- 作者:片桐 一男
- 発売日: 2000/10/17
- メディア: 新書
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・ ・ {東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・
徳川家康は、経教分離で南蛮(スペイン・メキシコ)や東南アジア・インドとの貿易を希望していた。
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戦国時代。
日本人は、奴隷として売られていた。
日本人奴隷貿易を仲介していたのは、宣教師であった。
白人キリスト教徒にとって、キリシタンでもない非白人は人間以下の家畜か獣だった。
家畜か獣に過ぎない日本人は、ポルトガル商人やスペイン人商人によって人身売買されていた。
合戦が終わった後、勝った武将は家臣や雑兵による「乱取り」を褒美として許していた。
貧しい雑兵は、敵地の屋敷や民家に押し入り食料や家財道具を奪った。
家人がいれば連れ去り、親族が大金を払えば返してやり、引き取り人がいなければ人買い人に売った。男は鉱山などの重労働者とし、女は売春婦とされた。遠く、外国まで売られた者もいた。
『妙法寺記』「男女生け捕りなされ候て、ことごとく甲州へひきこし申し候。さるほどに、二貫、三貫、五貫、十貫にしても、身類(親類)ある人はうけ申し候」
一貫は、現代の10万円くらいである。
金もない百姓の値段は、20銭(2,000円)から30銭(3,000円)であった。
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豊臣秀吉は、天下を統一してからは日本国内での奴隷売買は禁止したが、朝鮮出兵では許した。
徳川家康は、大坂の陣までは奴隷売買を許したが、それ以降では人さらい的人身売買は犯罪として禁止した。
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占領地における強奪や人さらいは世界の常識とされ、世界中で日常的に行われていた。
そうした被害を防ぐ為に、各国の領主は強力な軍隊を持って敵の侵略を食い止めていた。
弱小の軍隊しか持てない者や抵抗しない者は、そうした行為がなされる事を認めた者として、強者から踏みつけにさ蹂躙された。
被害を受けた弱者は、そうした行為を行った強者を恨むのはお門違いで、自分の無力無能を恥じるべきであった。
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秀吉の朝鮮出兵で被害を被った朝鮮が、日本の犯罪行為を非難するのは当時の世界常識を理解できない無知さにある。
日本が、中国や朝鮮に侵略され占領されれば同じ運命を辿ったに違いなく、事実、当時の中世キリスト教ヨーロッパ諸国の植民地では地獄のような惨状になっていた。
日本は、そうした運命を避ける為に国内外で戦ったに過ぎない。
もし。それが犯罪というのならば、人間は全て犯罪者で、人類の歴史は犯罪史というしかない。
なおも犯罪行為と真顔で公言する人間こそ、世にも恐ろしい、醜い心を持った冷血なおぞましい人間である。
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徳川家康は、ポルトガル商人と一部の宣教師が行っていた日本人奴隷貿易を禁止したが、南蛮や東南アジアとの貿易を許可制で続けようとした。
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キリシタン禁制は、一部の宣教師が日本人奴隷貿易に積極的に荷担していたからである。
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徳川幕府は、国外輸出品の中の日本人奴隷を禁じ、別の国産品を主力製品とした。
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日本は、日明貿易や南蛮貿易で大陸から生糸を輸入し、金銀を輸出していた。
国際的貨幣は、銀貨であった。
石見銀山の銀は、アジアの金融市場に大量に流出し、一時は国際金融市場で流通していた銀の4分の1は日本産であった。
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オランダは日本の銀を独占する為に、ポルトガルやスペインを日本から追い出す為に偽情報を徳川幕府に伝えた。
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徳川家康は、佐渡を直轄地・幕領とし、1601年から金山開発を本格的に開始した。
