⚜11〗─1─「総力戦体制」という視点。「戦時体制」から考える戦後の日本。~No.32No.33No.34 

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 「総力戦体制」という視点:野口悠紀雄1940年体制―さらば戦時体制』を考える(前編)
 『視点を磨き、視野を広げる』第23回
 10月 11日 2018年 経済
 古川弘介(ふるかわ・こうすけ
 海外勤務が長く、日本を外から眺めることが多かった。帰国後、日本の社会をより深く知りたいと思い読書会を続けている。最近常勤の仕事から離れ、オープン・カレッジに通い始めた。
◆本稿の狙い
 今回は、野口悠紀雄(*注1)の『1940年体制―さらば戦時経済』を取り上げる。野口は、「終身雇用」「年功序列賃金」「企業別組合」「間接金融優位」といった特徴をもつ「日本型経済システム」は、自然に形成されたのではなく戦時期の総力戦体制下で政府によって意図的に作られたとして「1940年体制」と名付ける。松原隆一郎(*注2)は、同システムは制度・規制・慣行の集積であり戦後に形成されたとしており、これが通説である。しかし野口はシステムの起源を探ることで、その本質を明らかにしようとするのである。
 初めて本書を読んだときには衝撃を受けた。当時は既にバブルが崩壊し「日本型経済システム」への否定的な意見が多く出ていた。わたしもその影響を受けて、日本のシステムは欧米先進国と比べて遅れており変更すべきだが、文化や伝統に基盤を持つので簡単に変えられないと信じていた。そうした常識的見方に対し、野口は戦時の総力戦体制の中で政府によって強制的に作られたシステムであることを明らかにし、だから変えることができると強く訴えかけたのである。後で知ったことであるが、歴史学者の間では1980年代から戦後体制の原型を戦時期に求める「総力戦体制」論が盛んに研究されていたようだ。その意味で野口だけの主張ではないのであるが、経済学の観点から「日本型経済システム」の本質を明らかにし、その後の環境変化に合致しなくなった同システムを変えるべきだという主張は大きなインパクトを与えたのである。
 本稿では、「日本型経済システム」の原型が戦時体制下でどのように形成されたのか、なぜ占領期を生き延びて戦後の高度成長に最適なシステムとして機能したのか、また野口の問題意識はどこにあるのかを探りたい。
◆「日本型経済システム」の形成
 「日本型経済システム」は、戦後の高度成長を支えた。したがって当然戦後生まれだと思い込みがある。敗戦による戦前の全否定と、占領による民主化政策の輝かしい成果という二項対立的構図がわたしたちの脳裏に刷り込まれているからだ。
 しかし野口は、思い込みをものの見事に否定する。戦前と戦後は太い線でつながっているというのだ。すなわち、戦後の産物と思っていた「日本型経済システム」は、1940年前後に戦時体制整備のために政府によって強制的に作られたとして、その形成過程と背景を次のように明らかにする。
・日本型企業:戦前の工場労働者は職能給で流動性が高く勤続年数は短かった。1920年代に国家要請による生産増強が求められた重化学工業の大企業に、従業員の定着率を高めるための終身雇用制や年功序列賃金体系が始まった。政府は、「国家総動員法」(1938年)を敷いて、物価統制の一環として初任給から定期昇給まで全ての賃金を統制した。こうした戦時経済体制によって年功序列賃金体系や終身雇用制が全国に広がった。また同法は、配当制限(固定率の適正配当を保障)、株主権利の制約を行い、利益の剰余分は経営者や従業員への報酬、社内福祉に分配された。この結果、企業は利潤追求組織から従業員中心の組織へ変質したのである。また、企業別労働組合は戦時の「産業報国会」に起源を持つ。製造業の下請け制度も、軍需産業の増産の緊急措置として導入された。こうして「日本型」と呼称される企業形態が形成されていった。
・間接金融:戦前の株式市場の規模は戦後と比較しても対GDP国内総生産)比で大きい。この事実が示すように、企業の資金調達は株式と社債による直接金融が主体(1931年は86%が直接金融)であった(*注3)。しかし政府の配当制限によって株式市場が低迷したため、長期資金を銀行融資で供給する必要が生じ、政府主導で間接金融優位に移行していく(1945年には93%が間接金融)。間接金融は戦時体制にある政府にとって、資源を軍需産業に傾斜配分するために適していたこともこうした動きの背景にあった。統制は次第に強化され、軍事産業の「指定金融機関制度」がとられたが、これが戦後の金融系列の始まりである。また統制の一環として銀行の整理統合が行われた。銀行数は、466行(1935年末)→186行(1941年末)→61行(1945年末)と激減した。この体制は戦後もそのまま残され長く続いた(*注4)。
・官僚体制:明治以来の近代的官僚制度は、民間経済活動の保護・育成を主眼としていた。しかし、昭和恐慌(1930〜31年)を契機に経済統制が始まった。1930年代半ばから「事業法」による事業活動への介入が強化される。業界団体の「統制会」が作られ、それを通じて官僚が経済統制を行った。主導したのが革新官僚(*注5)と呼ばれる官僚たちであった。彼らは、「企業目的は(利潤追求ではなく)国家目的のための生産性向上という思想」をもっていた。また革新官僚は、政治家や財界に対して強い不信感を抱いていたが、これはそのまま戦後の官僚に継承されている。現在の官僚たちは、明治時代以来の伝統的官僚ではなく「戦前期の革新官僚の子孫」といえる。なお経団連のルーツも、この「統制会」にある。
・財政制度:戦前期は地租や営業税など外形標準課税が中心であったが、1940年に戦争に備えて税収安定を目的に給与所得の源泉徴収制度が導入された(*注6)。また法人税が導入され直接税中心の税制が確立された。こうして税財源の中央集中化が図られ、補助金を通じて地方財政をコントロールする体制ができて現在に至るまで続いている。
・土地制度:「食糧管理法(1942)」によって地主の地位が低下した。「借地法・借家法(1941)」は、借地・借家人の権利を強化した。こうした土地制度の変革によって、(i)大地主がいない社会(大衆社会)となった、また(ii)大多数の世帯が地主となった。(i)は、「経済成長が社会全体の目的」となることで、(ii)は「政治的な保守性と現状維持志向の基本的条件」を形成することで、戦後日本社会の基本的性格を規定した。
◆戦後の高度成長に最適なシステム
 戦後の日本経済の発展は占領軍による経済民主化政策(農地改革、財閥解体独占禁止法、労働立法)が基盤を作ったとされる。また、平和憲法日米安保が可能にした軽軍備・経済重視政策が優秀な官僚によって主導され、長期政権による安定的政策遂行があいまって高度成長をもたらした。これが「戦後日本がなぜ高度成長ができたのか」という問いに対する一般的な答えである。
 しかし、野口はそうした要因の寄与を「無視できない」としつつも、「経済の基幹的部分では、「1940年体制」がはるかに重要な役割を果たした」とする。戦後の日本経済は、重化学工業、輸出産業が主導したが、「1940年体制」によって確立された「日本型企業」と「間接金融システム」が、両産業の成長に次のような働きをしたとするのである。
 「日本型企業」における終身雇用と年功序列賃金を軸とした雇用慣行は、技術革新による職種転換を可能としたし、労働力の定着力の高さが企業内研修による技能向上を効果的にした。また、企業別労働組合によって新技術導入に対して労組が協力的であったし、共同体としての企業は、内部昇格と手厚い福利厚生を通じて勤労意欲を高めた。
 間接金融方式による資金供給は、高度成長期に必要とされた成長分野(重化学工業、輸出産業)への資源配分を可能にした。戦前期(1930年代半ばまで)の産業資金供給は株式と事業債が中心であったが、既にみたように1930年代後半から貸し出しが増えて比率は逆転する。総力戦体制下では間接金融方式での資金の流れを統制によってコントロールする必要があったからであり、戦後も同様の理由によって継承された。人為的低金利政策がとられ基幹産業と輸出産業に資金を重点的に供給した。人為的低金利政策は金利規制と行政指導による競争制限のための店舗規制によって実現された。また「外国為替管理法」によって国内金融を国際金融から遮断(しゃだん)した。こうした「戦時体制」を維持した金融統制によって資本集約的戦略産業(重化学工業)や輸出産業への資金の重点配分が可能となり、高度成長実現の条件が整備されたのである。
◆「1940年体制」は占領時代になぜ生き残ったのか
 敗戦により日本は連合軍の占領下におかれた。占領の目的は敵国であった日本の非軍事化であり、将来の脅威を排除するために政治、経済の民主化を推進した(*注7)。経済民主化においては、公職追放(民間企業の経営者を含む)、内務省の解体(戦争遂行の中心官庁)、財閥解体(海外市場を欲し戦争の原因をつくった)のように戦争を起こした要因とみなされたものが排除され、日本経済の仕組みが大きく変わった。しかし、官僚機構そのものは生き残った。野口は「政府機構における戦前との連続性は驚くべきものである。消滅したのは軍部だけであり、内務省以外の官庁は、殆どそのままの形で生き残った」とする。大蔵省の役人であった野口は、自分の経験から人事の年次序列が戦前から完全に連続性が維持されていたと述べている。
 なぜ官僚機構が生き残ったのかについて野口は、①占領政策が間接統治方式であり官僚機構を必要としたこと②占領軍の改革方針は不明確で日本の経済システムを根底から変える意図はなかったこと③冷戦の激化で占領政策民主化から共産主義への防波堤作りへと変化したこと(「逆コース」)――を理由にあげている。さらに、米国には日本の官僚制度に関する十分な知識がなかったことやGHQ連合国軍総司令部)内部での意見対立も背景にあったとしている。
 官僚機構と並んで生き残ったものが金融制度であった。野口の解釈は、当初占領軍は、間接金融から米国型直接金融中心への抜本的な金融改革案をもっていたが、大蔵省・日銀の抵抗と連合軍総司令部の無理解もあって実現しなかったというものである。中でも、独占的支配力のある企業の分割を目的とした「集中排除法」の適用を金融機関が免れたことによって、戦時体制の金融構造が温存されたとするのである。
◆野口の問題意識―「1940年体制」の何が問題か
 野口は、「1940年体制」が「高度成長実現の基本的要因」となったこと、成長がもたらした豊かさが「あらゆる階層の国民が等しく享受した」ことを積極的に評価する。問題は、「高度成長が終了したあとも、そこから転換がなされなかったこと」だとするのである。
 日本経済に関する野口の問題意識は、東アジア(特に中国)の発展という環境の大変化に対応するためには、大量生産中心の製造業からの産業構造の転換が不可欠だという点にある。目指すべきはハイテクや情報処理などの高付加価値産業であるが、「1940年体制」が構造改革の障害となっていると批判する。特に「日本型企業」は、1990年代以降、終身雇用の実質的崩壊、非正規雇用の増加などによって変化がみられるとしつつも、依然その閉鎖性が企業間の労働移動を阻害している点が問題だと考える。第一の問題点として、企業間の労働力移動、特に経営者の移動が無いことを指摘する。市場が存在しないのは、大企業の幹部は「経営の専門家でなく、その組織の内部事情の専門家」であるからだと辛辣である。第二の問題点は、「利益の獲得を罪悪視し、従業員の共同体的性格が強い組織の存続を何よりも重要な目的とする」点にあるとする。また財界も、外資を排除することに熱心で、資本主義の論理を否定しているとする。人と資本で日本を外に向けてもっと開くべきだと主張するのである。
