🍙24〗─1─戦局の悪化により、東南アジアからの海上輸送路が攻撃され、国内の食糧事情が悪化した。棚田の歴史。昭和18年~No.145No.146No.147 @ 

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   ・   ・{東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 兵役を免除されている朝鮮人が国内で急増した。
 警察も憲兵隊も、兵員不足から多くの者が戦場に送られ、国内の朝鮮人達を監視する人員が足りなかった。
 それは、朝鮮半島でも同様であった。
 国内の、200万人の朝鮮人や数万人の中国人は野放し状態であった。
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 南方戦線では、食料や医薬品などの軍事物資が届かず、餓死者や病死者が続出していた。
 戦死者より餓死者の方が圧倒的に多かった。
 日本軍が戦った真の敵はアメリカ軍ではなく、飢餓であった。
 軍部は、前線で戦う兵士が何万人何十万人餓死しようとも、国内で一人の餓死者も出さない事を最優先とした。
 特に、女性や子供などの弱者に犠牲者が出ないように細心に注意を払っていた。
 戦時中、日本国内では食料が欠乏しても餓死者は出なかった。
 それが、「贅沢は敵」の痩せ我慢であり、「最後には勝つ」の不退転の決意であった。
 飢えの苦しみを紛らわせ、ひもじさを満たす為に必要だったのが、情報操作としての「嘘の大本営発表」であった。
 嘘の大本営発表があったればこそ、気力で飢餓状態を生き抜き、気持ちで餓死を免れていた。
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 昭和17年産米生産…6,678万石。約1,000万トン。豊作。
 穀物生産面積は、最大の518万ヘクタールを記録した。
 国内総人口    …7,257万人。
 昭和18年度消費量…7,324万石。
 昭和18年度輸入量…  732万石。
 昭和18年度移入量…  164万石。
 昭和18年度供給量…7,648万石。
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 食糧増産の為に、多くの桑畑や茶畑であった土地を稲田に変えて棚田を作った。
 棚田の歴史は、歴史的に新しいものであった。
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 戦場の拡大と戦闘の激戦に伴い、民間用輸送船の多くが軍用に徴用されて、生活物資が欠乏して国民生活は窮乏した。
 日本海軍の劣勢に伴い、南方との海上交通路はアメリカ軍の攻撃を受け、外米の輸入が困難となった。
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 日本共産党幹部野坂参三(変名、岡野進)は、延安に入り、コミンテルンの指示に従って中国共産党の抗日戦に参加した。日本に人民革命を起こす為に、日本人兵士捕虜を共産主義の闘士に改造するべく日本工農学校を組織して、彼らを反天皇反日本に洗脳した。
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 ロッシェル塩は、潜水艦や魚雷の音波を探知するソナーの性能を向上させる為に必要な物質である。
 日本海軍は、ワインに含まれる酒石酸からロッシェル塩という化合物を作る為に、ワインの醸造を奨励した。
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 1943年 日本政府は、アメリカの生産力に対抗するべく国家総動員法を強化して、民需産業を整理して軍需産業に強制的に転用し、サービス業従事者を軍需工場に強制的に動員した。
 日本産業は、軍需一色となった。
 産業小国の日本は、産業大国のアメリカとは違って生産力のゆとりが全くなかった為に、企業活動から個人の生活まで強制的に戦争に動員した。
 アメリカのように、個人の自由や人権まで認めるゆとりがなかった。
 日本人は、有り余る程の生活物資に囲まれたアメリカ人とは違い、全てに於いて欠乏していた貧困の中で、必死な思いで狂気して戦っていた。
