🍙19〗─1─戦争と庶民。革新官僚(隠れマルクス主義者)の統制経済と商人の自由市場の攻防。築地市場。~No.77No.78No.79 @ 

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   ・   ・{東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 日本の底力は、庶民の力である。
 天皇家・皇室、国體・天皇制度を本当に守ったのは、庶民であった。
 古代から日本を支えたのは、名も無き、身分卑しき庶民であった。
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 2017年5月6日・13日号 週刊現代「アースダイバー 築地市場巣篇 中沢新一
 第19回 築地──新しい魚河岸文化(2)
 自立する仲卸
 昭和12年2月、築地本場(ほんじょう)が開業した。この日を境として、『魚河岸』というものはなくなって、中央卸売市場の築地本場『魚類部』として生まれ変わった。
 ……
 そこに築地市場の新しい精神(エートス)を生み出していたのは、まっさきにそこへ乗り込んで商売を始めた仲買人たちであったので、従来のような問屋と仲買の上下関係や老舗の特権などは、少なくとも表面上はなくなっていた。問屋も仲買人も買出人も、市場の中では平等が建前である。こうして問屋と仲買はおたがいの領分をはっきりと定め、職能を分化させていった。
 その職能分化を、くっきりと可視化していたのが、扇形をした市場の建築構造である。集荷→仲買→買い出しという流通の三段階を、扇形をした多層構造がそのまま体現してくrwていたからである。これによって、魚河岸時代の錯綜をきわめた作業動線は、外側から内側へ向かう一方向の流れに整えられていった。そおおかげで、アジア的市場に特有のカオスは、ここ築地市場においては、じつにみごとに『制御されたカオス』としての、複雑系的な美さえ、身につけるようになっていた。
 仲買人の築地市場
 とはいえ築地本場の内部では、1,000人を超える仲買人たちが、めまぐるしく立ち回りながら働いたのである。この様子を見ていた農商務省あたりの役人が、これを非効率勝非合理的なシステムであると考えても、おかしくはなかった。じっさい役人たちの中には、仲買人のような中間構造を削ることが物価安定をもたらし、セリによる価格決定などはまったく時間の無駄にすぎないと考える者たちも、多くいた。
 しかし市場の現実に触れていた役人の中には、東京のような大消費地を背景に控えた築地本場に、もし多数の仲買人がいなかったりしたら、とうてい短時間で大量の荷分けなどできるわけがないことが、よくわかっていた。仲買人削減派とそれに反対する者との議論が続いた。最終的に事を決したのは、お金の問題だった。
 大量の仲買人を解雇するとして、そのために要する莫大な補償金はどこから持ってくるのだ。この反論を受けた削減派はとたんに、そんな面倒なことはやめよう、に変わった。人数削減はしない。セリによる価格決定の権利も、彼らに委ねる。そのかわり彼らが勝手をしないために、市場ごとに厳しい業務規程を設け、責任は市場に丸投げする。こういう形で決着が図られた。
 補償金の額に役人たちが尻込みしてくれたおかげで、築地本場における仲買人(仲卸)の地位が保証されたのである。とくに魚河岸=魚類部では、仲買人中心の考で、事が運ばれた。このとき、現代にも通じる築地市場の活動形態の基礎がつくられた。古い『魚河岸型生命体』が、これを境として、新しい『築地型生命体』に姿を変えて、進化の次なるステップにとりかかったのである。
 じっさい築地市場は、新しいタイプの生命体のようであった。軽快に改良された荷車が、場内を縦横に走り回る。集荷から荷分け・販売まで、すべてのプロセスが、なめらかな運動に乗って、整序された流れをつくりだしていた。仲買人たちは、伝承の知恵に近代生物学に関する新しい知識を身につけて、買い出しに来た料理人たちに、最良の食材を提供しようとした。築地市場の信頼度とブランド力は、戦前のこの時代に、種がまかれている。この時代が、築地市場の『ベル・エポック(フランス語・良い時代)』をなす。
 戦争の打撃
 しかしそんな『ベルエポック』も、長くは続かなかった。築地市場が本格的に開場してから、わずか2年後の昭和12年、日華事変の拡大とともに、国内では戦時体制への準備が、着々と進められていた。戦費の増大とともに、物価はうなぎのぼりの上昇をはじめた。とくに生鮮食品の値上がりは著しく、政府は物価の統制に、いよいよ本腰をいれなければならなくなった。
 中国戦線が泥沼に踏み込んだ昭和15年になると、いままで価格統制からかろうじて除外されていた、魚と野菜などの生鮮食品までが、公定価格でなければ売れなくなった。セリは意味を失い、巷には闇市が横行する事態となった。
 築地の卸売も仲買も、これによって大打撃を受けた。しかしそれ以上の打撃が、仲買人の世界に襲いかかってきた。昭和16年、政府はついに仲買人制度の廃止を決定する。この一撃で、自由市場としての築地は、仮死状態にはいった」
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 日本の庶民社会は、自分たちに都合の良いように、使い勝手の良いように、そしてご贔屓のお客に少しでも喜んで貰えるように、自分たちで考え創意工夫を凝らして独自で改善を繰り返していた。
 日本の商いとは、お客の利益を優先し、自分の金儲けは二の次としていた。
 それが、「お客さまは神様でる」という思想・哲学ではない信条であった。
 買い物客は、賢いお客さまであって愚かな消費者ではなかった。
 賢いお客である為には、買い物客は物を売る商売人と同等かそれに近い商品知識が求められた。
 庶民は、賢い客になる為に実生活で商品知識を高めた。
 メイド・イン・ジャパンと言われた日本製品は、良い物を買いたいという賢い買い物客と良い物を売りたいという創意工夫の商売人によって創り出された。
 その点が、欧米や中国・朝鮮の民衆社会とは異なり、その為に不満不平による社会変革を求めた暴動や革命は起きずらかった。
 つまりは、キリスト教共産主義が高学歴の学識者・知的エリート層の間に受け入れられても、低学歴の庶民の間に浸透しなかった理由の一端である。
 日本は底辺の庶民目線であり、欧米や中国・朝鮮は企業家・資本家・経営者目線であった。
 それはなぜか、日本人は、本来、好きでもない興味もない関心もない、面倒臭い・煩わしい・気が滅入る・息苦しい事まどを苦手とするずぼらな性格、不真面目なのである。
 つまり、非生産性で、非効率で、無計画なのである。



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