本の鉄はどうやって作られてきたのだろうか。
西洋では鉄鉱石が使われたが、日本では砂鉄を原料にした『たたら製鉄』が中心だった。日本中の野山のどこにでもある砂鉄を集め、製錬してゆく。燃料は木炭だった。
〈製錬現場で砂鉄を熔かすには、一山を裸にするほどの木炭が要った。木が鉄を生むといっていいほどに、砂鉄製錬は樹木を食い、古代として大規模な自然破壊をともなった〉
しかし日本の森林は植林すれば、
『30年でもとの山にもどる』
といわれた。この復元力の恩恵があってこそ、日本の鉄の生産はさかんになっていく。
〈師匠格の古代朝鮮の場合、気候や地質のせいでそうはいかず、乱伐されてやがて禿山になった〉
製鉄者集団が続々と日本に渡り、たたら製鉄をはじめた。とくに出雲(島根県)は渡来系の人々と縁が深い。出雲の砂鉄は高品質で、産出する鉄の評判は古来、高かったようだ。
〈私事だが、二十数年前、思い立って出雲へゆき、中国山脈の草木のなかに残る古代から近世にかけての製鉄遺跡を見てまわったことがある。……ひょっとすると、中国山脈そのものが製鉄所だったのではないかと思うようになった〉
天照大神の弟で、素行が悪くて上界を追放されたスサノオは、『肥河』(斐伊川)の上流『鳥髪』(鳥上)に降臨したとされる。
ここでスサノオは八岐大蛇(やまたのおろち)と対決する。
8つの頭と8つの尾をもち、腹は血でただれ、目は赤い。たたら製鉄で燃え盛る炎と砂鉄、山肌を赤さびた川が流れる様子を連想させる。
〈鳥上山の八岐大蛇というのは、鳥上山にいた古代の砂鉄業者であるという。出雲ではてれもがそのように言うし、もっともな解釈かと思える〉
スサノオノミコトは八岐大蛇を退治し、その尾を切って『草薙の剣を手にし、奇稲田姫(くしいなだひめ)をお嫁さんにすることもできた。
……
〈出雲というのは、神話と現実が、歴とした現実の中でいりまじっている土地で、洞窟をくぐると不意に神話の風景がひらけたりして、かんが狂ってしまう〉」
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2016年5月号 SAPIO「伝統の名刀にまつわる『因縁の物語』を繙く
この日本刀が歴史を変えた
神代の昔から、日本で刀剣は特別な意味を持っていた。
日本書紀や古事記には、イザナギノミコトから子のスサノオに受け継がれた『十握剣(とつかのつるぎ)』や、スサノオがヤマタノオロチを退治した際にその尾から現れた『天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)』という剣が登場する。
歴史の上でも、刀は『天皇の権力委任の証し』として用いられている。征夷大将軍などの武官や遣唐使の大使が勅命を奉じた際に下賜される『節刀(せっとう)』がそれであり、蝦夷討伐を命じられた坂上田村麻呂に桓武天皇が授けた例などが有名である。幕末には、朝廷が徳川幕府追討に向け軍事総裁を任命する際『錦の御旗』とともに節刀を下賜している。
人を斬る鋭利な武器でありながら、精緻な美術品でもあるという二面性が日本刀の特徴だ。その魔力に時の権力者たちは尽きぬ執着を示す。日本の歴史が動くとき、彼らの手元にはいつも一振りの名刀があった──。
時代を超えて受け継がれる名刀の秘密『剣は〝権〟なり』 牧秀彦
すべての名刀には、背負ってきた歴史があり、伝えられてきた時代の記憶が息づいている。翻って言えば、名刀は誕生した瞬間から名刀だったわけでは決してない。
日本で製鉄が始まったのは2世紀から3世紀の頃とされるが、当時の刀剣は大陸から輸入されたものが主流。5〜6世紀頃に大和朝廷が成立後、律令体制が整うと製鉄は国家事業となって我が国独自の刀剣も発達した。それまでの刀は反りのない直刀(ちょくとう)と言われるもので、斬る用途ではなく突く用途に主眼がおかれていた。平安中期になると反りのついた彎刀(わんとう)がみられるようになる。平安時代から鎌倉時代にかけて、各地に名工が出てきたことで、刀剣は洗練されていく。
