🍙39〗─1─高度経済成長。貧困農家の男達は、農閑期に都会の現場に出稼ぎに行き出ていた。種子法成立。38豪雪。各種災害対策法。昭和26年~No.247No.248No.249 @ 

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   ・   ・{東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 少年少女の集団就職が、高度経済成長を支えた。
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 日本の人口爆発が、奇跡的な戦後復興と経済成長をもたらした。
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 年功序列と終身雇用は、失業者を出さない苦肉の策であった。
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 企業を苦労して起業した創業者の多くは、財界との付き合いを苦手として、経済団体などのメンバーにはならなかった。
 意欲のある創業社長が隠退するや、決断力のないサラリーマン社長が経営者となった。
 年老いたサラリーマン社長は、決断力もなく意欲もなく自社の経営以上に、財界活動に勤しみ、請われて政府の諮問会議に参加した。
 老害的な経営者が、時代の変革を妨害し、企業の競争力を低下させ、日本経済の活力を奪った。
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 1951年8月 読売新聞は、増加する人口問題の解決法を世論調査で調べた。
 海外への移民‥55.3%
 産児制限‥‥‥15.8%
 食料増産‥‥‥1.3%
 9月 サンフランシスコ講和条約
 サンフランシスコ平和条約
 サンフランシスコ講和条約第11条「日本国は、極東国際軍事裁判所並びに日本国内及び国外の他の連合国戦争犯罪法廷の裁判を受諾し、且つ、日本国で拘束されている日本国民にこれらの法廷が課した刑を執行するものとする」
 日本は、軍国日本が行った全ての戦争は侵略戦争であったと判決を下した東京裁判を受けれた。
 国際社会は、食糧強奪戦争を行った軍国日本を、時効無き凶悪な戦争犯罪国家であると糾弾した。
 国連は、いつ戦争犯罪に走るか分からない日本を敵国条項に加えて警戒した。
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 「人が死んだ後。社会に尽くした人は、社会が泣いてくれる。家族に尽くした人は、家族が泣く。自分の為に生きた人は、誰も泣かない」
 田中久重東芝創業者)「国家に有用な機械を製造して奉公の誠を尽くし、世の公益を広めん」
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 1952年 商品が、優れた熟練工・職人の技術で生み出される時代から、大型製造機械から大量生産される時代に入るや、誰でも機械を買えば同じ商品を売って財産を得る事が容易になった。
 その為、開発者の利益を守る為に「著作権」と言う概念が生まれた。
 発案者・開発者を保護する為に万国著作権条約が成立し、同じ商品を製造する為には、著作権料を払いライセンス契約を結ぶ必要が生じた。
 中国など一部の国は、依然として条約や法を守らず、海賊版・偽物を大量生産して荒稼ぎしていた。 
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 戦争で脊髄を負傷した兵士のリハビリとして始まった病院内アーチェリー競技大会(1948年7月29日、英国ストーク・マンデビル病院競技大会)が国際大会なり、第1回国際ストーク・マンデビル競技会となった。
 病院内競技大会を始めた、ドイツ人亡命医師ルートヴィヒ・グットマンは、1960年に国際大会委員会が組織され会長に就任した。
 負傷者大会はパラリンピックとして、ローマ・オリンピックと同じ競技場で第1回国際大会が開催された。 
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 2017年6月30日号 週刊朝日「『食』の大異変 トランプと習近平が狙う日本農業
 種子法廃止でコメ・麦・大豆がアメリカ、中国に支配される!
