🍙37〗─1─お互いが理解できない、アメリカの合理的理想主義と軍国日本の情緒的現実主義。~No.241No.242No.243 @ ⑬

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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・{東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 マックス・ウェーバー「政治家に必要なのは、この『倫理』問題にこだわる事ではなく、将来と将来への自らの責任について考える事」
 エマニュエル・ドット「日本は、戦後70年経った今も……靖国神社南京大虐殺の問題などは、中国政府に政治的に利用されている。絶え間なく〝現在の政治的問題〟として使われており、日本は常に歴史法廷の被告席に立たされています」
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 アメリカと軍国日本は、両国の和解による平和はあり得ず、お互いの国益による戦争は運命にあった。
 日本は、アメリカとの戦争を避けたかった。
 アメリカは、日本との戦争を望んでいた。
 日本とアメリカの紛争の原因は、人口4億人がいる中国市場である。
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 2015年10月号 新潮45
 「反・幸福論 阿倍談話の本当の意味  佐伯啓思
 談話に盛られた阿倍史観は、戦後日本の『公式的な歴史観』である。問題は、それが『戦後レジーム』の追承認となり果てた事にある。
 ……
 すべて『侵略戦争
 ここにはアメリカの歴史観が見事に表明されているといってよいでしょう。アメリカは第一次大戦への参加において、『世界の民主主義のため』戦った。第二次大戦も『世界の自由と民主主義のため』にファシズムと戦った。アメリカの戦争とは、常に、自由や民主主義を掲げる『世界』のために、その破壊者と戦うのです。こういう風にアメリカは考えている。
 もともとは、モンロー主義によつて、大西洋において不干渉主義をとっていたアメリカが、第一次大戦に参入したのは、英仏への貸付けが焦げ付くのを避けるためでした。しかし自国領土を攻撃されたわけでもないのに参入する口実がなかった。あるいは、大衆を説得し鼓舞する必要があった。そこでウィルソンは、持ち前の理想主義を発揮し、『世界の民主主義を守る』といったのです。
 ここで戦争観は大きく変わってしまったのです。19世紀までのヨーロッパの戦争は、基本的に領土争いという自国中心的な国家エゴに発するものでした。ところが、20世紀のアメリカの戦争は、自国エゴというだけではなく、そこに理想的な価値を掲げることで、戦争を正義と悪の戦い、とみなしたのです。戦争に道徳的意味を与えたのです。この道徳的価値とはもちろんアメリカ流の理想であり、端的にいえば、自由、民主主義、人権、法の支配の普遍性というものなのです。
 だから、これ以降のアメリカの戦争は、正義と悪の戦い、人類の普遍的な価値を守る戦い、という、何やらハリウッド映画的な意味を帯びてくる。第二次大戦しかり、冷戦しかり、ベトナム戦争しかりです。アフガン戦争も、タリバンとの戦争いも、イラク戦争も、そしてイスラム国(IS)との戦争もすべて、建前はそうなのです。実際には背景にアメリカの国益がある。しかし、それを普遍的正義や国際秩序によって正当化するのです。正義と悪の戦争だというのです。
 したがって、もしも、侵略戦争を『他国の領土に対する先制的な武力行使』と定義するならば、実は、アメリカほど侵略戦争をやっている国はありません。ベトナムイラクスーダンアフガニスタンリビア等への爆撃は、すべて『侵略戦争』なのです。
 そんなものは、すべてアメリカの利益のための口実に過ぎない、といっても仕方がありません。今世紀の戦争では口実が大事なのです。とりわけ民主主義国において国民を動員するには、戦争の正当化が不可欠なのです。
 そしてアメリカの場合には侵略戦争を許される。どうしてか。それは、自由、民主主義、人権、法の支配を守るための正義の戦争だからです。テロ組織のように、アメリカに対する脅威はまた、自由や民主主義への挑戦となる。人道主義や法の支配を守るという名目で、他国の自由意志を破壊し、政府を破壊し、市民を巻き込み、法を破壊する、というのも何とも奇妙なことなのですが、それがまかり通るのは、アメリカの正義の戦争は道徳的に善だからだ、というわけです。
 これは、もともと主権国家間の勢力均衡を基本としてきたヨーロッパの戦争観とは違い、また、多様な主権国家国際法と勢力均衡によって共存させようとするヨーロッパの世界観とも全く異なったものだった。その意味では19世紀の世界は大きく様変わりしていったのです。
 しかも、実に、このヨーロッパの勢力均衡による国際秩序とは、実際には、ヨーロッパの大国間のものでしかなかった。国際法は、ただヨーロッパ諸国の間だけで通用するものだった。だから、ひとたび勢力均衡が崩れ、国際法が適応されないアジア、アフリカへと進出すれば、ヨーロッパ列強はいくらでもそれらの地域を植民地化できたのです。
