🍙34〗─4─アメリカ・GHQの対日占領政策の置き土産。母体保護法。優生保護法。~No.223No.224No.225 

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 アメリカは、女性・母性の生命健康を保護するという人道の見地から、占領下の日本に母体保護法優生保護法の制定を命じた。
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 2018年4月26日 東洋経済新報社「強制不妊手術の問題が今なぜ注目されるのか
優生保護法」子供を産めなくする国策の愚  柘植あづみ : 明治学院大学教授
 旧「優生保護法」(1948?1996年)下での強制的な不妊手術が約1万6,500件実施されていたことが盛んに報道されている。法律が改定されて20年以上経ち、手術を受けさせられた人の声がやっと表に出てきたことがその背景にある。さらに報道を受けて、全国において記録が確認され、新たな事実が掘り起こされつつある。
 一人の女性の行動がきっかけだった
 この一連の動きは、2018年1月に宮城県の佐藤由美さん(仮名、60代)が、15歳のときに知的障害を理由に優生手術を受けさせられたことに対し、国に謝罪と補償を求めて提訴したことがきっかけである。
 佐藤さんの義理の姉は、佐藤さんが優生手術を受けていたことを義母から聞いていた。佐藤さんは頻繁に腹痛を訴えたが、それが優生手術の後遺症であることや、本人の同意がないままに子どもを産めなくする手術をされたことに納得がいかず、人権侵害ではないかと疑問を抱いていた。
 そんなときに県内の飯塚淳子さん(仮名、70代)が、10代後半で同意がないままに優生手術を受けさせられたことに対して日弁連に人権救済を申し立てたことを知った。そして宮城県に対し、佐藤さんの優生手術に関する情報開示請求を行い、優生手術台帳の記録が2枚だけ開示された。それを証拠として、佐藤さんの意思で提訴した。
 実際に優生手術が行われたのは、遺伝性疾患のほか、知的障害、精神障害のある人が多いとされる。手術された人の約7割が女性であること、9歳や10歳で手術された少女や少年も含まれていたことも明らかになっている。
 この問題を巡ってはさまざまな疑問が湧く。なぜ、このようなことが法律で定められていたのか。なぜ、こんな法律が戦後の憲法の下で作られたのか。なぜ、改定されて20年以上経ってからこの問題が表面化したのか。
 敗戦によって旧植民地を失った日本は、大勢の引揚者、復員者を迎えた。続く第一次ベビーブームにより、人口増加が問題となり、人口増加を抑制する必要が認識されていた。その一方で、食糧難や住宅難などを背景に、違法かつ不衛生で危険な堕胎が頻繁に行われ、女性の健康被害が生じていた。
 闇の堕胎による女性の健康被害への対応、急増する人口の抑制政策が必要とされるなか、1948年に制定されたのが、「優生上の見地から不良な子孫の出生を防止する」と謳った優生保護法である。
 産婦人科医であり参議院議員であった谷口弥三郎は当時、中絶や受胎調節(避妊)を認めると逆淘汰(優れた生が避妊や中絶によって淘汰されるという考え)を懸念して、受胎調節は認めず、優生学的な理由または母性の生命健康を理由とする不妊手術や中絶を認める法案を策定し、成立させた。
 この法律には優生手術(優生学的な理由での不妊手術)の手続きが2種類記載されていた。
 1つが本人の同意を得た上での優生手術で、これは成人に限られていた。
 もう1つは「疾患の遺伝を防止するため優生手術が公益上必要であると認める」優生手術だった。これが現在、「強制的不妊手術」と呼ばれているものにあたる。
 強制的不妊手術の実施件数は1949年から急増し、1950年代半ばをピークに減少に転じたものの、1960年代になっても積極的に実施されていた。その後、1992年の1件が公的な記録では最後である。
 1949年には優生保護法において受胎調節が加えられ、経済的な理由での中絶を認める修正も通った。さらに、1952年には審査手続きが簡略化されたために、中絶が急増した。これによって日本は人口増加の抑制を成功させた。そして優生保護法は中絶を認める法律という認識が一般に広まった。
 優生保護法から母体保護法への改定
 優生保護法から母体保護法への改定は、障害者運動と女性運動を担ってきた団体の活動の成果と言ってよいだろう。これらの団体は、1970年代から、堕胎罪、優生保護法母子保健法、さらには出生前診断(胎児のうちに遺伝的な疾患や染色体の状態を検査する医療技術)が、女性に障害のない健康な子どもを産むことを押し付け、障害のある女性には子どもを産むなと押し付けてきたことを批判してきた。