 日本型企業の雇用慣行は、新古典派の「効率―公正」モデル(市場を通じた効率性の追求)の前提が通用しない雇用慣行であった。野口はグローバルスタンダードに合わせて雇用慣行を変更すべき時期だと訴える。その論拠として、「1940年体制」という戦時体制の特殊性を強調し、「日本的なもの」というのは思い込みに過ぎないとする。そして本書を「グローバリゼーションの中で、鎖国から脱却しよう」と結んでいる。
◆前編のまとめ
 本書の論点は二つある。第一は「1940年体制」という視点をどう捉えるべきか、第二は、同体制の特徴である資本、労働の閉鎖性が日本経済の長期停滞の原因であり開放型に転換すべきという主張についてである。
 二つの論点に関する野口と前回取り上げた松原隆一郎の主張は対照的なので、両者を比較することで本書の論点を整理したい。まず、松原は「日本型経済システム」を自然発生的な制度・規制・慣行の集積と見ている。野口は、システムの諸要素の原型は戦時体制に適合するように政府によって強制的に作られたと考える。「日本型経済システム」が高度成長に貢献したと評価する点は同じであるが、松原はそれらの「構造」が市場の不確実性を縮減させることで高度成長に寄与したとする。一方野口は、システムが大組織による垂直統合型大量生産に適していたからだと考える。さらに、その後の経済環境の変化に対する対応についても意見が分かれる。野口は、「1940年体制」は生産者優先主義の理念を持ち製造業の大規模生産に適していたが、新興国の台頭で先進国の製造業が優位性を失った。日本は脱工業化の進展を図り、垂直統合型大企業システムから分権システムへの移行が必要だが、最後に残った日本型企業(終身雇用、年功序列賃金、産業別労働組合など)がもつ人材と資本の閉鎖性がその障害となっていると考える。しかし松原は、日本型経済システムの崩壊によって市場の不確実性が増加していることが将来不安につながり消費が伸びない原因であると経済への影響を指摘する。さらに労働分野において人間労働を守るために不確実性を抑制する仕組み(社会的規制)が必要だと説く。
 第一の論点である「1940年体制」についての本書の分析は説得力がある。その視点は、現在の経済や社会の仕組みの背後にある本質を射抜く力を持っていると思う。ものの本質が明らかになると、所与としていた経済や社会の仕組みが違って見えてくる。政府が強制的に作ったものならば、変えることも可能だと分からせてくれたことは大きな功績であり、野口の視点は貴重だ。こうした戦時体制に現在につながる諸要素を見いだすという手法は、「総力戦体制」論と呼ばれる歴史学者の議論と深い関連を持つ。しかしながら、野口の主張には「総力戦体制」論が提起する歴史観と大きな隔たりがあるように感じる。そしてそれが次の第二の論点に関する野口の主張への違和感につながってくるのである。
 第二の論点に関する野口の主張、すなわち労働市場をグローバルスタンダードに合わせるという意見には同意し難い。野口は前稿で見た「効率―公正」モデルの立場に立って市場を通じた合理性、効率性の徹底を説いている。これに対し松原は「不確実性―社会的規制」モデルの立場から労働に関する社会的規制の必要性を主張するのであり、松原の主張により納得性を感じるのだ。
 今回の二つの論点については、後編でさらに考えたい。
 参考図書
 『1940年体制―さらば戦時体制』野口悠紀雄著 東洋経済新聞社(2010年増補版、なお初版は1995年)
 『経済政策―不確実性と社会的規制』松原隆一郎著 NHK出版(2017年)
 (*注1)野口悠紀雄(1940年〜):大蔵省出身の経済学者。一橋大学名誉教授。専攻はファイナンス理論、日本経済論。
 (*注2)松原隆一郎(1956年〜):放送大学教授、東京大学名誉教授。専攻は社会経済学、経済思想。拙稿第16回マルクスの思想で松原の『経済思想入門』(ちくま学芸文庫)を参考図書とした。
 (*注3)戦前期日本の株式市場の規模はGDP比で1前後あり(1934年には約2.5あった)、戦後のそれ(高度成長期に0.2〜0.3)より格段に高い。また国際比較でも上場株式時価総額GDP、株式売買高/GDPのいずれの比率においても米国より高い。(参考資料:『戦前日本における資本市場の生成と発展』 一橋大学経済研究:岡崎哲二、浜尾泰、星岳男、2005年)
 (*注4)日本の銀行の歴史を調べると、多くが戦時期に合併を経験している。例えば三井銀行と第一銀行が合併して帝国銀行となったのが1943年。同じ年に三菱銀行第百銀行を吸収合併しているし、三和(1933年)、東海(1941年)、埼玉(1943年)、協和(1945年)の各銀行は大合併によって生まれている。戦時期に形成された体制は、1990年代終わりの金融危機による長期信用銀行都市銀行の再編まで続いた。地方銀行の再編は、金融環境の変化を背景にこれから本格化するものと思われる。
 (*注5)革新官僚とは、国家の統制を強化することで日本を変えようとする官僚を指す。その政策は計画経済など社会主義的な要素があり、財界と対立した。岸信介(後の首相)、星野直樹(企画院総裁、A級戦犯)らが知られるが、戦後自民党だけではなく社会党(例えば和田博雄)に入って活躍する点に革新官僚が持つ社会主義的要素が現れている。
 (*注6)源泉徴収制度は、18世紀末にナポレオン戦争の戦費調達を目的とした英国の例があるが、国民大衆を対象とした制度はナチス・ドイツが始めた。日本の制度はこれに倣ったとされる。(出所:Wikipedia
 (*注7)第13回〜15回の『敗北を抱きしめて』を参照されたい。
 『視点を磨き、視野を広げる』過去の関連記事は以下の通り
 第15回『敗北を抱きしめて』―占領と近代主義の全面的受容(3)
 https://www.newsyataimura.com/?p=7262#more-7262
 第14回『敗北を抱きしめて』―「占領による近代主義の受容」(2)
 https://www.newsyataimura.com/?p=7218#more-7218
 第13回『敗北を抱きしめて』——占領による近代主義の受容(1)
 https://www.newsyataimura.com/?p=7130#more-7130
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よみがえる戦時体制 治安体制の歴史と現在 (集英社新書)
1940年体制―「さらば戦時経済」

⚜8〗9〗─1─昭和天皇と1940年体制が共産主義の敗戦革命を潰した。~No.20No.21No.22No.23No.24No.25 

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 革命的祖国敗北主義とは、第一次世界大戦中のロシア帝国において、ボリシェヴィキのウラジミール・レーニンメンシェヴィキの「革命的祖国防衛主義」に対して主張した理論。言葉は似ているが、共産主義者同盟をはじめとする日本の新左翼が主張した革命的敗北主義とは別の概念である。革命的敗戦主義ともいう。
 概要
 パリ・コミューンロシア革命、ドイツ革命の例に見られるように、「祖国の敗戦」という国難が革命勃発のきっかけとなっている。
 これらの実例から、帝国主義下にある自国が対外戦争に参戦した場合、第二インターナショナルの社会民主主義者たちのように自国の勝利のために挙国一致で戦うのではなく(城内平和)、戦争への協力を拒否し、その混乱や弱体化に乗じて革命で政権を掌握させるべきとした。具体的には、反戦運動により厭戦気分を高揚させることで自国の戦争遂行を妨害したりすることなどである。
 しかしこれは戦争犯罪である戦時反逆、また各国の国内法による処罰の対象となるどころか、国家権力に「共産主義者売国奴、敵国のスパイ(第五列)」という格好の攻撃材料を提供することになり、一般国民の共産主義に対する嫌悪感を増しかねない。事実、第一次世界大戦後のドイツにおいては「ドイツの敗戦と屈辱的な講和の原因は、革命を起こし休戦協定に署名した社会民主党や独立社会民主党スパルタクス団(後のドイツ共産党)などの共産主義者ユダヤ人による裏切り、陰謀、背後の一突きである」とする主張が右翼勢力によってなされており、ナチスもこの主張を強く支持していた。
 第二次世界大戦、特に独ソ戦が起きてからはコミンテルンアメリカ・イギリス・フランス・中国のような連合国の共産党支部に対ファシズム戦争への統一戦線、人民戦線、国共合作として自国政府の参戦を支持させて革命的祖国敗北主義は事実上放棄したが、前大戦のように右翼勢力からは枢軸国では砕氷船理論のような革命的祖国敗北主義が実行されたとする主張もある。
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 革命的敗北主義とは、日本の新左翼の政治思想の一つ。言葉は似ているが、革命的祖国敗北主義とは別の概念である。
 概要
 「革命はいつか必ず成就する」というのが、新左翼の信念である。しかし、革命に至るには多くの闘争を経なければならない。そのため個々の闘争は妥協を許さず、かつての日本軍の玉砕のように自己を犠牲にしてでも「革命的敗北」を貫徹しなければならないとする。これらの積み重ねによって、はじめて革命が成就するという考え方である。
 ブント系党派で多く唱えられたことから、別名「ブント主義」ともいう。「捨石運動論」という別名もある。
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 1940年体制とは、昭和15年に近衛文麿首相、東条英機陸相松岡洋右外相らが戦争遂行の為につくった国家総力戦体勢である。
 それは、マルクス主義社会主義統制経済・計画経済で、国家主導による対外進出の護送船団方式である。
 1940年体制のもと天皇・国家・国民=民族そして軍部が一丸となって、政府決定に従って団結し行動した。
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 リベラル派戦後民主主義世代とその薫陶を受けた次世代は、1940年体制の恩恵を受た勝ち組世代であり、日本経済を衰退させ時代遅れのアナログ社会にした逃げ切り世代である。
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 日本国内の共産主義化したキリスト教の赤い牧師・赤い神父、仏教の赤い僧侶、儒教の赤い学者は、日本を共産主義国家に改善するには日本国・日本民族の要である天皇制度の廃絶が必要であるとして、天皇の戦争責任・天皇戦争犯罪昭和天皇を追いつめて退位させ追放し、天皇家・皇室を人民の敵であるというして消滅させようとした。
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 昭和天皇が日本を共産主義化させない為に、左翼・左派やリベラル派・革新派そして一部の保守派やメディア関係者らの激しい批判・非難に耐え退位しなかった。
 共産主義勢力が支配したソ連や中国では、大虐殺が繰り返されていた。
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 日本人共産主義テロリストは、キリスト教朝鮮人テロリスト同様に昭和天皇と皇族を惨殺する為につけ狙っていた。
 ソ連コミンテルン中国共産党・国際共産主義勢力は、日本を転覆させ破壊しようとした日本人共産主義テロリストを支援していた。
