🍙44〗─1─日本経済を支える電気。水力発電・ダム。~No.262No.263 @

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   ・   ・{東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 食糧・資源・エネルギーを海外に依存する資源小国日本の近代化を支えたのは、100%自給できた蚕・生糸・絹である。
 生糸・絹を輸出して、軍艦を購入した。
 生糸・絹は、戦争をする為の戦略的輸出品であった。
 戦後復興と高度経済初期を支えたのは、自然を破壊して造ったダムの水力発電であった。
 日本の近代化と富の源泉は、水力発電様のダムであった。
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 2017年7月号 WiLL「その時、輝いていた人々 第42回『湖底の桜』 曽野綾子
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 1945年の終戦時、日本中は空襲によって焼け野原になっていた。国民はどうして食べていったらいいかわからなかった。ないのは食料だけではない。住宅も多くが焼失して不足していたし、衣服も古びて、どれもすぐ裂けそうになっていた。
 地下資源もない日本が復興するには、まず産業の基盤となる電力が必要であった。水力発電の整備が当時の喫緊(きっきん)の課題だったのである。日本の川には、大正時代から作られた小さな水力発電所があちこちにあったはずだが、それらは1万キロワットを少し上回るくらいの小規模のものも多く、とても大産業を支える力はなかった。
 私がダムの勉強を始めた頃、ダム作りの現場では、『土木屋』と言われる人たちの間で、『ダムというものは古来、神がここに架けよと命じたもう地点がある』という言葉がまだ生きていた。素人が見てもこの言葉はよく理解できた。山岳地帯の航空写真を見ると、なぜかそこだけ川が湾曲したり、急に川幅が狭まっている不思議な地点がある。そこが水力ダムの建設地点となるのである。
 そのような効果的地点を選んで作られたダムは、ほとんど上流に向かって美しいカーブを描いた曲線重力式コンクリートダムで、それはまるで新しい芸術のようであり、天に向かって捧げられた信仰告白の場でもあるようだった。もっとも、私のような素人はどうしてこれっぽっちの薄い壁で、上流に湛(たた)えられた膨大な水の圧力を支えていられるのかわからないくらいだった。
 ダムという構造物は、どういう手順で作られるか私は勉強しなければならなかったのだが、始めからやり方を見せてもらおうとしても、お菓子はすでに焼き上がったものが多かったという感じだった。それで私はできたお菓子を見ながら作り方の説明を訊くか、少し手法や規模は違うが建設途中のほかのダムの見学によって類推する他はなかった。すでに当時の日本のダムの機能は、大正・昭和の水力発電所の時代とは違って、発電量も百倍くらいのものが、スタンダードになっていたのである。
 その変化のきざしは昭和30年前後に日本の現場に、大ダム工法と呼ぶべき技術が導入されたからだという。昔勉強したことで記憶があやふやになっているが、その基本は、駄ダムの堤体(ていたい)に必要な盛り土をする作業能力が格段に上がったからである。掘削機械やダンプも大きくなったし、何よりそれまで『モッコと天秤棒』が現場風景だった人力が主たる土木工事の能力が、谷に張り渡されたケーブル・クレーンお使って大容量の土砂をバケットに入れて動かし、堤体のブロックにじかに落とすことができるようになった技術革新のおかげだったのである。
 初期の頃、日本の大手ゼネコンが手がけた大ダムの工事は、しかし決して世間から温かい眼では見られなかった。彼らは自然を破壊する張本人と見なされ、そのような仕事を勉強しようとする私の取材に冷たい言葉が浴びせられることもあった。そんなくだらない思い出もあるが、結果的にはそうした計画が、日本の安定した余裕ある電力を作り出す結果と成、日本は世界で一流の工業国としての基礎を築いたのである。
 私は1960年頃から、まず東南アジア、その後アフリカの各地へ入るようになった。取材の目的もあったが、当時私が働いていたNGOのお金を使った事業を見極めるために現地に行くという生活が始まったのである。
 間もなく私が日本の実力を実感したのは、どこの国でも電力の供給が日本のように安定してはいないことだった。たとえば私はずっと後年、インドのバンガロールという南部の都市を経由して、その北に位置するビジャポールという貧しい不可触民の住む大都市に入る仕事が重なっていた。
 バンガロールは国際線の飛行機も止まるし、アメリカのシリコンバレーに匹敵する最先端の電子産業が世界中から集まっている町として有名だったのに、その市街地でさえ、終始停電していたのである。
 『シリコンバレーが停電するの?』
 と同行の日本人は驚いていたが、世界的なレベルとしてはそんなものだったのでる。
 私は戦後の子供だったから、日本の終戦直後に、日本でも電力の不足が深刻で、時間によって電気が来たり停電したりすることのある生活をよく知っていた。その他に停電しなくても、電圧が急に下がって電気が突発的に暗くなり、電灯が『ため息をつく』と言いたくなる事情が発生するのにもなれていた。しかし戦後の日本の弱電産業が、ほとんど世界的に独走してトップの技術を持つようになった理由は、いち早く整備された日本の電力事情の功績だろう、と実感している。戦後の日本の経済的死命を決したのは、日本の手がけた水量発電の建設であったと思われる。
 もっとも、私は電力に興味があったわけではない。私は土木の世界に惹かれたのである。
 ……
 しかし技術的なことは、ほんとうのところ、私にはどうでもよかった。ただ数年はかかる長い山奥の現場は、一つの舞台の場面であり、閉塞的な家か収容所のような面がないでもなかった。ただほとんどすべての人が、この仕事をなし遂げることは、会社が儲けるだけでなく、『日本の社会のためになる』と信じていた。当時すでにそのような公共的なものの考え方は、時代遅れ、自然破壊と考える人も日本にはいたのである。
 一つの川にダムはいくつも作る場合が多いのだが、時代と共に景観を損ねない為に、発電所の建屋そのものを地下に埋め込むことも普通になって来た。昔はダムの足元に見えていた発電所の建屋が現在では眼に入らない事が多いのは、地下深くに秘密基地のように作られているからである。……」
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 敗戦後の日本で、共産主義的敗戦革命やキリスト教布教による宗教革命が起きなかったのは、日本の風土による。
 日本の風土には、非現実の神秘的空想的幻想的と同時に合理的現実的実用的が並立しているが、教条的理念的観念的なものは存在せず、普遍的な宗教はもちろん堅固な哲学・思想・主義も根付かなかった。
 日本民族日本人の思考の中に、理系的論理思考と文系現実思考が均衡に備わり、寛容的曖昧な柔軟性と融通性が保たれていた。
 排他的な共産主義者や不寛容なキリスト教徒には、その掴み所のない「泥沼的日本」が理解できなかった。
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 日本には、世界でも珍しいダムオタクが存在する。
 だが、ダムオタクでなくとも、日本人はダムに愛着を持ちダムを見ると感動し心が癒やされる。
 ダムは観光地となり、日本人はダムを見たがる。
 ダムが嫌いな日本人は少ない。
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 日本人と朝鮮人・韓国人・中国人とは労働観が全く違う為に、中国人・韓国人・朝鮮人には日本人が理解できない。
 中国人・韓国人・朝鮮人は、自利自愛として、自分の欲得で、自分だけの金儲けの為のみで働く。
 日本人は、他利他愛として、社会の為世のため人のとして皆と一緒に働き、その働きに応じて給料を貰っていた。
 故に、重労働に対する報酬が少なくとも、日本人は我慢するが、中国人・韓国人・朝鮮人は我慢しない。
 日本人が耐える重労働は、朝鮮人にとって奴隷的過重労働であった。


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