🐟15〗─1─農政新時代。戦後農政とTPPの共通性。地方の衰退で農家は激減する。~No.59No.60No.61 @ 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 農家は、無責任な政治家と官僚そして無関心な消費者。
 仕事のない地方の若者達は、農村に絶望し、農業を捨て、仕事を求めて都会に移り住む。
 地方は残った若者で、細々と生産活動を続けるが安定化する。
 都市に出た若者達は、低賃金のために結婚もできず一人暮らしで不安定な生活を送る。
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 守るべきは、日本農業か日本人農家か。
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 2016年2月7日号 サンデー毎日「TPPの罠  青沼陽一郎
 阿倍 強い農業の壮大なる〝虚構〟
 池田勇人内閣が謳った『畜産3倍、果樹2倍』の挫折
 環太平洋パートナーシップ(TPP)の大筋合意を受け、農業の拡大戦略を打ち出した安倍内閣。それは、半世紀前の自民党政権が目指し、そして挫折した大方針と瓜二つでもある。
 ……
 だが、日本はかつて、新しい農政を切り開こうとして失敗した歴史がある。
 『あの当時は、その先に希望がありました。日本の古い農業機構を新しく変える、というのが政府の説明でしたからね』
 福島県で酪農を営んできた佐々木健三が、その当時を振り返って言った。
 『いまは後期高齢者の私も希望を持ちましたから』
 佐々木は福島で十数頭の牛を飼い、手作りの牛乳を販売してきた。いつしかあの時代の〝希望〟も、大きく裏切られていく。
 日本の近代の養豚の起源は、米国から空を飛んできた35頭の種豚にあることは、前号で触れた。
 1960年1月、穀物地帯のアイオワ州を飛び立った豚たちが羽田に到着した。前代未聞のこのプロジェクトは『ホッグ・リフト(Hog Lift)』と呼ばれている。
 それと同じ年、もうひとつの日米関係で忘れてはならない重大な転機があった。
 学生を中心に国会を取り囲んで激しい連日のデモ行進が記憶に残る、新日米安全保障条約の締結である、この時の首相が岸信介だった。いまの安倍晋三首相の祖父だ。
 ここで特筆すべきは、この新日米安全保障条約に、両国間の経済協力の事項が盛り込まれたことだ。
 これをきっかけに、戦後の高度経済成長が始まる。
 日本は、技術、生産性に優れた工業製品を米国に輸出する代わりに、国内よりも生産性の上回る農産物を輸入に頼る。この対米貿易関係において、経済成長を促進したのだ。
 ホッグ・リフトによって、米国型の養豚を根付かせ、アイオワから飼料用のトウモロコシが日本に大量に送られてきたことも、まったくの偶然ではなかった。
 また、見方を変えれば、工業生産性の特化による対米輸出で経済発展を促す図式は、いまのTPPの土台となっている。つまり、日本の経済の骨格はこの時に出来上がっていったのだ。TPPは、この構図を再加速させる装置とも言える。
 だが、だからといって、その当時の日本は農業を放棄したわけではい。
 未来に向けた農業の新しい時代を切り開こうとしたのだ。
 翌61年に、『所得倍増計画』を打ち出し、高度成長を具体的に推し進める池田勇人内閣は、『農業基本法』を成立させている。
 それは終戦直後の農業問題の一掃と、国際競争力の強化を狙ったものだった。
 農業基本法が狙った格差解消と大規模化
 ここで歴史をひもとくと、日本は1945年の敗戦と同時に、占領統治のもとで大きな構造改革を迎えた。農業分野では農地解放がある。戦前の地主制度を廃止し、地主の農地を小作人に分配したのだ。
 自分の田圃(でんほ)を自分で耕す。小作料に苦しむ必要もない。そうなると、米作を中心に生産意欲も湧いてくる。
 そこへ、戦地からの復員や引き揚げ、それに焼き出された都市部からの流入で農村部の人口は膨らんでいったこともあり、公平に分配される農地が、就労機会の拡大にもつながった。農業就労者も急増する。これが一気に戦後の食料増産体制に拍車を掛けていった。戦中戦後の食料不足から、ついに食料自給率はピークの79%にまで達した。それがやはり、1960年のことだった。」
 ところが、ここに高度経済成長を目前にした日本の、次なる課題が生まれてきていた。それが所得格差だった。
 戦後、徐々に工業生産が増してくると、農業よりも工業に従事したほうが儲かるようになった。ここに都市部の勤労者世帯と地方の農家世帯の収入に隔たりが出てきていたのだ。
