🍠9〗─1─地方で人口爆発が起き、余剰人口が都市に流入し、都市の労働人口と消費人口が急増して近代国家となった。明治元(1868)年。〜No.30 @ 

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   ・   ・{東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 人口の爆発が始まった。
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 日本の近代化は、人口爆発を引き起こし、それが戦争の悲劇へと暴走した。
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・明治7年〜10年
 自給額 2,489万石。
 消費額 2,428万石。
 自給率 100.7%。
 人口 3,540万人。
・明治11年〜20年
 自給額 3,045万石。
 消費額 3,019万石。
 自給率 100.8%。
 人口 3,737万人。
・明治21年〜30年
 自給額 3,896万石。
 消費額 3,898万石。
 自給率100%。
 人口 4,064万人。  
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 明治時代。日本人の平均寿命は、男性40歳、女性41歳。
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 歴史的陰謀などはなく、国家や民族の生き残りの戦略や計画があるのみである。
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 デビッド・アーロノビッチ「(陰謀説は)政治的敗者によって考案され、社会的弱者によって支持され」(『陰謀説の嘘ーユダヤ陰謀論から9.11まで』)
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 ハリス「この土地は貧困で、住民はいずれも豊かではなく、ただ生活するだけで精一杯で、装飾的な物に目を向ける余裕がない。それでも人々は楽しく暮らしており、食べたいだけ食べ、着物にも困ってはいない。それに、家屋は清潔で、日当たりも良くて気持ちよい。世界の如何なる地方においても、労働者の社会で下田におけるよりも良い生活を送っているところあるまい」
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 ヒュースケン「いまや私が愛しさを覚え始めている国よ。この進歩は本当にお前の為の文明なのか。この国の人々の質樸な習俗とともに、その飾り気のなさを私は讃美する。この国土の豊かさを見、至る所に満ちている子供達の愉しい笑い声を聞き、そして何処にも悲惨なものを見出す事ができなかった私は、おお、神よ、この幸福な情景が今や終わりを迎えようとしており、西洋の人々が彼等の重大な悪徳を持ち込もうとしているように思えてならない」(『ヒュースケン日本日記』)
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 アンベール「陽気な事、気質がさっぱりとして物に拘泥しない事、子供のようにいかにも天真爛漫である事」(『幕末日本図絵』)
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 リンダウ「日本人ほど愉快になり易い人種は殆どあるまい。良いにせよ悪いにせよ、どんな冗談でも笑いこける。そして子供のように、笑い始めたとなると、理由もなく笑い続けるのである」(『スイス領事の見た幕末日本』)
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 ラナルド・マクドナルド「エデンの園以外のどこにも劣らぬほど、高貴で純粋で、慈悲深く、あらゆる自然を愛し、悪意がなく純潔で」(『外国人が見た古き良き日本』)
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 モース「私は、日本が子供の天国である事を繰り返さざるを得ない。世界中で日本ほど、子供が親切に取り扱われ、そして子供の為に深い注意が払われる国はない。ニコニコしている所から判断すると、子供達は朝から晩まで幸福であるらしい」(『逝きし世の面影』)
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 カッテンディーケ「こんな美しい国で一生を終わりたいと何遍思った事か」(『長崎海軍伝習所の日々』)
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 オールコック「自分の農地を整然と保っている事にかけては、世界中で日本の農民にかなうものはないであろう。田畑は、念入りに除草されているばかりか、他の点でも目に見えて整然と手入れされていて気持ちが良い。主に使われている肥料は確かに雑草の成長を減ずる点で著しい効果がある。だが、日本の農民の技術や勤勉さや慎重さを減じはしない。男や女や子供達が、朝早くから夜遅くまで田畑にいるのを見かける」
 農地1㌶での何人の人を養えるか?
