🍙35〗─1─戦争や災害から自分と家族を守るのは自己防衛で国家に頼らない事。国家は国家を守る為に国民を見捨てる。~No.235 @ 

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 国民は、戦争や大災害という国難に際して国家をあてにせず、頼るは自分だけとして自分を信じ自己防衛として自分で考えて自ら行動するべきである。
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 週刊ポスト 2015年1月16日/23日号 「新年特別提言
 曾野綾子
 戦後70年──ヒューマニズムだけでの『反戦』は語り継げない
 『戦争の悲惨』より『戦時の叡智』を伝えよ
 ……
 世の中は『ベター』と『ワース』
 あの戦争は私の人生にとってかけがえのない『おもしろい経験』でした。そう言うと不謹慎だと言う人もいるでしょうが、私は実に多くのことを戦争から学びましたから。
 戦争が悲惨なものであったことは間違いありません。広島、長崎では多くの方が亡くなり、沖縄では民間人を巻き込んだ地上戦が行われたことは、ほんとうに悲惨な出来事だと思います。私自身、何度も空襲に遭って明日の朝まで生きられだろうと思いましたから、戦争はまっぴらです。
 でも、それがすべてではありません。戦争が全部悲惨だったといわれると、当時を生きた私としては少し困惑します。
 少なくとも私にとって、あの戦争は『不幸』だけではありませんでした。当時中学生だった私は、疎開先にあったベークライト(樹脂)を成形する工場で、部品のやするがけをする女工でした。戦闘機の絶縁体にでも使われていたのでしょうが、当時の私には何を作っているのかわかりませんでした。今のご時世なら、『子供を軍事工場で働かせるなんてとんでもない』となるのかもしれませんが、そこで私が思ったのは、『私にも女工さんが務まるんだ』という一種の満足感でした。それは今も変わりません。そんな経験は戦争がなければできなかったのですから。
 世の中にはベストやワーストはなく、『ベター』と『ワース』だけがあるのです。人はできるだけ幸せを求め、できるだけ不幸を避けたがる。でも、誰が見ても幸せとか、毎日悲惨なんて生活はめったに存在しない。だから、『悲惨な戦争』という表現にはどうしても違和感を覚えますし、簡単に『悲惨だった、悲惨でなかった』と評価すべきではないのです。
 私はナチスドイツがポーランドに建設したアウシュヴィッツ収容所に何度も行きました。あそこが幸せな場所だったとは誰も思いません。それでも収容所の中では、瞬間的にユダヤ人が笑ったり、歌ったりしたこともあったと記録されています。そんな『悲惨な環境』の中で、彼らは一瞬とはいえ何に笑ったのか、何に慰められたのかを知りたいですね。
 私はアフガンやイラクでの戦争を扱ったアメリカのドキュメンタリー番組をよく観ますが、出征する兵士たちの心情はさまざまです。家を出る前に奥さんや子供にキスをして、我が家へ帰れるかどうかわからないと言い続ける男もいれば、俺は国のために、家族のために戦ってくると言い切る男もいる。その両方の気持ちが交錯している兵士もいるでしょう。一つの感情ではなく、複雑な感情を持っているのが人間というものです。
 昨今の『戦争は悲惨なもの』という一面的な論調は、大人の考え方ではないと思うのです。戦争に限った話ではありませんが、戦後の日本人はとりわけ戦争というものをヒューマニズムで語ろうとしすぎています。
 現代日本人の『サバイバル能力』は低下しているのではないか
 『おきれいごと』は幼稚
 日本人がヒューマニズムに陥りがちになるのは、『現実』を見ていないからです。『戦争反対』と繰り返し訴え続ける人々の主張には私も賛成です。しかし『反対』と叫ぶ人は、神話の時代以来、人間が戦争を繰り返してきた歴史をどのように理解しているのでしょうか。はるか遠い将来はわかりませんが、歴史上、世界から戦争がなくなったことはありません。ならば観念論ではなく、 『より』戦争にならないようにする、あるいは『より』戦争の被害を少なくする、つまり『ベター』に近づく技術を提示すべきだと思うのです。それが私にとっては『戦争に学ぶ』ということですね。
 一面的な人道主義者に対する疑問は、そうした現実的な行動を見せようとしないことです。
 かってアフリカ・エチオピア難民の救援活動に同行して、難民キャンプに食料を投下する国連軍のポーランド兵たちの輸送用ヘリに乗せてもらったことがあります。地上の難民に空中から投下した後、私たちは機内で食べる簡素なサンドイッチのランチボックスを開けたのですが、私は全部食べ切れそうにない。そこでヘリの入り口に並んで中を覗き込んでいた子供──おそらく親を内戦でなくしたのでしょう──が2、3人いたので分けてあげようとしたら、同乗していたポーランド兵に、
 『マダム、ダメです。残すなら機内で捨ててください。もらえるとわかると何人も集まってきて、ヘリを壊されます。そうなったら救援活動ができなくなります』
 と注意されました。そこで私は気づくわけです。ほんとうに貧しいところでは、飢えた子供にパンをあげることさえも難しいのだ、と。飢えた子が目の前にいても助けないのは『非人道的』です。しかし、助けてはいけない状況というものが現実にあるのです。
 戦後の日本人は何でも『良いか、悪いか』の二元論で考える悪い癖がついてしまったように思います。『悲惨な戦争』という評価はその象徴ですが、それは昨今の『格差社会』問題にも通じるところがあります。
 昨年末の総選挙で、『格差社会があることは悪であるからなくさなければならない』と訴える政治家は多かったわけですが、有史以来戦争がなくならないのと同様、人間が生きている限り格差は必ず生じてきました。『格差のない社会』は理想ですし、それを目指すことは大いに結構だと思います。しかし、それが今すぐに達成できるかのように政治家が約束するのも、有権者がそれを求めるのも、『おきれいごと』なのです。むしろ格差をどう受け入れて縮め、あるいはその存在をどう利用するかが大人の考えですね。