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 ロシア人共産主義者は、逃げ惑う日本人難民(主に女性や子供)を大量虐殺して日本領北方領土4島を強奪した。
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 日本の新左翼は、日本において新左翼と呼ばれる政治思想や政治運動、政治勢力のこと。日本の場合、新左翼の対比語である既成左翼は旧日本社会党日本共産党を指す。
 1950年代以降、欧米などの先進国を中心に既存の社会主義国や伝統的な社会主義共産主義勢力などを「既成左翼」と呼んで批判する、「新左翼」(ニューレフト)運動が台頭した。日本でも1955年に当初の暴力革命路線の放棄を表明した日本共産党日本社会党などに対し、より急進的な革命や暴力革命を掲げて、直接行動や実力闘争を重視した運動を展開した諸勢力が、特に大学生などを中心に台頭した。特に安保闘争ベトナム反戦運動などに大きな影響を与えたが、70年安保以降は内ゲバや爆弾闘争などのテロリズムもあり、大衆の支持を失い影響力は低下した。
 「新左翼」は「既成左翼」と対比した呼称であり、特定の思想や党派を意味するものではなく、相互に批判し合う思想・立場・党派も含まれ、その範囲は立場によっても変化する。一般には、反帝国主義スターリン主義批判などの基本路線では一致していたが、イデオロギー的にはアナキズムマルクス主義レーニン主義トロツキズム毛沢東主義左翼共産主義など)、構造改革派、などの幅をもつ。
 呼称
 「新左翼」は、日本では日本共産党日本社会党などの「既成左翼」と対比させた用語。マスコミ用語では、1967年の羽田事件の頃は「反代々木系」、その後は「新左翼」、更に武装闘争など過激な路線を採用した一部に対しては「過激派」と呼んだ。警察白書などでは「極左集団」「極左暴力集団」など。日本共産党はこれらの団体を、当初は「トロツキスト」または「トロツキスト暴力集団」、1980年代以降は「ニセ「左翼」集団」または「ニセ「左翼」暴力集団」と呼んでいる。
 概要
 日本においては、ヨシフ・スターリンが創設したコミンテルン第三インターナショナル)日本支部の系譜であった日本共産党による方針や、同党の二段階革命論及び一国社会主義論、日本社会党の平和革命論を拒否し、独自の社会主義運動を追求すると主張した。
 コミンテルン系譜の共産党を、スターリン主義として批判する立場に立っているタイプは、「一国社会主義」を掲げるヨシフ・スターリンと敵対し、「世界革命」を主張したレフ・トロツキートロツキズム)の復権や、「真のマルクス・レーニン主義」あるいは「反スターリン主義」を思想的旗印にする(主に革命的共産主義者同盟系各派、あるいは共産主義者同盟系各派)。また、スターリン主義発生のルーツをレーニン主義にまで遡って批判する解放派は、「前衛党指導主義」を批判し、「大衆の自然発生性」を評価した「ローザ・ルクセンブルク主義」を掲げている。新左翼は、理想主義的ラジカリズムを掲げ、社会党共産党の「議会革命」方針に「暴力革命」を対置・強調した。
 新左翼の運動は、世界的に「スチューデント・パワー」が高揚した1968年を頂点に一定の大衆的支持を得たが、70年代に入り支持が離れていくにつれて、爆弾闘争などのテロリズムと激しい左翼運動内部の抗争(いわゆる内ゲバ)を繰り広げていくことになる。
 また、共産主義が持つ「独裁主義体制」を批判し、共産主義新左翼の側からは「反共的極左」と呼ばれる無政府主義アナキズム)が存在し、共産主義者と抗争を繰り返した。彼らは、カール・マルクスと敵対したミハイル・バクーニンの影響を受けている。
 警察調べで、2010年代を迎えた現在、日本の新左翼(過激派)の構成員は全ての党派を合わせて約2万人いるとされる。ピークは1969年の5万3500人であり、2014年現在はその半分以下ほどの人員である。
 なお、右翼団体(主に街宣右翼)と異なり日本の新左翼組織は「政治団体」として総務省に届け出をしていない組織が多い(日本労働党などは届け出をしている)。政治資金規正法では、(1)「政治上の主義若しくは施策を推進し、支持し、又はこれに反対すること」、(2)「特定の公職の候補者を推薦し、支持し、又はこれに反対すること」といった活動をしている組織は全て政治団体であり、届け出をしなければならないことになっている。すなわち、この時点で政治資金規正法違反であるし、また、政治資金収支報告書も存在しないため、組織の活動資金の収支や出所が判然としない。
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 産経新聞iRONNA
 関連テーマ
 共産主義の戦争責任を問う
 戦後70年を迎え、改めて注目される日本の「戦争責任」。本当に、日本だけが悪かったのか。日本は侵略国家だったのか。この問題を考える一助として、近年保守論壇を中心に注目されている「共産主義の戦争責任」についてシリーズで論じたい。
 「日米を戦わせよ」1920年のレーニン演説とスターリンの謀略
 『月刊正論』 2014年6月号
 福井義高(青山学院大学教授)
 {「レーニンに比べたら我々は皆ひよっこだ」ヨシフ・スターリン
 コミンテルン陰謀史観と反共資本主義陰謀史観
 20世紀前半の日本の歴史にソ連共産主義が多大な、場合によっては決定的影響を与えたとする歴史認識が、保守言論界に広まっている。
 それによれば、支那事変は日本軍を中国に釘付けにして中国国民党との戦いで疲弊させ、弱体化を図るとともに「北進」を妨げてソ連を防衛し、国民党に追い詰められていた中国共産党を助けるために始められた。あるいは、何の益もないのに停戦せずに戦いが続いた。
 さらに、日本が「南進」からアメリカとの戦争に至ったのも、ソ連を日本の攻撃(北進)から守り、日本を対米戦に仕向けて敗北させ、その混乱に乗じて共産主義革命を起こすという「敗戦革命」謀略だった──。
 一方で、そんな議論は妄想にまみれた「コミンテルン陰謀史観である、と切って捨てるのが日本の歴史研究者の「王道」のようである。
 コミンテルン第三インターナショナル、国際共産主義組織)の陰謀ないしは謀略は、本当に実在したのであろうか。
 ヨシフ・スターリン治世下のソ連において、ごく少数のトロツキスト等を除けば、スターリンと別の意思を持った共産主義者の組織など世界中のどこにも存在しなかった。コミンテルン諜報機関も、はたまた日本を含む各国共産党もすべてスターリンの手駒に過ぎなかった。「コミンテルン」という形容詞は、スターリン時代の共産主義の本質を見えにくくする。したがって、上述のような歴史観は、「コミンテルン」ではなく、「スターリン」、「ソ連」あるいは「共産主義陰謀史観ないしは謀略史観と呼ぶべきであろう。
 米露の著名なソ連研究者アーチ・ゲッティとオレグ・ナウーモフが指摘しているように、スターリン以下共産党幹部は、十月革命(1917年)とその後の権力掌握という成功体験から、自らが歴史の産婆役であることを確信し、共産主義の理想と、その実現に自分たちが不可欠であることを本当に信じていた。自分たちの政策が誤っていると想像することなど心底不可能だったのである。もし思わしくない事態が生じたら。それは彼らの無私の努力を妨害する陰謀に満ちた「邪悪な力」(conspiratorial“dark forces”)が働いているに違いないのだ(『大粛清への道』川上洸・萩原直訳)。
 ウラジーミル・レーニンの指導下、十月革命を成功させ、その死後、スターリンに率いられた共産主義者が「反共資本主義陰謀史観」の虜であったことは確かである。当然ながら、この「労働者階級の前衛」たちは、相手が邪悪な陰謀をしかけてくる以上、それに対抗せざるを得ない。しかも、全世界共産化という自らの理想は絶対に正しいのだから、謀略や陰謀はもちろん、破壊工作、テロ、さらには虚偽宣伝までどのような手段も許される。
 共産主義者が世界共産革命実現を目指すうえで、謀略工作あるいは陰謀を主要な手段の一つとしていたことは否定できない事実である。近年世界各国で進められている、ソ連崩壊後の資料公開に基づく研究がそのことを明らかにした。検討すべき問題は、もはやその存在の有無ではなく、実際にどれだけ有効に機能したか否かであろう。
 ここでは、共産党による政権奪取直後から1939年9月の第二次大戦勃発(欧州戦線)までの対日を中心とするソ連外交と世界史の流れを、レーニン及びスターリン自身の発言に沿いながら見て行きたい。
 この時代の共産主義者による数々の謀略工作あるいは陰謀については、すでに日本でも多くの文献がある。しかし、これまでの議論ではその細部にこだわる余り、レーニン及びスターリンという謀略工作の最高責任者の言動の検証が疎かになっていたからである。
 レーニンの基本準則
 レーニンは1920年12月6日の「ロシア共産党ボルシェビキ=以下「ボ」)モスクワ組織の活動分子の会合での演説」で、全世界で共産主義が最終的に勝利するまでの基本準則(правило основное)というものが存在すると主張した。
 {二つの帝国主義のあいだの、二つの資本主義的国家群のあいだの対立と矛盾を利用し、彼らをたがいにけしかけるべきだということである。われわれが全世界を勝ちとらないうちは、われわれが経済的および軍事的な見地からみて、依然として残りの資本主義世界よりも弱いうちは、右の準則をまもらなければならない。すなわち、帝国主義のあいだの矛盾と対立を利用することができなければならない。}
 このくだりはコミンテルン謀略史観の「バイブル」である『戦争と共産主義』(昭和二十五年、三田村武夫著、のちに『大東亜戦争スターリンの謀略』として復刊)にも引用されている。ただし、右記に続けて、レーニンが資本主義社会において共産主義者が「利用すべき根本的対立」として挙げた以下の内容は日本国内ではあまり知られていない。
 {第一の、われわれにもっとも近い対立──それは、日本とアメリカの関係である。両者の間には戦争が準備されている。両者は、その海岸が三〇〇〇ヴェルスタ[ほぼキロメートルと同じ]もへだたっているとはいえ、太平洋の両岸で平和的に共存することができない。…地球は分割ずみである。日本は、膨大な面積の植民地を奪取した。日本は五〇〇〇万人の人口を擁し、しかも経済的には比較的弱い。アメリカは一億一〇〇〇万人の人口を擁し、日本より何倍も富んでいながら、植民地を一つももっていない。日本は、四億の人口と世界でもっとも豊富な石炭の埋蔵量とをもつ中国を略奪した。こういう獲物をどうして保持していくか? 強大な資本主義が、弱い資本主義が奪いあつめたものをすべてその手から奪取しないであろうと考えるのは、こっけいである。…このような情勢のもとで、われわれは平気でいられるだろうか、そして共産主義者として、「われわれはこれらの国の内部で共産主義を宣伝するであろう」と言うだけですまされるであろうか。これは正しいことではあるが、これがすべてではない。共産主義政策の実践的課題は、この敵意を利用して、彼らをたがいにいがみ合わせることである。そこに新しい情勢が生まれる。二つの帝国主義国、日本とアメリカをとってみるなら──両者はたたかおうとのぞんでおり、世界制覇をめざして、略奪する権利をめざして、たたかうであろう。…われわれ共産主義者は、他方の国に対抗して一方の国を利用しなければならない。…
 もう一つの矛盾は、アメリカと、残りの資本主義世界全体との矛盾である。…アメリカはすべての国を略奪し、しかも非常に独創的な仕方で略奪している。アメリカは植民地をもっていない。…イギリスは、強奪した植民地の一つにたいする委任統治…をアメリカに提供したが、アメリカはそれを受けとらなかった。…しかし、この植民地を他の国々が利用するのを彼らが容認しないことは、明らかである。…
