🍙12〗─1─北海道・東北地域は冷害に襲われ、東北地域で70万人以上の貧困農民が飢餓に陥り、娘の身売りが急増した。昭和9年.~No44 @ 

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   ・   ・{東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 軍国日本の崩壊の序章。
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 前年からの持ち越し(古米) 901万石。
 生産高 7,083万石(1,062万トン)。
 輸入量 1,425万石。
 移入量 1,408万石。
 供給量 9,420万石。
 消費量 7,683万石。
 人口 6,781万人。
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 貧乏な都市と貧困の地方。
 貧富の格差。
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 軍国日本は、中央・都市部の人民・労働者ではなく地方・農村部の庶民・農民から崩壊し始めた。
 軍部は、国家の崩壊を食い止めるべく大陸への進出を開始した。
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 日本人娼婦達は、希望しなかったが従軍慰安婦となった。
 従軍慰安婦の70%近くが、日本人であった。
 日本人従軍慰安婦は、この時に売られた娘達であった。
 1941年に主力兵士として海外の戦場に徴兵された日本人軍国主義者は、この時の子供達であった。
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 現代日本の日本史は、世界平和を欣求する国際認識の基に作成され、日本の子供達に教えらている。
 昭和天皇戦争犯罪を追求し靖国神社の存在に反対する、一部の日本人や中国・韓国・北朝鮮などのアジア諸国は、日本の歴史、特に昭和前史を漏れる事なく全てを調べ尽くして知らない歴史的事件は何もない。
 もし。歴史的事件を知らないという者がいたら、その者は陰険で下劣な犯罪者で、歴史に名を残す様な大悪事を企んでいる世にも恐ろしい凶悪犯と見なしていい。
 歴史好きな日本人にそれがいえるが、歴史が嫌いな日本人はそうではない。
 善人面して他人の無知を諭す者ほど、心底、醜悪な者はない。
 特に。専門家として公的な立場って行動する者、知識人・評論家として公の場に出て発言する社会的な影響力を持つ者、媒介者としてしたり顔の教養者をことさら煽る者は、ただただ見るに堪えないほどのおぞまし人間である。
 学者や評論家や政治家は、歴史の全てを熟知した上で、自説に都合のいい事実を取り上げ、都合の悪い事実を無価値として捨て、そんな事実は存在しないと完全否定した。
 戦争を憎み平和を愛する善人を自認する彼等は、戦前の軍国日本を情状酌量の余地のない極悪人と糾弾している。
 彼等は国際人として、科学的生物学的ヒト族の「つながり」があっても、古層の民族的「絆」はない。
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 自己責任。
 貧困農家の娘達は、親の借金を返し、家族が食べて生き残る為とは言え、嫌々、女郎にさせられた。
 泣きながら親元から引き離され、強制的に都会の女郎屋に連れて行かれた。
 そこには、強制が存在していた。
 借金を返済するまで、女郎屋に閉じ込められ、都市の男対に性奴隷として弄ばれた。
 客を拒否したり、売春宿を逃げ出した娘は、見せしめの為に殴る蹴るの折檻され、不幸に怪我で死んだ娘もいた。
 病気にかかった娘は、治療を受けられず、孤独に死んだ。
 死んだ娘は、無縁仏として、犬猫の様に寺に放り込まれて埋葬された。
 女郎にされた娘は、人間扱いされず、人間に戻る事なく、この世から消えた。
 軍国主義者や日本軍兵士達は、同じ村から都会の女郎屋に売られた少女達を悲しく見詰めていた。