およそ1000年の時間をかけて、刀は日本独自の進化を遂げていった。
各時代に、名を成した刀匠は存在した。彼らが手掛けた逸品を世の人々が挙って求め、当時から高値がついたという事実はある。しかし、刀匠によってのみ名刀が生まれたわけではなかった。歴々の所有者たちが遺した、様々な物語が語り継がれることで、良刀が名刀になってゆくのです。
実は、古代から近世に至るまで、合戦場(かっせんば)において刀はそれほど決定的な武器ではなかった。槍で突く、弓で矢を射かけ合い、薙刀を振るった後、つまり合戦の趨勢が決した後で手柄として敵の首を切るのが刀の主な出番だったと言われている。
束の間、刀が武器として頻繁に使用された時期がある。それが幕末の動乱期である。当時の武士は身分の証として大小二振りの刀を携行していた。長物を普段から持ち歩くわけにもいかない。謀殺の道具として刀が有効だったからである。
日本刀には、武器としての鋭利さが持つ冷たい美と、刀工が心血を注いだ造形の美がある。日本刀がもつそうした二面性に、各時代の権力者たちは執着してきた。
名刀所有は権力委譲の証
刀剣は記紀神話にも登場し、その霊力で邪気を祓(はら)う神聖な武器として描かれている。天皇家は朝敵討伐の際にその威光を借り、権威を委任する証しとし『節刀』を用いた。その天皇家の武官たる立場にふさわしい重宝、つまり代々の宝として、源氏に『鬼切(おにきり)』と『薄緑(うすみどり)』を、平家は『小烏丸(こがらすまる)』を伝えている。その後台頭し武家をリードした足利氏はさらに古今の刀を独自に集め、足利家の重宝と定めた。武家の棟梁たるステータスを守るため、数々の名刀を所有し世に誇ったのである。
室町時代、ステータスシンボルたる刀の研究が進む。平安・鎌倉の刀剣の銘が研究され、鑑定家の名家である本阿弥家も登場し、刃文の美しさを追求する研ぎが施された。
13代将軍義輝の暗殺後、これらの名刀は流出し、織田信長ら戦国の世の武将たちの手に渡った。彼らもまた、名刀を欲したのである。信長がもったことで、また価値が上がる。豊臣秀吉が稀代の名刀蒐集家だったことは意外と知られていないが、秀吉は信長の持っていたコレクションを根こそぎ受け継いだ。それは権力委譲の象徴でもある。武芸に秀でたわけではない秀吉が名刀を求めたのは、人斬りの実用に供するためではなく、天下を統べるべく己の権威に箔(はく)をつけるために他ならない。
乱世に終止符を打ち約300年の幕藩体制を築いた徳川家も刀を集めた。なかでも名刀コレクターとして知られたのが徳川家康である。家康のもとには信長や秀吉が保有していた名刀群が数多く集まった。加藤清正から献上された『日光助真(にっこうすけざぬ)』は家康を東照大権現として祀る日光東照宮の無二の神宝となり、徳川幕府の守護刀となっている。
これらの名刀が最後に集まったのは明治天皇の下であった。やはり皇室が手にすることになるというのも感慨深い。
つまり、名刀と呼ばれる刀は、歴代の所有者の権威のもとに価値が付与されてきたものなのである。こうして権威を継承、或いは強奪し権力の座についた者が新たな所有者となり、さらなる価値を重ねる。権力者たちが代々伝えることによって、名刀は名刀となっていったのだ。
名刀に込められた〝祈り〟