 そもそも、農地解放によって自作農が急増したまではよかったが、地主の持つ土地を均等に分配したことは、裏を返せば、いわば『零細農家』の濫立(らんりつ)にほかならかった。
 そこで農業基本法が目指したのは、農家の集約による大規模化だった。
 当時の農家一戸当たりの平均農地所有面積は約1ヘクタールだった。これを所得で都市部の勤労者世帯と同等までに引き上げるには、1戸当たり約2.5ヘクタールが必要と算出されていた。そこで3軒の農家のうちの2軒が農業を捨てて都市に出る。その雇用と所得は工業生産性の伸びと高度成長によって確保される。一方、2軒分の農地を吸収して3倍に膨らんだ農家は、それによって勤労者世帯と同程度の所得を得る。つなり、日本農業の『自立経営』が成り立つ規模にまで拡大しようとしたのである。
 ここに加えて、将来の貿易自由化も見越した『選択的拡大』の生産政策を掲げた。国際競争力を考慮して生産性の高い農業を実現すること、畜産物や果実などの日本人の食生活の変化に伴って需要の伸びるはずのものを選んで重点的に生産を増やすことを目指したのだ。『畜産3倍、果樹2倍』がその具体的数値として選択的拡大のキャッチフレーズともなった。逆にこの選択的拡大によって、国際競争力の見込めない麦や大豆、トウモロコシなどの穀物類は、米国からの輸入に頼ることにもなった。
 これで農業基盤が盤石になるはずだった。強い農業が出来上がるはずだった。
 『私が学校を出て、牛を飼い始めたのは昭和33(1958)年ごろからです』
 前出の佐々木が言った。
 『農業に夢を抱いていました。ちょうど農業基本法が成立、施行される直前のことで、これから新しい農業がはじまるんだ!農業でやっていけるんだ!ってね』
 佐々木も新しい農政に胸を膨らませた一人だった。福島で、名産のモモやリンゴの苗木を植え始めたのも、この頃からだった。
 零細経営増えた農村 
 砕かれた『農政の夢』
 ところが、農業基本法が目指した通りには、農業の構造改革が進まなかった。
 農家戸数は減らなかったのだ。農家が選んだのは、3軒が1軒に集約するという自立経営型への道より、3軒がいっしょに並んでの兼業化だった。
 現実に、農地解放によって手にした農地を、戦後十数年が経って、かつての小作人たちは手放したがらなかった。
 また、せっかくの農地解放も、自作農があっさり農地を手放したのでは意味がない。そこで、農地の取引が簡単にはできないように『農地法』によって、厳しく規制がかけられていた。農地基本法ができても、自作農保護の別の法律が、大規模自立経営への足枷(あしかせ)となる。これが後世に農業への新規参入を難しくした。
 そうしているうちに、こんどは農地に『土地』としての資産価値が発生した。
 農地は、税制上も優遇され、取引においても大した売買価格にはならなかった。しかし公共事業などによる国の土地買い付けにおいて、破格の価格が提示された。ならば税率の安い土地を保有、相続しながら高値での買い取りを期待したほうがよい。ますます土地を手放さなくなる。
 そこへ、兼業化への道を容易にしたのは、皮肉にも日本の誇る工業技術だった。農業を機械化したのだ。『コンバイン』がその象徴であり、これにより農作業への就労時間は短縮され、面倒な力仕事も省けていく。農家の大黒柱である〝とうちゃん〟は、勤めに出られる。代わって爺ちゃんと婆ちゃん、それに母ちゃんが農作業に従事する『3チャン農業』が主体となった。
 だが、それでは農業基本法の狙いが大幅に逸(それ)れてしまう。国の施政としてそれでいいはずもあるまい。
 ところが、日本の政権政党である自民党は、零細から大規模化への集約を快くは思っていなかった。当時の自民党の支持基盤は主に農村部にあり、文字通り〝票田〟としての農業人口の減少は選挙に不利になる。
 それどころか、『族議員』を農水省(当時の農林省)が生み出していく。
 その舞台が米価審査会だった。日米開戦直後に食糧の直接統制を目標に設置された食糧管理法(食管法)が戦後も続いたため、コメは政府が一括して買い取るシステムが継続していた。この農家からの買い取り価格を毎年、米価審議会が決定する。ここに政治的思惑が働いたことから、毎年紛糾することになった。
 これに弱り果てた農林省が、大荒れの局面を思惑どおりに打開しようと、同省の意向を酌んで動く与党議員を抱え込むことを考えたのだ。その見返りに、選挙区に大型の補助金を落とす。そこで誕生したのが、渡辺美智雄中川一郎、湊徹郎の、いわゆるミッチャン、ミッチャン、テッチャンの『3チャン艦隊』だった。この族議員がいつしか他省庁へも拡がっていく。
