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・ ・ {東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・
豊臣秀吉の太閤検地(1580年)での全国の石高は約1,850万石(総人口も1,580万人)出会ったが、100年後には3,000万石(総人口3,000万人)に増えていた。
戦国時代。百姓や町人は、合戦を高みの見物で楽しんでいた。戦場で死んだサムライ達を、懇ろに葬ったが、その見返りとして武具甲冑から着物まで全てをはぎ取った。さらに、負けた側のサムライを落ち武者狩りで仕留めて、大金の褒美を得た。日本の庶民は、逃げ場所のないヨーロッパの住民とは違って、逞しくしたたかであった。
サムライが盗賊まがいの百姓を討伐にかかれば、百姓は田畑を捨てて蜘蛛の子を散らすように逃げ去った。よって、大陸のような大虐殺は起きなかった。
戦いがなくなるや、貧乏なサムライ・武士は刀を置き鍬を持って荒れ地を開墾して農作物を作った。戦争による恩賞がなくなった為に、サムライ・武士は荒れ地を切り開き農作地として増産に努めた。
武士・サムライとは、大陸の貴族や騎士や紳士などの特権を持つ上流階級ではなかった。
日本の階級社会は、上下に断絶してはいなかっし、極端な格差もなかった。あるのは、生まれた時の家よ家業の差だけであった。
貧しい百姓は、わずかな田畑を耕しながら、幾つもの副業で生計を立てていた。
百姓町人は、生業の他に幾つもの副業を持っていた。生業が駄目になれば、幾つかある副業の中で稼ぎの良い仕事で家族を養た。
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大名達は、城下町の人口を増やし商業を活発に知る為に、京や大阪等から商人や職人を呼び寄せていた。
領地の石高を上げる為に荒れ地や未開墾地を開墾して田畑にするべく、遺産がもらえず家を出なければならない次男や三男、戦で田畑を失って乞食などの非人となって彷徨っていた者達に土地を与えて定着させ農作業をさせた。
商人や職人はおろか新たに百姓となった者達は、大名が気にくわなかったり、悪政や失政を行えば、土地を捨てて別の大名の領地に移り住んだ。
大名達は、そうした移動する百姓や町人を歓迎した。
人口減少を恐れる大名達は、領民が逃げ出さないように施政を行った。
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1591年1月(〜3月頃) 京都の御土居(22.5キロメートル)。豊臣秀吉は,応仁の乱からの長い戦乱で荒れ果てた京都を平和な町として整備し、同時に外敵の攻撃と鴨川の氾濫を防ぐ土塁を,多くの経費と労力を費やして築いた。
御土居の内部を洛中、外部を洛外と呼んだ。
人口が増えると、土塁は破壊されて市街地は拡大した。
御土居によって、京の住人が洛内と洛外に分けられた事によって、格差が生じた。
洛内人は洛外人を田舎者として差別し、洛外人は洛内人を生意気な奴と馬鹿にした。
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関東の城は、関東ローム層の赤土は雨が降るとよく滑る為に、防備の為に石垣を積む事なく土を突き固めて土塁を築くだけでよかった。
関西の城は、土壌が違う為に石垣を築いて防御を固めた。
その為に、穴太衆(あのうしゅう)という石垣造りを専門とする職人集団がいて、各地の大名から高額で築城現場に雇われていた。
日本の石垣は、中国や朝鮮にない、日本で発達した独特の積み方であった。
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2016年12月11日 産経ニュース「【歴史インサイド】「真田丸に通じる」 京都を囲む超巨大「御土居」は防災用か軍事用か…〝新証拠〟から探る天下人・秀吉の意図
市営住宅の建設予定地から出土した御土居の堀。豊臣秀吉の大整備事業の一つだが、後世の「真田丸」にも通じるものが…
16世紀末、豊臣秀吉が巨大な土塁と堀で京都の中心部を包み込んだ御土居(おどい)は、聚楽第(じゅらくだい)建設や寺町形成などと並び、秀吉の手掛けた大整備事業のひとつとして知られている。目的は、京域の範囲設定▽外敵からの防御▽洪水対策−などが考えられているが、いまだ明確な答えが出ていないのが実情だ。そんな中、11月に京都市北区の発掘調査現場から、推定幅18メートル、深さ約6メートルの堀を伴ったこれまでにない規模の御土居跡が現れた。それは、従来の概念を覆すものになったと同時に、後世の「真田丸」にも通じる、ある新たな証拠を突きつける形となった。
念入りに造成、防御用か
市営住宅の建設に伴い調査された発掘現場。西隣を走る道路よりも一段高い斜面地だが、その脇には深く掘り込んだ跡が残る。簡単には登れない急勾配(こうばい)な地形をとどめていた。御土居の堀跡で、底から地上の平坦(へいたん)面までは約6メートルという深さだった。
「これまでの川に沿って土を盛るだけの御土居とは違って、川とは別に空堀を掘り、土塁を築くなど、これまで以上に念入りに造られていたことが分かりました」。調査を担当した京都市埋蔵文化財研究所の持田透・調査研究技師は、記者発表でこう説明した。