 オーストラリアは0.1人。アメリカは0.8人。イギリスは2.6人。フランスは4,5人。ドイツは4.5人。日本は10.5人。
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 ウィリアム・スミス・クラーク「日本の農民は良い農民になる技を持っているのです。日本の整然とした美しい畑を見たら、アメリカ人は恥ずかしいと思うでしょう」
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 エドワード・モース「世界中で日本ほど、子供が親切に取り扱われ、そして子供の為に深い注意が払われる国はない。ニコニコしている所から判断すると、子供達は朝から晩まで幸福であるらしい」
 「子供達は親切に取り扱われるばかりでなく、他の何れの国の子供達よりも多くの自由を持ち、……刑罰もなく、咎められる事もなく、叱られる事もなく、うるさくグズグズ言われる事もない」
 「日本は、確かに子供の天国で在る」
 イザベラ・バード「私はこれほど自分の子供に喜びを覚える人々を見た事がない」
 カッテンディーケ「子供がどんなにヤンチャでも、叱ったり懲らしたりしている有様を見た事がない。その程度はほとんど『溺愛』に達していて、『彼らほど愉快で楽しそうな子供達は他所では見られない』」
 子供は、15歳になると元服として一人前として扱われて社会的義務が負わされ、自分で考え、自分で判断し、自分で行動し、自分の責任を取らされた。
 世間に迷惑を掛け不法行為があれば、容赦なく刑罰が言い渡された。
 火付け・盗賊・殺人などの重罪があれば、事情がどうであれ、情状酌量なく重い罰を受け、軽くて島流し、最悪死刑も有り得た。
 良い事は良い、悪い事は悪い、のケジメはハッキリと付け、筋の通らない道理に叶わない事をすれば我が子とて庇い匿う事はしなかった。
 親は、私よりも公を大事にし、15歳過ぎた子供が人様に迷惑を掛け世間を騒がせたら世間体以上に「人の道」に反するとして、親子の縁を切ると宣言し、親としての情を殺して涙を流しながら家から追い出した。
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 奈良時代平城京周辺は、貴族の豪邸や大寺院の造営などの乱伐と都の住人の急増で薪の使用が増え、森林資源が枯渇し水不足に陥っていた。
 山野の荒廃が進み、大雨が降る度に洪水が発生し、田畑を押し流され食糧も不足した。
 太陽活動が活発化し、地球は温暖乾燥期に入って日照りの回数が増えて旱魃が起きていた。
 日本各地で天変地異が多発し、人々は呪われた奈良の都を捨てて新たな都を希望していた。
 平安京遷都は、こうした深刻な状況下で実行された。
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 江戸幕府が求心力を無くして崩壊したのは、参勤交代を廃止した事である。
 中央と地方の格差や職業の格差など社会全体の格差が生まれ広がったのも、参勤交代が無くなってからである。
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 日本の総人口。
 800年(平安初期)    551万人。
 1280年(鎌倉時代)   595万人。
 1603年(慶長8年) 1,227万人。
 1721年(享保6年) 3,128万人。
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 1820(文政3)年の各国の人口。イギリス、1,980万人。フランス、3,120万人。ドイツ、1,470万人。
 開国し、西洋から新たな農業技術が導入されるや生産高が増え、食糧が豊かに飢える心配が無くなって人口も増加し始めた。
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 和田 宏「米ばかり頼ってきた日本の貧しさ。 明治維新は革命であった。と司馬(遼太郎)さんは書く。多くの犠牲を払って国を開いたが、恐ろしく貧乏であった。『白河以北、一山百文』といわれた東北地方だけではない、どこにも外国に売る物がなかった。
 ついには人まで売られた。女たちは北に南に買われてゆき、また自ら移民となって出ていく人たちがいた。ロシアの東方への野望は、結局は日露戦争を招くが、その力の支えとなったシベリア鉄道の建設現場にまで、日本の男どもは出稼ぎに行ったというから驚く。南満州では軍隊でさえ、凍傷に苦しんだというのに」