 ……
 1952年に制定された種子法は、主要作物のコメ、麦、大豆の種子の生産と普及を都道府県に義務づけてきた。コメの新品種開発は、一般的に約10年かかる。それを税金で支援して、公的機関が質の良い種子を安定的に生産し、安い価格で全国に広げてきた。その結果、日本は戦後の食糧難から脱することができ、67年にコメの完全自給を達成した」 
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 主要農作物種子法
 (昭和二十七年五月一日法律第百三十一号)
 最終改正:平成一八年六月七日法律第五三号
 (目的)
 第一条  この法律は、主要農作物の優良な種子の生産及び普及を促進するため、種子の生産についてほ場審査その他の措置を行うことを目的とする。
 (定義)
 第二条  この法律で「主要農作物」とは、稲、大麦、はだか麦、小麦及び大豆をいう。
 2  この法律で「ほ場審査」とは、都道府県が、種子生産ほ場において栽培中の主要農作物の出穂、穂ぞろい、成熟状況等について審査することをいい、「生産物審査」とは、都道府県が、種子生産ほ場において生産された主要農作物の種子の発芽の良否、不良な種子及び異物の混入状況等について審査することをいう。
 (ほ場の指定)
 第三条  都道府県は、あらかじめ農林水産大臣都道府県別、主要農作物の種類別に定めた種子生産ほ場の面積を超えない範囲内において、譲渡の目的をもつて、又は委託を受けて、主要農作物の種子を生産する者が経営するほ場を指定種子生産ほ場として指定する。
 2  その経営するほ場について前項の指定を受けようとする者は、農林水産省令で定める手続に従い、都道府県にその申請をしなければならない。
 (審査)
 第四条  指定種子生産ほ場の経営者(以下「指定種子生産者」という。)は、その経営する指定種子生産ほ場についてほ場審査を受けなければならない。
 2  指定種子生産者は、次条の規定により交付を受けたほ場審査証明書に係る指定種子生産ほ場において生産された主要農作物の種子について、生産物審査を受けなければならない。
 3  ほ場審査及び生産物審査(以下本条において「審査」という。)は、指定種子生産者の請求によつて行う。
 4  都道府県は、指定種子生産者から前項の請求があつたときは、当該職員に、審査をさせなければならない。
 5  審査の基準及び方法は、農林水産大臣が定める基準に準拠して都道府県が定める。
 6  前項の農林水産大臣が定める基準は、主要農作物の優良な種子として具備すべき最低限度の品質を確保することを旨として定める。
 7  第四項の規定により、審査を行う当該職員は、その身分を示す証票を携帯し、関係者の要求があつたときは、これを呈示しなければならない。
 (ほ場審査証明書等の交付)
 第五条  都道府県は、ほ場審査又は生産物審査の結果、当該主要農作物又はその種子が前条第五項の都道府県が定める基準に適合すると認めるときは、当該請求者に対し、農林水産省令で定めるほ場審査証明書又は生産物審査証明書を交付しなければならない。
 (都道府県の行う勧告等)
 第六条  都道府県は、指定種子生産者又は指定種子生産者に主要農作物の種子の生産を委託した者に対し、主要農作物の優良な種子の生産及び普及のために必要な勧告、助言及び指導を行わなければならない。
 (原種及び原原種の生産)
 第七条  都道府県は、主要農作物の原種ほ及び原原種ほの設置等により、指定種子生産ほ場において主要農作物の優良な種子の生産を行うために必要な主要農作物の原種及び当該原種の生産を行うために必要な主要農作物の原原種の確保が図られるよう主要農作物の原種及び原原種の生産を行わなければならない。
 2  都道府県は、都道府県以外の者が経営するほ場において主要農作物の原種又は原原種が適正かつ確実に生産されると認められる場合には、当該ほ場を指定原種ほ又は指定原原種ほとして指定することができる。
 3  第三条第二項の規定は前項の指定について、第四条から前条までの規定は同項の指定原種ほ又は指定原原種ほにおける主要農作物の原種又は原原種の生産について準用する。
 (優良な品種を決定するための試験)
 第八条  都道府県は、当該都道府県に普及すべき主要農作物の優良な品種を決定するため必要な試験を行わなければならない。