 【4月27日11時34分追記】初出時、「母子健康保健法」と誤記していたものを「母子保健法」に訂正しました。
 1994年にエジプト・カイロで行われた国際人口・開発会議のNGOフォーラムにおいて、DPI女性障害者ネットワークからの参加者が日本の優生保護法と強制不妊手術の問題を発表すると、海外から大きな反響があった。筆者もその場に居合わせたが、政府担当者は優生保護法の問題について理解しておらず、対応に困惑していた。
 その翌年に中国・北京で開かれた世界女性会議のNGOフォーラムでは、DPI女性障害者ネットワークなどの女性運動団体が共同で「優生保護法ってなに?」というワークショップを開催し、世界から参加した人々と強制不妊手術についての意見・情報交換をした。
この2つの会議を契機にして、より大きな障害者団体が優生保護法の改正を政府・与党自民党に要請するようになり、1996年には自民党主導で、優生保護法から優生にかかわる条項・文言を削除し、母体保護法に改定された。
 ホットラインと声を上げた被害者
 優生保護法がなくなっても、それ以前に不妊手術を受けさせられた人々の傷は癒えるわけではない。以下、優生手術に対する謝罪を求める会がまとめた『増補新装版?優生保護法が犯した罪―子どもをもつことを奪われた人々の証言』を参照しながら見ていく。
1997年に、スウェーデンで障害者への強制不妊手術が1976年まで行われていたことが、日本の新聞でも大きく扱われた。この報道をきっかけに、1997年に「強制不妊手術に対する謝罪を求める会」(現在は「優生手術に対する謝罪を求める会」)が結成された。
 メンバーの山本勝美さんによると、会は厚生省(当時)に謝罪と補償を求める要望書を提出し、交渉をもったが、厚生省は「優生保護法の下では優生手術は合法であった」とし、「もし、法に則らず本人の同意をとらない手術があったなら、教えて欲しい」と回答したという。それが、「被害者ホットライン」(1997年11月)の開設につながった。
 冒頭に紹介した飯塚さんはこのホットラインに電話をかけてきた一人だった。
 「どうして私が強制的に『優生手術』(不妊手術)を受けさせられたのか、それが知りたくて、ここ何年か、私は何度も役所に足を運んで、当時の書類や記録を見せてくれと言ってきました」
 しかし、県の優生保護審査会の記録はないと言われて見せてもらえなかった。
 1998年には全国各地でホットラインが開設された。そのときに筆者は札幌在住だったので、相談員として参加した。ただ、札幌では当時、強制的な不妊手術に関する相談は寄せられなかった。北海道と宮城県は強制的な不妊手術の実施比率が高かったと指摘されている。広報不足は否めないが、相談するかどうかをためらう状況にあった人も少なくなかっただろう。
 優生手術が実施されてから長い時が過ぎ、多くの行政記録が破棄されてきた。約1万6,500人のうち、さまざまな理由で声を上げられない人たちのほうが多数派である。すでに亡くなった人も含まれるだろう。やっと声を上げてもその証拠となる記録が残されていないという状況もある。
 過去に強制的な不妊手術が行われたドイツやスウェーデンでは、被害者への謝罪と補償が行われている。スウェーデンでは裁判を経ずに迅速に補償のための法律が制定された。ドイツでも裁判ではなく連邦議会の判断で救済が決定した。
 飯塚さんのように記録が残っていない人も提訴できるようにする救済策が検討され始めている。自民党を含む超党派議員連盟「旧優生保護法下における強制不妊手術について考える議員連盟」も立ち上がった。被害に遭った人たちの年齢を考えると、裁判の判決を待たずに、謝罪・補償をするという英断を国に望みたい。
 「補償はいらない、ただ謝ってほしい」
 不妊手術に同意した(同意せざるを得なかった)人たちについても忘れてはいけない。
障害者福祉施設を利用していた女性障害者からは、月経時の手当ができない、妊娠したら困るという理由で、施設から子宮摘出を勧められたことが報告されている。子宮摘出は優生保護法も認めていない。この検証が必要である。
 1948年生まれの佐々木千津子さんは、脳性マヒのために20歳で施設に入ることにした。その際に月経の処置が自分でできないのを理由に、子宮へのコバルト照射をうけて月経を止めた。この方法は優生保護法でも禁止されている。