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 島国日本は、国土が狭く、資源もエネルギーもなく、何かを生産して輸出し外貨を稼いだ。
 大人も、子供も、老人も、全ての日本人が、遊んで暮らせるほど豊かではなかった。
 日本で年寄りが尊敬され大事にされたのは、歳をとっていたからではなく、豊かな知識や豊富な体験を蓄積していたからある。
 日本人は、生涯現役で隠居や隠退はなかった。
 「昔々、ある所に、お爺さんとお婆さんが住んでいました。
 お爺さんは山へ芝刈りに、お婆さんは川へ洗濯に行きました。」
 厳しい環境の中で、年寄り二人は人間として死ぬまで、休む事なく働いた。
 そこには、家族がいなければ、若者もいない。
 日本は、老人が汗水垂らして働いて造ってきた国であった。
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 島国は、閉鎖空間であった為に世間という空気に支配されていた。
 文明開化によって自分達とは異なる世界を知り、日本を世界に通用する構造に改編する為に、社会という新たな造語を作った。
 世間は社会となったが、強固な空気は残った。
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 明治天皇の御製
 天地の神にぞいのる民のため 雨風ときにしたがひぬべく
 民のため年ある秋をいのる身は たへぬあつさもいとはざりけり
 はれまなき雨につけても思ふかは ことしの秋のみのりいかにと
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 1848年 イギリスは、『チャドウィック報告』を受けて世界初の公衆衛生法を制定し、都市全体、特に疫病が蔓延しやすい低賃金労働者が住む裏町の水環境改善に力を入れた。
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 1868年 明治新政府は、外国人に日本人を分かってせる一番良い方法は、直に日本人を見て貰う事であるとして、勤勉で働き者の日本人を移民としてハワイやグアムなどに送り出した。
 だが。世界は、白人キリスト教徒による宗教的人種差別で支配され、白人以外の人間は白人の文化的生活を支える家畜と見なされていた。
 当然。日本人を人間以下の「黄色いサル」と軽蔑されていた。
 欧米列強は、新たに低賃金で働く労働者をアジア地域で募集した。
 日本政府は、民間の職業斡旋で契約すると奴隷として売られる危険があると警戒し、労働条件が保障された官製移民を計画した。
 だが。人種差別の欧米列強は、日本人と契約をを結んでも、契約を守る意思はなく奴隷のように扱った。
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 1869年 学校給食の起源は。山形県鶴岡町(現・市)の私立忠愛小学校で行われた、仏教団体による貧困家庭の児童への無料給食とされている。
 鶴岡市の大督寺内、「学校給食発祥の地」碑。
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 1870(明治3)年の総人口は、日本で3,440万人、アメリカで4,000万人、ブラジルで980万人、カナダやオーストラリアもイギリスからの移民が大半で人口はそれほど多くなかった。
 当時のイギリス国内の人口は2,930万人で、多くの若者は新天地を求めてアメリカなどに移住していた。
 国外移住者は、日本では1881年から1924年までに3万6,124人に対し、イギリスでは1850年から1910年までに1,330万人といわれている。
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 司馬遼太郎徳川時代はちょっと世界に類がないぐらいいい制度になっていて、お大名やお旗本が土地を私有していなかった。租税の徴収権を加賀100万石は100万石の領域内で取るというだけであって、領地の租税徴収権だけですから、土地のいわゆる私有者というのは……お百姓と町人でした。だから、ロシア革命のときとかフランス革命の前みたいな状態では、日本はなかったわけです」(土地を持っていた百姓は土地への執着心が強く、簡単に土地を売り買いせず、中小規模農家は家族以外に労働者がいなかった為に耕せないほどの土地を欲しがらなかった。)
