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関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
・ ・ {東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・
・昭和14年
前年からの持ち越し(古米) 849万石。
生産高 6,589万石。
輸入量 981万石。
移入量 965万石。
供給量 8,450万石。
消費量 7,967万石。
人口 7,222万人。
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朝鮮における米の総生産量。日本への移出量。
(昭和12年 2,679万石。翌13年に1,070万石)
昭和13年度 2,413万石。翌14年に 605万石。
昭和14年度 1,635万石。翌15年に 42万石。
昭和15年度 2,152万石。翌16年に 368万石。
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国民精神総動員委員会は、「贅沢は敵だ」
国内生産 1939年 1,034万トン。
米殻配給統制法。
貧しい朝鮮人は、半島内では仕事がない為に、働き口を求めて日本に押し寄せていた。
警察は、日本国内の治安が悪化する恐れがあるとして、不法上陸しようとする朝鮮人を監視していた。
日本人の仕事斡旋業者は、安い労働力を求める企業に朝鮮人労働者を斡旋する為に不法入国を支援していた。
日本国内に在住する朝鮮人が急増し、職場を追われた日本人労働者は朝鮮人労働者を差別した。
そうした不法上陸の朝鮮人は、戦後、国に帰っても貧しくて仕事もないので日本に留まり、在日朝鮮人となった。
厚生省は、民族衛生研究会がまとめた「結婚10訓」を発表した。
政府は、国家を維持する為に、女性達に「早く結婚して、多くの子供を産み、家庭を守って欲しい」と求めた。
新聞各社は、「産めよ育てよ国の為」と言う文言から「産めよ殖やせよ」の標語を繰り返して新聞に取り上げた。
だが、男尊女卑的な家庭に縛られる事を嫌う進歩的女性の女性権利拡大運動と女性の社会進出によって、女性の晩婚化が進んだ。
働く女性は、家庭よりも仕事を優先し、晩婚と共に多くの子供を産む事を嫌い少産志向を強めていた。
出征する青年も、戦死するかもしれない身の上の為に、除隊して帰郷できるまで婚約しても結婚は控えた。
さらに、女性に懇願されても、父親のいない片親の子を作るのを嫌った。
軍部は、男女が安心して子供を産み育てられるように、跡取りの長男を徴兵に取らず、次男や三男を戦場に送った。
長男と次男・三男とは差別され、戦死するかも知れない為に家の財産は全て長男が引き継いだ。
陸軍省情報部は、『国家総力戦の戦士に告ぐ』を作成し、産児制限と晩婚は軍隊を弱体化させ国力を衰退させる元凶あるとの啓蒙運動を行った。
右翼・右派の民族主義者は、人口を削減しようとする産児調節運動家を売国奴として攻撃した。
軍国主義者は、単純思考として総人口こそが軍国日本の繁栄の証しであるとして、深刻な人口過剰や食糧不足を問題視せず、産めよ殖やせよの人口増加を訴えた。
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毎日新聞は、双発の「ニッポン号」で世界一周を達成した。
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賀屋興宣は、北支那開発株式会社第2代総裁に就任した。
「支那というのはなにもない国である」
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15歳の工員は、小学校の女生徒2名(2年生と5年生)を相次いで殺した上で屍姦し、遺体の腹から胸へと切り裂いた。
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11月2日 日本は、タイ、ビルマ、仏印から600万石を目標に1億円で購入する事を決定した。