 もはや自立型の農業経営は不可能に近く、補助金体質も加わって、日本の農業は脆弱化していく。食料自給率は落ち込むばかりで、いつしか40%を切るまでになった。
 そして85年。『プラザ合意』によってかってない円高基調が訪れる。これによって、日本の食料依存の舞台は中国大陸へと移行していくことになる。強い円を武器に、日本企業が大陸に進出し、現地の安価な労働力と食材を使った開発輸入を展開したのだ。中国からの加工食品の輸入が高まり、その依存度は米国に次ぐまでになっていく。
 そもそもバブル経済の引き金となったプラザ合意そのものが、米国の財政と貿易の〝双子の赤字〟を解消するためのドル安(円高)基調を、主要国で容認したものだった。
 その一方で米国は対日貿易赤字の解消を求め、再三にわたって農産物の輸入自由化を求めてきていた。その主要産品が、牛肉とオレンジ(柑橘類)だった。
 日本は輸入自由化交渉で、農業保護と政権政党自民党)の支持基盤の擁護を理由に、自由化を先延ばしにしてきた。国内の農家には、どちらも輸入自由化はしないと約束もしていた。
 農産物自由化が加速
 補助金ばらまき行政
 ところが91年、ついに日本は米国に屈服するように、牛肉・オレンジの輸入自由化に踏み切った。
 『あの時は、本当にショックでしたね・・・』
 福島の佐々木が言った。それは成長部門とされてきた畜産と果樹農家が裏切られた瞬間だった。
 『裏切られた気持ちと、やってきたことが間違っていたのか、という思いで・・・』
 80年代前半には、当時の経済動向を見据えながら、日本の農業を憂う声は、経済界からも上がっていた。
 経団連の農政問題懇談会委員長を務めていた味の素の渡辺文蔵名誉会長は『農業過保護論』を展開。土光臨調で副会長を務めたソニー井深大会長は『もはや日本に農業はいらない』と言い切ったり、さらにはダイエー中内功会長も同趣旨の発言している(肩書きはいずれも当時のもの)。そこで農業従事者による各社商品不買運動が勃発し、三者が記者会見で謝罪するまでに至っている。
 その頃は、まだ日本の農家にも元気があった。しかし、いくら抵抗をしてみたところで、ウルグアイ・ラウンド(1986年)にはじまり、WTO世界貿易機関)体制に移行する世界の貿易自由化の流れは止めようがなかった。
 やがて93年には日本がウルグアイ・ラウンドの農業協定を受け入れたことにより、ついにはコメの輸入自由化にまで日本は乗り出していった。
 この対策事業費に当時の細川護煕政権が6兆100億円を支出。この大半が、農業の温泉施設や、使われることのない農業飛行場の建設に使われたことで、のちに『ばらまき』と声が上がったのもこうした事情からだ。
 そして、いまTPPによって再び【農政新時代】が叫ばれている。
 『これまでの一連の話の最終的な総仕上げ、という感じがします』
 農業基本法の成立と同時代に福島で酪農をはじめた、佐々木氏が言う。いわば歴史の体現者だ。
 『TPPをきっかけにして、農業を終わりにしようという土台装置なんでしょう』
 佐々木氏の失望は大きい。
 『〝攻めの農業〟を謳って輸出を増やすという。そんな甘いもんじゃない』
 裏切られた福島
 リンゴ畑の伐採続く
 安倍政権の発足当初から、そしてTPP対策大綱にも盛り込まれている『攻めの農業』が向かう先は、農産品のブランド化と海外市場だ。そこで農家の生き残りを図る。
 だが、一方でTPPにより、消費者の食卓には海外の安価な食料が並ぶ公算が大きい。自国民を賄えないものが、果たして『農業』と言えるだろうか。
 農業基本法に代わって、99年に成立した『食料・農業・農村基本法』は食糧自給率の向上がその主な目的であったはずだ。だが、いまTPP対策に自給率についての文言は見当たらない。
 『もう何度も対策とやらを聞いてきましたけど、もうそんな甘い話には乗らない。学習したんです。農政新時代といったところで、もはや次元が違うし、希望も持てない。』
 そして、佐々木をはじめ、福島の農家を失望させるもの。それが5年前の福島第一原子力発電所の事故だった。佐々木の持つ牧草地で育つ牧草からは、いまだに放射性物質が検出され、やむなく北海道から汚染のない牧草を取り寄せている。
 安全神話を売る物に推進していた国の原子力政策に、農家はここでも裏切られたことになる。
 『福島県は、もともと長野や群馬と並んで養蚕が盛んなところだったんです』
 佐々木が続けた。
