🍠10〗─1─凶作と重税で借金が嵩み貧困化した農家は、口減らしの為に家族を海外に移民として送り出した。脚気。明治33(1900)年~No.33No.34No.35 @ 

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   ・   ・{東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
・明治31年〜40年
 自給額 4,278万石。
 消費額 4,570万石。
 自給率 99.9%。
 人口 4,518万人。
・明治41年〜大正1年
 自給額 5,035万石。
 消費額 5,261万石。
 自給率 95.7%。
 人口 4,943万人。 
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 1902年 平均寿命、男性42.8歳、女性44.3歳。
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 地方の農村部に於ける人口爆発で生まれた余剰人口は、仕事を求めて東京・大坂・名古屋・北九州などの大都市へと移り住んだ。
 人口爆発が産業発展をもたらし、人口圧が日本を近代国家へと押し上げた。
 そのキーワードが、日本国語による近代教育であった。
 基礎学力及び応用学力そして最先端の科学・化学や高度な工業などの近代技術を、外国語ではなく平易な日本国語で学んだからである。
 日本のモノ作りは、日本国語力のお陰であった。
 日本が中国や朝鮮などと違って近代国家になれたのは、外国語に頼らなくてもよかった日本国語が存在したからである。
 自国語を捨てて外国語に依存した国は、近代国家にはなれなかった。
 日本国語とは、それほど優れた言語であった。
 だが、日本国語は、辺境に住む一民族のローカル言語に過ぎず、世界の中央に存在する普遍的なグローバル言語ではなかった。
 つまり、地球規模・人類規模でみれば、何れは消滅する民族言語に過ぎない。
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 西洋から優れた医学・衛生学・栄養学が日本に導入されるや、平均寿命が延び、乳幼児死亡率の減少で人口爆発が始まり、急速に人口が増え始めた。
 人口数が国力を表すとして、国家は人口を増やす事に出産を奨励したが、短期間に急増させるには海外に領土を広げ住民を日本国民として取り込む事であった。
 領土とした朝鮮や台湾から、数多くの労働移民を受け入れた。 
 日本は朝鮮人や台湾人を強制連行しなくても、彼らは仕事を求めて自由に日本へ移住してきた。
 あまりの多人数に驚いた日本は困惑して、彼らの上陸を制限し、時には拒絶し追い返していた。
 台湾人は、台湾出身者達が集まってチャイナタウンを作り、助け合って貧困化しないように支えあった。
 朝鮮人は、行く当てもないので、差別されさ軽蔑された都市の貧困地域であるエタ・非人部落に流れ込んだ。
 貧民部落では、朝鮮人移民の流入によって急速に貧困者が増え始めた。
 貧民部落の住人が増える事で、天皇への憎悪が浸透し、数多くの天皇打倒運動家を輩出した。
 江戸時代までのエタ・非人部落と明治以降のエタ・非人部落は、天皇意識で正反対のエタ・非人部落である。
 江戸時代までは親天皇であったが、明治以降は反天皇となった。
 江戸時代までのエタ・非人は天皇を敬い天皇制度を守ろうとしが、明治以降のエタ・非人は天皇を嫌い天皇制度を廃絶しようとした。
 江戸時代のエタ・非人の多くが手に職を持っていた為に、儒教身分制度が廃止され、西洋的自由人として居住の自由が許されるや、部落を出て店を構えて独立し生計を立てた。
 手に職を持つ職人として、手に職のない旧士族より安定した収入を得る事ができた。
 儒教価値観に凝り固まっていた朝鮮人は働く事を軽蔑していた為に、儒教価値観の薄い台湾人に比べて自活するだけの技能・技術もなく低賃金の単純重労働しかできず、否応もなく極貧生活を送る以外に術がなかった。
 キリスト教会は、そうした貧民窟への布教活動を積極的に行い、日本人住民からは胡散臭く拒否されたが、朝鮮人住民には熱烈大歓迎で受け入れられ洗礼を与え信者を増やした。