 第三の不和は、協商国とドイツとのあいだにある。ドイツは敗戦し、ヴェルサイユ条約でおさえつけられているが、しかし巨大な経済的可能性をもっている。…このような国にたいして、同国が生存していけないようなヴェルサイユ条約がおしつけられているのである。ドイツはもっとも強大で、先進的な資本主義国の一つであって、ヴェルサイユ条約を耐えることはできない。だから、ドイツは、それ自身帝国主義国でありながら、圧迫されている国として、世界帝国主義に対抗して同盟者を探しもとめなければならない。}
 歴史は第二次大戦まで、ほぼこのレーニンの基本準則に従って推移した。「自然」とそうなった、あるいはレーニンの「科学的社会主義」に基づく「歴史の発展」予測が正しかったのではない。次節以下で示すように、レーニンの「遺言」を継いだスターリンが自覚的にそのように仕向けたのである。
 臥薪嘗胆、好機を待つスターリン
 1923年のドイツでの武装蜂起失敗が象徴するように、欧州赤化の可能性が遠のくと、レーニンの後釜に座ったスターリン主導の下、ソ連は内向きになったかのように見えた。いわゆる一国社会主義路線である。しかし、それは来るべき「資本主義国」すなわちソ連以外の国々との対決に備えた臥薪嘗胆の時期であった。ソ連の第一次及び第二次五カ年計画では、軍備増強がすべてに優先した(デーヴィッド・ストーン『ハンマーとライフル』、未邦訳)。
 もちろん、臥薪嘗胆とはいえ、共産主義者を使った破壊工作は継続していた。コミンテルンは1928年に、そのものずばり『武装蜂起』(Der bewaffnete Aufstand)と題する各国共産主義者に向けた「実用的」な教科書を編集、(偽名で)発行している。執筆者はホー・チー・ミンや後に粛清される赤軍の「ナポレオン」ミハイル・トゥハチェフスキーをはじめ錚々たる顔ぶれであり、失敗に終わった中国共産党の広東蜂起(1927年)や上海自治政府樹立(同)の事例が詳細に分析されている。
 そして、スターリンが決してレーニンの基本準則を忘れたわけではないことは、1925年1月19日、「ロシア共産党(ボ)中央委員会総会での演説」を見ればわかる。いずれ必ず来る戦争を前に共産主義者はどう行動すべきか。
 {そのような情勢にたちいたったさい、われわれがぜひともだれかにたいして積極的な行動をおこさなければならないということを意味しない。…われわれの旗は、依然としてこれまでのように平和の旗である。しかし戦争がはじまれば、手をこまねいているわけにはいかないであろう、─われわれは、のり出さなければならないであろう、もっとも、いちばんあとでのり出すのであるが、われわれは秤皿に決定的なおもりを、相手かたを圧倒しうるようなおもりを、なげいれるためにのり出すであろう。}
 資本主義国が内ゲバで弱ったところに、最後の一撃を加えて世界革命を完遂するという大原則に、最初からスターリンほど忠実な革命家はいなかったのだ。そしてスターリンが仕掛けたのは「最後の一撃」だけではなく、資本主義列強を弱らせる「内ゲバ」だったのである。
 日本を翻弄するスターリン
 満州問題たけなわの1932年6月12日(より以前)、スターリンは側近の政治局員ラーザリ・カガノヴィッチに、日本に対して英米とは異なり、必ずしも滿洲国承認の可能性を否定せず、あいまいな態度を取るとともに、アメリカへの接近を指示する(1933年に国交樹立)。日米対立の利用である。
 {政治局は国際関係において最近生じた大きな変化を考慮に入れていないようだ。そのなかで最も重要な変化は、中国では日本にとって有利に、欧州では(とくにフォン・パーペン[独首相]への権力移行後)フランスにとって有利に、アメリカ合衆国の影響力が低下しはじめたことである。これはきわめて重要な情勢だ。これに応じて、アメリカ合衆国ソ連との連携を模索するだろう。そして、すでにそれを求めている。その一つの証拠がアメリカで最も有力な銀行の一つ[ニューヨーク・ナショナル・シティー銀行]の代表ランカスターの訪ソだ。この新しい情勢を考慮に入れよ。}
 そのすぐ後の1932年6月20日には、カガノヴィッチと首相ヴャチェスラフ・モロトフに今度は日中対立を利用して、日ソ不可侵条約締結を目指すよう指示する。
 {もし日本が実際に条約に動きだすとしたら、おそらくそうすることで、どうやら日本が真剣に信じていると思われる我々の対中条約交渉を頓挫させることを望んでいるからだ。だから、我々は中国との交渉を打ち切るべきではないし、逆に、我々の対中接近という見通しで日本を脅かして、それによってソ連との条約調印に日本を急き立てるために、対中交渉を継続して長引かせる必要がある。}
 この時は見送られたものの、日本は独ソ開戦の直前、1941年4月に日ソ中立条約を締結する。バルト三国フィンランド後述するポーランドなど、不可侵条約を結んでおいて、侵略(スターリンから見れば解放)するのがソ連の常套手段であり、もちろん、日本も例外ではなかった。
 満州国との領事交換に同意するなど、アメリカとは異なり、表向きは対日宥和のポーズをとりつつ、1933年10月21日、スターリン反日キャンペーン強化を指示する。
 {私が見るところ、日本に関し、また総じて日本の軍国主義者に敵対する、ソ連及びその他全ての国々の世論の、広範で理にかなった(声高ではない!)準備と説得を始める時がきた。…日本における習慣、生活、環境の単に否定的なだけではなく、肯定的側面も広く知らしめるべきである。もちろん、否定的、帝国主義的、侵略的、軍国主義的側面をはっきり示す必要がある。}
 実際、10月26日からプラウダ反日プロパガンダ記事が次々と掲載される。「肯定的側面も」というところが、さすがにプロの謀略家である。それにしても、具体的にパンフレットの名前(『日本における軍国ファシスト運動』)まであげるなど、その指示の細かさには驚かされる。日本の「アジア侵略の青写真」として喧伝された偽造文書「田中上奏文」が世界中で急速に浸透した背景に、こうした日本重視のブラック・プロパガンダ戦略があったことは間違いないだろう。
 しかし、スターリンを激怒させる事件もあった。朝鮮人を使った滿洲での対日テロ活動が露呈したのである。スターリンは1932年7月2日(より以前)、カガノヴィッチに当事者の厳罰を命じる。
 {さる朝鮮人爆破工作員たちの逮捕とこの事案への我が組織の関与は、日本との紛争を誘発する新たな危険を作り出す(あるいはしかねない)。ソビエト政権の敵以外、いったい誰がこんなことを必要とするのか。必ず極東指導部に問い合わせて、事態を解明し、ソ連の利益を害した者をきちんと処罰せよ。このような醜態はもう許さない。…この紳士たちが我々の内部にいる敵のエージェントである可能性は高い。}
 ここにも、スターリンの「反共資本主義陰謀論」が表れている。自国諜報機関が工作に失敗すると、それは内部に侵入した敵の仕業と考えるのである。
 ところで、日本ではソ連スパイというとリヒャルト・ゾルゲを過大視する傾向があるけれども、実際、ゾルゲは数あるスパイの一人に過ぎない。諜報活動にも詳しいソ連研究者、黒宮広昭インディアナ大教授も指摘しているように、支那事変が勃発した1937年夏の時点で、日本と滿洲国には2千人の明らかなスパイと5万人のエージェント(本人に自覚がない場合も含む)がいると日本政府は見ていた。ヴェノナ文書が明らかにしたアメリカでのソ連スパイ活動の規模から考えて、この数字は日本の治安当局の誇大妄想とはいえない。
 支那事変に至るまでの共産主義者の策動については多くの文献があるので、ここでは繰り返さない。支那事変以降のスターリンの対日政策については、黒宮教授の表現を借りれば、以下のようにまとめられる。「スターリンの目的は、日本を可能なかぎり弱体にし、ソ連から遠ざけておくことにあった。これは要するに、日本を中国に釘付けにし、その侵略を米英に向けさせるということである。結局、日本はその後数年まさにその通りに行動することとなった」
 スターリンに翻弄される日本とは対照的に、我が国の対ソ政策はソ連側に筒抜けであった。ロシア人と結婚してスパイとなった外交官泉顕蔵を通じ、ソ連は外交暗号解読書(code book)を入手していたのである。
 盧溝橋事件発生翌月の1937年8月、ソ連は中国(国民政府)と日本を念頭に置いた不可侵条約を結び、日本軍が中国で泥沼に陥ることで、ソ連に目が向かないよう、大規模な軍事支援を行う。11月18日にスターリンは、楊杰上将(のちに駐ソ大使)が率いる中国代表団に、ソ連だけでなく、アメリカやドイツからの武器調達の必要性を説き、さらには「信用ならない」イギリスとの連携にも努めるよう促した後、次のような踏み込んだ発言を行っている。
 {ソ連は現時点では日本との戦争を始めることはできない。中国が日本の猛攻を首尾よく撃退すれば、ソ連は開戦しないだろう。日本が中国を打ち負かしそうになったら、その時ソ連は戦争に突入する。}
 ソ連参戦が蒋介石政権を助けるためではなく、日中が疲弊し切ったところで、両者に最後の一撃を加えるためであることはいうまでもない。
 スターリンはさらに1939年7月9日、蒋介石にこう語った。
 {今まで二年続いた中国との勝てない戦争の結果、日本はバランスを失い、神経が錯乱し、調子が狂って、イギリスを攻撃し、ソ連を攻撃し、モンゴル人民共和国を攻撃している。この挙動に理由などない。これは日本の弱さを暴露している。こうした行動は他の全ての国を一致して日本に敵対させる。}
 まさに、スターリンの高笑いが聞こえてくるかのようである。日本が対米英中のみならず、ソ連に対しても侵略を着々と準備したうえで戦争を始めたという東京裁判史観は、とりわけスターリンにとって片腹痛い、戦前日本の「過大」評価である。1938年2月7日、日本について立法院長孫科にスターリンが語った次の言葉の方が真実に近いであろう。
 歴史というのは冗談好きで、時にその進行を追い立てる鞭として、間抜け(дурак)を選ぶ。
 戦争挑発に舵を切るスターリン
 極東及び欧州で風雲急を告げるなか、共産党中央委員会名で1938年に刊行された『ソ連共産党小史』に見られるように、スターリンは、アドルフ・ヒトラー政権成立以降の民主主義対ファシズムという構図に基づく人民戦線路線から再度転換し、共産主義と資本主義の対立軸を前面に打ち出す。
 『共産党小史』刊行を受けたプロパガンダ担当者会議開催中の1938年10月1日、スターリンは大演説を行う。以下はその一部である。
 {戦争の問題に関するボルシェビキの目的、全く微妙なところ、ニュアンスを説明する必要がある。それは、ボルシェビキは単に平和に恋焦がれ、攻撃されたときだけ武器を取る平和主義者ではないことだ。それは全く正しくない。ボルシェビキ自らが先に攻撃する場合がある。戦争が正義であり、状況が適切であり、条件が好都合であれば、自ら攻撃を開始するのだ。ボルシェビキは攻撃に反対しているわけでは全然ないし、全ての戦争に反対してもいない。今日、我々が防御を盛んに言い立てるのは、それはベールだよベール。全ての国家が仮面をかぶっている。「狼の間で生きるときは狼のように吠えねばならぬ」(笑)。我々の本心を全て洗いざらい打ち明けて、手の内を明かすとしたら、それは愚かなことだ。そんなことをすれば間抜けだといわれる。…
 実は、レーニンは資本主義の跛行的発展状況の下、個々の国での社会主義の勝利が可能である、なぜなら跛行的発展つまり遅れる国がある一方、先に進む国があるのだから、と教えてくれただけではなく、レーニンはまた、ある国は遅れる一方、別の国は先に進み、ある国は努力する一方、別の国はもたもたするので、同時の一撃は不可能だという結論にも達していたのだ。…