刀が神器であった面も忘れてはならない。古墳時代の国宝である七支刀など、実用的な武器ではなく祭祀用の呪具であったものもあるが、それとは別に人を斬る道具である刀には邪を祓う、魔を降すという意味付けもなされた。前述の通り刀は首を切るものである。つまり、もう甦ることがない、完全な死をもたらすものだからこそ、神聖であり、価値がある。穢れを払うという日本人独特の死生観と結びつき、魔物を斬ったなどといった伝承をその刀身に纏(まと)うこともあった。これもさらに名刀の価値を高める舞台装置となったことは想像に難くない。
刀には、彫刻が施されたものが多い。『小龍景光(こりゅうかげみつ)』に彫られた龍もそうだが、そこには宗教的意味も込められている。刀は武器であると同時に、神聖な祈りを捧げる対象だった。
主君から命じられた敵と戦う武士が相手の命を絶つのは、あくまで主君のためであり、お家を背負って果たす責務だった。何も考えずに人を斬れる者などいない。よく不動明王の象徴の梵字が彫られたのも、戦わねばならない宿命を背負った者の想いがあればこそ。武士にとって刀は、神聖だからこそ価値が重んじられたのだろう。
こうした様々な意味付け、来歴、物語りを纏い名刀が出来上がってゆく。名刀とは、人々が語り継ぎ、世の動かす者の手を経ることで作り上げられた歴史そのものなのである」
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2016年7月28日 読売新聞「地名の知 安来(やすぎ)島根県
『たたら製鉄』で繁栄
『安来』の地名が残る最も古い文献は、8世紀に編まれた地誌『出雲国風土記』に遡る。この地に降りた素戔嗚尊(すさのおのみこと)が『吾が御心は、安木(やす)けく成ぬ(安らかになった)』と記したぼが、由来と記されている。
安来h、製鉄の歴史なくしては語れない。県東部で古来、地元で産出された良質な砂鉄と燃料の木炭を土製の炉にくべて鉄を作る『たたら製鉄』が盛んだった。市内には製鉄所跡が確認されており、最盛期の江戸後期〜明治初期には、島根だけで全国の生産量の約4割を占めた。
当時、全国の製鉄所内外に製鉄の神『金屋子(かなやご)神』が祭られていた。市南西部には総本社の『金屋子神社』があり、一時は全国約1,200か所に分祀(ぶんし)された。
なぜ製鉄に神が必要だったのだろうか。
『昔は砂鉄から鉄ができるのは神の技だと考えられていたんです』。宮司の安部正哉さん(92)は説明する。火を扱う製鉄には常に危険が伴い、『精神統一し、神に祈ってから仕事に臨んでいた』という。
たたら製鉄は戦後廃れたが、日本刀の材料として不可決な玉鋼(たまはがね)は、この製法でしかできず、刀匠らの要望で約40年前に復活。同県奥出雲町の『日刀保(にっとうほたたら)』が玉鋼を製造している。」
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日本の人工的造形で究極の美とは、研ぎ澄まされた日本刀である。
江戸時代の日本刀は、戦のない、殺し合う事のない、人の命を断ち、人の血を吸う事のない、太平の世に製作された刀剣である。
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サムライ・武士が日本刀を一度鞘から抜いたら最後、決着は、相手を殺すか自分が死ぬかの二者択一しかない。
サムライ・武士は、耐えに耐え、堪えに堪えて、名誉と体面が保たれないと悟った時、「死を覚悟」して日本刀を抜いた。
サムライ・武士が日本刀を抜く時は、冷静に思案し、これ以上は我慢ができないと判断した時であった。
サムライ・武士は、勝ち負けや損得では日本刀を決して抜かず、これ以上我慢すると名誉と体面が保てないと判断した時に日本刀を抜いた。
サムライ・武士は、己が命よりも先祖からの名誉や家の体面を大事にした。
理不尽には、断固として戦った。
日本刀とは、その象徴である。