 朝鮮人は、自分は日本人より優秀であるとの病的なほど自意識過剰であった為に、下等な日本人より貧困生活をしなければならないのは、陰険な日本人による差別や弾圧のせいだと決め付け、日本人への憎悪を駆り立て、反日意識を高めていった。
 日本における貧富の格差はこうして始まり、貧富の格差が反天皇と結び付いた。
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 明治33(1900)年 東京の平均気温は13.6度で、2010年には16.9度に上昇した。
 東京の平均温度上昇は、100年で3度以上と突出している。
 2010年に於ける世界の都市の平均気温は、ニューヨークは約14度、パリは11度、ベルリンは9度で、1900年に比べて1〜2度に過ぎない。
 地球温暖化による世界の年平均気温上昇は、100年で約0.68度である。
 海に囲まれた日本は、温暖化の影響を受けやすい。
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 1900年 内務省も、遊郭などの赤線地帯は社会の必要悪と認識したが、国際社会ら日本が人身売買国家であるとの批判を受けるや、娼妓の人権を守るための娼妓取締規則を制定した。
 公娼が働く遊郭を管轄する警察は、犯罪行為として連れられて来た女性はいないか、雇い主が恣意的に娼妓に暴行や押し込めなどの人権が踏みにじる様な行為を働いていないか、などを監視した。
 役場は、性病に犯されていないか、栄養ある食事を取っているか、健康診断を定期的に実施していた。
 娼妓らが家庭の金銭的事情で遊郭に売られてきた以上、助けられないが、借金分の年季奉公が無事に終わる様に気を利かせた。
 ヤクザが支配する非公認の岡場所などは、地元の悪徳政治家がぐるになっていた為に公権力が手を出せずに放任されていた。
 僅かな娼妓は、早期に借金を返す為に、体にきつく命の危険がある岡場所に乗り換えた。
 娼妓らは、雪だるま式に膨らんだ借金で身動きがとれず、粗末な食事と薄汚い部屋に押し込められ、外出も許されず、過酷な環境下で男性への奉仕を強要されていた。
 日本人の活躍で黄色人種が独立に目覚め始める他、ヨーロッパ世界では黄色人種が神聖な白人社会を破壊しようとしているという「黄禍論」が広がった。
 アメリカは、日本人移民を低賃金で働く労働者として受け入れたが、人数が多くなるや排斥を強めた。
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 1901年 北里柴三郎博士は、助手のドイツ人ベーリング博士と共同でジフテリアの血清療法を確立したが、ノーベル賞医学賞はベーリングのみに与えられた。
 これ以降しばらく、日本人はノーベル賞には縁がなかった。
 鈴木梅太郎オリザニン(ビタミン)。高峰譲吉の高峰理論とアドレナリン。山際勝三郎のコールタールによる発がん。
 長岡半太郎の原子モデル。
 武井武の武井理論とセラミック磁石フェライト
 多収穫小麦農林10号。
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 1904年 コメ自給率90%。日露戦争に伴い、南方からコメ90万トンを輸入した。
 日露戦争(〜05年) 戦地における病人は25万人で、脚気死者は約2万8,000人。
 戦死者は、約4万6,423人。
 勝海舟「日本の英雄はみな立派な婦人によって英雄たらしめられた」
 黒木為禎(てめもと)「もし日本男子が母から武士道教育を受けていなかったら、この勝利はない。日本の婦人は国に多大な貢献をしているのだ」
 日本的な「真っ当」な考えを持った正常な日本男子は、家庭を守る女性(母・妻)の重要さを充分に認識していたがゆえに、子供の教育と家計を任せた。
 明治の中期までは、日本社会は、儒教の血縁男系主義やキリスト教の家長父系主義の男尊女卑に染まってはいなかった。
 事実。明治維新は、信念と才能を併せ持った大和撫子(母・妻)の支え得た勤王の志士によって達成された。
 木戸孝允の妻は、芸と身体を売る芸者であった。
 日本には、伝統的に資産を賢く堅実で気迫と覚悟を持った女性(娘)が相続する習慣があったがゆえに、娘の躾は息子教育よりも厳しかった。