 異なった国の間で社会主義への成熟度合いが異なっており、この事態に直面して、全ての国で同時に社会主義が勝利する可能性があるなどとどうして語りうるのか。全くばかげている。そんなことはかつても不可能であったし、今日においてもあり得ない。どういうわけか、この観点を隠して、個々の国で社会主義の勝利が可能であることだけに言及することは、レーニンの立場を完全に伝えていない。}
 革命家スターリンの面目躍如たる発言である。レオン・トロツキーのような世界同時革命論ではなく、機が熟した(熟すよう仕向けた)国から徐々に武力で共産化していくという自らの方針こそ、レーニンに忠実な真の世界革命への道であるという強い自負が示されている。
 さらにスターリンは、1939年3月10日の第18回共産党大会における報告でも、社会主義すなわちソ連と資本主義の対立という構図を前面に出し、英仏を念頭に自らの立場を明確にした。
 慎重を旨とせよ、そして、他人に火中の栗を拾わせる(загребать жар чужими руками)ことを常とする戦争挑発者が我が国を紛争に引っ張り込むことを許してはならない。
 五か年計画による軍備増強で世界最大の軍事強国となり、大粛清で独裁体制を完全なものにしたスターリンは、この頃から資本主義国間の対立をさらに激化させ、戦争を煽るるべく行動を開始する。
 共産党大会直後に起こったドイツのチェコ併合にも、ソ連は形式的抗議を行っただけで、英仏の宥和政策から強硬姿勢への転換とは好対照であった。英独対立が深刻化するなか、1939年5月には、イギリス人を妻とし英米仏で受けがよかったユダヤ人マクシム・リトヴィノフ外相が解任され、首相のモロトフが外相兼務となり、独ソ連携の動きは加速する。
 ノモンハンでのスターリンの謀略
 さらに、極東では同じ時期、ノモンハン事件が勃発する。上述の黒宮教授は綿密な資料調査に基づき、従来の議論とは根本的に異なるこの事件の背景を、2011年にスラブ圏軍事研究に関する学術誌(Journal of Slavic Military Studies、24巻4号)に掲載された論文「一九三九年ノモンハンの謎」で明示した。関東軍の第二十三師団長小松原道太郎中将がソ連のエージェントだったというのである。
 黒宮教授は次のようなスターリンの演説(1937年3月3日)からの引用で始める。
 {戦争時に戦闘で勝利するには何軍団もの赤軍兵士が必要であろう。しかし、前線でのこの勝利を台無しにするには、どこか軍司令部あるいは師団司令部でもいい、作戦計画を盗んで敵に手渡す数名のスパイがいれば十分だ。}
 したがって、「ハイラルに小松原がいることは、日本の行動を挑発し、厳しい軍事的教訓を与えるのに絶好の機会であった。これこそスターリンが考えていたことだったように思える。」。
 スターリンの狙いはずばり当たった。「ノモンハンは、ソ連に敵対する北方ではなく、米英蘭の権益に敵対する南方に向かうというその後の決断に決定的影響を与えた。ノモンハンは日本の対ソ野望に対するスターリンのとどめの一撃(coup de grace)となったわけである。モスクワがノモンハンで攻撃を挑発したのだとしても、それに応じたのは日本の致命的誤りであった。」
 最後に黒宮教授はこの論文をこう締めくくる。「ノモンハンはスパイの重要性に関するスターリンの発言が正しいことを示した。小松原がいなければ、ノモンハンは起きなかったかもしれない。ソ連の勝利が保証されなかっただろうことは確かである。小松原のおかげでそのとき赤軍は戦闘に勝利したように思える。もしそうでなかったならば、日本は全く実際とは違った戦略的行動を取ったかもしれない。20世紀の歴史は違ったものになっていただろうし、ノモンハンの歴史自体、劇的に書き直さねばならないだろう。」
 日米戦実現に向けたソ連の謀略といった場合、尾崎秀実ら日本指導層に入り込んだ日本人エージェントたちを使った南進論への政策誘導や、アメリカにおける「雪作戦」(エージェントの名前が財務省高官ハリー・ホワイトであることから名づけられた)が、通常、議論の中心を占める。その重要性は疑いないけれども、陸軍内に一種の対ソ恐怖症を植え付け、対ソ北進論の勢いを削いだノモンハン事件は、それらに匹敵する大きな意味を持つのではなかろうか。
 ヒトラーをけしかけるスターリン
 以下、同時期の欧州情勢について検証したい。1939年春以来、ソ連のドイツへの態度は軟化したものの、ダンチヒ自由市をめぐる争いでイギリスの「白地小切手」を得た(と思った)ポーランドの強硬姿勢に会い、ヒトラーは袋小路に入り込む。スターリンに最後の望みを託し、より踏み込んだ独ソ連携を目指すものの、交渉はなかなかはかどらない。スターリンはより大きな「獲物」を得るべく、ドイツと英仏を競い合わせ、天秤にかけていたのだ。
 8月19日もドイツのフリードリヒ・ヴェルナー・フォン・デア・シューレンブルク駐ソ大使とモロトフの交渉は物別れに終わり、大使は帰路に着く。ところが外交儀礼上、異例なことに、モロトフは大使を再度クレムリンに呼びつける。そして、独ソ不可侵条約を締結するようソ連政府に「指示された」(beauftragt、独公文書の表現)と伝えたのである。首相兼外相モロトフに指示できる「上司」はもちろん、この世にひとり、スターリンしかいない。
 一方、極東では翌20日、それまでの局地的小競り合いとは一線を画す赤軍の大攻撃がノモンハンで始まり、日本軍は奮戦したものの壊滅的打撃を受ける。
 モスクワでは8月23日、ドイツのヨアヒム・フォン・リッベントロップ外相とモロトフ独ソ不可侵条約に調印し、全世界に衝撃を与える。条約に付された東欧「分割」の秘密議定書でソ連の同意を得たドイツは、9月1日にポーランド攻撃を開始、ヒトラーの期待に反し、しかし、スターリンの思惑通り、直ちに英仏が対独宣戦布告を行う。第二次大戦が始まったのだ。
 なぜ、スターリンは不倶戴天の敵であるはずのヒトラーと手を結んだのか。コミンテルン書記長ゲオルギ・ディミトロフの日記には、9月7日にスターリンがその動機を赤裸々に語った記録が残っている。
 {この戦争は二つの資本主義国家群(植民地、原料などに関して貧しいグループと豊かなグループ)の間で、世界再分割、世界支配をめぐり行われている。我々は、両陣営が激しく戦い、お互い弱めあうことに異存はない。ドイツの手で豊かな資本主義国、特にイギリスの地位がぐらつくのは、悪い話ではない。ヒトラーは、自らは気付かず望みもしないのに、資本主義体制をぶち壊し、掘り崩しているのだ。
 権力を握った場合と反対勢力でいる場合とでは、共産主義者の態度は異なる。我々は自分の家の主人である。資本主義国における共産主義者は反対勢力であり、そこでの主人はブルジョアジーだ。
 我々は、さらにずたずたに互いに引き裂きあうよう、両者をけしかける策を弄することができる。不可侵条約はある程度ドイツを助けることになる。次の一手は反対陣営をけしかけることだ。
 資本主義国の共産主義者は、自国政府と戦争に反対して、断固として立ち上がらねばならない。
 この戦争が始まるまで、ファシズムとデモクラシー体制を対立させることは全く正しかった。帝国主義列強間の戦争時には、これはもう正しくない。資本主義国をファシスト陣営とデモクラシー陣営に区別することは、かつて持っていた意味を失った。
 この戦争は根本的変革を引き起こした。つい先日まで、統一人民戦線は資本主義体制下の奴隷の状況を和らげるのに役立った。帝国主義戦争という状況のもとでは、問題は奴隷制度の絶滅なのだ。今日、統一人民戦線や国民統一といった昨日までの立場を主張することは、ブルジョアジーの立場に陥ることを意味する。こうしたスローガンは撤回される。
 かつて歴史的には、ポーランド国家は民族国家であった。それゆえ、革命家たちは分割と隷属化に反対して、ポーランドを擁護した。現在、ポーランドファシスト国家で、ウクライナ人、ベラルーシ人その他を抑圧している。現在の状況下でこの国を絶滅することは、ブルジョアファシスト国家が一つ少なくなることを意味するのだ。ポーランドを粉砕した結果、我々が社会主義体制を新たな領土と住民に拡大したとして、どんな悪いことがあるというのか。
 我々は、いわゆるデモクラシー諸国との合意を優先し、交渉を続けた。しかし、イギリスとフランスは我々を下男にしようとし、おまけにそれに対して何も払おうとしなかった。我々はもちろん下男になりはしなかった[、たとえ何も得られなくても]。}
 9月16日に東郷茂徳駐ソ大使とノモンハン停戦に合意したと発表した翌日の17日、モロトフポーランドの駐ソ大使に、ポーランドはもはや国家として存在しないので、領内に住む「血の同胞」であるベラルーシ人とウクライナ人をソ連が保護せねばならないと通告し、赤軍が「越境」を開始する。スターリンは決して「侵略などしない」。
 小松原師団長スパイ説に対しては、あまりに奇想天外だとして疑問を呈する向きもあるだろう。しかし、仮にスパイでなかったとしても、ここで示したように、ノモンハン独ソ不可侵条約は、スターリンの戦略のなかで密接に関連していた。
 ノモンハン事件独ソ不可侵条約は、日本対アメリカとドイツ対英仏というレーニンの基本準則に沿って、スターリンが演出した一つのドラマとして理解する必要があるのだ。
 最後に躓いたスターリン
 そもそも自らが陰謀史観の持ち主であったスターリンは、ここまで見てきたように、陰謀あるいは謀略を重視し、実際にも大きな成功を収めた。歴史はほぼレーニンの基本準則通りに進んだのである。
 まず、極東においては、スターリンの「完勝」といってよい。日本を中国での泥沼の消耗戦に引きずりこみ、ノモンハンで陸軍に一種の対ソ恐怖症を植え付けたうえで、その後も、日本人エージェントを使った謀略が続けられ、日本の対外政策を反ソから反英米に仕向けることに成功する。それに呼応して、アメリカでも対日戦実現に向けた工作が展開され、好都合なことに、フランクリン・ルーズベルト大統領という「パートナー」の存在もあって、スターリンの思惑通り、日米は激突することとなった。
 しかし、スターリンは欧州では英仏とドイツの戦争を実現させたものの、予想外のフランスの早期戦線脱落で予定が狂い始め、最後の段階でヒトラーの対ソ先制攻撃を許すという決定的失敗を犯してしまった。資本主義国同士を戦争で疲弊させたうえで、一番後にとどめを刺すつもりだったのに、ソ連は対独戦の主役を引き受けさせられ、第二次大戦参加国中、最大の犠牲をこうむる羽目になる。
 スターリンの世界革命戦略は結局、画竜点睛を欠く結果となり、漁夫の利を得たのは、他国に比べると圧倒的に少ない犠牲で、ソ連と並んでもう一つの超大国となったアメリカであった。大戦で極度に疲弊したソ連は、その戦後を最初から大きなハンディを背負った状態でスタートせざるを得なかった。
 結局、東西冷戦を経て最終的に勝ち残ったのは、ソ連共産主義ではなく、アメリカ資本主義というもう一つのグローバリズムであった。
 (付記) レーニン演説及び一九二五年スターリン演説は大月書店刊『レーニン全集』及び『スターリン全集』、その他引用は拙訳を用いた。
 福井義高氏 昭和37年(1962年)京都生まれ。東京大学法学部卒業。カーネギー・メロン大学Ph・D。国鉄JR東日本勤務などを経て、平成20年より現職。専門は会計制度・情報の経済分析。著書に『会計測定の再評価』(中央経済社)など。
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日本占領と「敗戦革命」の危機 (PHP新書)
戦後日本人の中国像-日本敗戦から文化大革命・日中復交まで

⚜6〗7〗─1─1940年体制と親方日の丸。~No.14No.15No.16No.17No.18No.19 

