🍙47〗─1─高度経済成長の終焉。オイル・ショックとドル・ショック。田中角栄の『日本列島改造論』。ローマクラブの予言。昭和45年~No.271No.272No.273 @ 

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   ・   ・{東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 1970年代 アメリカは財政危機に陥りニューヨークの富裕層を中心に、大都会における生活環境の悪化と大幅な増税を嫌って地方へ移住した。
 特に。経済的ゆとりのある子供を持つ若い家族の流出が多く、資産を持たない高齢者が大都会に残された。
 流出した人の数は約100万人で、同市の人口の13%にのぼった。
 ニューヨーク市は、高齢者の増加で税収は激減し社会福祉費の増大で、大都市の荒廃と崩壊が起きた。
 人口流出を止めるには、経済再建しかなかった。
 これまでの人を集めて収益率を上げるという経済モデルは時代遅れとして捨て、人を集めなくても効率よく利益を上げるという新たなビジネス・モデルの創出して転換する事であった。
 その為には、手持ちの資本を武器として各国の生産現場と世界の市場に直接つながる事であった。
 国際競争力を強化する為には、収益率の低いビジネスを切り捨て、無能に近い労働者は容赦なく首を切り、役に立つ有能な人材と資本を成長が望める業種に集中させる事であった。
 アメリカは、能力或る者は勝ち組として富をえて豊かになり、能力のない者は負け組として貧しくなる事で、経済再建を成功させていった。
 富める者はさらに富み、貧しい者はさらに貧しい、という貧富の格差が広がった。
 社会不安を回避する為に、貧困層の子供達に努力すればスポーツや芸能などで成功できるという夢と希望の「アメリカン・ドリーム」を与えた。
 だが。現実にはアメリカン・ドリームは、夢幻の架空に過ぎなかった。
 国際的市場原理主義の時代において、人口が減れば国力が衰退し、増えれば国が栄えるという国家モデル、経済モデルは時代遅れとなった。
 時代はゆっくりとグローバル化に向かい、世界経済は新たに設けられたアメリカ・ルールに支配され始めた。
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 1970年代 杉並・江東ゴミ戦争。
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 1970年 コメの生産調整・減反政策の強化。
 農産物輸入自由化の促進。
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 1971年8月 ニクソンは、ドル高による財政赤字貿易赤字の対策として、ドル引き下げの為に金・ドル交換停止、賃金・物価の90日間凍結、10%の輸入課徴金の導入を発表した。
 ニューズウィーク誌8月30日号「リチャード・ニクソンの大胆な経済政策がアメリカと世界を大きく揺るがせたのは先週の事。国内の賃金と物価を凍結し、金とドルの固定レートでの交換を停止する彼の新たな方針は、大統領として打ち出した政策の中でもかなり思い切った一手だった」
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 1ドル=360円の為替レートによる対米輸出で稼いだ外貨が、日本の経済成長を支えた。
 それが、日本の成功モデル・経営モデルである。
 日本企業は、製品を低価格で大量に輸出して大儲けした。
 その後、為替の変動相場制に移行して輸出が減少しても、人口爆発で製品は国内で大量消費される事によって日本企業を生き延びた。
 メイド・イン・ジャパンを生み出した奇跡の戦後復興と高度経済成長は、外部要因である1ドル=360円と内部要因の人口爆発、そして年功序列と終身雇用の完全雇用と確定昇給が消費者心理に安心感を与える事で成功した。
 当然。日本企業の先駆けた誰も真似できない新商品を研究開発し、斬新なデザインと格好いいスタイルを提案した新商品を国際市場に売り出して世界一を目指すという、貪欲な努力があったればこそである。
 その代表商品が、日本の食文化どころか世界の食文化まで影響を与えた、    1971年に売り出された「カップヌードル」である。
 カップヌードルの開発は、アメリカにインスタントラーメン「チキンラーメン」を売り出そうとして予想外の出来事から始まった。
 日本の国際戦略的新製品は、日本国内ではなく、日本の伝統技術と海外の予想外の発想を柔軟に融合させて生まれる事の方が多い。
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 高度経済成長は、円ドル相場と人口爆発であった。
 円ドル相場がなくなれば、人口爆発の成功モデル・経営モデルに頼るしかなかった。
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 1972年 世界的穀物危機。異常気象で、世界の穀物生産量が減少した。
 ソ連は、国際穀物メジャーからの大量買い付けに走った為に、穀物相場は高騰した。
 石油ショックの影響で、トウモロコシなどの飼料用穀物価格は2倍に跳ね上がった。
 日本は、畜産用のエサを海外に完全依存していただけに、アメリカの輸出規制を懸念して、飼育用穀物の買い付けに奔走した。
 トウモロコシの必要量。
 鶏肉1キロに4キロ。
 豚肉1キロに7キロ。
 牛肉1キロに11キロ。 
 7月 田中角栄内閣。田中角栄の『日本列島改造論』(1972年9月)によって、日本の自然と古き良き街並みは破壊され始めた。
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 ローマクラブは、100年以内に「人類の成長は限界に達する」と予告する報告書を発表した。