 『だから、私の家の周りにも桑畑が広がっていた。それが農業基本法がげきて、果樹園になり、畜産の施設になり、風景が変わった。それが最近、外に出てみると、昨日までリンゴ畑だったはずの場所の木が切り倒されている。もう愕然とします。そういう場所が多い。果樹農家が木を切り倒すということは、後戻りできない、もうやめる、という強い意志の表れですから』
 TPPの発効で、もっとそうした光景が増えるだろう、と佐々木は言う。
 同時に打撃を受けるとされる牛・豚畜産、酪農に加えて、いったい、農業の構造を変えるはずの『畜産3倍、果樹2倍』の掛け声は、なんだったのだろうか。
 『いま、農業を続けてきた〝〝重み〟というものをはじめて経験しています』
 自民党の掲げる『農政新時代』、安倍政権の提唱する『攻めの農業』は『自立型農業』という言葉で、55年前の祖父の時代から叫ばれていたことだった。
 それを失敗に終わらせたのも政府、与党だった。
 TPPにおける農業対策は十分なものだろうか。
 1月22日 第190回通常国会の施政方針演説で安倍首相は、これまでの方針に加え、農業の『集約』『大規模化』による『国際競争力の強化』まで明言している。まるで半世紀前を追体験しているような錯覚に陥る。『農政新時代』の威勢のいい言葉も、いま再びの失敗を繰り返しそうな気がする」
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 TPPは、食糧・農産物などの農業分野に置いては、都市部の低所得消費者にとっては歓迎すべき事であるが、農村部の生産者にとって廃業を迫る深刻な問題であった。
 国際競争力を付けて国外に農産物を輸出できる強い農家は、全農家のほんの数パーセントに過ぎず、大半農家はその時代の波に乗りきれない。
 弱肉強食の市場経済至上主義に於いて時代の波に乗って利益を上げられず赤字を垂れ流す部門・業種は、無用な部門・業種として廃止され、そして淘汰されていく。
 それが、グローバル化である。
 日本の農業とて例外ではなく、勝てる農家は生き残り、勝てない農家は生き残れない。
 都市部の低所得消費者にとって、豊富な安い食材が手軽に買える事からTPPは賛成すべき事である。
 都市部の低所得消費者は、現実主義者として、国内農家が生産した高い農産物は購入しない、賃金が上がってもやはり安い外国産農作物を買う。
 口では建前的に日本農業を守り国産農産物を選んで買うと言うが、心の中の本音では農地・土地を持った農家には同情はしていない。
 小売店は、消費者が安い特売品を争って買い込む事を知っている為に、産地を誤魔化したり、少量の国産品に大量の外国産を混ぜて産地を明記せず、新聞でチラシを配り、メールを顧客に送り、購買衝動を駆り立てている。
 日本の庶民とは命を賭けて信義や道理を貫くサムライではない為、昭和、大正、明治はおろか江戸、戦国時代から自分が得する事しか考えない薄情な所がある。
 サムライは、武士道精神から武士の一分を貫く為に切腹を覚悟して、表も裏も、本音や建前はなかった。
 庶民には命を賭ける規範を持たないだけに、生きる知恵として表も裏も併せ持ち、本音と建前を巧みに使い分けて強かに生活していた。
 日本人は庶民であるから本音と建て前を使い分け、自分の利益や金儲けに奔走する。
 故に、消費者は生産者の事など忖度しないし、本音として歯牙にも掛けない。
 農業従事者は高齢化し、跡取り・後継者がいない為に日本農家は減り続けている。
 農業労働人口減少で日本農業が衰退する為に、日本農業を維持する為に数百万人規模の外国人を農業労働者として移民(新たな農奴)させ、過疎化した農村部に移住させる必要がう。
 全産業の労働者不足を補う為に、1,000万人の外国人移民が求められている。
 多数派の日本人と少数派の外国人移民という人間の多様性。
 支配階級の日本人と被支配階級の外国人移民という社会の多様性。
 時代は、グローバルな多様性に向かっている。
 現代日本人は、口で綺麗事を言っても、心では農業などに関心もなければ、農作業をやりたいとは思わない。
 外国人移民は、農業労働者として地方の農村地帯に住み、生産した農産物を都市部に住む日本人に供給する。
 その光景は、多数・御主人様と少数・奴隷が共存共生していた原始的民主主義が盛んであった古代ローマギリシャ世界に似ている。
 安保法案(戦争法案)反対のラップ抗議運動も、近代的議会民主主義ではなく原始的広場民主主義に見えてくる。




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