🍙21〗─5─食断。アメリカは、在米日本資産を凍結して、軍国日本が南方(タイ・仏印)で一粒の米も購入できなくした。昭和16年7月~No.104No.105No.105 @ 

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   ・   ・{東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 東南アジア経済を支配していた反日派華僑・華人らは、アメリカの対日経済制裁に協力し、軍国日本が食糧=米を購入できないように妨害した。
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 徳富蘇峰「日本国は自然の勢いに放任すれば、とても自給自足は出来ぬ。
 豊葦原瑞穂国といって、世界第一の天恵に浴した国であるかの如く語るが、冷静に考うれば、決してその通りではない。……平原といえば、関東平野、奥羽の平原、若しくは九州の平原など若干はあるが、それでも大陸地方に比すれば、手の平同様である。それで耕地は山嶺まで開け、石に鋤き雲に耕すという言葉は、日本では決して形容詞できない。如何に工夫しても、大農など出来る土地柄ではない。……しかるに兎にも角にもそれが無事に経過したのは、畢竟、人為的に人口を制限した為である。それは徳川氏時代に於いて最も太だしかった。……その為に、必然の理由によりして、自然に産児制限が行われてきた。これは百姓ばかりでなく、士族の間にも、行われてきた。……日本はかくの如くにして、人口を制限したから、徳川300年は、殆ど大なる人口の増減も見ずして経過した。
 余の少年時代、余も演壇に登って、『3,500万の同胞』などと言っていたことがある。……ところが今日は、朝鮮台湾等を合わせ、1億という数字に上り、内地のみにても、7,000万を超過し、全く3,500万の倍となっている。これは従来の制限を撤廃したる結果といわねばならぬ。かく人口の増加したるは、いわば人口の捌け口を発見したるが為であって、また、人口の増加と共に、その捌け口を発見する必要は、益々加わっている。
 かくの如く日本は、生活にさえ自給自足が出来ぬ国であったから、これが世界の空き間隙き間を見付けて、割り込むことは、巳むを得ぬ次第である。
 侵略などという言葉は、自分に食うだけの物は持って、尚おその上に物を欲しがる者をいう事であって、食えぬから何処かに食を求めに行く者を称して、侵略なぞという言葉は、まことに事実を誣うるものといわねばならぬ。
 日本が国狭く、地形も地味も、その国民を養うに不足して、食うに困る状態である事は、世界は皆よくこれを知っている。
 しかるにその日本人が、世界の何処に行っても、やがては日本人入る可からずとして高札を立てられ、一切合切その財産も取上げられ、日本人出て行けという様な待遇を受けている。
 自分の土地で食って行けぬ国は、日本ばかりではない。
 英国の如きも、交通が二週間停まれば、倫敦市民は飢餓に瀕するというではないか。しかるに英国の如きは、殆ど世界の三分の一を、その大帝国の内に抱え込み、それで今日の状態を続けている。
 しかるに我が日本は、今度は朝鮮、台湾、樺太琉球さえも奪われ、満州からは逐いだされるという状態になっては、如何にすべき。……このままでは、共食いどころではない、餓死する事が当然の結論といわねばなるまい」(『終戦後日記』)
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 7月 日本政府は、人口増加政策として「人口政策確立要綱」を閣議決定した。
 1,今後10年間に結婚年齢をおよそ3年は早めて出生数を平均5児にする。
 2,積極的に結婚を紹介、斡旋する。
 3,貸付制度を創設して結婚費用の軽減を図る。
 4,多子家族に物資を優先配給し、表彰する。
 日本は、次世代の人口が減って労働力不足に陥る事を警戒して「産めよ殖やせよ」の人口増加政策を本格化させた。