 筆者は20年以上前に佐々木さんに会ったことがある。そのとき、佐々木さんは施設を出て介助者の助けを借りて猫と自立生活をしていたが、明るく自由な雰囲気が印象的だった。彼女は20歳ごろに、親やきょうだい、施設職員に迷惑をかけないよう、コバルト照射に自分から同意したという。それを聞いたとき、筆者は言葉を失った。
 佐々木さんはその処置が「生理をなくす手術」とは知っていたが、「子どもを産めなくする」とは知らなかったと話した。だから「補償はいらない、ただ謝ってほしい」と主張してきたという。それが実現する前の2013年に65歳で亡くなったことが悔やまれる。
 また、ハンセン病の回復者は1996年のらい予防法廃止まで、病気が治癒しても療養所を出られなかった。療養所内で結婚することはできたが、優生手術を受けなければ結婚を認めないという規則のために、手術に同意せざるを得なかった。女性が妊娠した場合には中絶するのが当然とされ、それも中絶に「同意」させられてきた。
 いずれも優生保護法やらい予防法があったために、そのような状況に追い込まれたのである。人権が侵害されている状況下に置かれていた人たちに、「同意した」ことを盾に救済できないという判断をすべきではないだろう。
 国が犯してきた人権侵害を省みて、私たちも不作為という罪を犯さない責任があると、筆者は考える。その責任は、負の歴史を記憶し、継承し、同じ過ちを犯さないようにすることで遂行できるだろう。」
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 母体保護法(昭和23年7月13日法律第156号)は、不妊手術及び人工妊娠中絶に関する事項を定めること等により、母性の生命健康を保護することを目的とする法律である(同法1条)。
 本法によって母体保護法指定医師が指定される。また、本法では薬機法の規定に関わらず「ペッサリー等避妊具を販売できる」という特権を有する受胎調節実地指導員についても規定が置かれている。

 経緯
 優生保護法の成立
 1907年にアメリカ合衆国インディアナ州で世界初の優生思想に基づく中絶・堕胎法が制定された。それ以降、1923年までに全米32州で制定された。カリフォルニア州などでは梅毒患者、性犯罪者なども対象となったこともあった。優生学は20世紀には世界的に国民の保護や子孫のためとして大きな支持を集めていた。日本では戦後の当初は1948年(昭和23年)に優生保護法という名称で施行された。この法律は、戦前の1940年(昭和15年)の国民優生法と同様優生学的な色彩がある法律である。
 明治刑法が「墮胎の罪」を定めて中絶した者には刑事罰を与えていた一方、国民優生法は、「国民素質ノ向上ヲ期スルコト」を目的とすることを謳って親の望まぬ不良な子孫の出生と流産の危険性のある母胎の道連れの抑制、多産による母体死亡阻止を目的とし、日本では中絶という行為が宗教的タブーであるとは見なされていなかったため、出産という女性への選択肢の位置づけがなされていた。状況によっては家族や後見人が中央優生審査会、地方優生審査会に手術申請を行うことや、中絶や放射線照射の処置を可能としていた法律である。なお当時存在した日本優生学会(1925年創立、阿部文夫、岡本利吉、他)では同法に併せて不妊手術の状況を報告し、また人口増加問題も論じている。
 しかし、戦後の優生保護法においては、戦後の治安組織の喪失・混乱や復員による過剰人口問題、強姦による望まぬ妊娠の問題を背景にし、革新系の女性議員にとっては妊娠中絶の完全な合法化させるための手段である側面があった。1946年(昭和21年)4月10日に行われた戦後初の選挙である第22回衆議院議員総選挙で当選した革新系の女性議員らは戦後の第1回国会において国民優生法案を提出した。日本社会党の福田昌子、加藤シヅエといった革新系の政治家は母胎保護の観点から多産による女性への負担や母胎の死の危険もある流産の恐れがあると判断された時点での堕胎の選択肢の合法化を求めた。彼らは死ぬ危険のある出産は女性の負担だとして人工中絶の必要性と合法化を主張していた。加藤などは外国の貧民街を見て帰国直後の1922年には社会運動に理解のあった夫と日本で産児調節運動を開始していた。石本静枝として産児制限運動を推進するなど母胎保護には望まぬ出産への中絶の権利や母胎への危険のある出産を阻止する方法が女性に必要だと訴えていた。更に親族や預け先が面倒を見ていることで生活を送っている障害者同士が親族の把握を越えて妊娠する場合や障害者が性的暴行で妊娠させた場合、精神や知的障害者が性的暴行を行った場合は心神喪失責任能力が無いことで無罪になるため、面倒を見ている親族が謝罪や和解金を負担すること、妊娠した子供の世話、心神喪失で罪にならないも問題になった。