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日本刀の刀文化は、日本独自の刀文化であって中国や朝鮮の剣文化とは縁もゆかりもない。
日本刀は、日本人刀鍛冶屋が死ぬ思いでの苦しい修行の果てに会得した匠の技で、死を覚悟し心血を注いで打つ出した美術品・芸術品であった。
日本刀は日本の鎧兜同様に、日本人の心の奥にある益荒男の大和魂を揺さぶる。
世界中に刀・剣がある以上、そこには数多くの剣文化があり、それぞれに名剣・名刀が存在する。
例えば、騎士王・アーサーの聖剣エクスカリバー。
戦争や決闘で活躍する名将や勇将、騎士や武芸者の物語がある所には、人を殺す聖剣伝説も存在する。
日本刀文化が、その中で飛び抜けて優れている訳ではない。
世界史で語られる様な刀剣文化に比べてく、日本刀文化は日本列島の中だけの閉鎖的文化に過ぎない。
日本刀文化とは、日本史の中にだけ存在するローカル文化であり、世界史のグローバル文化である刀剣文化と比べて優劣を競っても仕方がない。
日本刀は、閉鎖した自然環境に閉じ籠もって生きてきた日本民族日本人の伝統工芸文化であり、解放された世界の人類共通の殺人道具文化ではない。
日本刀文化とは、芸術性と加工技術に優れていると認められて世界史的工芸品文化に組み込まれてはいない。
日本刀を世界的な優れた美術品・工芸品として考えているのは、夜郎自大に自己満足に埋没している日本人の視野狭窄である。
日本刀には、世界史・人類史的工芸品としての価値は高くない。
日本刀の価値を保証しているのは、日本天皇の権威である。
日本刀は、逸品であるという権威によるお墨付き、鑑定書の一筆、があれば、殺人道具が名刀として珍重された。
日本人は、権威に弱い。
日本天皇が存在しなければ、日本刀文化も存在しない。
日本の伝統的土葬では、日本刀は守り刀として死者と共に埋葬した。
日本刀と日本民族日本人は、日本の伝統的宗教観・死生観・人生観から精神世界の霊魂レベルでつながっていた。
日本はグローバルではなくローカルで、日本刀文化もグローバル文化ではなくローカル文化である。
日本刀文化は、特段、優れた文化ではない。
反戦平和運動や非武装非暴力主義を唱える時、日本民族固有の日本刀文化を否定し、芸術品・美術品・工芸品の価値を否認し、日本刀を単なる人斬りの殺人道具として抹殺する必要がある。
殺し合いという戦乱が終わった天下太平の江戸時代。武士は、名刀の価値を確かめる為に処刑された罪人の身体を切り刻んだ。
日本の宗教観では、恨みを飲んで死んだ者や罪人の霊魂を怨霊として恐れ、人に災いを及ぼす怨霊を人を守り救う御霊に換えるべく神として祀った。
日本民族は、悪人の霊魂は善人の霊魂よりも霊力が強いと恐れ戦いていた。
日本刀の真価も、死を覚悟して打ち出した刀鍛冶屋の匠の技に加え、人の血を吸ったことで高まると信じられていた。
刀鍛冶屋の匠の技で鍛えられ直後の日本刀には、飾りとしての美しさがあっても生命力、魂が籠もっていないとされた。
魂を吹き込み生命力をつける儀式として、処刑された罪人の試し切りが行われた。
その真逆に。極たまに、打つ出された直後の日本刀にまがまがしき妖気が漂う事があり、その場合は、神社に奉納し門外不出の神刀・宝刀として妖気を封印するか、鉄の胎盤である大地に埋め母性の精霊で浄化させた。
日本神道の価値観では、人や物事には二面性があり、人の心には善心も悪心もあり、人の行いにも善い行いと悪い行いがあり、神にも善神と悪神があり、霊魂にも御霊と怨霊があって一人前とされた。
生まれながにして善心・正心を持った神や仏の様な人間は、神の裔である日本天皇だけで、一般的な日本人はあり得ないという人間観を持っていた。