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  関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・    
 1940年体制とは、昭和15年に近衛文麿首相、東条英機陸相松岡洋右外相らが戦争遂行の為につくった国家総力戦体勢である。
 それは、マルクス主義社会主義統制経済・計画経済で、国家主導による対外進出の護送船団方式である。
 1940年体制のもと天皇・国家・国民=民族そして軍部が一丸となって、政府決定に従って団結し行動した。
   ・   ・   ・   
 リベラル派戦後民主主義世代とその薫陶を受けた次世代は、1940年体制の恩恵を受た勝ち組世代であり、日本経済を衰退させ時代遅れのアナログ社会にした逃げ切り世代である。
   ・   ・   ・   
 デジタル大辞泉の解説 
 親方日の丸
 《親方は日の丸、すなわち国の意》官庁や公営企業は、経営に破綻(はたん)をきたしても、倒産する心配がないので、厳しさに欠け、経営が安易になりやすい点を皮肉っていう語。
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 国語辞典
 親方日の丸 おやかたひのまる
 親方日の丸とは、「俺たちのボスは日の丸(日本という国家)である」という意味で、「俺たちは絶対倒産しない企業の社員であるから適当に仕事をしていれば将来は安泰である」という、公務員の見習うべき姿勢をひとことで言い表した言葉である。日本という大企業が一度倒産してみれば彼らも目が覚めるかもしれないが、それ以上に路頭に迷うのはわれわれ民間の庶民であるから、思い切った荒療治もできずに「親方日の丸」状態がぐずぐず続いている現状である。(CAS)
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ウィキペディア
 親方日の丸とは、親方(胴元、経営者)が日の丸(日本国政府、国家)であるの意味で、かつての特殊会社やそれを含む特殊法人、それらの流れを汲む企業、あるいは転じて、国家公務員を指す言葉として用いられる俗語。
 対象
 親方日の丸という言葉が指す対象は、話者によって異なり、かつ現代においては著しく拡散しているため、注意が必要である。
 1,国家の保護または支配のもとに特権を与えられ、特別法に基づいて設立された半官半民の会社である、特殊会社、また現在において、かつて特殊会社であった法人を指す場合。
 2,特殊会社のうち、1931年(昭和16年)に起きた満州事変以後に設立され国家総力戦体制を支えた会社である、国策会社を指す場合。
 3,特殊会社を含む特殊法人、あるいはかつて特殊法人であった法人を指す場合。
 4,第二次世界大戦後の占領期に起源を持ち、現在は特殊会社もしくは独立行政法人になっている、旧三公社五現業を指す場合。
 5,かつての特殊会社の流れを汲む、石炭・石油・ガス・電力のようなエネルギー産業、鉄鋼・セメントのような資源産業、道路・鉄道・航空・自動車のような交通産業、郵便・電話・放送・通信のような通信産業、銀行・公庫・証券のような金融産業を広く指す場合。
 6,日本の省庁や、国家公務員全体を指す場合。
 マイナスイメージ
 親方日の丸という言葉は、かつて国家総力戦体制と結びついていた時代、あるいは高度成長期までは強力なイメージを伴っていたが、現在はいわゆる「お役所仕事」的な業務の形骸化、競争力の低さ、傲慢な姿勢、当事者意識の欠如、責任の不明瞭さなどを揶揄する意図で用いられることが多い。
 ・分割民営化以前、膨大な赤字を抱えた上に、順法闘争と称するストライキなどを行なっていた日本国有鉄道に対して、しばしば用いられた。
 ・2010年(平成22年)に経営破綻した日本航空について、親方日の丸的体質が指摘されたことがある。
国鉄は民営化され、日本航空は経営破綻したあと再建された為、この2者に対してはこの言葉は使われなくなった。
   ・   ・   ・   
親方日の丸―第一部・親方日の丸の組織構造 (安らぎ文庫)
親方日の丸―第二部・親方日の丸と日本経済 (安らぎ文庫)

⚜5〗─1─1940年体制と日本型社会主義。~No.11No.12No.13 

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  関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・    
 1940年体制とは、昭和15年に近衛文麿首相、東条英機陸相松岡洋右外相らが戦争遂行の為につくった国家総力戦体勢である。
 それは、マルクス主義社会主義統制経済・計画経済で、国家主導による対外進出の護送船団方式である。
 1940年体制のもと天皇・国家・国民=民族そして軍部が一丸となって、政府決定に従って団結し行動した。
   ・   ・   ・   
 リベラル派戦後民主主義世代とその薫陶を受けた次世代は、1940年体制の恩恵を受た勝ち組世代であり、日本経済を衰退させ時代遅れのアナログ社会にした逃げ切り世代である。
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 ウィキペディア
 日本型社会主義は主に以下の意味で使用されている用語。
1,日本における社会主義 - 高橋正雄 (経済学者)らが使用。対比用語はソ連社会主義など。類似用語は日本型社会民主主義など。例はソ連型のプロレタリア独裁を否定し平和革命を主張した「日本における社会主義への道」など。
2,日本における集団主義や平等主義などを比喩的に「社会主義」と呼ぶ用法 - 竹内靖雄らが使用。類似用語は日本株式会社など。本記事で記載。
 概要
 戦後の日本は、池田勇人による所得倍増計画の存在などもあって、「成功した社会主義国」と呼ばれる事がある。
 日本では戦時体制により、官僚主導の開発主義体制が形成される。日本の官僚機構は敗戦後の占領下においても存続し、GHQの意向を受けて政教分離財閥解体、農地改革、シャウプ勧告などの改革を次々と実行し、独占資本や地主階級が一時的にせよ没落し、中産階級が形成された。独占資本はその後メインバンク主導の企業グループという形で復活し、「護送船団方式」と言われる、官僚と財界の協力関係が築かれた。
 高度経済成長期には人材確保の理由から、終身雇用制度や企業内組合による労使協調などが広まった。これらは戦前の日本や米英の資本主義でも存在したものではあるが、戦後の日本においては大半の大企業と多くの中小企業に広まり、「日本的経営」などと言われるようになった[5]。この背景には日本社会に残っていた村社会などの共同体志向や平等志向が企業などに持ち込まれたものとも言われる[誰によって?]。
 また1955年以後日本では自由民主党による長期政権(55年体制)が続いたが、自民党には多くの派閥が存在し、党内と官僚、財界と業界相互の非公式な調整により利益配分が行われた。こうして、第二次世界大戦中の官僚主導の開発主義体制は、自民党・業界団体を巻き込んだ独特の分権的な形へと徐々に変容していく。政官財による「鉄のトライアングル」や「日本株式会社」とも呼ばれた、行政指導や補助金による産業別の保護育成政策、経団連・農協・医師会・全特などの全国規模の産業別の団体を通じての利益配分が行われた。
 政界では1960年代後半より国対政治が進み、自由民主党が対立する日本社会党と非公式な場で妥協を行い、懐柔策としてその意向も取り入れる形で、農業保護や公務員の賃上げ、労働法制の整備など一定の富の再分配が行われた。その後は中道政党の公明党民社党が躍進したが、これらの政党も国対政治の枠の中に取り込まれた。しかし非公式であるがゆえに、これら野党は自民党との妥協で自らの政策を実現した事を、成果として華々しく宣伝する事は無かった。また国対政治の「蚊帳の外」に置かれた社会主義政党である日本共産党は、このような政治体制を「馴れ合い」であるとして、またこの中で築かれた経済体制を「政官財癒着」「ルールなき資本主義」などと批判してきた[要出典]。
 それゆえに「日本型社会主義」は、北欧やイギリスの福祉国家などとは異なり、政府として公式に提唱されたものではない。再分配の内容も業界団体や政府の外郭団体を通じた間接給付が中心であり、利権構造の側面も強かった[要出典]。
 これらは1980年代の中曽根内閣で行政改革路線が推進されて緩やかに解体へと向かった。さらに1990年代には規制緩和護送船団方式からの脱却が叫ばれ、1996年に発足した橋本内閣による金融ビッグバンと2001年に就任した小泉内閣による「構造改革路線」によって変貌を遂げてきた。
 また、1989年の東欧革命以来、従来の社会主義国家が次々と崩壊したため、こうした社会主義国家への皮肉としての、日本型社会主義という用語[要出典]の意味も失われた。
 他方、現在でも農業・医療・教育・公共事業・電力などの内需主導型産業では、依然として利益配分型の政策決定が行われ、生産性が低く、グローバル化されずに非効率な日本型社会主義が残っているという見解[要出典]もある。2009年の民主党政権誕生後は、農協・医師会など従来の生産者側の各業界団体を経由しない、消費者側である国民への直接給付中心に切り替えていくことが提唱されていた[要出典]。
 会社主義
 上記は日本社会全体についてであるが、日本の会社の勤務形態・雇用形態が社会主義的であると評される場合がある[要出典]。社長から平社員までの給与格差が小さい事、手厚い福利厚生、終身雇用による雇用保障、あるいは家族手当に見られるような仕事能力に対してではなく社員の家庭事情に基づいて給与を支払うシステムが、社会主義的、あるいは社会主義から発展しての共産主義的ですらあるというのである[誰によって?]。こうした会社単位での社会主義的な要素は、社会主義をもじって会社主義と呼ばれる事もある[要出典]。
 バブル景気の崩壊に始まる失われた10年以降は、終身雇用体制の崩壊や成果主義の導入、派遣労働者契約社員など非正社員の大量雇用による給与格差の拡大など、いわゆる会社主義もかなり崩れている[要出典]。
 なお、上記の会社主義の特徴は大企業に顕著[要出典]なものであって、特に福利厚生については、中小企業においては過去も現在も大企業に比べて不十分[要出典]なものである。逆に欧米の大企業においても、手厚い福利厚生を行っている場合が多々見られる[要出典]。
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 官僚制社会主義とは、日本の護送船団方式や官製談合などを揶揄した言葉である。
 概要
 政治家の石井紘基は日本の官僚支配について「資本主義の仮面をつけた、官僚制社会主義国家」と語っていた。ここでいう「社会主義」とは非効率な官僚制、健全な自由競争を阻害する国家の手厚い保護などをもって揶揄的に「社会主義」と呼称したものであり、本来の意味での社会主義とは全く無縁である(ただし、「非効率な官僚制、健全な自由競争を阻害する国家の手厚い保護」は現実の社会主義国においてはよく見られた)。
 日本社会が社会主義的であるとみなす意見としては、他に日本型社会主義という言葉も存在するが、日本型社会主義は肯定的評価として用いられる場合もあるが、官僚制社会主義という言葉はもっぱら否定的な評価の言葉として用いられる。
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 ITmedia ビジネスオンライン「社会主義が最も成功したのは、日本」と皮肉られているワケ:窪田...