   附 則 抄
 1  この法律は、公布の日から施行する。
   附 則 (昭和二八年三月二〇日法律第二〇号) 抄
 1  この法律は、公布の日から施行する。
   附 則 (昭和五一年六月一一日法律第六五号)
 この法律は、公布の日から施行する。
   附 則 (昭和五三年七月五日法律第八七号) 抄
 (施行期日)
 第一条  この法律は、公布の日から施行する。
   附 則 (昭和六一年六月一〇日法律第七九号)
 この法律は、公布の日から施行する。
   附 則 (平成一〇年三月三一日法律第三〇号) 抄
 (施行期日)
 第一条  この法律は、平成十年四月一日から施行する。
 (経過措置)
 第二条  平成九年度の予算に係る改正前の主要農作物種子法第七条の補助金については、なお従前の例による。
  附 則 (平成一一年七月一六日法律第八七号) 抄
 (施行期日)
 第一条  この法律は、平成十二年四月一日から施行する。ただし、次の各号に掲げる規定は、当該各号に定める日から施行する。
 一  第一条中地方自治法第二百五十条の次に五条、節名並びに二款及び款名を加える改正規定(同法第二百五十条の九第一項に係る部分(両議院の同意を得ることに係る部分に限る。)に限る。)、第四十条中自然公園法附則第九項及び第十項の改正規定(同法附則第十項に係る部分に限る。)、第二百四十四条の規定(農業改良助長法第十四条の三の改正規定に係る部分を除く。)並びに第四百七十二条の規定(市町村の合併の特例に関する法律第六条、第八条及び第十七条の改正規定に係る部分を除く。)並びに附則第七条、第十条、第十二条、第五十九条ただし書、第六十条第四項及び第五項、第七十三条、第七十七条、第百五十七条第四項から第六項まで、第百六十条、第百六十三条、第百六十四条並びに第二百二条の規定 公布の日
 (国等の事務)
 第百五十九条  この法律による改正前のそれぞれの法律に規定するもののほか、この法律の施行前において、地方公共団体の機関が法律又はこれに基づく政令により管理し又は執行する国、他の地方公共団体その他公共団体の事務(附則第百六十一条において「国等の事務」という。)は、この法律の施行後は、地方公共団体が法律又はこれに基づく政令により当該地方公共団体の事務として処理するものとする。
 (処分、申請等に関する経過措置)
 第百六十条  この法律(附則第一条各号に掲げる規定については、当該各規定。以下この条及び附則第百六十三条において同じ。)の施行前に改正前のそれぞれの法律の規定によりされた許可等の処分その他の行為(以下この条において「処分等の行為」という。)又はこの法律の施行の際現に改正前のそれぞれの法律の規定によりされている許可等の申請その他の行為(以下この条において「申請等の行為」という。)で、この法律の施行の日においてこれらの行為に係る行政事務を行うべき者が異なることとなるものは、附則第二条から前条までの規定又は改正後のそれぞれの法律(これに基づく命令を含む。)の経過措置に関する規定に定めるものを除き、この法律の施行の日以後における改正後のそれぞれの法律の適用については、改正後のそれぞれの法律の相当規定によりされた処分等の行為又は申請等の行為とみなす。
 2  この法律の施行前に改正前のそれぞれの法律の規定により国又は地方公共団体の機関に対し報告、届出、提出その他の手続をしなければならない事項で、この法律の施行の日前にその手続がされていないものについては、この法律及びこれに基づく政令に別段の定めがあるもののほか、これを、改正後のそれぞれの法律の相当規定により国又は地方公共団体の相当の機関に対して報告、届出、提出その他の手続をしなければならない事項についてその手続がされていないものとみなして、この法律による改正後のそれぞれの法律の規定を適用する。
 (不服申立てに関する経過措置)
 第百六十一条  施行日前にされた国等の事務に係る処分であって、当該処分をした行政庁(以下この条において「処分庁」という。)に施行日前に行政不服審査法に規定する上級行政庁(以下この条において「上級行政庁」という。)があったものについての同法による不服申立てについては、施行日以後においても、当該処分庁に引き続き上級行政庁があるものとみなして、行政不服審査法の規定を適用する。この場合において、当該処分庁の上級行政庁とみなされる行政庁は、施行日前に当該処分庁の上級行政庁であった行政庁とする。