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日本政府は、毎年、朝鮮に多額の財政支援を行っていた。
朝鮮総督府の最大の懸案事項は、朝鮮の貧困であった。
京城や釜山など都市部は、李氏朝鮮時代とは見違えるほどに近代化し、旅行する西洋人が驚嘆するほどに清潔で住みやすくなっていた。
だが。それ以外の地方は李氏朝鮮時代のままに貧しかった。
日本政府も朝鮮総督府も、朝鮮人が貧困に対する不満から3・独立運動や国家元首・昭和天皇暗殺テロ未遂事件に走らない様にするべく、強圧的弾圧ではなく融和的懐柔策を積極的に取っていた。
日本人にとって、朝鮮人は理解不能に近い存在であった。
地方の貧しい農山漁村の治安や納税は、朝鮮語が話せない上に朝鮮文化に理解のない日本人ではなく、地元出身の親日派朝鮮人に任せた。
その懐柔策のお陰で、昭和に入って大規模な反日運動は起きなかった。
朝鮮の植民地にとって重要課題は、朝鮮の貧困対策であった。
日本政府は、国内のインフラ整備に朝鮮のインフラ整備に多額の血税を投じていた。
朝鮮総督府も、何時、反日感情を爆発させるか分からない朝鮮人の性格を恐れて、腫れ物を触るが如く気を遣いながら、日本国民の国税で公共事業を行ってい、朝鮮人貧困層の雇用を増やしていた。
だが。汗水垂らして仕事をする事を蔑視する正統派儒教を信奉する朝鮮人は、無理矢理働かせる事で日本人への敵意を募らせ、陰で上海の韓国臨時政府を支援していた。
朝鮮人は、表面的に親日を装っていても、本質では反日であった。
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2017年8月3日号載 週刊新潮「山本一生『水を石油に変える人 山本五十六、不覚の一瞬』」
戦争の裏側で躍った稀代の詐欺師の史実
[レビュアー] 東えりか(書評家・HONZ副代表)
昭和十四年一月の深夜、霞が関の海軍省の地下の一角では、なにやら怪しげな実験が進行していた。「水からガソリン」をつくるというこの実証実験は、山本五十六海軍次官や「特攻の生みの親」ともいわれる大西瀧治郎(たきじろう)大佐などの立会いのもと三日三晩行われ、最終日に成功を収めた。実験を行っていたのは「街の科学者」として名を馳せていた本多維富(これとみ)という初老の男だ。彼は稀代の詐欺師であった。
著者は石油精製会社に勤務の後、近代史家となり、残された日記から時代を読み解く作品を発表している。阿川弘之『山本五十六』に書かれた「水からガソリン」事件に興味を持ち、独自の調査を続けてきた。
第一次資料となる文献は防衛省防衛研究所に眠っていた。「水ヲ主体トシ揮発油ヲ製造スルト称スル発明ノ実験ニ関スル顛末報告書」、作成者は大西瀧治郎その人だ。資料は存在しない、記憶にないと国会答弁する役人とは違い、軍人はきちんと己の責任で資料を残していたのだ。
この実験の一年半ほど前、支那事変が勃発する。この戦いで日本は世界初の航空隊による渡洋爆撃を行った。だが日本には優良な航空揮発油が決定的に不足していたうえ、オクタン価の高いガソリンの精製技術も大きく立ち遅れていた。最も重要な戦略物資である石油の九割は海外に頼るしかない。状況はまさに絶望的であった。
国内の油田開発も急ピッチで進められた。実際、明治期には小規模ながら油田が見つかっている。だが簡単に見つかるわけもなく、喉から手が出るほど石油の欲しい軍部は「水からガソリン」を精製できるという話を信じたかったのだ。
やみくもに信じたわけではなかったが、本多維富は一筋縄ではいかない詐欺師であった。過去にも「藁から真綿」を作り出す技術を開発したと騙り、東京帝国大学工学部教授を信じさせ、支援者を募り、裁判になった過去を持っていた。だが「できる」「できない」の証明は難しい。最終的には無罪となっている。
「水からガソリン」を作ることに関しても、技術を信じた製造会社の社長や技師、学者たちのお墨付きを得ていたが、このときは、以前インチキを見破った役人たちもいたのだ。
さて山本五十六の目の前で成功した「水からガソリン」は果たして本物だったのか? このペテン師はどうなったのか。日本の戦史の裏側を飾る茶番劇は、可笑しくももの悲しい物語であった。」
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