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 7月1日 厚生省優生結婚相談所は、「結婚十訓」を発表した。
 国家が音頭を取った割には出生数は増えず、41年は約227万で、42年は約223万人で、43年は約225万人であった。
 厚生省は、会長に首相を、副会長に厚相と企画院総裁ろする人口対策審議会を設置した。
 だが、人口増加政策は尽く失敗した。
 山口喜一(元日本人口学会会長)「政府の政策に同調する言論や運動も展開されたが、政府内の十分な予算措置も得られず、鳴り物入りの人口増加政策は貧相なものになり、そして終わったといえる」
 7月2日 御前会議で、松岡外相と軍部が連日打々発止と長時間大激論を繰り返し「英米との衝突は出来るだけ避ける」との合意のもとで、ようやくまとめ上げた大本営と政府の共同提案である『情勢の推移に伴う帝国国策要綱』を決定した。
 天皇は、なおも平和を希望したが、「日本が存続する上での食糧を含む重要資源の確保の為」とあれば南方侵出には反対できなかったし、隠忍自重してなをも米英蘭の三国が日本の存続を脅かす時は自存自衛の為に武力を発動すると云うのなら之も反対できなかった。
 自主独立国家として存続の為の自衛権発動と云われては、自然権である生存権を放棄しない限り誰も反対はできなかった。
 御前会議は、「資源の自立」を主目的として南部仏印に進駐する事決定した。アメリカには、仏印政庁との外交交渉で合意を得ている事と領土的野心のない事を通告した。
 有田八觔「近衛首相は南部仏印進駐に賛成でなかったが、軍の要求を全面的に拒否するのは徒に軍との正面衝突を招き、問題の解決にならないと考えたので、やむを得ず同意したといっている。要するに南部仏印進駐は総理も賛成せず、外務大臣も反対であったが、軍の要望に引きずられたというのが真相らしい」
 ソ連は翌日に、アメリカは8日までに、日本人情報提供者によって同要綱の全容を知った。
 イギリスは、御前会議の内容を伝える外交暗号を傍受し解読した。日本軍が南部仏印に進駐する事は、シンガポールは日本軍の航空部隊の攻撃圏内に入り、極東の植民地支配が危機にさらされる事を意味していた。
 ワシントンに於いて、井川忠雄はJ・P・モルガン商会からの内部情報として、ホワイト・ハウスはすでに対日和平交渉は終結したと判断し、近日中に日本の在米資産を凍結する事を知らされた。
 マーシャル参謀総長は、ジョン・マグルーダー将軍を団長として対中軍事使節団(AMMISCA)を設立して、中国が必要とする航空機を引き渡す為の調整作業を命じた。
 7月3日 農林省は、おやつ不足で水飴の配給統制を通牒した。
 7月4日 重慶政府は、ラジオで抗日戦の為に中国、アメリカ、イギリスの三国が結束する事が必要で有ると世界に呼ぶかけた。
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 7月7日 大本営は、関東軍特別演習に関連して約70万人の大動員令を発し、数十万人の成年男子を内地から大陸に大移動させた。
 ゾルゲらソ連軍情報部のスパイは、日本軍はこのまま北上してソ連領を侵略しないという、日本政府及び軍部の中枢からの機密情報を聞き出してモスクワに知らせた。
 7月8日 近衛首相は、グルー大使に、太平洋の平和と日米両国の友好を重視し、日本軍はソ連に侵攻しない事を確約した。
 つまり、アメリカのソ連支援を邪魔しないと約束した。
 ロークリン・カリー補佐官は、シェノールトに、爆撃機パイロット100名からなる第二次義勇兵部隊は本年11月までに中国に派遣すると電報を打った。
 7月10日 中国側は、アメリカの財政支援を1ドルでも多く引き出す為に、「中国軍将兵や中国人民は果敢に抵抗し多くの犠牲を出しながらも日本軍に甚大なる被害を出している」等の戦果報告をアメリカ側に提出し、会うアメリカ人全てに残虐な日本軍の攻撃で中国民族が虐殺されているかを涙を流しながら悲痛の呻き声と共に訴え続けた。