 2  前項の場合において、上級行政庁とみなされる行政庁が地方公共団体の機関であるときは、当該機関が行政不服審査法の規定により処理することとされる事務は、新地方自治法第二条第九項第一号に規定する第一号法定受託事務とする。
 (手数料に関する経過措置)
 第百六十二条  施行日前においてこの法律による改正前のそれぞれの法律(これに基づく命令を含む。)の規定により納付すべきであった手数料については、この法律及びこれに基づく政令に別段の定めがあるもののほか、なお従前の例による。
 (罰則に関する経過措置)
 第百六十三条  この法律の施行前にした行為に対する罰則の適用については、なお従前の例による。
 (その他の経過措置の政令への委任)
 第百六十四条  この附則に規定するもののほか、この法律の施行に伴い必要な経過措置(罰則に関する経過措置を含む。)は、政令で定める。
 2  附則第十八条、第五十一条及び第百八十四条の規定の適用に関して必要な事項は、政令で定める。
 (検討)
 第二百五十条  新地方自治法第二条第九項第一号に規定する第一号法定受託事務については、できる限り新たに設けることのないようにするとともに、新地方自治法別表第一に掲げるもの及び新地方自治法に基づく政令に示すものについては、地方分権を推進する観点から検討を加え、適宜、適切な見直しを行うものとする。
 第二百五十一条  政府は、地方公共団体が事務及び事業を自主的かつ自立的に執行できるよう、国と地方公共団体との役割分担に応じた地方税財源の充実確保の方途について、経済情勢の推移等を勘案しつつ検討し、その結果に基づいて必要な措置を講ずるものとする。
 第二百五十二条  政府は、医療保険制度、年金制度等の改革に伴い、社会保険の事務処理の体制、これに従事する職員の在り方等について、被保険者等の利便性の確保、事務処理の効率化等の視点に立って、検討し、必要があると認めるときは、その結果に基づいて所要の措置を講ずるものとする。
  附 則 (平成一一年一二月二二日法律第一六〇号) 抄
 (施行期日)
 第一条  この法律(第二条及び第三条を除く。)は、平成十三年一月六日から施行する。
  附 則 (平成一八年六月七日法律第五三号) 抄
 (施行期日)
 第一条  この法律は、平成十九年四月一日から施行する。ただし、次の各号に掲げる規定は、当該各号に定める日から施行する。
 一  第百九十五条第二項、第百九十六条第一項及び第二項、第百九十九条の三第一項及び第四項、第二百五十二条の十七、第二百五十二条の二十二第一項並びに第二百五十二条の二十三の改正規定並びに附則第四条、第六条、第八条から第十条まで及び第五十条の規定 公布の日
 二  第九十六条第一項の改正規定、第百条の次に一条を加える改正規定並びに第百一条、第百二条第四項及び第五項、第百九条、第百九条の二、第百十条、第百二十一条、第百二十三条、第百三十条第三項、第百三十八条、第百七十九条第一項、第二百七条、第二百二十五条、第二百三十一条の二、第二百三十四条第三項及び第五項、第二百三十七条第三項、第二百三十八条第一項、第二百三十八条の二第二項、第二百三十八条の四、第二百三十八条の五、第二百六十三条の三並びに第三百十四条第一項の改正規定並びに附則第二十二条及び第三十二条の規定、附則第三十七条中地方公営企業法(昭和二十七年法律第二百九十二号)第三十三条第三項の改正規定、附則第四十七条中旧市町村の合併の特例に関する法律(昭和四十年法律第六号)附則第二条第六項の規定によりなおその効力を有するものとされる同法第五条の二十九の改正規定並びに附則第五十一条中市町村の合併の特例等に関する法律(平成十六年法律第五十九号)第四十七条の改正規定 公布の日から起算して一年を超えない範囲内において政令で定める日

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 1953年 政府は、増加する人口対策としてブラジル移民を再開した。
 ニクソン副大統領「もし、1946年に戦力を持つことを禁じた憲法を、日本に与えて、日本の武装解除が正しいのであれば、日本が独立を回復した1953年になぜ正しくないのか。……