 「社会主義が最も成功したのは、日本」と皮肉られているワケ
 窪田順生の時事日想
 2013年04月09日 08時01分 公開
 窪田順生氏のプロフィール:
 {1974年生まれ、学習院大学文学部卒業。在学中から、テレビ情報番組の制作に携わり、『フライデー』の取材記者として3年間活動。その後、朝日新聞漫画誌編集長、実話紙編集長などを経て、現在はノンフィクションライターとして週刊誌や月刊誌でルポを発表するかたわらで、報道対策アドバイザーとしても活動している。『14階段――検証 新潟少女9年2カ月監禁事件』(小学館)で第12回小学館ノンフィクション大賞優秀賞を受賞。近著に『死体の経済学』(小学館101新書)、『スピンドクター “モミ消しのプロ”が駆使する「情報操作」の技術』(講談社α文庫)がある。}
 日本銀行金融政策決定会合を行い、“異次元”の金融緩和策を発表した。やるだけやった。後は企業ががんばれよみたいなムードのなか、成長戦略の柱である「成長産業への労働力移動」として「クビの規制緩和」議論が活発化している。
 その端緒になったのは、3月15日の「産業競争力会議」で、民間議員の長谷川閑史(はせがわ・やすちか)・武田薬品工業社長が解雇を原則自由にするよう労働契約法を改正することや、再就職支援金を支払うことで解雇できるルールづくりなどを提案したことだった。
 会社を見渡すと、「正社員」という座にあぐらをかいて、定年までの十数年をどうにかやりすごすというオッサンがゴロゴロいる。そういう人たちの人生まで面倒をみるのが会社のつとめだったわけだが、世界と競争するうえで、かなりハンデとなっている。
 50歳といっても高齢化社会ではまだまだハナタレ小僧なわけだから、景気のいい産業へ移ってやりなおしたらどうでしょう、お金も差し上げますし、と会社から勧められるようにしようというわけだ。
 といっても、これはなにも長谷川氏が思いついたことではなく、もうずいぶん前から言われていることだ。例えば、金の支払いで解雇を可能とする「金銭解決ルール」などは、2003年の小泉政権が法案化寸前までもっていったが、断念した過去がある。
 なぜ断念したか。容易に想像がつくだろうが、「札束でクビができるなんてけしからん」と連合(日本労働組合総連合会)なんかがワーワー騒いだからだ。当然、今回もそういう流れになっている。
 といっても、この手の人たちは、ホームレスを「派遣切りされた労働者だ」なんてインチキもやった前科もあるので、ただ騒ぐだけでは説得力がない。そこで持ち出したのが、「OECD(経済開発協力機構)の雇用保護指標」だ。確かに、朝にクビを宣告されたら昼には出ていく米国や英国なんかと比べたら雇用が保護されているほうだが、ドイツやフランス、そして北欧に比べるとちっとも優しくない。「クビの規制緩和」なんてとんでもない、もっと雇用保護したっていいぐらいじゃないか、と。
 ただ、この理屈もちょっとおかしい。日本の雇用はもうずいぶん昔から米国や欧州なとと比べられない「異次元」の世界に突入しているからだ。
 それは「終身雇用」である。
 「終身雇用」発明したのは
 いろんな方面で言われているように、こういう雇い方をしている国はほとんどない。いろいろ叩かれた中国の国営企業ですら、1990年代には終身雇用をやめたほどだ。
 なんてことを言うと、終身雇用が「日本の強さ」のヒミツだった、とか言い出す人たちがいる。先週、某情報番組でもやっていたが、「企業は人なり」というお約束の格言と、松下幸之助が登場して、日本企業は社員を大切にして社員は会社に人生を委ねたので、一体感ができてみんな汗水たらして働いた。身分保障されていたので、心置きなく消費もできた、なんて話である。
 だが、終身雇用というのは、なにも経済人のみなさんがやりだしたわけではない。1939年に制定された「国家総動員法」のなかにある「会社利益配当及資金融通令」や「会社経理統制令」で株主や役員の力が剥奪され、国のコントロールのもと、とにかく生産力をあげるために企業という共同体に国民を縛り付けておくひとつの手段として始まった。
 ついでに言えば、これはなにも日本人の発明ではなく、世界恐慌をのりきったソ連の「計画経済」をまんまパクったものである。国が経済発展を計画的に進めて、国民は国が規制をする企業に身を投じて一生涯同じ仕事をする――。そんなソ連モデルが日本人にはフィットした。日本が「世界で最も成功した社会主義」なんて揶揄(やゆ)されるのはそれが所以だ。
 要するに「終身雇用」は日本式経営でもなんでもなく、単に戦時体制につくられた社会主義的システムをズルズルとひきずっていただけだ。だから、小泉改革みたいな新自由主義経済が流れ込むと、ソ連のように崩壊していく。さらには、そういう思想をもとに築き上げられたインフラなんかも音をたてて崩れていく。日ソ両国がともに原子力を制御できず、どでかいヘマをしたのは単なる偶然ではない。
 そういうガレキの山を見れば、もうとっくに「終身雇用」が終わっているのは明らかだ。
 ただ、世の中にはそれを認めたくない人たちが案外多い。例えば、独立行政法人労働政策研究・研修機構」が昨年5月に発表した調査では「終身雇用」を支持する者の割合は過去最高の87.5%となったという。「組織の一体感」「年功賃金」を支持する割合もそれぞれ過去最高になっており、特に20~30代がグーンと伸びたんだとか。
 「終身雇用」を支持する者が増えている(出典:労働政策研究・研修機構
 子どもは親の背中を見て育つ。「ネトウヨが増えている」とか「右傾化している」なんて心配している人も多いらしいが、そこは安心してほしい。社会主義の教えは、今もしっかり日本人に刷り込まれている。
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 Newsweek日本版
 日本は世界に誇るべき「社会主義国」です
 2020年07月27日(月)06時55分
 周 来友(しゅう・らいゆう
 <貧しくとも豊かな生活が昔の中国にはあった。だが私の祖国はあれから大きく変わった。移り住んだ日本で、まさか理想の社会主義を見つけるとは思ってもみなかった>
 ご存じの読者も多いと思うが、中国は完全なる社会主義国だった。1978年に改革開放が始まるまでは、贅沢こそできないが、皆が平等に暮らせる社会がそこにはあった。
 1963年に浙江省紹興市で生まれ、23 歳で来日するまで紹興と北京で生活していた私にとって、思い出深いのが配給制度だ。肉の配給は月に1回、つまり肉にありつけるのは1カ月に1度だけだった。年に1回は「布票」と呼ばれる布の引換券が配られ、それを元に布を購入していた。その布を使って母が、ミシンで新しい服――いわゆる人民服――を作るのだ。
 こんな話をすると同情する人もいるかもしれないが、私自身に嫌な記憶はない。むしろ配給は待ち遠しいイベントだったのである。そんな、貧しくとも豊かな生活が昔の中国にはあった。しかし中国は、あれから大きく変わった。
 今はむしろ日本のほうが「社会主義国」だ。配給制度こそないけれど、平等で弱者に優しい社会がそこにある。少なくとも私はそう感じる。資本主義の悪い面ばかり取り入れ、社会主義の悪い面ばかり残してしまった祖国。まさか日本で、理想の社会主義を見つけるとは思ってもみなかった。
 社会主義が嫌で中国を脱出してきた人の中には、日本が中国よりも社会主義的だと知ってガッカリする人もいる。しかし私は、むしろ最近の中国にガッカリしており、その思いはこの新型コロナウイルス禍でますます強まった。「特色ある社会主義」などとうたっているが、弱者ばかりが割を食うあの弱肉強食社会のどこが社会主義なのか。
 日本では教育の機会がおおむね保障されており、大卒で会社に入れば、だいたい皆同じくらいの給料からスタートする。中国もアメリカも過酷な競争社会だが、日本では正社員ならそうそうクビになることはない。また、日本に人種差別がないとは言わないが、中国人として日本で学び、働いてきた私自身は、これまで差別された経験がない。中国ではアフリカ系の人々への差別が深刻だが、それと比べるのはおかしな話だろうか。
 それに、日本では医療費が安いため、病気になれば貧しくても医者にかかれるし、スーパーやコンビニ、ファストフード店も多いので、食べ物も割と安価に購入できる。東京ではあちこちでホームレスの人たちを目にするが、彼らも他の国でよく見掛けるような「物乞い」ではない。
 もちろん、そんな日本にも貧困から抜け出せない人は大勢いて、とりわけ最近は格差が拡大していることを私も知っている。それでも、貧しい人や苦しんでいる人を助けようとせず、逆に石を投げ付けるような者が多い今の中国と比べれば、ずいぶんましだと思ってしまう。
 コロナ禍での経済補償に対しても、額が不十分だ、給付が遅過ぎると怒っている人が多いが、補償はゼロではない。ロックダウン(都市封鎖)で国民の経済活動を封鎖しながら何の補償もしない中国を知る私からすれば、中国籍でも給付してくれる日本の特別定額給付金制度は大変ありがたい。
 このコラムで韓国出身の李娜兀(リ・ナオル)さんも書いていたが、外国人にもコロナ支援の手を差し伸べているのは非常に素晴らしいことだ。韓国でも外国人には支給していなかったし、アメリカの給付金も留学生の多くが対象外だったらしい。どうです? 私も中国とだけ比べて日本が素晴らしいと褒めているわけじゃないんです。
 日本のメディアは格差拡大の現状を憂い、それに対する政府の施策を厳しく批判する。それ自体は報道環境が健全であることの証しだ。ただ、私のような見方があることも知ってもらいたい。日本は日本流の「特色ある社会主義」を誇りに思い、それを世界にもっと「輸出」すべきだ。
 Zhou_Profile.jpg周 来友
 ZHOU LAIYOU
 1963年中国浙江省生まれ。87年に来日し、日本で大学院修了。通訳・翻訳の派遣会社を経営する傍ら、ジャーナリスト、タレント、YouTuber(番組名「地球ジャーナル ゆあチャン」)としても活動。
 <2020年7月21日号掲載>
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⚜4〗─1─1940年体制と護送船団方式。~No.8No.9No.10 

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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
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 1940年体制とは、昭和15年に近衛文麿首相、東条英機陸相松岡洋右外相らが戦争遂行の為につくった国家総力戦体勢である。
 それは、マルクス主義社会主義統制経済・計画経済で、国家主導による対外進出の護送船団方式である。
 1940年体制のもと天皇・国家・国民=民族そして軍部が一丸となって、政府決定に従って団結し行動した。
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 リベラル派戦後民主主義世代とその薫陶を受けた次世代は、1940年体制の恩恵を受た勝ち組世代であり、日本経済を衰退させ時代遅れのアナログ社会にした逃げ切り世代である。
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 デジタル大辞泉の解説
 ごそうせんだん‐ほうしき〔‐ハウシキ〕【護送船団方式
 《護送船団は最も速度の遅い船舶に合わせて航行するところから》特定の産業において最も体力のない企業が落伍しないよう、監督官庁がその産業全体を管理・指導しながら収益・競争力を確保すること。特に、第二次大戦後、金融秩序の安定を図るために行われた金融行政を指していう。→ビッグバン3
出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例
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 ウィキペディア