 そして、好戦的で人殺しを趣味とする凶悪な軍事大国日本を世界文明国中国から追い出すには、アメリカの物資両面でのより多くの支援を請わねばならないと、口が酸っぱくなるほど繰り返しアメリカの国民世論に訴え続けた。
 嘘であれ、捏造であれ、やらせであれ、あらゆる手段を駆使して相手が閉口して根負けするまで手振り身振りでがなり立てた。
 7月12日 アメリカ陸海軍合同委員会は、対日先制爆撃計画JBー355を正式に承認し、日本の都市に対する爆撃準備が開始された。
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 7月13日 浅間山噴火。噴石により死者1人、負傷者2人。
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 7月14日 松岡外相は、外務大臣の職権で理不尽な内政干渉であるオーラル・ステートメント撤回を要求するように野村大使に訓電した。
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 7月15日 長野地震。M6.1。長野県長野市で最大震度6。死者5人。
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 7月16日 第二次近衛内閣は総辞職。
 近衛文麿首相は、アメリカの要求に従って、「大東亜共栄圏」構想の推進者である松岡洋右外相を更迭した。
 松岡洋右は、日本を救うにはアメリカとの戦争は避けるべきであると主張していた。後日、ナチス・ドイツとの三国同盟アメリカとの戦争を避ける為の同盟であったと嘆いた。
 7月17日 天皇は、日中戦争の早期解決と日米和平交渉の成立を希望して、三度近衛文麿に組閣を命じた。
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 7月18日 第三次近衛文麿内閣の成立である。新たな外務大臣には、親米派の豊田貞次郎商工相(海軍出身)を横滑りで任命した。
 アメリカは、日本人情報提供者(主にキリスト教徒)から統帥権外国家機密情報を入手し、7月24日に仏印・タイ中立化案で食糧等の自由な購入を制限し、関係国て平等に分配するという数量規制案を提案した。
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 7月19日〜25日 東日本豪雨。
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 7月19日 アメリカは、日本の暗号を解読して日本軍がすでに南部仏印進駐に動いている事を察知していた。
 ロバート・P・パターソン陸軍次官とノックス海軍長官は、ルーズベルトJBー355計画の決裁を求めた。
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 7月22日〜24日 大型の台風が、関東から東北地方を襲って、各地の農産物に大被害をもたらした。
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 7月23日 日・仏印防衛協定成立。日本は、同盟国ナチス・ドイツにフランス政府(ビシー政権)との外交交渉への協力を要請したが、拒否された。
 陸軍の南進計画は、南部仏印進駐まででその先のタイ、英領マレー、蘭印への侵攻計画はなかった。
 タイ侵攻は天皇が絶対に許さなかったし、蘭印侵攻は海軍の全面的協力が必要であった。
 海軍の主戦略は、アメリカの主力艦隊との艦隊決戦であって、仲の悪い陸軍の南方侵出の艦隊支援ではなかつた。
 海軍の総意としては、これ以上の南方への勢力拡大はアメリカとの戦争に発展する恐れがあるとして反対であった。
 陸軍内部にも、日中戦争の解決が済まない以上は冒険的軍事行動は控えるべきだとの意見もあった。
