🍙22〗─5─日本列島の潜在的恐怖は、飢饉による「ひもじさ」であった。長禄・寛正の飢饉。平氏と六波羅屋敷。天皇と新嘗祭。No.127No.128No.129 @ 

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   ・   ・{東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 キリスト教は、人はパンのみで生きるのではなく信仰によって生きるべきだと、説いている。
 儒教は、人は軍隊や食べ物ではなく礼節を優先すべきであると、教えている。
 神道だけが、食べ物にこだわる。
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 世界常識では。食糧が乏しくなったら、食べ物を独り占めにする為に殺しあうか、食糧の豊富な地方に移動した。
 日本常識は世界の非常識で、食べ物をめぐっての陰惨な殺し合いは少なかったし、食べ物を求めて他国に移動したことがない。
 日本人の移動は、国内だけで、国外への民族大移動はなかった。
 日本人は、家族が生き残る為に食べ物をめぐって殺しあう様な事はせず、少ない食べ物を家族や皆で分け合って食べ無くなるや全員で静かに餓死した。
 日本人は、その場を支配する空気のような同調圧力によって、生きるも死ぬも一緒という「一蓮托生」を信奉していた。
 日本人は、殺しあうよりも餓えて死ぬ事を選んでいた。
 日本人ならば、他人の食べ物を横目で見ながら静かに餓死した。
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 2015年10月22日号 週刊新潮葉室麟 古都再見
  京の1200年の歴史を振り返れば、鴨川の河原を死骸が埋め尽くしたこともあった。と不吉なことを思い出す。
 たとえば、長禄3年(1459)から寛正2年(1461)にかけての、
 ──長禄・寛正の飢饉
 である。飢饉の始まりには異常なことが起きている。長禄3年の夏は空にふたつの太陽が出たり、太陽が急に赤銅色に変わったという異変である。
 そして雨がほとんど降らなかったかと思うと9月になって雨が続き、鴨川は大洪水を起こした。この〈異常気象〉はさらに2年間続き、大飢饉をもたらした。
 飢饉に耐えかねたひとびとが救いを求めて続々、京に上がった。この結果、京は飢饉と疫病の地獄絵図となった。鴨川の河原には死体が山積した。
 寛正2年1、2月の餓死者総数は8万2,000人を超えたという。
 この事態を憂えた時宗の僧、願阿弥は8代将軍足利義政に100貫文を出してもらい、六角堂南に小屋を建て、あわ粥や野菜汁を与えた。
 施行を受けた者は連日、8,000人に及んだ。それだけに資金はたちまち底をついて施行はひと月続かず、願阿弥は死骸の埋葬を行うしかなくなった。
 四条と五条の橋下に穴を掘り、数千人ずつ死体を埋め、そこに塚を築き、樹木を植えた。
 もはや憐れみの涙も出ない。絶望と虚しさで心が真っ黒になっただろう。
 このとき、偽政者は何をしていたか。足利義政は名木、名石を各地からとりよせ、一流の絵師や職人を集めて、ひたすら室町邸の改築に熱中していた。
 願阿弥に100貫文を与えたほかは、京都五山の禅寺に命じて死者の冥福を祈らせたぐらいだった。
 足利義政は東山文化の担い手として能の興行や絵画、陶器の収集という趣味の世界に耽溺した。あまりのことに後花園天皇は、義政を諌める漢詩を作って贈った。