 娘達は、自分の意思で女郎になったわけではなく、金の為に都市の住民の相手を強要されたのである。
 日本軍の主力兵士は、地方の貧困農家出身の若者達である。
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 貧困農家から都市部に売られた娘達は、より稼ぎの良い戦地の女郎屋に住み替えていった。
 彼女らが、後の、日本人従軍慰安婦であり、朝鮮人従軍慰安婦よりも遙かに人数が多かった。
 戦地の慰安婦の大半を占めていた日本人従軍慰安婦達は、その後の消息が分からない。

 これが、地方の農村に住んでいた日本人であった。
 政党政治家も財閥企業も、貧困農民の助けにはならなかった。
 貧困農家が救いとして期待したのは、軍部であった。
 右翼・右派ナショナリストは、貧困農民を救済する為に政治家や財界人を暗殺して社会を改造する必要があるとすいて、右翼テロを行った。
 軍部は、貧困農家の惨状を見て発狂した様に悲劇的戦争へと暴走した。
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 国際連盟も欧米列強も、日本の新聞報道で貧困農民の救いのない悲惨を知っていた。
 貧困農家から強制的に娘達が連れられていった事も、全て知っていた。
 日本は少女を売春婦にする為に売り買いする、人身売買国家と見なされていた。
 日本の農村部は、救いようのない悲惨な貧困に包まれていた。
 都市の貧しい住民は、平和を望み戦争を嫌っていただけに、日本を戦争に導いた地方の貧困農家を呪った。
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 軍部は、貧困農家の唯一の味方であった。
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 一戸町史「各種の農作物は平年の半作にも達せず。其れに蚕糸暴落の結果育蚕収入昨年より半減し、数年来の農村不況の折農民の打撃全て言語に絶するものあり」
 「町に於いては政府並に各方面より助成金、義捐交付、並に寄贈を請け農家並に困窮者に金品米穀其の他衣服食料品を配給し、同時に土木事業を興し辛じて此の難局を克服せり」
 山口弥一郎「数百年、もっとそれ以上に続いた東北の生活風景が、たまたま昭和9年(1934年)に(凶作と関連して)日本全土の注意を惹き、同情を呼び、それがジャーナリストの手にかかって着色され、誇大されていくのを我々はされるままにじっと見ていた点もある」(『北上山地北部の凶作に対する若干の考察』)
 山下文男「当時は一般的に、あえていえば高学歴の新聞記者や評論家といった職業の人たちの間ですら、今日、我々の常識としているような人権意識や人権感覚がたいへん希薄であったから、東北地方に対する予断や偏見を含むそれぞれの知識に基づいて、更にいえば、その否定的な影響など考えもせずに、善意ではあったが、結果的には人間性を無視したり地域事情を逆撫でするような記事を書いたり写真を撮ったりしたという面もある。実際に、今、当時の新聞をめくって見ると、各社とも、いかに真実を伝えるかというよりも、いかに暗く貧しい東北と凶作農民の生活を描き出すかで、大げさな言葉や極端な表現を競っている感じさえする。
 ……東北の農村が直面している飢饉は、昨今の凶作による飢饉というようなものではなく、長年にわたって蓄積された東北の疲弊と貧しさを土台とした『永久飢饉』であり『あらゆる応急策の取られる前に必要な応急策』『無償で食料を与えることだ』と結論していることでも判るように、たいへん積極的なものであった。
 ……いずれ、私などの感情とは別に、文字通り、物事の真を写した『写真』と、現場を見聞した人、わけても著名人によるこうした見聞録の影響はぜっだいである。レポートは国民的な同情を呼んで義援金や有り難い救援物資の数々となった。同時に『飢えたる岩手』『貧しい東北』という同情を通り越した、暗く哀しいイメージを全国に広めることにもなった。