 ウェルズ国務次官は、野村大使に仏印を占領すれば平和的な話し合いを続行する余地はなく、残された道は武力による解決しか残されていない事を示唆した。
 野村大使は、日本が立ち至っている深刻な食糧事情を訴え、人口7,000万人の安定供給を得るには仏印に頼るしかない事を説明し、了解を得ようとした。
 アメリカ側は、日本の食糧不足と人口増加などの国内事情は見解の相違であり、もはや外交交渉を続ける根拠はなくなったと突き放した。
 松岡洋右を更迭すれば日米交渉は好転すると思い込んだのは、日本人の「お人好し」に過ぎなかった。
 外交で、相手の気持ちを忖度して譲歩し妥協を図るのは無能というしかない。
 日本人は、譲歩しか妥協策を持たぬ故に外交能力は低かった。
 東京では、野菜などの生鮮食料品が不足して、庶民は行列をなして買った。
 御上のご意向を恐れる気弱な日本人は、個性の強い大陸諸国の住民の様に暴動を起こし、殺人や放火をしてまでも、他人から奪って生き残ろうという凄味はなかった。
 没個性で意志が弱い日本人は、中国人や朝鮮人などの大陸人の様に、他人を押しのけ、蹴り倒して、生きる権利として自己を主張するという蛮勇が欠如していた。
 7月24日 大本営政府連絡会議。豊田外相は、南部仏印進駐を強行すればアメリカは資金凍結や石油などの主要物資の輸出禁止と云った対抗処置を取ると発言した。
 しかし、前内閣で充分に審議して決定した国策であり、仏印との外交交渉で合意した行動であり以上は第三国にとやかく言われる筋合いではないとして取り合わなかった。
 軍部は、アメリカによる対抗措置としての資産凍結や全面禁輸はあり得ないと楽観視していた。
 日本政府は、フランスに対して南部仏印進駐を通告した。
 ホワイト・ハウスの戦争閣議で、敵対行為である日本資産凍結を協議するが反対者なく決定した。
 欧米の会議は、指導者の指導力で決まる事が多く、議題は子供でもわかる様に単純明快に簡潔化されて提出され、結論は多数決で決められ、無駄な議論を全て排除して議事は短時間で終わった。
 ハリマンとバーナード・バルークは、モーゲンソー財務長官を使ってルーズベルトに在米日本資産凍結を認めさせた。
 ディーン・アチソンは、「アメリカ政府は、今後、日本との通商に対していかなる資金投入も認めず、輸出許可証も発行しない」と発言して、日本との完全な通商禁止を明言した。アチソンの従兄弟であるゴスフォード伯爵は、J・P・モルガンとの血の繋がりがあり、ロスチャイルドとも商売上の取引があった。
 ルーズベルトは、野村大使との会談で、これ以上の日本軍の南方侵出に警告を発して「石油の対日禁輸もあり得る」とほのめかした。
 そして、日本軍の仏印からの全面撤退後、各国が「仏印の中立」を保障し、米やゴムなどの重要物資は各国の話し合いで公平に分配する事を提案した。
 会談後、国務省は中立にタイを追加する事を告げた。
 この中立化案は、仏印及びタイにおける日本の食糧などの必要物資獲得の数量規制を意味し、今後はアメリカが主催する諸国会議の許可を得なければ必要量が購入できない事になり、時には諸外国の利害によって勝手に希望量を削られる恐れもあった。
 アメリカの平和的中立化案とは、日本の国家主権を完全に無視した屈辱的内容であった。
 アメリカ軍は、日清・日露両戦争を徹底的に研究し、今以て衰えない日本軍の士気を挫く為に兵糧攻めを実行した。
 アジアの何処からも、日本に援軍はおろか食糧援助が無い様に厳重な重囲包囲網を敷いた。日本の国情による悲痛な叫びを、アジアはおろか世界のどこも聞こうとはしなかった。
 スタン・シャフリル「従属から解放されるには、西洋の力を利用する以外にない」(インドネシア民族解放の英雄)
 アメリカ軍は、日本国内の食糧が底を突き士気が萎えた所で、国際法の正義で日本民族を絶滅すべく戦争準備を急いでいた。
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 7月25日 日本政府は、仏印政庁との合意にもとずく合法な行為として、日本軍を南部仏印に進駐させる事を発表した。