 残民争いて採る首陽の蕨(わらび)
 処々炉を閉じ竹扉(ちくひ)を鎖(とざ)す
 詩興の吟は酣(たけなわ)なり春2月
 満城の紅緑誰が為に肥ゆる 

 生き残った民は、争ってワラビを奪い合っている。
 竈はとざされ門扉も開くことがない。詩を口ずさむのが最も盛んになる春2月だが、京の花や青葉は、誰の為に咲き、茂っているのか。
 『首陽』とは古代中国で周の武王が殷の紂王(ちゅうおう)を討った際に、この武王のふるまいに抗議した伯夷、叔斉という兄弟がこもった山である。
 ふたりが『周の粟を食まず』として、アワビだけを食べ、餓死したという故事にちなみ義政の悪政を諌めたのだ。
 朝の光があふれた鴨川の道を走りながら思うのは、偽政者の心の恐ろしさだ。後花園天皇の諌言も義政に届かなかった。
 20年後、応仁の乱が終わった時期、京は荒廃し、民は困窮していたが、義政は民から段銭を徴収して銀閣寺の建立に取りかかる。
 幽玄、わび、さびなどの感覚を磨きあげた文化活動のパトロンであった義政の美意識は後世の日本人に大きな影響を与えた。
 それなのに、この人間離れした無慈悲さはどういうことなのだろう。
 東日本大震災の復興はいまだならず、福島の避難住民は故郷に帰ることができない。それでも東京オリンピックに血道をあげる偽政者のことを思い出した。
 餓死者の山をかたわらに趣味生活にふけった足利義政とどこが違うのだろう。
 ──満城の紅緑誰が為にこゆる
 義政は少なくとも東山文化を残した。われわれは何を残すのか、…… 」
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 第102代後花園天皇。1419〜1470年。在位1428〜64年。
 第103代後土御門天皇。1442〜1500年。在位1464〜1500年。
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 ウィキペディア
 長禄3年は全国的な旱魃[1]に加えて、関東地方の享徳の乱畿内の台風などによって西日本を中心に飢饉が発生、翌年にも大雨による水害と旱魃が交互に訪れ、更に虫害と疫病も加わって飢饉が全国で拡大、畠山氏の家督争い、斯波氏の長禄合戦などによって、両氏の領国では更に事態が深刻化した。
 京都では長禄3年(1459年)旧暦8月に台風が直撃し、賀茂川が氾濫して多数の家屋が流出し、数え切れないほどの死者が出たほか、飢饉がより深刻化した寛正2年(1461年)には、大量の流民が市中に流れ込み更に事態は悪化した。飢餓と疫病によって、寛正2年の最初の2ヶ月で京都で8万2千人の死者が出たと言われている。だが、室町幕府の将軍足利義政はこの最中に花の御所を改築し、世事に全く関心を示さず、堪りかねた後花園天皇の勧告をも無視した。こうした混乱は、5年後に発生する応仁の乱への下敷きともなった。
 この飢饉に際して時宗の願阿弥は京都で粟粥などを施し、延暦寺支配下に置かれて浄土真宗の活動を禁じられていた本願寺では蓮如が救済活動の傍ら延暦寺からの独立を図ってその怒りを招き、いわゆる寛正の法難の原因となった。
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 神道は、血や死を生命力を奪う「穢れ」として嫌った。
 家が穢れない為に、死にそうな老人や病人を家から追い出し、死者の捨て場所に移した。
 京では、鴨川の東の六波羅一帯であった。
 位の高い貴族や裕福な町人は小屋を建てて寝ながら死を待ったが、貧乏な貴族や一般の町人は小屋をなどなく野晒しで寝かされた。
 使用人などは、道端や河原に放置された。
 神道には、死後の世界という概念がなかった為に、彼らを救済する術はなかった。
 人々は、この世で天災や戦乱、疫病や飢餓に絶えず苦しめられていただけに、せめて死後の世界では救われたいと思って、仏教に救済を求めた。
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 平氏は、六波羅一帯に屋敷を構えた。 
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 新嘗祭の祭祀は、天照大神の血を引く直系の子孫である日本皇室の家長、天皇に即位している御一人でしか執り行えない、重要な皇室祭祀である。
 枢機卿達のコンクラーベで選出されたローマ教皇や、国民の総選挙で選ばれた大統領や首相では、執り行いない。
 当然、武力や財力で国家元首となった独裁者では不可能である。
 たとえ、仁徳者や人気者でも祭祀はできない。
 日本天皇が途絶えることなく今日まで存続しているのは、新嘗祭を含む皇室祭祀があったからである。
 新嘗祭は、一子相伝として皇太子のみに受け継がれる秘儀で、公開される事は一切ない。
 2015年10月25日号 サンデー毎日 「松本栄文 四季 宮廷料理の心
 ……
 『新嘗祭(にいなめさい)』……現在では11月23日に祭祀が執り行われますが、明治6(1873)年の改暦のときに同年11月下卯の日が23日にあたったことから、以降この日になりました。『新嘗祭』は宮廷祭祀のなかでも最重要の大祭に位置付けられており、この祭祀こそが御上たることの一つといっても過言ではありません。
 ではこの『新嘗祭』とは、どういった内容の祭祀なのでしょうか。御上が天照大御神を皇居神嘉殿(しんかでん)にお招きし『新穀(新たに収穫した御米や他の雑穀)』の出来を奉告、感謝を申し上げられる祭祀のことでありまして、新穀で作られました『御飯』や『御酒』を御上自ら供御(くご)を上げられるのであります。そして、天照大御神に供えられました供御を御上御自身もお召し上がりになります。
 ……
 なぜこれほどまでに、御米をはじめとした新穀について立派な祭祀を行うのかというと、御米というものはまさに日本の国體を形造ったすべての象徴的作物だからです。稲は縄文時代後期にインドのアッサム地方から朝鮮半島を渡り日本に来たとされます。一粒の種もみから何百粒も獲れる非常に収穫性の高い穀物。それまで狩猟民族として活動していた日本人は、この収穫性の高い御米を栽培する稲作へとシフトしていき、同時に定住型の社会へと変わっていきました。そこから始まっていったのが、田んぼを中心としたコミュニティー社会と、4月初まり3月終わりという『年度』サイクルです。
 ついでに稲作のサイクルについてお話しすると、それは桜の木のサイクルと同じ動きをしています。『サクラ』とは『歳(サイ)の神(田の神)が宿る神蔵(かみくら)』という意味の大和言葉でした。
 ……
 御上御自身、国の一大事とお考えになっていることは何でしょうか。『古事記』の宣化天皇の詔の条にこうあります。『食者(クヒモノ) 天下之本也(アメノシタモト) 黄金満貫不可療飢(コガネヨロヅハカリイヤスイヒウエ)』。どんな黄金があっても、飢えを満たすことはできない。食べ物こそが世界の根本にあるという意味です。これは『日本国民が飢えに苦しむその姿がもっとも悲惨なことであるから絶対飢えさせてはならない』という思いの現れであり、だからこそ新嘗祭のような大きな祭祀を執り行うわけです。国民のことを大和言葉で『大御宝(オオミタカラ)』といい、御上は国民を単に人ではなく家族と見ています。だからこそ飢えさせたくないという気持ちがひとしおなのです」
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 キリストは、「人はパンのみで生きるのではなく、信仰で生きるのだ」と説いた。
 孔子は、人が人らしく生きる為には、地位名誉や黄金そして食べ物さえも捨て、「仁、礼、義」のみを守り通せと教えた。
 日本天皇は、「人は生きる為には食べなければならない」と諭し、飢えない為に米を作りなさいと推奨し、春・豊作になる事と秋・収穫できた事に対して国民を代表して祭祀を続けている。
 共産主義者は、人民こそが全ての主人であるとして、キリストの信仰も、孔子の道徳も、日本天皇の美徳も否定し滅ぼそうとした。



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