 ……単なる風聞や誤解が、場合によっては興味本位や悪意に基づいて捏造された『事実』が、あたかも真実であるかのようにねじ曲げられて報じられるのは、この問題に限ったことでも、何も、昨今の週刊誌や新聞、テレビに始まったことでもない。」(『昭和の欠食児童』P.30・31・40・42・43・64)
 当時の新聞報道には、意図的に、事実を歪曲し捏造した記事やヤラセ写真が氾濫していたという。
 そして、現代に於いても、「昭和前期は、人々が貧困で悲惨な生活を強いられていた暗黒時代」と言う事を証明する為に、意図的に歴史の改竄が続いているといわれている。
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 『山形県の100年』「娘を売らねばならぬ農民にとって廃娼連盟やジャーナリズムの同情など何の腹の足しにもならなかった。そして、そのような農民が少なからず存在したのが『昭和聖代』とうたわれた当時の農村の実態であった。しかも西小国村の事例からわかるように、この時期の身売りには、緊縮政策を断行しなければならない日本資本主義の構造的危機が直接にのしかかっており、そこには東北の後進性とか封建制といった言葉が安易に説明することのできない新しい状況があった」
 『最上町史』「昭和9年の凶作時には藩政期の凶作時のように根堀したり、雑草を食べたりするものはいなかったが、保有米のない貧農は県の貸与米と代用食で生活しなければならなかった。代用食として『いものこぼたもち』とか、酒屋からでるこぬかなどを食べていた人もあったという。県の貸与米は一人当たり一俵ずつ無利子で貸しつけたのであるが、税金を完納している者でなければ貸さなかった。このような県の救済も貸与を受けたい困窮者ほど、それを受けられない条件になっていた。元来の困窮に加えて、こうした諸種の悪条件が重なって、娘を売ってまで残りの家族の生活を維持して行かなければならないという農家が続出した」
 「前出の中央新聞(東京朝日新聞)が『村から乙女の姿を見ることが出来なくなった』とか『これらの農家をつつむ死のようなさびしさだ。どこにも賑やかな声がせぬ』と報道したほど村の活気が失われていたわけではないし、また村民のすべてが打ち沈んでいたわでもない。貧しく苦しい中にあっても、少しでも自分達の村をよくしようと、絶えず前向きの姿勢で努力していた人びとも少なからずいたのである」
 『山形県史』「昭和初頭の農業恐慌の時期から、関東方面に大量に婦女子が出稼ぎに行くようになった。その就職先は女工が一番多かったが、芸妓娼妓になって行くのも少なくなかった」
 サンデー毎日 盛岡支局・黒沢金治『実らぬ秋を喘ぐ東北6県冷害凶作哀話』「ここの小学校には214名の児童がいる。ここは凶作の最も激しい寒村で児童の7割余が欠食児童。では欠食児童でない児童はどんな弁当を持って来るのか、稗飯が僅かに28名。これが上流家庭の児童でその他は稗と楢の実、大豆の炒ったもの『しだみ』等。授業時間中、青い顔をしている児童が一人二人、次から次と眼をぎらぎらさせる。訓導(教師)はそれらの児童に帰宅を命じる。教科書を重そうに抱えた児童たちが淋しげに教室を出て行く。なかにはフラフラと倒れる児童もいる。これらの実話は現実に見なくては、ちょっと信じきれまい。
 教師は淋しげに語る。『8月中は214名のうち116名が欠食児童だった。それが9月の末から激増して全校児童が欠食児童になったといっても過言でない。はじめのうちは空腹児童の眼がギラギラすると、倒れる前兆なので、私どもの弁当を与えて防いでいたが、今は村にも欠食児童給与の予算がないし、どうすることも出来ず、可哀相だが両親のところに帰してやるしことにしている。昭和6年の凶作の時は楢の実も栃の実も相当あったので緩和されたが、今年はそれさえ不足。今、村では最も困っている人たちに、産業組合事務所に保管してある大豆粕30枚を開放して食べさせている。それとても残り少なくなった』」
 秋田支局・後藤咲代「県の南部、平鹿郡下の黒川村小学校尋常6年の赤木清君、同3年生の赤木きみ子さん、同1年生の赤木哲夫君(いずれも仮名)兄妹に欠食児童として学校から給食を行っていた。ところがこの三人の兄妹が、このごろ学校から給食されるお弁当を、毎日、申し合わせたように半分づつ食べ、残りの半分はご飯とおかずをそれぞれ家に持ち帰っていたのである。不審に思った阿部校長が三人を呼んで事情を聞いてみると