 アメリカは、警告的措置として、「在米日本資産凍結」を発令した。翌42年3月に、没取した。
 凍結された日本資産は、現金2億円と証券3億5,000万円で合計5億5,000万円(約1億2,890万ドル)あった。
 日本にあったアメリカ資産は、3億円(約7,000万ドル)とされている。日本の損害額は、約5,890万ドルであった。
 中南米大陸諸国も、アメリカに追随して日本を閉め出した。
 日本は、アメリカとの永年にわたる友好関係に安心し、世界規模のアメリカ経済に依存し、国際貿易を全てドル建てで行っていた。
 日本は、経済制裁で獲得が困難となった外貨を獲得する為に、大量の金塊を密かに日本から運び出してニューヨーク市場で売却しドルに換金して現地の日系銀行に隠匿していた。
 アメリカ当局は、日本の隠し資産を犯罪的不法資産として押さえた。
 ルーズベルトを説得したのは、スチムソン陸軍長官やハリマンやと、モーゲンソー財務長官やバーナード・バルークなどのユダヤ人達であった。
 利益優先のアメリカ系ユダヤ人らは、アジア市場から日本の全利権と日本系企業を全て排除しようとしたのである。
 反天皇派日本人は、それに協力して、神国・日本を裏切っていた。
 凍結令の運営委員長に、親ソ派のディーン・アチソン経済担当国務次官補が任命された。
 アチソンは、「アメリカ政府は、今後、日本との通商に対していかなる資金投入も認めず、輸入許可証も発行しない」と発表して、日本との通商を完全に遮断した。
 アチソンは、J・P・モルガンの遠縁にあたり、親類のゴスフォード伯爵はロスチャイルドとの商売上の協力者であった。
 ニューヨーク・タイムズルーズベルト大統領は、今夜、アメリカにおける日本資産の全部を凍結した。かくしてアメリカは日本に対し、戦争1歩手前とも思われる最も徹底的な打撃を与えた」
 国務省極東問題局長ホーンベックは、ユダヤ人財閥や軍需産業の協力を得て、日本を戦争に追い込む為の経済封鎖の強化と、戦争を回避する為の日米首脳会談に強硬に反対した。
 スチムソン陸軍長官は、国際的ユダヤ人金融資本の利益を守るべく、即時開戦の急先鋒として対日戦慎重派を恫喝し続けた。
 さらに、ドイツ系ユダヤ人科学者を集めて原爆の研究開発を進めた。
 その使用は、あくまでも異教徒で非白人に向けられていた。つまり、標的はドイツではなく日本であった。
 アメリカの企業団は、ドイツの各企業との深い関係があり、ドイツ資産の完全破壊をさせるべく政府に働きかけていた。
 政府高官や軍上層部は、企業との癒着が強く、引退後は関連企業への再就職する為に、企業の意向を政策や戦略に反映させていた。
 アメリカやイギリスの企業の大半が、ユダヤ人金融資本の融資を受けその支配下にあった。
 日本経済の商業取引は、ドル建てで行われていた。ゆえに、対日経済制裁として在米日本資産が凍結されると、日本軍支配下の円経済圏以外での食糧買い付けはできなくなり、一粒の外米も小麦も購入できなくなった。
 さらに、石油が輸入できなくなると、日本独自の海上輸送が途絶えて、独立国家として食べて生きという自立した食糧需給体制も崩壊した。
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 7月26日 イギリスは、日本軍の南印進出をシンガポール攻略の準備と受け止め、日英通商条約の廃棄と在英日本資産を凍結した。
 日本のイギリスにおける資産は160万ポンドで、インドなどの植民地では260万ポンドであった。合計420万ポンド(約1,600万ドル)であった。
 婦人同盟や中国支援委員会などの市民団体は、中東の英系アングロ・イラニアン石油会社やアジアの英蘭系ロイヤル・ダッチ・シェル石油会社などが日本に石油を販売する事に抗議し、日本軍の中国侵略に抗議して石油を全面禁輸にする様に求めた。
 イギリスとアメリカは、対日禁輸の為に協議を重ねていた。カナダ、オーストラリア、ニュージーランドなどの英連邦諸国も、日本資産を凍結し、対日最恵国待遇を廃止し、日本との商務関税及び航行条約の破棄を通告した。