 アメリカンは1946年に間違いを犯した事を認める、と私はここで申し上げる。我々が誤った理由は、ソ連の指導者たちの意図を読み違えたからだった。日本をはじめとする諸国は、再び軍備の責任を共有しなければならない」
 ニクソンは、岸信介との友情から日本国憲法を押し付けた事と再軍備を禁止した事を謝罪した。
 だが、日本はニクソンの誠意を踏みにじった。
 12月5日 読売新聞「南米移民が行われるが、全体の人口増加からみれば九牛の一毛にすぎず、このさい思いきって海外生産青年団を組織し、一定期間、海外開発計画を樹立したらよいと思う」
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 1954年 黒澤明監督『7人の侍』。昭和29年
 島田勘兵衛「他人を守ってこそ自分も守れる。おのれの事だけを考える奴はおのれを滅ぼす奴だ!」
 佐藤忠男「これは敗戦後9年目の作品であるが、忠義の為の戦いという理想を敗戦で捨てた日本人に、しかし誇り高い人間は弱い者の為に進んで自分を犠牲にする事もあるのだ、それは立派な事だという力強い励ましを与えてくれたものだった」

 7月 アメリカ議会は、アイゼンハワー大統領の余剰農産物処理法案を可決した。
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 1950年代後半から 日本は高度経済成長期に突入して、江戸時代に完成した米中心の生活様式が崩壊し始めた。
 もの作りの主体が、地方の農業から都市部の工業に移り、若者が都市に流れて農村人口は減少し始めた。
 都市の低所得者は、アメリカ式生活様式を取り入れる事で輸入食材を買い、国産農産物を買わなくなった。
 国産農産物が減っても、安い外国産農産物の輸入が増加した為に食糧不足にはならなかった。
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 高度経済成長は、地方での人口爆発と地方・都市の賃金格差で生まれた。
 地方で就職先が見つからない貧困家庭の中学卒業者は、都市の工場に就職すれば高額な給料が得られて良い生活が出来ると信じて、集団就職列車に乗って都会を目指した。
 地方から働き盛りの若者が都会へ移動する事で、都市の労働人口が増加し同時に消費者人口も増えた。
 平均的中層階層の膨張により内需も膨らみ、品質に問題があっても高値の外国産よりも安値の国内企業製品が飛ぶように売れた。
 中小企業は、増加する消費人口に支えられた内需拡大に合わせて更なる増産を図るべく、多額の設備投資を行い工場を新設し、多くの労働者を雇用した。
 売れ筋業界では参入する企業が多かった為に、同業他社との差別化のべく、技術導入を図って生産性を上げた。
 生産性を上げても品質向上の技術力がなかった為に、高品質の外国製品との競争に勝てなかった。
 国内市場に満足する企業は、外国製品との品質差を問題とせず、品質向上の技術革新に関心を持たず、日本の消費者が買ってくれる商品をダラダラと製造していた。
 一部の企業は、外国製品のような高品質は製造は不可能と諦め、独自開発を止めて、外国メーカーのライセンス生産に切り替えた。 
 輸入製品もライセンス製品も高価で、中流消費者には購入できなかった。
 日本人にも外国製品に近い高品質の商品を提供したいと考えた意欲的な新興企業家は、独自開発にこだわって技術革新を行った。
 1960年代頃から、後のメイド・イン・ジャパンを生み出す中小企業が成長してきた。
 メイド・イン・ジャパンは、短期的な今の金儲けではなく、中長期的な先の利益の為に設備投資と技術開発に多額の資金を投入した。
 意欲的な企業家は、最新の機械や技術を丸ごと外国から導入するのではなく、今はまだ製品化されていない「何か」を目指して幾度かの失敗を経験しながら能力向上に全力をあげた。
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 1955(昭和30)年から65年の15年間だけで、地方から東京圏に若者約500万人が移り住んだ。
 東京圏は、地方の若者を絶えず引きつける事で「若さ」を維持し経済の優位性を保ってきたが、地方が疲弊し若者が移住してこないと急速に高齢化する。