御土居は、西=紙屋川▽北=鷹峯▽東=鴨(賀茂)川▽南=東寺−を四方とする、南北に細長い長円形の総延長約23キロに堀と土塁をめぐらせ、秀吉が天正19(1591)年に築いたとされる。
緊急を要したため天然の川を堀代わりに使い、川沿いに土塁を築くなど簡単な工法を採用。着工からわずか3カ月で完成したといわれている。
だが、今回発見された御土居跡は、西約100メートルに紙屋川が流れているにもかかわらず、そこには土塁はない。
それどころか、川から東(御土居の内側)に向かってなだらかな上りになっているのに、深さ約6メートルという急勾配な空堀をわざわざ掘り、掘り出された土を使い高さ約3・5メートル、傾斜角45度の土塁を築くといった念の入れようだった。
さらに、調査地の西隣を走る道路部分が隣の土地よりも幾分くぼんで見えることから、道路=堀だったことも確認。この結果、堀の幅は18メートルと推測されるという。
深さ、幅ともに大がかりな御土居の発掘。「なぜ川を堀に使わなかったのかは不明だが、この現場を見る限り簡単には登れるもんじゃない。いろんな目的が考えられている御土居だが、(この場所では)防御的な意味合いがあったことは否定できないと思う」と持田技師は話す。
「真田丸」歴史考証担う専門家の見解
今回の成果について、千田嘉博・奈良大教授(城郭考古学)は「築造目的があいまいだった御土居の性格を考える上で、決定的な証拠になったのでは」と評価する。
千田教授は、徳川方と豊臣方が激突した大坂の陣で活躍した真田幸村(信繁)を主人公にしたNHK大河ドラマ「真田丸」の中で登場する大坂城の出城・真田丸の歴史考証を担当。そんな千田教授に今回の発掘結果を取材すると、「出土した御土居の堀や土塁に真田丸の南堀に近いものを感じる」と切り出してきた。
真田丸南堀といえば、慶長19(1614)年の大坂冬の陣で、徳川方を誘い込んだ揚げ句、逃げられなくなった兵士たちを鉄砲で狙い撃ちし、大損害を与えたとされる場所だ。
千田教授は、真田丸の歴史考証の際、当時の鉄砲の性能を考えて「たとえ堀の向こうから敵に撃たれたとしても大した被害はなく、無防備の敵には確実に損害を与えられる」として、南堀の幅を30〜40メートルに想定した。
そして、真田丸の約20年前に築かれた今回の御土居の堀や土塁。推定幅が18メートル、堀の底から土塁の頂上までが9メートル以上というのは、当時の鉄砲の性能を考えた場合、妥当な線だという。
「これまでに御土居の築造目的としては、防災や京域の範囲確定などといった説もあったが、今回出土した御土居の堀と土塁を見る限り、防御目的以外の何ものでもない。今回の結果は、防御説の決定的な証拠になったのでは」と千田教授は強調する。
割普請で築かれた
では、ほかに残っている御土居と違い、特別に別の堀を掘って御土居が築かれたわけだから、この地点が京都にとって特に戦略的に重要な場所かといえば、決してそうとはいえないという。
日本の城郭史に詳しい中井均・滋賀県立大教授は「今回の現場は御土居でも西北端に近い。重要な街道が近くに通っていたわけでもなく、特別に戦略的に重要な場所とはいえない」と言い切る。
にもかかわらず、この念入りな仕事ぶり。中井教授は「この作業を受け持った人の性格がにじみ出ているようだ」と感想を述べ、「もしかして」と前置きしたうえで、御土居の整備を城郭を築くのと同じように、「割普請(わりぶしん)」で行った可能性を指摘した。
割普請とは分担作業のこと。当時は朝鮮出兵で兵士が駆り出されていたが、国内に残っていた大名がいたわけで、短時間で完成させるために複数の国内残留組が分担して御土居の築造にあたったのでは、というのだ。
御土居は、明治時代から昭和時代初期にかけての住宅造成などの影響で大半を失った。現在、残る御土居跡のうち、9カ所が国史跡に指定されているのみ。
その中でも、最も保存状態が良好な北野天満宮(京都市上京区)では、紙屋川の東沿いに築かれた土塁が残る。基底部の幅18メートル、高さ3メートルで、基本部分では今回出土した御土居跡とは大差はない。
だが、中井教授は「新たに空堀をつくってみたり急な傾斜角度をつけたりと、どうみても今回の方が丁寧さで軍配が上がる」などとし、どちらも同じ大名の下で作業が行われたとは考えられないとみている。
中国の「羅城」取り入れた唯一の例か?
御土居のうち、鴨(賀茂)川沿いに造られた部分が、これまで川の氾濫(はんらん)で多くの被害を受けた町から洪水という災害を取り除いたのは、疑う余地はない。
さらに、築造以後から御土居の中を「洛中」とし、外を「洛外」とする定義づけが生まれている。
このように、御土居はこれまで、川の氾濫から守る防災壁や、洛中の範囲を確定させる意味合いを持っていたという説が考えられている。
中井教授は「いずれの説も間違ってはいない。ただし、土塁と堀は第一義的には外敵から守るためのもの。御土居は都を強固な塀で囲う中国の羅城(らじょう)の考えを取り入れた唯一の例だろう」と締めくくった。」
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