 日本の男性は、ややもすると、自暴自棄となって現状に不満を持って変化を求め、全てを失っても構わない的な改革に走ろうとする。
 日本の女性は、保守的で家族・家庭を守る為に現状維持を好み変化・変革を嫌い、現実主義者として夫を威張らせる代わりに金(生活費・小遣い)を取り上げた。
 日本の男性は、我欲の塊の様に金を持たせると、見境なく酒を飲み、博打を打ち、女を買って散財して遊んでいた。
 日本の女性にとって、男とは外で仕事をして金を稼いで家に入れ、子供を作る為の種馬に過ぎずない。
 ゆえに、結婚相手に、賢くよく働いて大金を稼ぎ、勇気をふるって妻や家族を守り、健康な子供を数多く作れる逞しく生気溢れる肉体が求められた。
 女子に相続権があったというのは、そういうことである。
 そして最後に女性が望むのは、自分が老後に家を取り仕切って安心できる様に、全てに用がなくなった男(夫)は隠居して、介護という面倒を抱えたくないから早く死ぬ事であった。
 妻は、安心できる老後の為に夫に隠れて「へそくり」をする。
 日本男子の甲斐性は、そうした魔性な日本女性の本性を承知で我慢し、文句も言わず堪え忍ぶ事で、事を荒立てて暴力振るう事は「男の恥」であり「人間失格」とされた。
 昔の日本は、現代とは全く違う日本社会であり、家庭事情であった。
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 1906年3月 ユダヤアメリカ人で投資銀行家のジェイコブ・シフは、日本の招待で来日し、2ヶ月間、日本に滞在して、伊藤博文ら元勲や政治家、軍人、財界人等の接待を受けた。
 3月28日 明治天皇は、シフを謁見し、外国の民間人として初めて宮中の食事会に招いた。
 この時から、日本皇室は親ユダヤ派となり、ユダヤ人の権利を認め、ユダヤ人保護に努めた。
 この時の日本は、国際政治感覚とは国際金融経済感覚であり、国際金融を支配しているのは国際ユダヤ財閥である事を理解していた。
 高橋是清は、反日的なドイツ帝国とフランスで、ユダヤ財閥の力を借りて日本国債を発行して大金を調達した。
 日本は、ユダヤ財閥の協力で、日露戦争に勝利し、日本の更なる発展を遂げた。
 日本にとって、ユダヤ人は、幾ら感謝しても感謝しきれないほどの恩を受けていた。
 故に。日本は、親ユダヤであって反ユダヤではない。
 反ユダヤの日本人は、日本皇室に弓を引く不忠の日本人である。 
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 1907年 日本は、ロシア帝国のアジア侵略に怯え、ロシア軍の侵攻から日本を守る為に開国し富国強兵と殖産興業の近代化を邁進してきた。
 非白人軍は白人軍には勝てないという世界戦史的常識を覆して勝利し、白人と非白人とは対等関係にはなれないという世界常識を覆して日露協商を結んだ。
 日本が最も恐れたロシア帝国の影は、日本一国の軍事力で消し去った。
 もう一つの潜在的仮想敵国である清国も、王朝内の腐敗堕落と実力者同士の権力闘争と革命派による暴動で弱体化し、日本を侵略する国力を失っていた。
 極東アジアにおける戦争の元凶であった大韓帝国も、日本に逆らわないように保護国化していた。
 日露戦争後。西洋列強は植民地における独立運動の鎮圧に忙殺され、新たな植民地獲得競争を行う余裕をなくしていた。
 西欧列強の植民地化を恐れて近代化してきた日本人は、国家喪失の危機という切迫感から一致団結して政治・外交・軍事・経済で乗り越えた。
 世界史の教訓とは、平和となって今そこにある脅威が去っても、次の戦争に備えて軍備を整える事であった。
 日本は、「力による均衡」という世界的常識が理解できないどころか、「最悪な経験を忘れやすい」という民族性から日露戦争の勝利で現実的緊張感を失った。
 島国という閉塞した空間で一人孤独に生きてきた日本人は、帝国主義による弱肉強食の世界で生き抜くという闘争本能は本来も持ち合わせてはいなかった。
 日清・日露両戦争の勝利で、傲慢になって欧米列強を真似て領土拡大主義者にはならなかった。
 大陸は高い城壁と深い堀に守られた城塞都市であったが、日本は田んぼと畑に囲まれた町、村、都市であった。
 日本の海は、敵の侵略を遮る天然の要害ではなく、侵略する軍船を持った敵が自由に上陸が出来る無防備な存在であった。