 『家にはお母さんと、それから自分たちよりもっと小さい弟や妹が三人いるが、ご飯がないので学校でもらう自分たちの弁当を半分づつ持ち帰って家でお腹をすかして待っているお母さんや弟妹たちに食べさせるのです……』と
 凶作は童心をまで、かくも惨たらし、無情に踏みにじっているのである。涙が先にたつ哀話で筆が進まない。
 三人の欠食児童の家は夫に病死された母親が、女の細腕一本によって、三人の通学の子どもと、更にその下に三人の幼児を抱え、一家七人の口を賃仕事で辛くもこれまで糊して来たのであったが、この凶作地獄で賃仕事の途が全く奪われ、飢えと寒さを目の前にして母子一家が震えていたのであった。
 県内地方の凶作地、雄勝郡下の田代、仙道両地方の如きは最も悲惨で、弁当の欠食は勿論、家での食物がほとんど栄養のない牛馬の食料にも等しい惨めなものであるため、最近、小学校で体操の授業中、遂に空腹と栄養不良とでその場に倒れる悲惨亊もある」
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 凶作地帯の北海道や東北は、政府が被災者救済よりも朝鮮や台湾のインフラ整備の為に血税を投ずる事に不満を募らせていた。
 日本の娘を女郎に売らねばならないほどの貧困状態に追い込まれた零細農民は、日本への敵意を剥き出しにしている朝鮮人の犠牲にされていた。
 「なぜ我々に投資せず、朝鮮ばかり投資するのか」
 台湾は、反日派の朝鮮とは違って親日派として、日本に協力していた。
 軍部や軍国主義者達は、犠牲にされる日本人を見続け、その不合理に義憤を感じて貧困者を助けるべく行動すべきであると計画を立てていた。 
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 矢内原忠雄「わが国人口の自然増加数が近年100万人に近からんとする状勢は国民心理に一種の恐怖的暗影を投じつつあるものごとく、人口問題についての論議は正にたけなわである。……(アメリカは)日本移民に対しも1924年移民法により遂にその入国を禁止したることは人々の知るところである。……白色人種は世界人口の三分の一でありながら総面積の九分の八を支配する。かくのごとき関係にもとづく地球独占計画こそ平和と正義の敵でなければならない。……現今わが国農家の戸数は全国戸数の約5割であるが、この割合は以前に比して減少してきたし、将来なお減少するであろう。ドイツでも農業人口は総人口に対し1882年には42.5%を占めたが、1907年には28.7%に下がった。イングランドでは農業および林業人口は全体の約7%に過ぎない(1921年)。」(『満州問題』)
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 1934年 グンナー・シュルダール『人口問題の危険』
 予想外の冷害に襲われて、北海道・東北地域は大凶作となる。
 新聞各紙は、東北地方の被災地では飢餓状態にある貧困農民が70万人以上いて、支援がなければ餓死者を出す恐れがあると報道された。
 皇室は、貧民救済の為に約50万円を御下賜した。
 皇室拠出金を貰った建築業者は、 東北各地に普段から凶作に備えて穀物を備蓄する為の備荒倉・「恩賜觶倉」を建設した。
 軍部は、満州事変の勝利の為に軍事費の増額を要求した。
 政府は、軍部の圧力に屈し、農村匡救予算を削減してその分を軍事費に回した。
 軍事費は、国家予算の4割を超えた。
 小樽高等商業学校研究室『100年忌記念マルサス研究』「日本人口激増は人種的特色にあらずして、欧州諸国が以前に経験した事を繰り返しているに過ぎない。……欧州諸国の老衰期に日本は成長しつつあるとするならば、この事実は欧州人に取って恐るべき事であるかも知れない」
 ブラジルは、反日的国際世論を受け入れ、日本人移民に対して人数制限を課し、事実上拒否した。