 「明治4年だったか、お百姓に対して政府が、税は、いままで幕藩体制のときはお米で払っていたけれども、それを金で払え、そうでないと、政府予算は何万石という予算表になり、……近代国家はできあがらんというので、お金で取るようになったんです。ところが、お百姓さんというのは、弥生式の最初に稲作が入ってきたときから自給自足が原則でしょう。暮らしが。わらじもつくるし、笠もつくる、けれど現金はないというのが原則ですから、それなら近所のよろず屋さんが現金を扱っているから、よろず屋さんに土地を買ってもって、自分は小作になってよろず屋さんに金納してもらう」(自分は働かず小作人からの地代で贅沢な暮らしを満喫する近代的地主・寄生地主が急増した事で、地方のムラ経済崩壊は、自活していた中小規模農家は極貧生活に落ちた。) 
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 1871年 大蔵少輔(次官)の伊藤博文は、通貨改革の献策を行った。
 通貨条例で、円を通貨単位として、江戸期の1両を1円に交換し、1ドルを1円と定めた。 
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 1872年 明治新政府は、諸外国に近代国家を証明する為に、奴隷制度の様な印象がある人身売買と芸妓・娼婦の年季奉公の廃止を命じた。
 ただし、各産業における作男・丁稚・徒弟などの契約年季を7年、女給・女中・子守など一般奉公人の契約を1年に制限した。
 日本は、鉄道を学んで自前で鉄道を走らせた。
 2月 東京大火事。皇居和田倉門近くの元会津藩邸から出火し、火は銀座から築地・新橋まで焼いて鎮火した。
 大隈重信井上馨渋沢栄一ら大蔵省幹部は、資本主義を育成し国を豊かにする為に、首都・東京を西洋列強の都市に負けない近代都市として再建する事を決め、お雇い外国人に煉瓦街の設計を依頼した。
 世に言う、「銀座レンガ街計画」である。
 都市改造予算は、国家予算の3割を注ぐ事とした。
 焼け跡の復興にレンガ造り工法が採用され、近代国家の象徴として銀座煉瓦街が建設された。
 だが。日本の気候風土や地震などの天災、そして予算と技術などを考慮すると、無条件での西洋直輸入による街造りが不可能である事が判明した。
 街のレンガ化は、銀座だけで中止された。
 近代的防火対策は、日本古来の伝統的防火建築に西洋技術を加える事に落ち着いた。
 煉瓦造りは地震の多い日本には適さず、関東大震災で壊滅した。
 煉瓦は、古代中国で建築機材として使用され新羅でも使っていた。
 日本は、材木を採用して煉瓦を一切採用しなかった。
 12月3日 家禄を失った失業士族が、いかがらしい口入れ業者に騙さる被害が続出して、士族の間で不満が増大した。
 新政府は、家業を持てずにいる士族を守る為に、ヤクザなどの犯罪組織による不法な口入れ業者を厳しく取り締まった。
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 1873年 東京府は、吉原などの遊郭は市内の性犯罪を防止するに必要不可欠であるとして、条例を持って公娼制度を維持した。
 良い悪いは別にして、日本は世界でも性犯罪事件・強姦事件が少ない国であった。
 封建時代の江戸や大阪などの都市部では、女性より男性が圧倒的に多く住んでいて、結婚できずに一生を送る独身男が多かった。
 亭主が、妻に渡す離縁状の「三行半」は無条件で再婚を許すという許可書である。その際、女性が結婚時に持って来た持参金は全額返す義務があった。
 そうした「男の義務」を果たさないと、弱い者を泣かせる最低の「ゲス男」と一生涯後ろ指を指された。
 サムライ社会は亭主関白(蔑称・頑固親父)の儒教価値観で男尊女卑であったが、町人社会はカカァー殿下(尊称・山の神。蔑称・山姥)の神道価値観で男女同等か女尊男卑であった。
 3月 公債条例の発布。明治新政府は、唯一の正統政権としての名誉と信用を守るべく、幕府の西洋列強への賠償金未払い残高や諸藩が大阪商人らからした借金を肩代わりする為に、国債を発行する事を決定した。
 サムライは、命よりも信義を重んじ、自分が一度約束した事はもちろん身内や仲間が知らないところでした口約束でも、ムラ共同体の一員として命を捨ててでも守り通そうとした。
 東アジア世界で、愚直なまでに、信頼や信用の為に命を犠牲にしてまで守ろうとしたのはサムライ日本だけである。
 サムライは、後ろから斬り付ける闇討ち・不意打ちを卑怯として軽蔑し、敵に後ろから斬られて死ぬ事を未熟として恥じた。
 明治新政府は、4月に公債を交付して借金の返済に充てた。