障害者同士で理解せずに性行為を行って妊娠した場合、特に男性障害者による性的暴行の場合、これを繰り返すことも問題になった。障害者を持つ親族から出産後の自分での子育て能力や相手を妊娠させた場合に法的責任持てないと判断された場合の中絶や不妊手術を許可することを合法化してほしいとの要求が起きた。特に面倒を見ている親族やその家族の更に子供までの面倒を見きれないとの感情、性的被害者やその親族の心神喪失は無罪との怒りを背景に出産後の子育てや中絶や不妊手術を合法化要求があり、当時は与野党異論なく法案に盛り込まれた。これは面倒を見ている者らの苦労への同情や苦労を経験している親族らの要請が通ったからとの声がある。実際に障害者への中絶や不妊手術に対して、度重なる性的暴行・妊娠、被害者からの法的責任能力の欠如批判、それらの報道に触れるなど更なる負担増加を理由に親族らが手術希望したり、容認した。齋藤有紀子はこの親族らの考えは世界的に珍しくなく、中絶の合法化された国で障害を持つ子供を妊娠した時点で中絶を選択する率がどこの国も高いことから障害者の要望とその親族の要望では親族の要望が優先されていると指摘している。

 改正案を巡る議論
 1949年(昭和24年)の法改正により、経済的な理由による中絶の道が開かれ、1952年(昭和27年)には中絶について地区優生保護審査会の認定を不要とした。刑法上の堕胎罪の規定は存置されたが、空文化が指摘されるようになった。
 その後、高度成長により、経済団体の日本経営者団体連盟(日経連)などからは将来の優れた労働力の確保という観点から中絶の抑制が主張されるようになった。また、宗教団体からは、生長の家カトリック教会が優生保護法改廃期成同盟を組織して中絶反対を訴えた。一方、羊水診断の発展により、障害を持つ胎児が早期に発見されるようになり、日本医師会生長の家などの主張には反対しつつ、障害を持つ胎児の中絶を合法化するように提言した。こうした、思惑は違えど様々な改正案の動きがあった。これに対して、全国青い芝の会などの障害者団体は優生学的理由を前面に出した中絶の正当化に対して、中ピ連やリブ新宿センターなどの女性団体からはそれに加え、経済的な理由に基づく中絶の禁止に対する反発が広がるようになった。
 1962年に社会民主党の前身である日本社会党当時の宮城県議が宮城県不妊手術の強化を要求した。そのため、後身の社会民主党は関係者に謝罪する声明を発表している。1970年代から1980年代にかけて、両者の間で激しい議論がなされた。1972年5月26日、政府(第3次佐藤改造内閣)提案で優生保護法の一部改正案が提出された。改正案は経済団体や宗教団体などの意向を反映したもので、以下の3つの内容であった。
母体の経済的理由による中絶を禁止し、「母体の精神又は身体の健康を著しく害するおそれ」がある場合に限る。
 「重度の精神又は身体の障害の原因となる疾病又は欠陥を有しているおそれが著しいと認められる」胎児の中絶を合法化する。
 高齢出産を避けるため、優生保護相談所の業務に初回分娩時期の指導を追加する。
障害者団体からは主に2が、女性団体からは主に1と3が反対の理由となった。法案は一度廃案になったが、1973年に再提出され、継続審議となった。1974年、政府は障害者の反発に譲歩し、2の条項を削除した修正案を提出し、衆議院を通過させたが、参議院では審議未了で廃案となった。
 宗教団体などによる、経済的理由による中絶禁止運動はその後も続いた。マザー・テレサは1981年、1982年と二度の来日で、中絶反対を訴えている。一方で日本母性保護医協会、日本家族計画連盟などが中絶を禁止するべきでは無いと主張し、地方議会でも優生保護法改正反対の請願が相次いで採択された。その結果、1981年(鈴木善幸内閣)から再度の改正案提出が検討されたが、1983年5月(第1次中曽根内閣)には、自民党政務調査会優生保護法等小委員会で時期尚早との結論を出し、国会提出は断念された。

 母体保護法への改組
 1996年(平成8年)の法改正により、法律名が現在のものに変更されるとともに、優生学的思想に基づいて規定されていた強制断種等に係る条文が削除され、「優生手術」の文言も「不妊手術」に改められた。
 なお、優生保護法母体保護法ともに、議員立法によって制定・改正が行われてきている。ただし、行政実務上の主務官庁は厚生労働省(雇用均等・児童家庭局母子保健課)となっている。


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