 東京は、文化発信と共に消費の大都市であり、生産して自給自足できる都市ではない。
 少子高齢化で地方が消滅する時、一極集中している東京圏も同時に少生多死社会となって活力を失う。
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 1955年 日米原子力協定成立。
 国内生産は1,207万トン。
 8月 日本は、復興資金を得る為に第一回余剰農産物協定に調印した。
 この後、アメリカは日本の食糧供給を支配し、アメリ穀物農家の収入を安定させるべく日本の主食を米食からパン食に誘導した。これが、アメリカの官民挙げての「小麦戦略」である。
 安い外国産農産物の大量輸入で、価格を下げられなかった日本産農産物は競争に敗退した。農民は、生産意欲を消失し、離農する者が急増した。
 日本の食糧海外依存度は急速に増大し、食料自給率は減少した。
 高度成長期に突入し、「消費は美徳」とされ無分別な大量生産による大量消費の時代となって、物は粗末に扱われ始めた。
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 1956年 日本政府は、戦後の復興期としての「戦後」は終わったと宣言した。
 後藤誉之助(経済企画庁調査課長)は、『経済白書』(正式名称『年次経済報告』)で、高度経済成長に入り始めた日本は「量の拡大」から「質の充実」へと発想の転換を行うべきであると指摘した。 
 11月8日 第1回南極観測隊が乗船する観測船「宗谷」は、東京・晴海埠頭を出港した。
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 1957年 経済企画庁は、経済成長の為には健康な身体が必要であるとした内容の『新長期経済計画』を発表した。
 1月29日 日本第1次南極観測隊は、昭和基地を開設し、越冬に開始した。
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 1958年 朝鮮戦争で使用した戦車のスクラップを再利用して東京タワーを完成させた。
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 1959年 人口白書「転換期日本の人口問題」
 9月26日 伊勢湾台風。全国の死者・行方不明者5,098人。
 絵本『海の向こうの特別な友だち アイオワと山梨の物語』。英語題名『トウモロコシと鮨』。
 アイオワ州は、姉妹都市関係にある山梨県が台風で甚大を受けた為に、復興事業の一端にして貰うべくアイオワ産豚を送る事にした。
 アメリカ空軍は豚輸送計画に全面協力し、プロペラ輸送機に豚36頭を乗せてアイオワ州と飛び立ち、グアム島など太平洋のアメリカ軍基地で給油しながら日本に向かった。
 翌年60年1月20日 豚を乗せたアメリカ空軍輸送機が羽田空港に到着し、途中で1頭が死んだが残りの35頭は日本側に引き渡された。
 山梨県発行の新聞『甲斐の畜産』「歓迎陣や報道陣がとりまく輸送機の胴体のドアーが開かれ、日米国旗ひるがえる下をくぐって1頭2頭と丸々肥りしかも手入れのゆくとどいたきれいな姿を見せ、そして輸送機と自動車の間に設けられた桟橋を消毒されながら、ランドレース、ハンプシャーミネソタ計35頭の種豚が渡された」
 同時に、豚の飼料ようとしてアイオワ産トウモロコシ1,500トンが貨物船で日本に到着した。
 前代未聞の豚空輸計画を全面的に支援したのは、アメリカの養豚業界ではなく、全米トウモロコシ生産者協会(NCGA)であった。
 真相は、アメリカの食料世界戦略の一環であった。
 トウモロコシ生産者協会は、余剰傾向にある穀物を日本畜産業に輸出するべく、養豚業が盛んではない日本にアメリカ式養豚技術を指導し、合わせてトウモロコシを優良家畜用飼料として売り付けた。
 アメリカ産穀物は、豚から鶏そして牛に広がり、日本の畜産農家にとって欠かせない飼料となった。
 フィリップ・M・セング(米国食肉輸出連合会長)「戦争が終わると同時に、世界の冷戦体制に入る事は知れていた。そこでアメリカはより多くの国をこちら側に付ける事が必要とされた。その時に食料が必要だった。戦勝国とはいえ、焼け野原になった欧州にも施して味方にする。その為にアメリカは世界の食糧を生産する。そんな事は、子どもの頃の教科書にも出ている」