 地租改正条例の公布。今だ物品税を徴収できる産業を持たない日本にとって、封建制度下の年貢同様に地代に頼るしか税収がなかった。
 「地租は地価の3%」
 政府は、安定した税収を確保する為に、豊作や凶作に関係なく地価に見合った一定額の税を命じた。
 百姓は、幕藩体制下の年貢より軽かったが、反面実入りが少なくなるとして反発し、各地で一揆(竹槍一揆)を行った。
 政府は、かって百姓に苦汁をなめさせられてきた藩同様に百姓の要求を受け入れて、77年に地租を2.5%に引き下げた。
 だが。それは自作農の話であって、地主に隷属する小作農には関係がなかった。
 地主は、地租で失った金を小作人から徴収するべく、小作料を平均40%台まで引き上げて上げて搾り取った。
 小作人は、家族が食べて生活するのがやっとな収入で、貯蓄し土地を購入して自作農に復帰しようという夢は打ち砕かれた。
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 1875年の世界人口は、約13億2,500万人であった。
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 S・B・ハンレー/K・ヤマムラ「(明治維新のとき)全国人口は、1721年から1846年までに、公式数字によればわずか3%上昇したにすぎないが、それに対して、維新においてもっとも重要な役割を果たしたとずっと考えられている薩摩、長州、土佐、肥後の四つの藩からなる地域の人口は30%上昇した。薩摩だけの人口の増加は62%、また周防は65%であり、これら二つの地域を北海道を除く最高の人口増加地域としている」(『前工業化期日本の経済と人口』)
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 明治新政府が成立し江戸幕府が消滅するや、各大名は上屋敷以外の屋敷を引き払い留守居を於いて多くの家臣達を国元に帰国させた。
 人口の半分を占めていた武士がいなくなる事によって、江戸の人口は半減して約50万人ほどに落ち込んだ。
 消費するだけの武士を失い、江戸の町は寂れた。
 武家屋敷があった山の手界隈は、掃除する者はなくゴミが散乱し、動物の死骸はもちろん、盗賊に襲われて殺害された死体や埋葬費がない貧困者が棄てた死体が放置された。
 近在の農家は、町の糞尿を肥料にする為に購入していたが、糞尿の値段が高騰して買わなくなった。
 引き取り手がなく放置された江戸の糞尿は、隅田川神田川、目黒川など近くの川に投棄され、川は汚れて悪臭を放ち、江戸の飲料水は汚染された。
 ゴミは、江戸周辺の海岸・川原・空き地に山のように積まれて放置され、蚊やハエを大量発生させた。
 江戸改め東京は、その不衛生によって疫病が発生し、明治10年代にコレラが大流行して年間10万人以上が死亡した。
 これ以降、首都・東京は、ゴミと糞尿の処理が深刻な問題となった。
 飲料水として利用していた井戸水や河川の水は汚染され、ピロリ菌や大腸菌などの有害な細菌が混入し、沸騰して飲まなければ細菌感染の危機に晒された。
 第一印象、見た目を優先する日本人は、細菌がいない臭いがある汚れた水は嫌がって飲まないが、細菌のいる臭いのない透明な水を喜んで飲んだ。
 日本人の嗅覚や味覚とはその程度の感覚で、特段、優れてもいなければ、繊細でもない。
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 1876年 廃刀令の公布・俸禄の停止。
 神風連の乱。 
 ドイツ人コッホ(近代細菌学の祖)は、炭疽病が炭疽菌である事を突き止めた。
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 1877年 西南戦争
 1877~78年 中国で干ばつが発生し、大飢饉となり、950~1,300万人が餓死した。
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 1878(明治11)年 日本の穀物栽培面積は、コメが246万ヘクタール、大麦が59万ヘクタール、裸麦が42万ヘクタール、小麦が34万ヘクタール、粟と稗が35万ヘクタール。
 明治初期のコメの生産量は、約400万トン。  
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 1880年代 松方デフレ。松方正義大蔵卿は、西南戦争の戦費調達で生じたインフレを解消する為に、デフレ誘導の財政政策を行った。