 20世紀になってからのアメリカの登場は、確かに、ヨーロッパの生み出した植民地主義帝国主義とは一線を画すものといってもよいでしょう。すでに植民地分割が終わりつつあった。アメリカもまた『遅れてやってきた青年』だったのです。そして、第一次大戦以降、すでに世界を分割し終え、また、帝国主義戦争に嫌気のさしていたヨーロッパも、アメリカの理想主義と国際主義に便乗しようとしたわけです。第一次大戦後の国際連盟やワシントン体制、そして1928年の不戦条約、さらには、少し下りますが、1941年の大西洋憲章、これらは、確かに平和構築へ向けた『国際主義』といえなくもありません。
 しかし、それは何も理想主義に燃えたアメリカ主導の『世界秩序』などというものではない。むしろ、帝国主義の行き着いたところで、ヨーロッパ、アメリカによって『世界』を固定しようとした、ということです。それが、彼らの利益になったからです。別に、民族自決に基づいたヨーロッパ諸国が植民地を自ら解放しようとしたわけではありません。
 しかも現実的にいっても、この国際主義を過度に強調すべきではないでしょう。国際連盟にはアメリカは加盟せず、ワシントン体制は、実際上、日本を牽制し、ヨーロッパ諸国による既得権の確保を意図したものだった。不戦条約には、アメリカは重要な留保をつけました。この条約は自衛の戦争を違法化するものではなく、しかもある攻撃が自衛か否かは攻撃の当該国が判断する、というのです。
 また大西洋憲章は、将来、平和愛好的な国民による集団的安全保障の枠組みが形成されるまでは、侵略の脅威をもった国から徹底して軍事力を放棄させねばならない、と述べています。しかし、これは1941年8月14日にルーズベルトチャーチルによって作成されたという経緯からもわかるように、米英の協力によってナチス・ドイツの戦争を封じ込めるという意図をもったものでした。そして、その延長上にポツダム宣言がだされるのです。
 アメリカの戦争観・歴史観は、ある意味では一貫しているのです。それは、一方で、アメリカが自由、民主主義、人権などを奉じる『理念の共和国』である、という事情によるものであり、もう一方では、アメリカ国民の精神の底流をなしているユダヤキリスト教の影響が強いからでしょう。
 一方、多様な人種や異なる背景をもったアメリカ国民をまとめるものは、自由と民主主義という『普遍的価値』しかない。だからこれは『正義』だという。そして他方で、アメリカ国民の精神の核になるものはといえば、ユダヤキリスト教的なユートピア思想であり、終末論なのです。『ユニバーサリズム』と『メシアニズム』です。それがアメリカを支えている、といってよいでしょう。アメリカ的歴史観はそこからでている。
 ついでにいえば、『普遍』=『ユニバース』とは、あらゆるものにあらかじめ共通し、妥当する何かだ、とわれわれは考えがちですが、もとは『ユニ』=『単一の』ものへと『バース』=『方向付ける』という意味です。つまり『ひとつの方向へと向ける』という意味なのです。当然、そこには、ひとつの方向を指し示す主体がなければならず、そのための力が必要でしょう。いうまでもなく、この主体はアメリカ自身にほかなりません。
 これがアメリカの歴史観であり、ポツダム宣言も基本的にそのような立場で書かれていた。だから、あの戦争は、アメリカにとっては、道徳的な意義を帯びたものであり、正義の戦争であった。東京裁判で示されたように、それは『文明の戦い』とみなされた。日本は、この文明を蹂躙し、『平和に対する罪』を犯した。戦争犯罪者は、ただの戦争責任を問われたのではなく、犯罪人なのです。この戦争は、ただ国際法違反というだけではなく、道徳的にも批判されるべき犯罪だ、というのです。
 そして、日本は、7年近くにおよぶ占領政策のもとで、この考えをすっかり受け入れた。重大な戦争犯罪人巣鴨プリズンに収監されましたが、占領政策とは日本全体を矯正施設に収監したようなものです。
 うずれにせよ、この緊急かつ強制的な収監措置は、おそらくアメリカの想定以上の功を奏し、サンフランシスコ条約によって出所を許された頃には、すっかり模範的で善良な疑似アメリカ人になっていた、というわけです。かくて、それ以来、われわれはアメリカの歴史観の囚人となっている。
 『アメリカ』という眼鏡
 さて、ここではアメリカの歴史観・戦争観の妥当性は問いません。それは、すでに述べたように、きわめて『アメリカ例外的』な事情の産物であり、移民国家であれ、人工国家であれ、理念の国家であれ、宗教国家であれ、ともかくも『アメリカ』に則した歴史観なのです。
 戦後、われわれは、この『アメリカ』という眼鏡をかけてものを見る習慣がついてしまい、しかも、その眼鏡は目に見えないために、それをかけていることもわからない、といった有様です。つい70年前を振り返るときもこの眼鏡のままで見てしまう。そこで、いったん、この『アメリカ』という眼鏡をはずしてみましょう。そもそもあの70年前に日本人はどう考えていたのでしょうか。