 重工業の就業者数は急増し、女性も子供さえも勤労奉仕として軍需工場に強制的に動員された。
 日本各地で、女子挺身隊が組織された。
 民需産業の縮小によって生活必需品の生産量は低下した為に、国が商品を割り当てて販売する配給制が維持できなくなった。
 銃後の国民は、配給不足を補う為に行列買いや闇売りを買い、都市近郊の農村に食糧の買い出しを行っていた。
 農村部は、これまで散々都市部から差別され軽蔑されてきた恨み辛みがあった為に、買い出しに来た都市住民に意地悪をして売り惜しみした。
 日本は、近代化の為に都市部の発展と朝鮮や台湾のインフラ整備に巨額の国費を投じたが、国内農村部のインフラ整備を後回しにして、農民や貧困生活のまま放置してきた。
 農民にとって、納税と徴兵の義務を押し付けられる割には見返りがないとして恨み、凶作の度に娘を都市部に身売りするという惨苦を耐え忍んでいた。
 売春婦・慰安婦・女郎にされたのは、都市の娘ではなく、農村の娘であった。
 都市の男達は、農村から売られてきた年若い娘を金で買った遊んでいた。
 愛情一杯に手塩に掛けた娘を売らざるを得なかった農夫達の、都市部への恨み辛みは人には話せないものがあった。
 政府は、農村に対して強権的に食糧の増産を督促した。
 農村部では、働き手である若者を兵隊に徴兵され、女子供や老人まで軍需工場に動員されて、農業従事者は減少していた。
 金属製の農機具の大半が供出させられ、肥料の不足などで、生産条件は悪化した。
 農村部は、無い無い尽くしの中で、戦地の身内に届けるべく必死の思いで食糧を生産し、自分達の食べ物を減らし少しでも多くの食糧を納めた。
 都市部住民が、買い出しで農民に意地悪されたとしてそれは自業自得といえた。
 軍部や統制団体の関係者達は、戦争をそっちのけで不正を行い、当然の権利として横流しをしていた。
 都市部では、食糧を戦地に送る事なく儲けている者がいた。
 「世の中は、星(陸軍)に錨(海軍)に闇に顔、馬鹿者のみが行列に立つ」
 日本国内は、表面で見るほど一枚岩ではなかく、都市部と農村部との亀裂が広がりつつあった。
 東京帝大助手の篠崎信男は、「民族を強くするには、異民族との結婚が有効に思える」という論文を、機関誌に「民族混血の研究」と題して発表した。
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 連合軍の反攻が本格化して、日本ー台湾ー南方のシーレーンが攻撃され輸送船が撃沈され始めるや国内物資が不足し始めた。
 物資が不足して配給が滞り始めるや、窃盗や強盗などの事件が急増した。
 憲兵隊や警察当局は、銃後での治安悪化が敗戦と国家崩壊につながる事を恐れ監視を強化した。
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 1月 カサブランカ会議。アメリカは、国際正義の大義で戦犯国家日本に対して断固たる処置を執るとして、「無条件降伏」か「死」の二者択一を強要した。
 国家元首にして宗教指導者である天皇を最終決定権者として、開戦当時の指導者(A級戦犯)同様に国際法で公平に裁き有罪にする事を表明した。
 つまり、退位は当然として、場合によっては戦争犯罪者として絞首刑もありうると。
 「我々は、休戦ないし条約によって戦争を終結させるつもりは全くない。ドイツは無条件に降伏せねばならない」
 現代日本の国際的な知的リベラリスト反戦平和主義者そしてキリスト教徒及び一部の仏教徒達は、この歴史的事実を十分理解した上で、天皇の戦争責任を糾弾し靖国神社の存在に反対している。
 つまり、天皇一人の為に、関係のない国民全体が被害を受け、罪のない市民が犠牲になる事は理不尽であると。
 一個の現人神・天皇を犠牲にしても、より多くの善良な国民を助けるべきであったと。
 普遍宗教を信仰する彼らは、民族的霊性を持った神格的天皇が存在する事が気にくわないのである。
 国際的現代日本人とこの時代以前の古風な民族的日本人とは、歴史・時間が断絶している為に全く異質な日本人といえる。