 『つなみてんでんこ』こそが英智
 日本では『戦争の記憶を語り継がねばならない』という言い方をする人がいます。戦後何年の節目とか終戦記念日になると、マスメディアでもそんな言葉が紙面を躍ります。でも、観念論や精神論というのは、それぞれが実感を伴ってこそ語り継げるものです。
 私ぐらいの高齢者が『戦争を語り継いでおかねばならない』なんて言うと、何を言っているんだろうと思いますね。
 語り継ぐなと言うつもりはありませんが、そもそも感情や観念は継げるわけがない。聞いた人は同じ体験をしているわけではないのですから、その話を咀嚼して、自分の理解できる範囲で解釈するしかありません。体験者が『悲惨な戦争』を語ろうとすれば、それを聞いた人は『戦争は悲惨なものだ』という短絡的な評価でしか理解できません。逆に私が『戦争はおもしろい体験だった』と言っても、なぜ『おもしろい』かは私以外にはわかりませんし、それを語り継げるとは全く思いません。
 大事なのは、戦争を『悲惨な体験だった』という人もいれば、『おもしろい体験だった』という人もいるということなのです。
 この話をする時に、私はスイス政府が編纂して全国民に配る『民間防衛』という冊子をよく紹介します。この本は『戦争が起きたときにどうやって身を守るか』を極めて実践的に記しています。例えば、一家4人が3ヶ月生き延びるには乾パンを何キロ、砂糖を何キロ、蝋燭(ロウソク)を何本用意しておくか、赤ん坊がいる場合はおむつをどれだけ備蓄すればいいかということが書かれています。核戦争が起きた場合に備えて、核シェルターの設置と維持の方法もある。いずれも『戦争をしない法方』ではなく、『戦争になった時にどうするか』という内容です。精神や道徳を説くものではありません。具体的に戦争では何が起きるのか。そうした現実なら確かに語り継ぐことができる、と思います。
 以前、『週刊ポスト』の連載(エッセイ『昼寝するお化け』)でも触れましたが、東北には『つなみてんでんこ』という昔人(むかしびと)の言い伝えがあります。『津波が来たら、一斉に、自分だけで逃げろ』という意味で、先の東日本大震災での教えを思い出して自らの命を守った人が大勢いました。このエピソードはまさに、昔の津波被害から得た教訓、英智を客観的、効率的に伝えたものだと思います。それは後世の人が実体験として共有し得ない悲劇を感情的に伝えるよりも、はるかに役に立ったのです。
 戦時下での子供たちは戦争の中で『生き抜く知恵』を身につけた
 戦争の教訓は『国家に頼るな』
 もう一つ、私が戦争から学んだ教訓として語り継ぐべきことがあるとすれば、戦争が終わった時に国家は国民に一文も補償しなかった、ということです。一方で、空襲で住むところを失い、食べ物もろくに手に入らない『悲惨な状況』に置かれた国民も、国家に補償を求めようとしなかった。なぜかと言えば、国家に頼って生きていくことなど無理だと当時の日本人は体験的にわかっていたからです。それでも焼け出された日本人は自力で生活を再建し、発展の礎をつくりました。そうした経験や方法論こそ記録として残し、語り継ぐ価値があるはずです。
 しかし、残念ながら、『戦争が教えてくれた英智』は戦後の日本には引き継がれていないようです。
 大雪の被害で道路が遮断されれば、住民は『消防や自衛隊は早く来てくれ』と叫び、マスメディアは『急ぎ救出が待たれます』という。大雪にしろ台風にしろ、被害が事前に予想されているにもかかわず、自分で知恵を働かせて十分な備えもせず国家の支援や補償を求める姿は、戦争の経験した者からすれば、『日本人は戦争から何を学んだろう』と疑問を抱かずにはいられません。
 昨年末、震災を想定した帰宅訓練を実施したというニュースをテレビで観たのですが、何とも不思議な光景でした。どこの駅だったか忘れましたが、公共交通機関がストップしてしまったので参加者は駅で寝るという想定です。すると、駅員か役所の職員かが、あらかじめ用意していた水とお弁当と毛布を配りに来る。そんなもの何一つなく、駅の床で寝るのが非常時というものなんですよ。
 訓練というなら、寒さにブルブル震えて一晩過ごさなくては意味がない。実際には全員分の食料や毛布が備蓄されているはずはなく、寒いのが嫌なら自分で考えて対応するしかない。捨てられてある新聞紙をお尻の下に敷けば寒くないとか、ゴミ箱の中から『週刊ポスト』を探し出してくれば、新聞紙より厚くて暖かいうえに、きれいなお姉さんの裸も見られるから退屈しのぎになる、とかね。そういう自己防衛の知恵こそが役に立つものです。
 戦争や大震災という《最高の悲劇経験》から学び、語り継ぐべきは、そこで人々が示し、見つけ出した『英智』だけです。終戦から70年を迎えた今だからこそ、悲劇を語り継ぐだけでなく、戦争から得られた実践的な教訓の価値を見直してほしいと思います」
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 戸部良一、寺本義也、鎌田伸一、杉之尾孝生、村井友秀、野中郁次郎『失敗の本質』 「日本軍は、近代的官僚組織と集団主義を結合させることによって、高度に不確実な環境下で機能するようなダイナミズムをも有する本来の官僚制組織とは異質の、日本的ハイブリッド組織を作り上げたのかもしれない。しかし日本軍エリートは、このような日本的官僚制組織の有する現場の自由裁量や微調整主義を許容する長所を、逆に階層構造を利用して圧殺(した)」





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