 人口過剰と食糧不足解消の為に合法的海外移民事業を行ってきた軍国日本は、追い詰められ、そして行き詰まった。
 5月26日 東京日日新聞「(ブラジルの日本人移民人数制限法案成立について)しかるに米国はどうか今回の排日法の裏面にも其の魔の手が延びてをり、それだから排日法提出の急先鋒はいづれも親米家が顔を揃えているではないかといはれているが、外交戦を最も得意とする米国は同国外交界の利者でジュネーヴの日英米三国軍縮会議に首席代表をつとめロンドンの軍縮会議にも代表として派遣されたことのあるヒュー・エスギブソン氏をブラジル大使に任命しているが、わが林大使が針のようなことでも本省の訓令を仰がねば何一つなし得ないのに反してからギブソン氏は本省に対しても相当に押しの利くところから思い切った活躍を続けている、20日あまり前に死亡してた前米国ブラジル大使モルガン氏も先般大金を所持して米国からブラジルに渡り現職でない気易さをりようして多額の金をバラまいたという噂さへもある、また英国も裏面的には相当に活躍し、先般ブラジルを訪問したサイモン外相の如きもその滞在中にブラジルの有力者に向ひ『ブラジルは日本人をどしどし入れているが将来どうするつもりだ』とはっきりしたことをいっているが、そのサイモン外相がミゲール・コウト氏と共に今回の排日法の急先鋒をつとめている、アルツール・ネイヴァと魚釣に出掛け、終日魚を釣ながら懇談を遂げたという事実もある」
 アメリカとイギリス両国は、日本経済を国際市場から締め出し、中国大陸侵略へと暴走しようとする軍国日本を管理下に置くべく共謀していた。
 両国の経済はおろか世界経済さえも支配していたのが、ユダヤ系国際金融資本であった。
 反ユダヤ主義者は、ユダヤ系国際金融資本の世界征服を信じ、ユダヤ人差別を行っていた。
 当時。ユダヤ系国際金融資本は、和やかに軍国日本と拍手を交わしながらアジア全体の金融・経済問題を話し合っていた。
 5月27日 報知新聞「(ブラジル問題)今回の排日移民法案の議会通過は過去数十ヶ年にわたる日伯(ブラジルの和製漢字名伯剌西爾)国交の貴重なる歴史を蹂躙した……しかも問題は我人口問題の唯一の調節口を閉鎖されたるのみならず、先に米国において経験したる国恥を今日再び繰り返し、帝国経済外交の将来に残されたる唯一の新市場における我活躍の出鼻を挫かれて一大暗影を投げかけたるものであった、米国に門戸を閉塞され、濠州は依然として白豪主義を堅持している時、南米から更に締出し食らった実は帝国政府が連盟を脱退するの止むなきに至った事実を更に強化し─、東亜における帝国政府の特殊的地位を一層強化せしむつもの」
 軍国日本は、国際経済から追放され、国際社会で孤立した為に、生き残りをかけて中国大陸に侵略するしか方策がなかった。
 アメリカ、イギリス、ナチス・ドイツソ連などの欧米列強は、自国経済の活性化の為に軍国日本の大陸侵略を待ち望んでいた。
 軍国日本は、満州国に優秀な人材を送り込み多額の資本を投じて一大工業国に発展させ、満州経済の為に都市部の過剰労働者を移住させると共に、食糧増産の為に農村部の過剰農民を入植させようとした。
 朝鮮人労働者は、低賃金を武器として、日本に退去して移住してきた。
 朝鮮人の大量移住によって、日本国内の食糧事情はさらに悪化し、日本人の食べ物が一層欠乏した。
 朝鮮人移住を防ぐ為にも、国際社会から非難されても、満州開発は強引に推し進める必要があった。
 軍国日本は、日本の窮状を訴えて理解を求めようとした。
 諸外国に多くの友人を作るべく、根気よく努力を重ねた。
 だが、努力をすればするほど邪推され、理解されず、敵を増やした。
 ナチス・ドイツソ連アメリカ、イギリスは、軍国日本と戦うファシスト中国を軍事支援し、軍国日本にはファシスト中国に敗北するように経済制裁を強めた。
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 9月20〜21日 神戸の倉庫に備蓄されていた米約20万俵は、室戸台風の被害を受けて浸水し売り物にならなくなった。
 政府は、「濡れ米」をタダで廃棄するのはもったいないとして、飢餓民救済用として東北地方に送った。