 イギリスの植民地であるインド、シンガポールビルマ、マレーシアも、日本との貿易を禁止して経済制裁に参加した。
 当然。ビルマ産米の購入は不可能となり、タイ産米の購入も怪しくなった。
 さらに、中東やエジプトなどのアフリカ地域でイギリスの影響下にある国々も日本との取引を停止した。
 日本は、スターリング(ポンド)金融・経済圏から完全に追放された。
 アメリカ陸軍は、フィリピン防衛の為にマッカーサーを極東陸軍総司令官に任命してマニラに派遣した。
 マッカーサーは、台湾・沖縄の日本軍基地を爆撃できるように大型爆撃機の増強を要請した。
 アメリカ海軍は、日本の海上輸送路を遮断する為に、東シナ海南シナ海の封鎖計画を立案して、必要な船舶の配備を急いだ。
 アメリカは、ルーズベル大統領の戦争参加の決意に従って、日本よりも早い段階から戦争準備を計画的に進めていた。
 多民族の移民による人工国家アメリカは、全てが承認されたマニュアルに従って動き、個人の勝手な思い込みで動く事はあり得なかった。
 7月27日 ロンドンのオランダ亡命政府は、国際的経済制裁に加わるべく在蘭印日本資産を凍結すると共に、蘭印に居住する日本人約6,000人の全財産を没収した上で追放する事を決定した。
 その混乱の中で、少数の日本人女性が行方不明になったといわれている。
 明治頃から、天草など九州各地から貧しい農山漁村若い女性が日本人女衒によって集められ、中国人華僑の経営する売春宿に売られて奴隷の様に働かされていた。
 彼女らは、「からゆきさん」といわれていた。
 彼女らの多くは、中国人華僑の陰惨な虐待を受けて、生きて故郷に帰る事はなかった。
 こうして、東南アジアは国際的反日陣営に組み込まれ、日本人は同地区から放逐された。
 同海域は、反日派華僑と利害関係を共有する現地人の海賊が暗躍する無法海域であった。
 この大混乱の中で多数の日本人女性が行方不明となり、日本軍の侵攻により数人の日本人女性が売春宿(大半は華僑が経営していた)から救出された。
 その他の人身売買された多くの日本人女性の生死は、不明であり、誰からも関心を持たれなかった。
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 7月28日 日本軍は、南部仏印に武力進駐し、南方資源地帯への前進基地とメコン・デルタなどの大穀物地帯(米の生産高約200万石)を確保した。
 現代の日本史は、石油目的の無謀な作戦であったと酷評し、この事が日米戦争の原因となかったと説明している。
 東條英機「国家自衛の為に起つという事が、唯一つ残された途であった」
 7月30日 日本側は、禁輸になりそうな石油30万ドル分を購入すべくアメリ財務省外国資金統制部に申請を申し込んだ。
 ワシントンの日本大使館の担当者は、アメリカ側が納得いく支払い方法を幾つも持ち出しては国務省財務省と粘り強い交渉を行った。
 アメリカ側は、日本との戦争を決定していただけに石油の輸出許可を出す気はなかったが、戦争準備が整うまでの時間稼ぎの為にのらりくらりと期待を持たせる発言を繰り返すが、その場逃れの対応に終始し結論を出さない様に慎重な話し合いを続けた。
 7月30日 中立国アメリカは、特使として武器貸与局長官ハリー・ホプキンズをソ連に派遣し、モスクワでターリンと会談させた。ソ連政府は、ドイツ軍と戦う為に必要な軍事物資のリストを米国側に提出した。事実上の、軍事同盟の成立である。
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 7月31日 ルーズベルトは、参戦するまでのあいだ経済を防衛する為にモーゲンソー財務長官が提案していた経済防衛会議を設置し、日本に対して経済戦争を宣言した。
 ニューディール派官僚は理想主義から総力戦体制に移行する為に生産現場を国家が計画的に管理すべきだとしたが、保守派と大企業は自由と民主主義の原則から反対した。