 終戦詔書において、天皇は次のように述べました。『曩(さき)ニ米英二国ニ宣戦セル所以て亦、実ニ帝国ノ自存ト東亜ノ安定トヲ庶幾スルニ出デ、他国ノ主権ヲ排シ領土ヲ侵スガ如キハ固ヨリ朕ガ志ニアラズ』というのです。また、41年の開戦の詔勅でも述べています。米両国は中華民国の『残存政権』を支援して、平和の美名に隠れて『東亜ノ禍乱ヲ助長シ』また『東洋制覇ノ非望』をたくましくている。そして『帝国ノ存立亦正ニ危殆(きたい)ニ瀕シ事既ニ此ニ至ル。帝国ハ今ヤ自存自衛ノ為蹶然起ツテ』というのです。
 もちろん、戦後70年たって、かなたにかすんだあの戦争を眺めて、こに詔勅侵略戦争の口実であり、侵略を糊塗して粉飾するでっちあげのイデオロギーだということは簡単です。いや、本当は、そのようにいうことの方がひとつのイデオロギーなのです。ある考えを『イデオロギー』であると断定するのは、その断定者が、まったくの傍観者であり、当事者の心理の内側にはいっさい関与しない、ということです。つまり、こうした歴史家は、自分は歴史の外にたてると考えているのです。そして初めて『70年前の日本人は、天皇の権威と言葉に騙されていた』というのです。
 しかし、われわれのいったい誰が、70年前の日本人は騙されていただけだ、勘違いしていただけだ、などということができるのでしょうか。われわれはどうしてこれほど簡単に、無条件に、しかも傲慢に、当時の人々の内面を無視する権利をもつのでしょうか。
 天皇の言葉が歴史的に真実か否か、などはここではどうでもよいことで、70年前の日本人の大多数は、これは『自存自衛の戦争』だと考えていたということが大事なのです。つまり、日本は追い詰められ、帝国の存亡の危機にまで追いやられ、やむをえず戦争に入った、と当時の人々は思っていた。対米英戦争は、やむをえない自存自衛の戦争だった。確かに、圧倒的なアメリカの物量に対する敗北覚悟の無謀な戦いかもしれないが、やらざるをえない戦争だ、というのが大多数の意識だったのでしょう。彼らはあくまで『大東亜戦争』をやったのであつて、『太平洋戦争』をやったわけでもなければ『アジア・太平洋戦争』などというものを戦ったわけでもありません。
 では、どうして彼らはそう感じていたのか。それは、国際情勢を読み誤ったからではありません。いや、歴史を外から眺めて、これぞ客観的な国際情勢だなどというものはありません。当時の人々の意識の背景には、明治以来の日本の近代化の特殊性があった、というべきでしょう。そのことを決して忘れるわけにはいきません。
 日本の宿命
 今年は戦後70年ですが、明治維新後70年といえばどうなるのでしょう。1938年、日中戦争が始まり、英米との軋轢が高まり、やがては大東亜戦争に入るという時期なのです。明治維新後の70年間などは、もちろん戦後の70年間などと比すべくもなく、波乱と動乱と混乱に満ちた時代でした。だから、当時の人は、われわれ以上に、その70年をひとつの流れにおいて理解しようとしたでしょう」
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 ケネス・ルオフ「(戦後)日本を戦争の暗い谷間へと引きずり込んだとして、漠然として少数の『軍国主義者』を非難する事が通例となった。しかし、国民の支持がなければ、全面戦争の遂行などできるわけがないのだから、これは奇妙な言い草だった」(『紀元二千六百年 消費と観光のナショナリズム』)
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 太宰治「いやだなあ、という気持ちは、少しも起きない。こんな辛い時勢に生まれて、などと悔やむ気がない。かえって、こういう世に生まれて生甲斐をさえ感ぜられる。こういう世の中に生まれて、よかった、と思う。ああ、誰かと、うんと戦争の話をしたい。やりましたわね。いよいよはじまったのね、なんて」(小説『12月8日』)
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 アメリカやイギリスと戦う総力戦に於いて、国民の自己犠牲的な支持がなければ戦えなかった。
 当時の日本人は、軍部や軍国主義者に騙されていたのではなく、国民として戦う大義名分を信じて大東亜戦争を支持していた。
 脳天気な楽観主義あるいは無鉄砲な敢闘精神から、困難であればあるほど、不可能に近ければなおさら、怖じ気づいて逃げ出さず、死ぬかも知れない事を忘れ武者震いし喜んで挑戦した。
 日本一国で、アメリカ、イギリス、オランダなどの世界を相手に戦争をしても、負けない、必ず勝つとの信念を持っていた。
 臆病なほどに石橋を叩いて渡る、剛胆に火中の栗を拾う、その相反する二面性をバランスよく保っていたのが、日本民族日本人であった。
 日本人は、中国人や朝鮮人とは違って、何時でも、どんな状況でも、「戦争をする覚悟」を持っていたのである。
 事に望んでは信じる志のままに前進し、見苦しい言い訳はしなかったし、嘘をつかなかった。



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