 同じ島国でも、イギリスは西洋世界の一員として侵略して来る国に囲まれた島国であり、日本は東洋世界の一員ではなく侵略して来る国がいなかった島国である。
 イギリスは祖国を防衛する為の対外戦争を運命付け等ていたが、日本はそうではなかった。
 近代化は、祖国を外的から守る為にイギリスでは必要であったが、外敵がいなかった日本には必要ではなかった。
 ロシア帝国と清国という外敵の出現で、日本は近代化した。
 国家の近代化は、経済的な発展と繁栄の為ではなく、軍事的な祖国防衛が主要因であった。 
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 「坂の上の雲」という目標を失った日本人は、外敵の侵略から祖国を守るという使命感をなくし、国家や社会や家の為ではなく自分の私利私欲の為に行動し始めた。
 一体感を?ぎ止めていた恐怖心が失われるや、心に空白を生じた。
 その心の空白を埋める為に、右翼的な民族礼賛による日本回帰と左翼的なマルクス主義による天皇制度体制破壊に二分されていった。
 エリートではない庶民は、目の前の危機がなくなるや内向きになり、国内での高い地位と大金持ちに憧れた。
 日本回帰は体制に従順な庶民に受け、天皇制度打倒は体制に不満を抱くエリートに支持された。
 柳田国男は『遠野宇物語』を、夏目漱石は『門』を、石川啄木は『時代閉塞の現状』を書いた。
 石川啄木『一握の砂』
 「何がしに
 頭のなかに崖ありて
 日毎に土のくづるるごとし」
 都市の教育機関は、国家発展の人材を育成する公的場から、企業利益を上げる技術を学ぶ私的な場と変容した。
 次世代の都市文学は、江戸から明治に持ち越された古い価値観や家秩序を全て疑い破壊し、「個」の自己主張を最優先する自然主義ロマン主義が主流となった。
 上昇志向の強い田舎の青年達は、よりよう生活を求めて田舎を捨てて都会に出たが、学歴もなく特殊技能もない為に都市の貧困生活を強いられ、出口のない都市の泥沼に追い込まれた。
 田舎=地方に残るのは負け組で、都会=中央に出るのは勝ち組で、都会の敗北者は都落ちして田舎に帰る。
 田舎で生活できない無一文の次男三男は、都会に出て職を探して生活した。
 旧制高校帝国大学、専門学校に通える若者は、地方の名家か資産家の子弟だけであった。
 官僚になれるのは、そうした若者だけであり。
 政治家になれる者は、そうした大人だけであった。
 貧しい家庭の優秀な若者は、師範学校に入学して教師になるか、軍人になるしかなかった。
 日本の経済発展は、田舎で食えなくなった農家の次男三男のハングリー的野心によってもたらされた。
 そうした人の流れが冨を作り出した事実は、明治、大正、昭和を通じて、何れの時代でも同じである。
 食い詰めた若者の野獣的野心が、青春のエネルギーとなって日本社会を牽引した。
 青春の上に向かって這い上がろうとする貪欲な上昇志向がなくなれば、社会は活力を失って衰退し、最悪、消滅する。
 石川啄木「彼等は都会の何処の片隅にもその意に適つた場所を見出すことはない。然し一度足を踏み入れたら、もう二度とそれを抜かしめないのが、都会と呼ばれる文明の泥沢のもつている不可思議の一つである」『田舎の思慕』
 「かくて日本には今『遊民』という不思議な階級が漸次その数を増しつつある」『時代閉塞の現状
 日露戦争後の産業社会で、経済的な勝者・強者と敗者・弱者が生まれた。
 都市には、田舎を捨てて上京すれば平等な権利で成功できるとの夢見た者と、自由な競争に敗れて行き場を失った者が、行き場も寄る辺もなくして彷徨っていた。
 彼等は、故郷を失った流民であった。
 日韓合邦によって、朝鮮から大量に労働賃金の安い朝鮮人労働者が日本に流入して、日本人貧困層の仕事を奪い始めていた。
 国内に発展の余地がある間は、新天地を求めて海の外に出る事はせず、自分の手の出せる範囲を生計の場としてコツコツとものを作り育てて、食えるだけの物を食べて生活していた。
 日本民族は、土地に縛られた農耕民であり、大陸を移動する遊牧民でもなく、海を渡る海洋民でもなかった。
 2000年近く定住者としてきた、いきなり、数年で帝国主義的非定住者に変わる事が出来なかった。