日本刀が生きた鑑として精神の拠り所にはその二面性を帯びる必要があるとして、穢れである死と血に染まるべく試し斬りが神聖な儀式として執り行われた。
試し斬りされた霊力の強い罪人の身体は、御霊として祟らない様に丁重に、そして懇ろに弔った。
怨霊・邪心を浄化して御霊・正心を得た神刀・宝刀には、如何なる邪も祓い、如何なる魔も降す強力な霊力があると信じられた。
日本には日本刀があり、中国には独自の刀剣があった。
朝鮮は儒教価値観が強かった為に、農耕漁猟用狩猟用の小振りの刀を作っていたが、戦用の長剣は作らず中国からた輸入していた。
その為、朝鮮は日本や中国のような刀剣創作技術は成長しなかった。
朝鮮における技術の遅れは、儒教価値観が原因であった。
それは鎧兜でも言える事で、日本の鎧兜は鉄板を組紐で汲み上げた芸術品に近かったが、中国は農耕民は鉄製鎧であったが騎馬遊牧民族は革製鎧でった。
朝鮮は、王侯貴族や将軍は中国製の鉄製鎧や革製鎧であったが、一般的には竹製鎧か厚紙製鎧が主流であった。
日本に於いても、武士は全員鉄製鎧であったが、足軽・雑兵・小者は鉄製鎧ではなく竹製鎧であった。
日本の鉄製鎧と中国の鉄製鎧・革製鎧は異なる。
日本の鉄製鎧は、騎馬戦用ではなく歩兵戦用であった。
中国の鉄製鎧は、騎馬戦と歩兵戦兼用であった。
反りのある日本刀と反りの少ない中国刀剣の違いも、この点による。
朝鮮の鉄製鎧・革製鎧は、中国からの輸入であった為に独自性が少なかく、当然の事ながら日本の鉄製鎧や竹製鎧とも違う。
高度にして熟練した刀鍛冶が発達していたお陰で、南蛮渡来の火縄銃を見本一つを分解研究し、指導を受けずに摸造を製造し、創意工夫を凝らして瞬く間に世界一の火縄銃保有国になった。
世界は、豊臣秀吉の日本統一から徳川幕府時代を通じて、日本を世界の7大帝国の一つに数えていた。
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「名刀は青く澄む」
日本刀の美術的工芸的価値は、修練を積んだ刀匠が鍛えた日本産鉄の美しさにある。
その中でも、時代を超えて名刀と称えられ国宝に指定される日本刀は、優れた天分を持って生まれた刀匠が「死」を覚悟して鍛えた日本刀のみである。
優れた刀匠には、日本人でも外国人でもなれた。
優れた日本刀になるのは、日本産鉄のみであった。
外国産の鉄を鍛えて日本刀をつくったとしても、見た目は日本刀でも日本刀が醸し出す色合いなどの言葉にできない風情はない。
その違いは、日本独自の踏鞴製鉄法や日本刀製造法以前に、採掘された地域の環境や土壌で鉄の性質が異なっていたからである。
そして、日本神道が深く関わっていた。
太平洋戦争中。アメリカ軍兵士は、勝者の権利として、戦死した日本人兵士の金歯や頭髪やドクロと共に日本刀と日本軍旗や署名入り日章旗を戦利品として奪っていた。
日本の敗戦によって戦場で戦利品を強奪できなくなったアメリカ軍兵士達は、日本に進駐するや武装解除され山と積まれた日本刀を奪い合った。
アメリカは、国宝級の名刀を手に入れる為に、刀剣所持を禁止し、家宝として隠匿しているする旧大名家の華族に対して法外な財産税を課して、日本全土で「刀狩り」を行った。
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日本刀は、武士の象徴として意味があったが実戦向きではなく、戦場では役立たなかった。
日本刀は固く切れ味は鋭く、正面から撃ち出された拳銃の弾丸であれば斬る事ができるといわれている。
だが、人斬りには不向きで3〜4人斬ると後は斬れなくなり、鎧兜を着た敵を斬る事は不可能といわれている。
数多い敵と戦う時は、斬るのではなく突くのがいいとされている。
多くの敵を斬るに最適な刀は、中国の青竜刀や西洋の長剣とされている。