 軍事費が嵩んで財政難に遭った為に、無条件配給ではなく現金引き換えとした。
 多額の借金を抱える小作人や零細農家は払う事ができず、大半の濡れ米は食用にならないほど腐って廃棄された。
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 10月22日 東京日日新聞岩手県00小学校6年生・女子生徒
 夕方、ごはんを食べる頃だろうと思って家に帰ると、まだごはんのしたくをした風がみえないので、私は『いつもならもうごはんを食べる頃だが』といいながら、ランプもつけない真暗い家から外の方へ行って見ると、お母さんが『しだみ』をあらっておった。私は『このしだみ何につかうの』といったら、お母さんは沈んだ顔をしてだまっておった。家に入ってふと見ると米びつがからっぽであった。私は急におなかがすいた。けれどもごはんをたべたいといってせがんだら、父母はどんなに苦をするだろうと思って、私は今夜は『おなかが痛くてごはんがたべたくないから』といってすぐ床に入った。すると父母はたちの声が聞こえてきた。私は耳をすまして聞いていると『いねはみんな立っているし、稗だって粟だって実が入っていないし、一つとしてよい物はない。一体冬にどうしてくらしていったらよいだろう』とひそひそ語る声でした。私はとうとう泣いてしまった。そのばんはとうとうねむれなかった」
 10月25日 東京日日新聞「童心蝕む 列車がホームにはいって来ると子供達は食堂車ねがけて残肴もらいに集まって来る、凶作の惨害童心を蝕む傷ましい情景」
 10月30日 東京日日新聞は、岩手県での欠食児童数は2万4,000人で増加の一途で、やがて5万人を突破するだろうとの予想を報道した。
 政府は、満州事変以来増額する軍事費に財政不足となり、欠食児童及び貧困農家支援対策費を減額した。
 給食補助費救援活動は、厚徳な民間有志に丸投げした。
 政府は、必要量の戦略物資を生産する為に各財閥の支援を要請した。
 軍部は、日本国内の惨状を無視し、貧困の農村で集めた若者を兵士として満州に送って侵略戦争を続けた。
 各財閥は、より多くの利益を上げる為に、大量の日本製品を中国市場に輸出し、軍部主導の満州開発に協力するべく巨額の金を投資した。
 国際社会は、軍国日本の冒険的膨張政策を即刻止める様に訴えた。
 国際連盟は、日本軍を国内に撤退させる為に日本へのさらなる制裁をかけるべきであると決議した。
 一部の対日強硬派諸国は、場合によってた、食糧や資源の対日輸出を制限する経済制裁も必要である主張した。
 中国では。中国共産党が指導する学生や市民が、日本軍の侵略を抗議する為に日本製品不買運動を全土で展開した。
 一部の中国人暴徒は、日本系商店や日本系工場を襲撃し破壊と放火を繰り返し、制止しようとした日本人に怪我を負わせて商品を略奪した。
 国民党の南京政府は、日本非難の国際世論を更に有利にする為に、中国人暴徒を鎮圧するどころか陰で煽り手助けした。
 ソ連コミンテルンは、反日朝鮮人や日本人共産主義者に反天皇反日活動を活発化する様に示唆した。
 北海道・東北地方の被災地は、軍国主義的発展の為に犠牲を強いられた。
 政府は、その事実を隠蔽する為に欠食児童報道を規制し、天皇制度打倒の共産主義が蔓延する事を恐れてマルクス主義を弾圧した。
 軍国日本には、「報道の自由」はなかった。
 新聞各社は、国民の同情を?き立てて部数を売る為に、被災地の惨状を誇張し、場合によっては捏造や歪曲して報道した。
 国家の公的資金を当てに出来ない被災地では、政府に期待せず日本独自の集団主義的隣保補助運動を展開した。
 地元民間組織は、江戸時代の様な餓死者だけは出さない事に腐心した。
 僅かな食べ物を独り占めせず、更に少量ずつに分け合って食べて「ひもじさ」に耐えた。
 日本には、欧米の様に、キリスト教会の様な非営利目的の巨大な支援組織を持っていなかった。
 神道などの民族宗教は、外来宗教の仏教やキリスト教の様に信者からの多額の寄付金がない為に潤沢な資産を持っていなかった。ために、目の前にいる被災者に支援ができず、避難所として境内を開放するのがやっとであった。