 このまま人口増加と環境破壊が続いた場合に直面する危険について警鐘し、人類が生き残るには人口を減らすしかないと提言した。
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 1973年 福祉元年として、年金の物価スライド制、老人医療無料化、医療保険の給付率の改善など社会福祉制度の充実がなされた。
 マスコミは、「結婚して出産する事だけが幸せではなく一人で楽しく生きる人生もある」として、結婚せず家庭を持たない若者を「独身貴族」ともて囃し始めた。
 若者は、マスコミに煽てられ、老後の心配をしなくなり、束縛されない自由と時間的金銭的余裕に憧れて結婚をしなくなった。
 婚姻率の低下に伴う出産数の減少で、人口は減り始めた。
 政治家も、官僚も、マスコミも、高度成長期にあった為に将来の人口減少には関心がなかった。
 2月 高度経済成長の終焉。
 変動為替相場制に移行して、対ドル20%程度に切り上げられ、1ドル=257〜264円で変動した。
 11月1日 オイルショックによる買い占めパニックが起き、高度成長時代が終了した。
 大阪・千里のスーパーで、200人以上の主婦が開店と同時に店内に流れ込み、安売りされているレットペーパーを争って購入した。
 水野良象(神戸商大教授)「噂の力は恐ろしい。年配の主婦が真っ先に動揺したが、戦時中、政府のいう事を信じて餓死しかねない目に遭わされたからだ」
 竹内宏(静岡県立大グローバル地域センター長)「当時、日本は輸入インフレで物不足となり、すでに物価が上昇していました。オイルショックは物不足とそれに伴う物価上昇への不安が爆発する最後の火を付けたといえます」
 日本は、エネルギー海外依存度を下げる為に、石油から原子力に転換し、省エネ技術の開発に本腰を入れた。
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 1970年代のオイルショックで、石油価格が高騰し、原材料とエネルギーのコスト高によって日本製造業の生産効率は悪化した。
 生産が落ち込み供給が減ると価格が上がり、価格が上がると消費者は購買活動を控えて、需要が減ってGDPが下がった。
 価格が上がってGDPが下がるという、スタグフレーシュンが発生した。
 人口増加によって消費者が増えている以上、日本企業は「省エネ・エコ」を目標に掲げて技術革新を行い、世界に先駆けて自然に優しい製品作りに努力してオイルショックを乗り越えた。
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 1974年 日本政府は、戦前の人口爆発と食糧不足で戦争に突入した事を教訓として人口を抑制するべく、岸信介元首相を会長とした国際人口問題議員懇談会を設置した。
 この後の、政府の国家戦略の欠如と政治家及び官僚の劣化で少子高齢化と人口減少が深刻化した。
 それは、人口削減計画と人類支配と言った国際的秘密結社の陰謀ではない。
 4月 人口白書「日本人口の動向ー静止人口をめざして」。日本政府は、人口が増えも減りもしない「静止人口」を実現するべく、人口抑制策の実行を提案した。
 7月 日本人口会議は、人口白書を受け、「子供は2人まで」を国民的合意で達成すべしとする大会宣言を採択した。
 8月 国連世界人口会議。世界人口の爆発的増加が原因で、食糧不足や資源枯渇や環境悪化が懸念される為に、国際的な人口増加抑制を求めた。
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 前例踏襲と懸案先送りという官僚主導体制は、田中角栄総理以降の約2年ごとに入れ替わった腰掛け的総理時代に完成した。
 経済界が、「政治は二流でも経済は一流」と言われるほどに国際的な見識を持ち、経済が順調で、社会が安定し、国民は豊かで将来への不安がなかった為に混乱しなかった。
 政治家は、政局に明け暮れて政策能力を失い劣化して行った。
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 1975年 『およげ!たいやきくん』が、オリコン史上初のシングルチャート初登場1位おなり、シングル盤で500万枚以上が売れた。
 第二次ベビーブーム(昭和46年〜49年)。厚生省は、人口爆発が将来日本の負担を益す恐れがあるとして、「子供は二人まで」という正しい家族計画を発表した。
 松下幸之助は、三木武夫首相と雇用問題で話し合った。
 三木武夫は、アメリカに比べて日本の失業率が極めて低い事を誇った。
 松下幸之助は、製造現場の内情を話した。「日本の企業は、みんな失業者を抱え取るのや。本当言うたら日本でも300万人ぐらい、すぐ出ますえ。出してもよろしいか」
 日本の年功序列と終身雇用の目的は、欧米ではリストラされて当然の労働者を無理して雇用し続けるシステムであった。
 日本企業が本気でリストラすれば、日本も欧米並みの失業者が溢れ出る事になる。
 心ある日本企業家は、その実情を知っていただけに、経営難で赤字を出していても「一人も解雇しない」事を信条として給料を払い何らかの仕事を与えて雇用していた。
 労働者達も、経営者の信条を肌身で感じ、その期待に応えるべく努力した。
 日本型雇用と欧米型雇用との違いは、赤字を理由として人員余剰をリストラするかどうかであった。
 労使関係も、日本と欧米では極端に異なる。
 日本企業は、絆を大事にする家族的組織で、従業員とその家族を大事にした。
 欧米企業は、契約で結び付いた赤の他人の組織であった。
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 日本は、インドシナ3ヶ国(ベトナムカンボジアラオス)から船で脱出したポートピープルと呼ばれる難民1万1,000人以上を受け入れた。



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