 日本民族日本人は、柔軟な思考力で迅速な行動ができるほどに器用な民族ではなかった。
 他人のモノを略奪や搾取したり、人に命令して従えて支配する事を最も苦手としていた。
 企業は、賃金の高い日本人労働者より安い朝鮮人労働者を好んで雇った。
 都市と田舎の間。資本家と労働者の間。日本人と朝鮮人の間に。
 貧富の格差は広がり、社会は連帯感を失い、人間のつながりが希薄となり、家族の絆が脆弱となった。
 敗弱い人者・弱者は、社会で取り残される孤立感や誰からも相手にされないという孤独感から、抜け出せない将来の不満から自分を受け入れない体制や社会に敵意を抱き、自己満足的な幻想的理想主義を掲げ盲目的反抗心をから外向きな攻撃の為に無政府主義マルクス主義、そして共産主義に心の安住の場を求めた。
 日本には本来存在しなかった近代的破綻者は、外敵の侵略から祖国を守るという崖っぷち的悲壮感の消失しで生まれて来た。
 大正デモクラシーは、帝国主義に基づき、上流階級が冨を独占する為に自由な競争をする事を全肯定した。
 富める者は富み、貧しい者は貧しく、社会は貧富によって二分され、日本民族が受け継いできた価値観が破壊されていった。
 それは、対立を生まない曖昧な空気に支配されてきた日本が経験した事のない二項対立社会であった。
 日本に於ける近代化は、必ずしも日本人に豊かな生活と満ち足りた幸福をもたらしてくれたわけではない。
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 乃木式義手。乃木希典大将は、腕をなくした将兵を憐れに思い、軍医総監に相談して作業用能動義手を作った。
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 日露戦争で。軍医や衛生兵による戦場での活躍で戦時医療と治療技術は飛躍的に進歩した。
 野戦医療及び治療と看護・看病の面で、日本軍は世界的なトップクラスであった。
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 1908年6月18日 東洋汽船・笠戸丸は、最初の日本人ブラジル移民(781人)を乗せてブラジルのサンパウロ州に到着した。
 ブラジルは、奴隷制度廃止に伴う農業労働者の減少を補うべく日本人移民を受け入れたが、奴隷制度を廃止した為に契約労働者として受け入れた。
 白人至上主義の白人農園主は、人種差別から、日本人を黒人同様の奴隷的扱いをした。
 日本の貧困層は、悪徳仲介業者の「ブラジルという国には、金のなる木が生えている」という宣伝文句と郄待遇・高収入に騙されてブラジルに渡った。
 ブラジル移民達が放り込まれた先は、過酷な労働環境とそれに見合わない低賃金であった。
 人を疑う事を知らなかったお人好しの日本人移民は、日本政府は後押しするブラジル移民を信じ、ブラジルで数年間働いて大金を稼いで帰国する事を夢見たが、その望みは見事に裏切られた。
 国策的な移民計画で、ブラジル移民は日本に見捨てられた「棄民」と呼ばれた。
 笠戸丸には、アルゼンチンなど他の中南米への日本人移民達も乗船していた。
 彼等も、ブラジル同様の悲惨な入植となった。
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 陸軍常備兵力は、ロシア帝国は200万人、日本軍は20万人。
 国庫の歳入は、ロシア帝国は20億円、日本は2億5,000万円。
 日本とロシア帝国が戦えば、どう考えても日本には勝ち目がなかった。
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 明治初期。日本には死に至る病気として恐れられていたのは、江戸患いといわれた「脚気」と胸の病である「結核」であった。
 総人口3,000万人の江戸時代に、毎年、100万人以上が脚気を患い、数万人が死亡していた。
 脚気も原因が分からなかった時代、主に働き盛りの青壮年が発病する為に恐れられていた。
 特に。軍隊では、兵士が大量に発病すると戦闘不能に陥る為に深刻な問題であった。
 陸軍軍医部は、東京帝国大学医学部同様に、基礎医学・生物学的な研究を主流とするドイツ医学を採用していた。
 農村出身の陸軍兵士は、徴兵されるまで田舎で雑穀米の不味い飯を食べていただけに、白米の美味しい食事を望んだ。