 戦後日本の養豚業は、山梨のアメリカ型養豚から始まり、そして全国に広がった。
 同時に、大量のアメリカ産穀物が家畜用飼料として輸入された。
 山梨県は、災害で困った時に豚を贈って助けた事に対し感謝と友好の証しとして、アイオワ州都デモインに鐘を進呈した。
 日本人は、相手の思惑を深く考える事なく、受けた恩を忘れる事なく誠意で答えた。
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 1960年から70年にかけて、世界は安価な石油を使って飛躍的な進歩を遂げ、人口爆発と食糧危機という人類滅亡の「マルサスの罠」を解消した。
 合成肥料や農機具の進歩によって農産物の収穫は、世界的に食糧は過剰となった。
 生物学的発展史において、餌が豊富な地域の生物は爆発的に数を増やし、身体機能を低下させひ弱になって長生きする。
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 1960年5月 チリ近海でマグニチュード9.5の巨大地震が発生し、津波は太平洋沿岸全域を襲って被害をもたらした。
 チリ全土での死者は、1,743人。
 日本も地震発生から約22時間半後に津波が到達し、対応の遅れから142人が犠牲となった。
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 1961年 穀物生産面積は487万ヘクタール。
 日本式国民皆保険制度が始まる。
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 1961年 高専法成立。
 1962年 高等専門学校誕生。
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 1960年半ば タイ王国は、人口増加に備えて食用にする新たな魚の養殖を検討していた。
 明仁皇太子殿下は、タイ王国の食糧事情が厳しい事を知るや、タイの気候風土に適した魚として淡水魚ティラピア東宮御所で育て、50尾をプミポン国王に贈った。
 タイは、日本皇室に感謝し、ティラピアを「仁魚」と呼んだ。
 タイ人における日本皇室への親近感は、タイ王室に次ぐほどであった。
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 災害対策基本法(昭和36年11月15日法律第223号)は、災害対策に関する、日本の法律である。1959年(昭和34年)に愛知県、岐阜県三重県及び紀伊半島一帯を中心として全国に大きな被害をもたらした伊勢湾台風を契機に制定された。
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ウィキペディア
  激甚災害に対処するための特別の財政援助等に関する法律(昭和37年9月6日法律第150号)は、発生した災害のうち、その規模が特に甚大であり国民生活に著しい影響を与えたものに対して、地方公共団体都道府県・市町村)及び被災者に対する復興支援のために国が通常を超える特別の財政援助または助成を行う事を目的とした法律である。最近改正は平成28年(2016年)5月20日法律第47号。一般的には激甚災害法(げきじんさいがいほう)と略して呼ばれる。
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 1963(昭和38)年1月〜2月 主に新潟県から京都府北部の日本海側と岐阜県山間部を襲った記録的豪雪である。それ以外の地方でも、その地方としては記録的な大雪や冷え込みを記録している。三八豪雪などとも呼ばれる。
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 1964年10月1日 東海道新幹線開業。
 幹線鉄道路線計画の第一弾として、東海道新幹線が完成した。
1ドル=360円為替レートと人口爆発によって高度経済成長が始まるや、大都市の輸出産業は増産を行う為に地方の農村地帯から若い労働力を集め始めた。