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 11月9日 東京日日新聞「過去1年間に約6万人が離村、売られて行く東北の娘 …… 芸者2,196名、娼妓4,521名、酌婦5,952名、女給3,271名、女中及び子守1万9,244名、女工1万7,260名、その他5,729名、合計5万8,173名」
 内務省社会局による宮城県の実態。「芸妓238人、娼妓520人、酌婦1,264人、女給643人、女工3,346人、女中子守3,860人、その他を加えると1万0926人」
 11月14日 東京朝日新聞「みじめすぎる東北の凶作地、身売り防止にも反感」 
 大内力「『娘売りの場合は当相談所にお出で下さい』という掲示が役場のまえに張り出されたというものもこのころのことである。売られた娘たちのなかには女工などもあったが、その大部分が売春婦であったことはいうまでもない」(中央公論社『日本の歴史』「ファシズムへの道」)
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 12月5日 東京日々新聞「木内義一郎
 『私の村では、この一年間に娘が72名も売られて行った。米がないのと同様に青春もないのです。もう雪に覆われているのに、政府はいつ救済してくれるのか、どう救済してくれるのか。政府にだけ頼っていられない不安から娘を売ってしまったのです。觶倉を建てるとか土木事業を起こすといっても、それは請負業者を潤すだけのことで、直接、農民の寒さと飢えを凌ぐものにはならないことは、農民たちは知り過ぎているほど知っています。明日の10円より今日の1円が、どれほど飢餓線上の人々を救うか、分かってもらいたいと思います』」
 12月16日 秋田魁新報「悲しみを乗せた身売り列車─
 横手駅(秋田県)発午後3時41分上野駅直行は身売り列車だ。銘仙(の着物)に自足袋、斑な白粉が一見してすぐそれと分かる。『離村女性』が歳末が近づくに伴い毎日のように身売り列車で運ばれ、駅の改札子を驚かせている─昨年迄は3日に一度から5日に一度程度の離村女性だったが、最近は毎日の様に、しかも数人ずつの集団的の出稼ぎが改札子の目を瞠らせるほどである。大部分が女工であるが、桂庵(奉公人の口入れ屋)に伴われて売笑街(女郎街)へ向かう可憐な女性が約10%を占めようという観測がある。
 さし迫った小作料、秋作までの飯米、明春の肥料代等々、農家の切実な悩みは、旧正月を境目に未曾有の深刻さをおび、売られてい行く女性が駅頭で別れを惜しむ情景も数多くなっている。
 静岡に着いたらじき手紙あげるよ。
 19か20ぐらいの娘の寂しい笑いだ。妹らしい方は黙ってうなずくだけだった。
 その背後には頬かむりした両親らしい2人としんみり別れを惜しんでいる娘。
 あと2人の娘は見送りもないらしいく、不安と寂しい沈黙に目を伏せている。
 彼女たちは横手町(現、市)職業紹介所の斡旋で出稼ぎに行く4名の娘さんたち」
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 その頃。朝鮮から、数十万人の朝鮮人が安価な労働者として日本に上陸し、その数は増えこそすれ減る事がなかった。
 そして、多くの朝鮮人が反天皇反日的であった。
 経営危機にあった企業家は、賃金値上げなどを求め労働争議する日本人労働者を解雇し、賃金の安い朝鮮人労働者を雇った。
 工場や炭鉱では、日本人労働者による朝鮮人労働者への差部が横行した。
 日本人労働者は、日本人同僚が朝鮮人労働者によって首を切られたと逆恨みしていた。
 職場を奪われた日本人労働者は、国内での再就職を諦めて満州に渡って仕事を得て家族を養った。
 満州に渡った日本人労働者は、中国人や朝鮮人を軽蔑し、敵意を丸出しにして暴行を行った。
 中国人と朝鮮人は、横暴な日本人を憎んだ。
 国際社会は、日本人による大陸侵略と非難し、軍国日本への制裁を要求した。



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