 陸軍は、兵士の希望を入れて白米に拘って為に、日清・日露両戦争で甚大な被害を出して作戦に支障をきたした。 
 日清戦争での、戦死者は977人に対して脚気死者は4,064人に上った。
 日露戦争では、戦死者は約4万6,400人で脚気死者は約2万8,000人に達した。
 陸軍軍医部は、権威主義が強く、「細胞病理学説」のウィルヒョウや細菌学のコッホのドイツ医学の立場から脚気の原因を追及しようとしたが、原因が白米偏重によるタンパク質不足であった為に研究は全て失敗していた。
 海軍においても脚気は深刻な問題で、毎年、兵員の3割近くが発病して2%が死亡していた。
 壬午事変(明治15年夏)で、日本軍艦4隻は仁川湾に出動して清国軍艦と約40日間にらみ合ったが、水兵達に脚気が多発した。
 4隻の内2隻が戦闘不能に陥り、日本海軍は事態の深刻を認識した。
 練習艦・筑波は、明治5年に7ヶ月間に及ぶオーストラリアへの航海を行ったが、乗務員333人中88人が脚気に罹り、5人が死亡した。
 練習艦龍驤(りゅうじょう)は、明治15年12月から翌16年9月にかけて、ニュージーランド─南米─ハワイの長期遠洋航海を行い、乗務員367人中169人が脚気に罹り、25人が死亡した。
 薩摩藩士・高木兼𥶡は、藩立医学校でイギリス人医師ウィリスから医学を学び、明治5年に海軍に出仕し、ロンドンの病院で5年間の医学実習を受けて帰国し、明治16年秋に海軍省医務局長に就任した。
 高木は、脚気に罹る乗務員の食事と生活環境を実地で調べ、発病するのは下士官や水兵達で士官には発病者がいない事に気付いた。
 脚気は、パン食の欧州にはない、日本や中国など米食地帯に発病していた。
 高木は、問題は食事にあるとの仮説をたて、莫大な経費を得る為に上官の海軍卿ではなく直に元勲・伊藤博文に掛け合った。
 伊藤博文は、脚気の撲滅なくして国防は有り得ないとして、予算を出す事に同意した。
 海軍首脳部は、軍医の先走りに不快感を示したが、元勲・伊藤博文が承認した以上、従わざるを得なかった。
 明治17年 練習艦・筑波の練習航海のコースを、ハワイ─ウラジオストック─釜山からニュージランド─南米─ハワイに変更し、食事を高木が考えた西洋食にして検証航海を行った。
 結果は、乗務員に脚気は発症しなかった。
 パン食は不評であった為に、麦と米を五分五分とした飯に変えて、海軍は1〜2年で脚気を根絶した。
 これ以降、日本海軍は臨床中心のイギリス医学を取り入れた。
 日本海軍が成功したのは、水兵は本人の志願であって、陸軍のような強制された徴兵ではなかったからである。
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 1910年 欧米列強は、日英博覧会で日本が出品したを製品の数々を見て、日本を非西洋で成功した近代的産業国家と認めた。
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 2015年8月24日 朝日新聞「食と健康」 古来からの知恵
 サンスターが提案『新・玄米生活』
 『肉や揚げ物を中心とした欧米型の食事など、現代人の食生活は栄養が偏りがちです。体に必要な栄養を効率よく摂るには、玄米がぴったりなんです』と……
 たっぷりの食物繊維に、鉄やカルシウム、マグネシウムなどのミネラル。ビタミンB1、B2、B6、Eなど、玄米はまさに〝栄養の宝庫〟。抜群の栄養価で、古くから人々の健康を支え続けてきたという。
 その昔、古代の日本人は、玄米を主食としていた。戦国時代では、現代とは比べものにもならないほど質素な食生活ながらも、武士が戦場で体を張って戦えたのは、玄米をたくさん食べていたからという説さえもある。有名な戦国武将は玄米を常食とし、家臣にも勧めていたとう話しも残っているほどだ。
 主食を玄米とする食生活は、江戸で白米が広がり始めると、ビタミンB1不足で健康を維持できなくなった日本人が増えたといわれている。
 『玄米を常食していた時代は、玄米を食べることが健康に暮らすための栄養補給になっていたのではないでしょうか』」
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