 デフレによって米価や繭価は大暴落し、生糸を生計の足しにしていた畑作農家は大打撃を受けた。
 収入が減っても地租の負担が減らされなかった為に、借金を抱えていた中小農家は田畑を都市投資家や高利貸しに売って小作人となった。寄生地主制の始まりである。
 昔からの地主は、土地に生きていた為に小作人が生きて行けないほどの小作料を要求しなかった。
 都市投資家や高利貸しの寄生地主は、土地と共に生きる者ではなく、利益優先として60%近くの小作料を徴収した。高い小作料に不平を漏らせば、耕作地を取り上げ、家族諸共に家から追放した。
 資本を蓄えた都市投資家や高利貸しは金融家なり、鉄道や紡績など近代産業に巨額の資金を提供した。
 日本の資本主義は、農村・農家・農民の犠牲の上に発展した。
 戦後。GHQは、近代的寄生地主制を農村型軍国主義の温床であると見なし、農地改革として伝統的地主や豪農と共に徹底的に解体を命じた。小作人の開放によって、小規模農地を持つ不安定な零細農家が増加した。
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 1880年代 日本のラーメンは、横浜に移り住んだ中国人移民が同郷の中国人労働者に供した「拉?」が始まりであった。
 日本人は、うどんや蕎麦を食べたが拉麺は余り食べなかった。
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 1885年 ドイツ人コッホは、コレラ菌を特定した。
 欧州諸国では、コレラの原因がコレラ菌である事が分かるや、コレラ菌をやっつける抗生物質の研究開発に力を入れ、蔓延の原因である下水道を含む水環境の改善は後回しにされた。
 東京府は、コレラなどの伝染病対策として近代的下水道を建設するべく、オランダ人土木技師ヨハネス・デ・レーケを雇いその指導の下で神田下水を敷設した。
 東京を近代的都市に造り替える為には近代的道路網整備が必要となり、江戸時代の道路網計画された下水敷設工事は邪魔となって中止された。
 新たな下水道計画は、1908年に告示されたが財源不足から実行は遅れ、1923年頃にようやく下谷、外神田、浅草などごく一部だけが完成した。
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 1886(明治19)年夏 東京で死者11万人以上が犠牲となるコレラが大発生した。
 イギリス人ウィリアム・キニモンド・バートンは、翌87年にお雇い外国人として来日し、帝国大学大学工科大学衛生工学講座の初代教授に就任した。
 コレラ撲滅の為に、内務省衛生局の顧問技官として首都東京など主要都市の下水道システム設計を指導した。
 内務省衛生局に在籍していた後藤新平とは、この時知り合った。
 バートンは、日本人女性荒川満津と結婚した。
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 1887年 日本は、火力発電所の運転か始めた。
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 1888(明治21)年 会津磐梯山噴火。犠牲者、477人。被害家屋、463戸。
 前年に結成された日本赤十字社は、直ちに被災地に入り災害救護活動を始めた。
 全国から、義援金約3万8,000円(現在の15億円)が寄附された。
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 新島八重「明日の夜は何国(いづこ)の誰かながむらん なれし御城に残す月影」
 「若松のわが古里に来てみれば さき立つものはなみだなりけり」
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 1889(明治22)年 防穀令事件。朝鮮政府は、不作となり食糧を確保する為に、防穀令を発して米や大豆などの穀物を日本に輸出する事を禁じた。
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 1890年 日本政府は、圧力をかけて防穀令を撤回させ、賠償金をとった。
 朝鮮の食糧は不足して、朝鮮人は飢え手日本人を憎んだ。
 上山英一郎は、世界初の蚊取り線香を発明し発表した。
 妻ゆきは、渦巻型を着想し、1902(明治35)年に渦巻型蚊取り線香を開発し発売した。 