多くの敵を突き殺すに最適な剣は、西洋刀とされている。
人を斬る方法は、青竜刀・長剣は上から下に圧す、西洋刀は相手の方に押す、日本刀は自分の方に引くである。
世界的に最強の武器は、斧や槍そして金槌であって刀・剣ではなかった。
日本刀は、多くの人を殺す武器としては青竜刀・長剣・西洋刀には劣る。
日本の合戦における槍の使い方は、長い槍で敵から離れた場所から振り下ろして敵を叩き伏せ、短い槍で倒れた敵を突き殺す、である。
鎧を着た敵を殺すのは、突く事であって斬る事ではない。
刀・剣に美術的価値を持っているのは、青竜刀や西洋刀ではなく、西洋の長剣と日本刀である。
日本刀が、青竜刀のような人斬り包丁に特化せず、西洋刀以上に美術的価値を持ったのは「徳川の平和」が深く関係していた。
中国や西洋は何時の時代でも戦争が絶えなかった為に、刀・剣は、如何に効率よく多くの敵を殺し、乱戦で乱暴に使っても折れる事なく使えるかが問題とされた。
日本の工芸品は、合戦・戦争時代であれば世界的最高水準の武器を生み出す恐ろしい底力があるが、平和な時代であれば世界レベルの美術品;芸術品を生み出す類い稀な能力があった。
その代表が日本刀である。
日本刀は、日本人の創意工夫と独自技術で発達した、日本独自の美術品・工芸品である。
日本の製造業における底力と能力が、名匠・名工ら職人による逸品モノとしての一点豪華主義である。
日本と中国・朝鮮との根本的な違いはここにある。
そして、欧米との違いもここにある。
日本が欧米・中国・朝鮮と何故違うか、それは長年住み慣れた環境による。
因みに、朝鮮の刀には独自性はない。
正統派儒教が支配する朝鮮では、職人・工人は最下層民として、如何に精進して精魂込めて名刀・名剣を造ったところで報われない卑しい奴隷的身分だからである。
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徳川恒孝「徳川の時代の刀は、戦国時代の重ねが厚く太く重いものと違い、切る事を目的としない薄口です。刀は武器ですが、それより美術品として捉えていたのでしょう。徳川の時代は武器は必要なかったのです」
「徳川家の願いはただ平和のみです。それは260年の間、一度も戦がなかった事が証明しています」
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2017年1月28日号 週刊現代「今週のネタ本 『刀の日本史』 加来耕三著 講談社現代新書
今週のへえ〜、そうなんだ
合戦での日本刀の殺傷率は、1割未満
侍たちが肌身離さず脇に差し、合戦の時も刎首(ふんしゅ)の時も、常に彼らの命運を左右する──そんなイメージの強い日本刀。希少価値や美術的価値から、国宝に指定されている『名刀』も少なくない。刀は実際のところ、武士の合戦ではどのように用いられていたのだろうか。
実は、本格的に鉄砲が戦術に導入されるまで、戦場でいちばん殺傷力の高かった武器は『弓矢』であった。合戦ではまず、リスクの少ない長距離戦が展開される。弓矢隊が相手の陣地に向けて矢を放ち、戦力を削り態勢を崩すのを狙うのがセオリー。殺傷の実に6割を誇っていたのが弓矢だった。
遠距離戦が緩んだのを見計らって飛び出すのは、刀ではなく薙刀(なぎなた)や槍を持った武士たちである。長いものは6mもあるリーチと重量を活かし、敵の頭部を殴打したり、鎧の隙間を狙って突いたり使用された。合戦での殺傷率は2割程度だったとされる。
では、次こそ敵を葬ったのは刀──かというと、そうでもない。実は、そこらへんに落ちている石ころや瓦礫を投げたり落としたりして、相手を倒す場合のほうが多かったのである。投石によって敵に攻撃を与えることを『印地』と呼び、かの戦国武将武田勝頼は、300人規模の投石隊を率いていたという。合戦では実に1割強の武士が、あまりにも原始的な『飛び道具』に命を奪われていたのだ。