 軍当局は、戦略を遂行する上で必要な物資を作戦発動地に集中させるべく実務に介入しようとしていた。
 アメリカ政府は、参戦に備えて、メキシコ政府と食糧増産について協議した。
 米大陸間問題調査官ロックフェラーとウォール街の金融資本は、中南米諸国から石油や食糧やその他の重要物資を、戦争協力を理由にして合法的に略奪する為に圧力をかけた。
 従わない国には、戦争の勝利を大義として、親米的な独裁者に政権を持たせるべく軍事クーデターを支援した。そして、民族運動を弾圧した。
 ユダヤ人財閥は、政府の戦時体制に協力し、軍需産業に多額の投資を行った。
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 アメリカは、パナマ運河閉鎖を日本に通告した。
 パナマ運河の修理を理由にして運河の航行禁止をしたが、事実は日本船のみの使用禁止であった。
 日本は、親日的な外国人船主や商社幹部の協力を得てアメリカの監視網を誤魔化し、中南米やアフリカの大西洋岸から希少金属非鉄金属などの原料をパナマ運河を利用して輸入していた。
 パナマ運河の航行が全面的に禁止された為に、大西洋側からの秘密裏の輸送計画は遮断された。
 国際市場における経済封鎖の輪が締められる度に、日本が切実に求め続けた自給圏も縮小を余儀なくされた。日本商船は、スエズ運河からも追放された。
 インド政庁は、イギリス本国に倣って日本製品のボイコットとして輸入許可製品を拡大して、インド市場から全ての日本製品を閉め出した。
 他のイギリス植民地やオーストラリアなどの自治領も、日本との交易を絶望的なまでに制限した。
 華僑は、シンガポールを拠点として東南アジアの経済を支配し、日本軍に対するゲリラ活動を支援していた。
 タイは、直接に対日経済封鎖に参加しなかったが、国内のイギリス商社と華僑による食糧の買い占めを黙認した。
 タイ政府は、日本に見つからないように、首相官邸内にイギリス軍と情報交換する為に秘密部屋を設置したという。
 日本は、南アジアから中東に掛けて追い出された。
 オランダと植民地の蘭印も、日本との貿易を停止する動きを見せ始めた。
 日本軍占領下の仏印では、アメリカ商社と華僑が食糧や必要資源を日本に渡さない為に買い漁っていた。
 中南米諸国は、アメリカの制裁行動に追随して、日本との取引を妨害し、日本人商社マンらを国外へと締め出した。
 日本が南北アメリカ大陸から完全に追放されるのも、時間の問題であった。
 蒋介石は、アメリ義勇兵で編成されたフライング・タイガーを中国空軍の正式な部隊として編入した。
 ルーズベルト「世界戦争は進行中であり、ほぼ2年が経過して。ごく最近から、我々の努力の一つは太平洋という広大な地域に世界戦争が拡大しない様に防止する事であった。南太平洋で平和が破壊されない様に努力する事は、英国の為に最も必要な事であった。日本はその帝国を拡大する為に南進計画をもっていたが、彼等は自分達の石油をもっていなかった。もし我々が石油の輸出を止めていれば、彼等はすでに1年前に蘭印に兵を進め、戦争になっていたであろう。したがって、南太平洋が戦場にならない様にする為、日本に石油を供給する手段がとられた。そのことは英国の防衛に繋がり、海上航行の自由と安全につながった」
 マックネア「アメリカの軍部も国務省も、日本資産凍結後、平和の希望を捨てた。陸軍省は、アメリカが防衛に耐える事が出来る様になるまで、野村や来栖との会談を続ける様にハルに要求した」
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 国際社会は、中国を支援し、軍国日本への更なる制裁えお要求していた。
 日本制裁を訴えていたのは、ユダヤ人であった。
 理由は、反ユダヤ政策を行うナチス・ドイツと同盟関係にあるからである。





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