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 2月23日 「『(秋田県)わたしはこの数日間、幡野村の供米督促に出向いてきたが、村人は供米は戦争遂行上、絶対命令である事を忘れている。ことに金谷の諸君は、8割しか供米をしていないのは、一体どうした事だ。戦場では多くの兵隊が玉砕している。涙をのんで玉砕した兵士と共に、金谷部落の人たちも、米を全部供出して、餓死してください。玉砕してください。そうすれば立派な忠霊塔を建ててくれます。どうか死んでください─死んでください』 壇上から阿部課長は、絶叫し続けた。異常な雰囲気が、教室の裸電球の下で渦巻いていた。首をガックリ落とし、人々は息苦しそうに吐息した」(新山新太郎『農村秘史抜粋・供米をして餓死してください』)
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 3月 甘粛省で、5万人の農民が国民政府の支配に反発して反乱を起こして、省南部を占領した。
 福建省でも、国民政府への不満から4,000人の農民が蜂起して政府軍を攻撃した。
 中国共産党は、日本軍と戦うよりも、各地で国民党へのゲリラ活動を活発化させていた。
 国民党軍は、叛乱を起こした農民を攻撃し、見せしめに女子供に関係なく容赦なく虐殺した。
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 4月20日 東條首相は、中国和平と大東亜会議の成功の為に、前年に大東亜省設置で猛反対し、政府の外交政策の失敗を問う糾弾発言をした重光葵を、南方政策と対中政策の調整の為に外相に任命した。
 重光葵は、軍務局長佐藤賢了中将(A級戦犯)を通じて、東條首相に南京政府を介して重慶政府との和平工作を開始する事を承諾させて、外相に就任した。
 東條首相は、対重慶和平工作の為に内蒙古独立を阻止し、11月の大東亜会議では蒙古連合自治政府を正式構成国とはしなかった。
 基本政策を、戦争と外交に二分し、外交を植民地の独立支援と日中和平工作の二本立てとした。
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 5月5日 南方総軍所属の各軍の軍司令官は、シンガポールに会合して、食糧問題を含む占領地の諸般を協議した。
 太平洋・アジアの制海権及び制空権を失うや敵の攻撃で海上輸送路が寸断される恐れがある為に、速やかに陸上輸送網の完成させる必要がある事で一致した。
 ビルマ産米を東南アジアに運び出す為に、泰緬鉄道と3本の軍用道路建設を急ぐ事になり、数多くの労務者や連合軍捕虜を苛酷な工事現場に送り込む事が決定された。
 日本人兵士は激戦地に派遣する為に、朝鮮人兵士や朝鮮人軍属に工事現場の監督をさせる事となった。
 5月29日 アッツ島の日本軍守備隊は、玉砕した。
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 6月 満州・豊満ダムの総出力は、70万キロワットに達した。
 フィリピンの外務大臣はダムを視察して驚嘆した。「フィリピンはスペイン植民地として350年、アメリ支配下で40年経過している。だが住民の生活向上に役立つものは一つも造っていない。満州は建国わずか10年にしてこのような建設をなした」(松井仁夫満州電業理事長『語り部満州』)
 他に、水豊ダム、鏡泊湖ダムなど東洋屈指の大型ダムが満州に幾つも建設され、万里の長城以南の中国本土とは異なり安定した電力を供給していた。
 6月4日 農商省は、南方から食糧を輸送してくる船舶が不足するや、国内の食糧を確保する為に食糧増産応急対策要綱を発表した。
 数十万人の朝鮮人青年が、仕事を求めて日本に渡った。
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 6月13日 青森県東方沖で地震。M7,1。北海道苫小牧市浦河町青森県青森市八戸市で最大震度4。
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 7月22日〜25日 梅雨前線+台風第12号。死者・行方不明者、768人。
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 8月 重光外相は、ナチス・ドイツのシュターマー大使にソ連との講和の為に大幅な譲歩をする様に求めた。
 スターリンは、ソ連軍がクルスク戦でドイツ軍を撃退するや、ルーズベルトに対日戦参戦の意志を伝えた。
 ルーズベルトは、その代償として全千島列島のソ連領を認めた。