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 1892(明治25)年 明治新政府は、公衆衛生後進国であった日本の水道改善として、コレラなどの疫病が発生しやすい貧しい下町地区の近代的な鉄管水道を起工し7年後に完成させた。
 エドワード・モース「日本は大津波、台風、火山、地震と、地球上のどこよりも危険な国」「人々は開けっぴろげ」で繰り返し襲い来る甚大なる被害をもたらす天災に遭っても「被害者は、まるで祭礼でもあるかのように微笑みさえ湛えていた」
 過酷な自然に生きる定めの日本人は、自然災害を不運と諦め、四季折々の恵みを幸運と思い身の上に起きた事を笑って受け入れた。
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 1893(明治26)年 コメ商会所は、堂島米穀取引所と改称して先物取引を再開した。
 明治政府は、江戸時代から続いていた先物市場の堂島米会所を、商人が米相場で不当に買い占め、勝手に値段をつり上げ、暴利を貪って貧民から米を奪うとして閉鎖していた。
 江戸時代の堂島米会所は、世界最初の先物取引市場であり、担保となる米がなくとも相場師は手形を乱発して大金を荒稼ぎしていた。
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 1894(明治27)年 東京帝国大学総長の加藤弘之は、「日本の人口過剰は必至であり、人口抑制の為に堕胎を公認する日が来る」と述べた。
 日清戦争(〜95年) 脚気死者は、4,064人。
 陸軍部隊は、米飯主義を堅持した為に、脚気被害で大量の死者を出し戦闘力を激減させていった。
 海軍は、麦飯を採用して脚気を克服した。
 北里柴三郎は、ペスト菌を発見した。
 2018年3月14日 産経ニュース「「津波で家計助けるため働く女性も」 終戦後も存在、仙台遊廓の証言まとめる 随筆録の千葉由香さん
 「みちのく仙台常盤町 小田原遊廓随想録」について語る著者の千葉由香さん=先月24日、仙台市青葉区(塔野岡剛撮影)
 仙台にあった遊廓の歴史などについて、当時を知る人々の証言などをまとめた「みちのく仙台常盤町 小田原遊廓随想録」が出版された。著者の千葉由香さん(54)のトークイベントが、仙台市内で開かれ、千葉さんは参加した約60人の前で、ウイスキーのボトルに入れたウーロン茶を傾けて、雰囲気を演出し、執筆中の裏話などを語った。(塔野岡剛)
 仙台市内にあった「小田原遊廓」は明治27年(1894)年に現在の青葉区宮町通りの東側に開設され、先の大戦終戦後、昭和21年(1946)年まで存在したという。最盛期には33軒の「楼」があり、300人の女性が働いていたという。
 トークイベントは先月24日に開催された。当時を知る人々を取材し、証言をまとめたという千葉さんは、口を開いてくれる人が少なく、取材に苦労したというエピソードも披露した。
 千葉さんは同遊廓が栄えた理由のひとつについて、明治29年(1896)年の「明治三陸津波」を挙げ、「津波という自然災害が起き、家計を助けるために遊廓で働いていた女性も多かったのではないか」と背景を分析した。     
 また、取材中に当時の女性たちの健康診断書を入手したことに触れて、3、4日に1回のペースで健康診断が行われていたと指摘。「性病に罹患(りかん)することが当時最も恐れられていた。安全であるということをアピールする狙いがあったのではないか」と説明した。
 参加した同区の阿部未来さん(33)は「小田原の近くに住んでいたときに町の様子が不思議だと感じていたが、遊廓があったと知って納得した。自然災害と遊廓の関係は興味深かった」と話した。
 トークイベント終了後、千葉さんは「表に出にくい町の歴史を書き残したかった。遊廓で働いていた女性がどのような暮らしをしていたのか、想像してほしい」と語った。」
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 1995年 福沢諭吉は、人口増加により台湾等への移民が必要であると主張した。
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 1899年 東京の三大貧窟。四谷の鮫ヶ橋、下谷の万年町、芝の新網。
 横山源之助「誰か言う、労働は神聖なりと。もし単に生活の意味を以て見れば、日本の労働の如き、生計だも支え得ざる廉価にして品位なき労働は、決して形而上の意を含める神聖という文字を入れるべき余地あらざるなり」(『日本の下層社会』)

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