刀はあくまで、弓も槍も失った時の『護身用』。もしくは敵の首を持ち帰る時に用いられ、戦場での殺傷率は1割にも満たなかったという。
ちなみに大河ドラマや時代劇の合戦シーンで演出を引き立てる『一騎打ち』だが、実際の戦場で武士の一騎打ちが行われるのはまれだった。
また馬上の武士が槍や日本刀を片手で戦うシーンがよくあるが、これも脚色された戦術。馬上で使うのも弓矢がメインだった。もし槍や刀の柄(つか)を相手に握られたり、あしらわれたりしてしまえば、武器を手放すか落馬するほかなかった。そうすれば死は免れない。(嶋)」
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2018年1月24日05:04 産経ニュース「【産経抄】日本刀は「ものづくり」の原点である
刀剣ブームが続いている。アニメやゲームを通じて、日本刀のファンになった「刀女子」が、展覧会や鑑賞会に多数訪れている。作者や持ち主、斬った相手など、逸話や伝説を知ると、名刀の鑑賞はますます楽しくなる。
▼東京国立博物館は、「童子切(どうじぎり)」の号(通称)で知られる国宝の太刀を所蔵している。平安時代の武士、源頼光が、丹波の大江山に住む鬼神、酒呑童子(しゅてんどうじ)をこの太刀で退治したとの由来を持つ。
▼童子切は足利将軍家に伝わり、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康へと渡っていく。江戸時代に入って、美作(みまさか)津山の松平家に移り、戦後まで受け継がれてきた。作者は、日本刀の草創期に伯耆国(ほうきのくに)、現在の鳥取県で活躍した名工、安綱(やすつな)である。
▼奈良県の春日大社で約80年前に見つかった太刀を研磨したところ、12世紀に作られた日本刀だと分かった。安綱の作品の可能性もある。とすれば童子切と違って、誰の目にも触れないまま何百年も宝庫で眠っていたことになる。
▼製鉄技術は、弥生時代に大陸から日本にもたらされたとされる。やがて砂鉄を木炭で還元する「たたら吹き」と呼ばれる独自の技術で、和鉄「玉鋼(たまはがね)」が生み出された。刀工はこの玉鋼に鍛錬と焼き入れなどを繰り返すことで、鋭い切れ味と折れにくさという、両方の機能を日本刀にもたらした。しかも世界に類のない曲線の美を誇る、美術品でもある。日本の製造業、ものづくりの原点は、日本刀にあるといっていい。
▼昨年来、検査データの改竄(かいざん)など、大手メーカーによる不正が次々に発覚した。競争力の低下も著しい。世界に誇ってきた日本のものづくりへの信頼が、大きく揺らぎつつある。そんな日本に活を入れるために、名刀は再び姿を現したのではなかろうか。」 ・ ・ ・
1月24日19:34 産経WEST「日本古来の製鉄技術を唯一伝承 島根・出雲の日刀保たたらで火入れ式
今冬の操業が始まった「日刀保たたら」=1月24日午後0時2分、島根県奥出雲町大呂(小林宏之撮影)
日本古来の製鉄技術「たたら吹き」を唯一継承する島根県奥出雲町の「日刀保(にっとうほ)たたら」で24日、火入れ式が行われ、今冬の操業が始まった。
西洋から近代製鉄技術が入り一度途絶えたが、日本刀原料の「玉鋼(たまはがね)」の供給と伝統の継承を目的に、日本美術刀剣保存協会などが昭和52年に復活させた。
外は20センチ以上の積雪で時折、作業場内に雪が強く吹き込む。これから3昼夜にわたって炎と向き合う職人たちは「これくらいの寒さがちょうどいい」。」
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