 8月17日 東條内閣は、南保からの食料輸入が期待できない為に、日満に於ける食糧増産するという第二次食糧増産要綱を決定した。朝鮮が当てに出来ない事が、頭痛の種であった。
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 9月10日 鳥取地震直下型地震 M7.2。総被害は、死者1,083人、家屋全壊7,485戸、半壊6,185戸、焼失251戸、被害総額は1億6,000万円(当時)であった。荒金鉱山の朝鮮人集落も甚大な被害を受け、朝鮮人労働者やその家族・地元住民に犠牲がでた。
 9月18日〜21日 台風第26号+秋雨前線。死者・行方不明者、768人。
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 9月25日 日本占領下のフィリピンで、第一回目の国会で大統領選挙が行われホセ・ピー・ラウレルが当選して初代大統領に選出された。
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 10月13日 長野県北部で地震。M5.9。新潟県上越市と長野県長野市で最大震度 4。死者1人。
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 10月14日 フィリピンのラウレル大統領は、アメリカ議会の46年7月4日付けに独立を供与するとしたタイディンダス・マクダフィー法は信用できないとして、独立を宣言した。
 日本とタイは、フィリピンの独立を承認した。
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 11月 東條首相は、総力戦に備えて戦時下統制経済の強化の為に、軍需省(商工省の改組、企画院の廃止)、運輸通信省逓信省鉄道省の改編)、農商務省農林省)を新設した。
 東条英機首相は、生産力増強の為に商工省と企画院を統合して軍需省を新設して軍需相を兼務した。
 岸信介は、無任所国務相兼軍需次官に就任し、法の規定により衆議院議員を辞職した。
 戦争勝利の為に、日本の貧弱な工業生産力を軍需中心に統合し、陸軍と海軍の要求に答える様な軍需生産計画を策定し実行した。
 だが、陸軍と海軍は、東条英機首相の調整を無視し、乏しい軍需物資を巡る醜い争奪戦を激化させ、軍需省による統制配分を新設早々に破綻させた。

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 迫水久常「国民は空襲の激しさ、輸送の困難さ、そして国内の孤立した地域では飢餓状態が現れている事を鑑みれば、生存に必要な最小限の米と塩で何とかやっていかねばならなくなるだろう」「総力戦の必要条件を満たす事がますます困難になっている」
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 カイロ会談。
 アメリカは、日本占領後の分割統治計画案作りを始めていた。
 日本を四分割し、ソ連軍が北海道と東北を、アメリカ軍が関東甲信越と中部及び富山と石川を、アメリカ軍と中華民国軍が共同で関西と福井を、イギリス軍が中国と九州と沖縄を、中華民国軍が四国を、それぞれ軍事占領して管理する。
 東京は、アメリカ、ソ連、イギリス、中華民国が共同管理する。
 蒋介石は、より多くの管理地区を希望していた。
 日本にとって、蒋介石ファシストであり恩人でも何でも無かった。
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 12月 東條内閣は、食料不足問題を解決する為に日満食糧自活に関する措置要領を決定し、満州、朝鮮、台湾での食糧増産を強制的させる事を決めた。
 12月25日 42年9月16日から行ってきた泰緬鉄道敷設工事は、約16ヶ月間、日本兵1万4,000人と連合国軍兵士捕虜3万〜5万人と東南アシアの現地住民10万人以上を投入し、突貫工事による夥しい犠牲者を出して完成した。
 戦後。非人道的重労働による捕虜虐待があったとされ、32名の日本人兵士がB級・C級戦犯として処刑された。
 世に恐れられた、「死の鉄道」で或る。



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