 戦後復興を成し遂げた官主導の中央集権体制は、「国土の均衡ある発展」に欠かせないのは大量輸送にあるとして、全国に網の目のように張り巡らされた鉄道網計画を立案した。
 1970年に成立した全国新幹線鉄道整備法以前に完成した、東海道新幹線山陽新幹線上越新幹線人口爆発に伴う人口大移動に合わせて建設された為に、全ては黒字であった。
 新幹線と並行する在来線も、人口増加で利用者が確保されていた為に黒字であった。
 新幹線と並行在来線の両立によって人の移動が活発化し、同時並行的に建設され全国に伸びた高速道路で物流が活発化した。
 新幹線の駅と高速道路の出入り口がある地方の中小企業は業績を上げ、地方自治体の税収が伸びた。
 生活のゆとりができた都市住民達は、新幹線や高速道路を使って地方の観光旅行に出た。
 地方自治体は、地元の発展の為に、地元選出国会議員に新幹線と高速道路の誘致を懇願した。
 政治家は、利益度外視で、黒字・赤字に関係なく選挙区に新幹線と高速道路を建設させた。
 人口爆発期であれば、新幹線の利用客は増え、高速道路の利用車両も増えた。
 人口減少が原因で経済が低迷し、地方の人口が減るや、新幹線を利用する者はいても並行在来線の利用者は減って赤字化し始めた。
 東京・名古屋・大阪などの大都市と地方の有名観光地を結ぶ整備新幹線が開通するや、途中の都市に降りる観光客は激減して衰退した。
 衰退した地方の中小企業も活気を失い規模を縮小するか廃業し、失業者は地元を捨てて仕事がある大都市へと流出していった。
 整備新幹線は、地元の発展に貢献するどころか衰退を加速させ、並行在来線の赤字を増大させ地方自治体の財政を苦しめた。
 10月10日(〜24) 東京五輪が終わるや、昭和40年不況が始まった。
 倒産件数は、1963年に1,738件であったのが、64年には4,212件となり、65年には6,141件となった。
 負債総額は、概算で、63年に1,695億円、64年に4,631億円、65年に5,624億円と悪化した。
 山陽特殊鋼は、65年に500億円の負債で倒産した。
 山一証券は、経営破綻に追い込まれた。
 菊池英博(経済アナリスト)「国内が急速に建設不況になり、鉄鋼需要の減少によって山陽は倒産しました。典型的なオリンピック型不況といえます。その直後から株価も落ち込み、山一の経営危機の引き金になったのです」
 10月16日 中華人民共和国は、自国のロプノール湖で初の核実験を行う。
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 1965年 日本政府は、財源不足を補うために赤字国債を発行し始めた。
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 1966年 昭和41年産米は、史上まれに見る大豊作であった。
 国内生産量は、1,445万トン。
 政府は、「米が余った」と公表した。
 マスコミと都会の消費者団体は、国家財政の赤字から厳しい耕作制限・減反を求め、生産重視の農政から多様性を持った農政への転換を主張した。
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 1967年 国内生産は1,878万トン。
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 1968年 日米原子力協定改定。アメリカは、日本の原子力政策の生殺与奪の権を握る為に根幹部分を完全支配した。
 日本の原子力発電所は、アメリカ産の核燃料を燃やし、その後に出る使用済み核燃料を再処理してプルトニウムを生成するには「アメリカの同意を必要」と定めた。
 日本は、自主独立国家といいながらも、国家の安全保障をアメリカの「核の傘」に委ねている限り、アメリカの国際的核戦略には逆らえなかった。 
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 1969年 人口問題審議会中間答申「わが国人口再生産の動向についての意見」。15〜64歳の生産年齢人口の増加が急速に縮小すると予想される為に、出生率を低下させている要因の改善を強く要望した。


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