佐渡金山は、世界最大級の金山で、最盛期には年間400キロの金と40トンの銀を採掘して幕府に納めていた。
採掘が終了する平成元年までに、78トンの金と2,330トンの銀が産出された。
採掘人夫に、犯罪者が送り込まれていたがその人数は少数で、大半の者は給金の多さに見せられて集まった貧しい百姓達であった。
佐渡には、日本の3大遊郭の一つが営業し、それ以外に多くの娯楽場・歓楽街が存在していた。
現在もその名残として、島内に35の能舞台が残っている。
佐渡は、江戸、京、大阪に負けない程の庶民文化があった。
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17世紀後半。日本から大量の金銀が流出して、国内の金銀が不足し始めた。
幕府は、金銀の流失を防ぐ為に、国内で必要な生糸を生産する為に養蚕を奨励した。
各藩も、養蚕を百姓に指導した。
国内で養蚕業が発展するや、生糸の輸入は激減し、金銀の輸出も減った。
幕藩体制下では、百姓のみが税金として年貢のコメを収めた。
コメ以外の農作物は、現金収入として百姓の手元に残った。
百姓は、サムライよりもやや豊かな生活を送っていた。
年代を重ねる事に養蚕技術は向上し、1702年には最初の養蚕技術書『養蚕養法記』が出版された。
その後、数多くの技術書が出版された。
意欲的な身分低い百姓は、大金を払って技術書を購入し、参考にして生産量を上げて多額の現金収入を得た。
各藩は、財政難を改革する為に、百姓らに意見を聞き苗字帯刀を許した。
大金を得た百姓は、士分を買ってサムライとなり、跡取りのない武士の養子となった。
日本に於ける生糸生産は、幕府や各藩が農村に奨励した産業である。
養蚕技術は世界的に優れ、100冊以上の専門書が出版され、農民達は専門書を読んで更なる改良を行っていた。
幕府や各藩は、財政難を百姓らの創意工夫に頼る為に、百姓らを保護していた。
シーボルトは、1848年に、『養蚕秘書』をフランス語に翻訳してヨーロッパに伝えた。
ヨーロッパは、日本の養蚕技術の高さを認め、日本産生糸で裁縫された絹製品が高値で売買されていた。
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2017年5月19日 産経ニュース「世界遺産級の銀鉱石標本発見 石見銀山の江戸期産出品 世界一だった往時の姿ベール脱ぐ
石見銀山資料館で確認された銀のひげ状結晶の標本(黒い針金状の部分)包み紙には福石と記載されていた(益富地学会館提供)
今年7月に世界遺産登録から10年を迎える石見銀山(島根県大田市)で昨年、江戸時代に採掘していた銀や銀を含む鉱物の標本が地元の資料館で多数確認され、現在大阪大学総合学術博物館で研究が進んでいる。江戸時代の幕藩体制下では銀などの鉱石の持ち出しは難しく、採取時期や場所など来歴の分かる標本は皆無。往時に世界の銀の3分の1を産出していたにもかかわらず、これまで謎に包まれていた石見銀山の姿がベールを脱ぎはじめた。(藤浦淳、小林宏之)
■江戸期の経営実態の「謎」解明へ
代々山師(技術者)だった家系の古民家で発見、石見銀山資料館に寄贈されていた。大阪大学で石薬(せきやく)の研究に携わる総合学術博物館の伊藤謙・特任講師が昨年末に標本を確認。益富地学会館(京都市上京区)の石橋隆研究員とともに、詳細な分析を実施した。
標本は木箱に入った58点で、いずれも数センチ大。天保や文久など江戸後期の採取年月日や場所(坑道)、名称などが詳細に書かれた和紙にくるまれていた。
分析したところ表面が黒い銀鉱物に覆われたひげ状の自然銀や、割り箸の先端ほどもある針銀鉱(輝銀鉱の仮晶)の結晶など、鉱物学的にも極めて価値が高いものが多数含まれていることが判明。これまで文献でしか残っていなかった高品位鉱を示す「福石」と書かれた標本もあり、初めて江戸時代に採掘されていた鉱脈や鉱物の実態が明らかになった。
伊藤さんによると、明治以前の鉱物標本でラベルと一致するものがまとまって現存するのは、薬品として残る正倉院資料や、同じ江戸後期の森野旧薬園(奈良県宇陀市)標本などがあるが極めて稀。今回の発見は、江戸時代の鉱山の生き証人として、鉱石だけでなく当時の日本人の探鉱技術までを知ることができる発見といえるという。
今回の発見は、幕張メッセ(千葉市)で開催の日本地球惑星科学連合大会で21日に発表され、標本は夏ごろには地元に戻され資料館で展示される予定。
国立科学博物館・松原聰名誉館員の話「採取年月日や細かい産出場所などが分かる古い標本は、技術史的・文化的にも極めて価値が高い。今回の発見は世界遺産の一部として扱う価値のあるものだ」
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