 護送船団方式(英: convoy system)とは、行政手法の一つ。軍事戦術として用いられた「護送船団」が、船団の中で最も速度の遅い船に速度を合わせ、全体が統制を確保しつつ進んでいくことになぞらえて、特定の業界において経営体力・競争力に最も欠ける事業者(企業)が落伍することなく存続していけるよう、行政官庁がその許認可権限などを駆使して行政指導などにより業界全体をコントロールしていくことを指す。
 金融業界
 特に日本の第二次世界大戦後の金融行政において典型的にみられる。日本においては第二次世界大戦前の金融恐慌により弱小金融機関の破綻や淘汰が相次ぎ、取り付け騒ぎなどの社会不安を招いたことから、戦後の金融秩序を確立し、産業界が経済成長を遂げ、民生を安定させていくために必要な低利かつ安定的な資金を供給していくことが課題であった。
 このため、金融行政を担ってきた大蔵省や金融政策を司る日本銀行は金融業界に対し、金融業界に対する金融安定化・産業保護政策という「護送船団方式」によって金融機関の倒産(破綻)を防ぎ、経営を安定させ、ひいては預金者の無用な不安を惹起しないよう、他産業に比較し多くの行政指導を行ってきた。例えば、長期信用銀行外国為替専業銀行・中小企業金融などに典型的に見られる分野調整、店舗規制、新商品規制、一律の貸出・預金利率などを通じ、金融界の過当競争を防いできた。
 さらには、不良債権の発生等により経営力が低下した金融機関に対しても、破綻(倒産)という措置を取らせず、他の金融機関との合併を強力に指導した。
 この方式においては、女性行員の制服のデザインにまで規制の影響が出るほどであった。[要出典]。
 功罪
 結果として、第二次世界大戦後から高度経済成長期、安定成長期に至るまで日本において金融機関の経営破綻は皆無であった。
 このため「金融機関はつぶれない」という社会通念が形成され、日本の預金者(貯金者)にとって金融機関の健全性に対する関心は高くはなかった[独自研究?]。金融機関の経営陣にとっても、何をするにも行政官庁に「お伺い」を立てないと進まないという、経営の自由を制約される代わりに責任追及から逃れられるために好都合なシステムであった[独自研究?]。弱者にとっては庇護を求めるうえで好都合であったほか、強者においても経営の自由度はかなり制約されるものの、他の参入を許さないことによって、結果的に外敵の参入を許さないなどのメリットもあった。
 また、行政官庁においても金融機関に対して許認可権を盾に強力な指導力を発揮し、いわゆる天下り先の確保などのメリットがあった。一方、行政官庁の意向を過度に忖度するばかりか官民癒着を生み、金融機関の経営姿勢においても横並び体質がはびこり、顧客に目を向けた金融サービスが行いにくいなどの弊害も指摘された[誰によって?]。
 崩壊
 そもそも護送船団方式は「落伍者を出さない」(言い換えれば、経営が拙くても破綻はさせない)ことに主眼が置かれ、市場経済における自由競争により他より優れた商品・サービスを供給したものが勝ち残るという、本来の資本主義経済になじまない部分があったと指摘される(例えばポール・クルーグマン#主張##日本経済)。
 そしてバブル経済の崩壊後、1995年には木津信用組合が倒産、同年に兵庫銀行が戦後初の銀行倒産となり、護送船団方式が揺らぐ。その後「金融ビッグバン」の進行に伴い、2000年には金融庁が設置され指導行政は緩和された。
 またバブル崩壊後には、金融機関のみならず生命保険業界でも経営破綻や倒産が続き、護送船団方式による「一社たりとも潰さない」という金融不倒神話が、銀行に続き保険業界でも崩れ去ることとなった。1997年には中堅生命保険会社の日産生命保険が破綻し、戦後初となる生命保険会社の破綻となった。これを皮切りに東邦生命保険、大正生命保険、千代田生命保険、協栄生命保険、東京生命保険と、1997年から2001年までに中堅生命保険会社7社の経営破綻が続き「生保破綻ドミノ」と呼ばれた。
 その他の業界
 日本では金融業界に限らず、様々な業界で行政官庁の強力な行政指導が存在した。これらも「護送船団方式」と表現されることがある。また、広くは国全体が「護送船団方式」ではなかったのかと評されることもある[要出典]。
 例えば航空業界では、1980年代まで国が各航空会社の事業範囲を決定した45/47体制が存在し、各航空会社の経営安定には貢献したものの、経済成長にあたって航空会社間の競争がなくなるという理由で1985年に廃止となった。
 「規制緩和」も参照
 これら行政指導による「護送船団方式」が、「日本は、世界で最も(もしくは、世界で唯一)成功した社会主義国家だ」などという評価を生む理由の1つとなっている。
 また、新聞業界では日本新聞協会が中心となって政治家に働きかけ新聞特殊指定の継続を実現させたり、新聞に対する消費税の軽減税率適用を実現させるなど、いわゆる「放送利権」の問題から記者クラブ制度まで報道機関には護送船団体質が未だ根強く残っていると言える[要出典]。
 自治体運営
 第二次世界大戦後の日本における地方自治体の行財政運営においても「護送船団方式」であったと評されることがある。
 例えば、宮脇淳によると、戦後の日本経済は長らく右肩上がりで経済規模が膨らみ、それに伴い税収も増え続けたことから、自主財源が脆弱で財政力の乏しい地方自治体においても、手厚い地方交付税配分や補助金によって財政的に恩典が与えられ、社会基盤整備に邁進してきた。旗印として「国土の均衡ある発展」が掲げられ、「護送船団方式」であったとしている[要出典]。
 財政再建団体へ転落する自治体が相次いだ1950年代後半の地方財政危機の時期を過ぎ、高度経済成長が始まると、都市の税収を地方へという構造は確立された。その結果、都市と地方との負担分担、現役世代と将来世代との負担分担のあり方など多くの問題が、将来は何とかなるとの甘い見通しの元に先送りされてきた。地方自治体の借金である地方債においても「暗黙の中央政府保証」が存在するとされ、「国がなんとかしてくれるはず」と安易な将来見通しを元に借金を膨らませてきた。また地方自治の名の元に国もほとんどの場合それを追認してきた。[要出典]
 安定成長を経て、バブル崩壊後のゼロ成長、少子高齢化時代、人口減少時代に突入し、国・地方ともに多額の債務(借金)を抱えている。加えて、自己責任を強調する行財政改革、とりわけ三位一体の改革により地方財政は危機を迎えるなど「護送船団方式」は揺らいでいるかのように見える[誰によって?]。
 しかし、1960年代以降の地方自治体の破綻は北海道夕張市が久しぶりで、その後は財政再建団体(現:財政再生団体に相当)への転落が続出する状況でもない。さらにその夕張市においても、住民負担を伴う厳しい行財政改革を伴っているとはいえ、国と都道府県(夕張市の場合は北海道)が手厚いケアを行い、いわゆる「債務調整」はせず、途方もない債務も数十年単位という超長期で返済していく方針であるなど、緩やかになったとはいえ、最終的には国が面倒をみるという、「護送船団方式」は存続していると言える[独自研究?]。
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⚜3〗─1─1940年体制と日本株式会社。~No.5No.6No.7 

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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・    
 1940年体制とは、昭和15年に近衛文麿首相、東条英機陸相松岡洋右外相らが戦争遂行の為につくった国家総力戦体勢である。
 それは、マルクス主義社会主義統制経済・計画経済で、国家主導による対外進出の護送船団方式である。
 1940年体制のもと天皇・国家・国民そして軍部が一丸となって、政府決定に従って団結し行動した。
   ・   ・   ・   
 リベラル派戦後民主主義世代とその薫陶を受けた次世代は、1940年体制の恩恵を受た勝ち組世代であり、日本経済を衰退させ時代遅れのアナログ社会にした逃げ切り世代である。
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 日本株式会社(英語: Corporate Japan, Japan Inc.)とは、日本の国民経済を会社に例えて用いられる用語、概念。
 概要
 長期間に渡り日本が持続した、第二次世界大戦後の高度経済成長は、成長が戦後復興に由来する短期的なものと見なす者も少なくなかったこともあり、日本国内のみならず世界でもその要因を説明することに関心が注がれた。「日本株式会社」論はその分析の中で主として海外で提唱されるようになった概念である。
 この概念の論者によれば、日本の経済は政官財が一体となって世界経済に対して良質な製品を輸出し続けており、さらに社会制度はこの経済体制の運営、維持に傾斜していて、教育制度は高等教育を受けた「日本株式会社」の「社員」を生み出し続けているという特徴が見出される。このような説明を背景に、日本経済は会社のように付加価値生産をしているとみなされ、この概念が用いられるようになった。
 日本経済が世界的に存在感を強めた1980年代末には、エコノミックアニマルとすら呼ばれるようになり経済優先の日本社会は独特のものとみなされた(バブル景気がこの直後である)。
 日本株式会社論の系譜
 「日本株式会社(ジャパン・インク)」という概念を最初に提唱したのは、「日本的経営」概念を提唱した経営学者ジェームズ・アベグレン(当時ボストン・コンサルティング・グループ日本支社長)とされる。アベグレンは著書『Business Strategies for Japan』(1970年)において、日本において日本国政府と企業が緊密な協調関係にあり、この関係が経済発展を促進したとする主張を行なった。従来日本国内で政官財の「癒着」と批判的に捉えられた現象を肯定的に評価するという発想の転換を行なったものだった。
 1970年代初頭、日米貿易摩擦が深刻化する中で、脅威としても日本経済は認識されるようになった。そのため、日本には通常の市場経済原理とは異なる原理が存在しているのではないかという批判的な観点から、アメリカ合衆国商務省内で日本経済に関する調査が行なわれた。この報告書は『Japan: The Government-Business Relationship』として、1972年に公刊される。
 報告書は国際通商局極東部長ユージン・カプラン(Eugene J. Kaplan)らを中心にまとめられたものだったが、情報収集と調査委託を受けたのはアベグレンとボストン・コンサルティング・グループだった。この報告書でも、日本経済の
 政府による計画と誘導
 政府と企業の相互作用
 という協調関係が強調されることとなった。これら二つの書籍によって、「日本株式会社」論は広く知られることとなった。
 その後も、日本株式会社論の衣鉢を継ぐ評論・研究は続き、1980年代初頭にはチャルマーズ・ジョンソン通商産業省主導の産業政策が、高度経済成長に果した役割を重要視する研究を打ち出し、注目を集めた。さらにプラザ合意以後、日本経済が一段と世界での存在感を増し、米国との貿易摩擦を拡大させた1980年代末には、クライト・プレストウィッツ、ジェームズ・ファローズ、カレル・ヴァン・ウォルフレンなどによって、日本経済が極めて異質なシステムを持つとする日本異質論が展開されることとなった(なお大嶽秀夫は、前出のアメリカ合衆国商務省報告が、その後の著作群より高い研究水準にあったと評価している)。
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 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説
 日本株式会社論 にほんかぶしきがいしゃろん
 第2次世界大戦後の日本の高度経済成長の要因を,官民一体の経済行動のあり方に求めようとする日本経済特殊論の一つ。政府の策定した種々の経済計画や通商産業省などによる指導,通達が民間経済を統制し,それによって高度経済成長が達成されてきたとする。あたかも国家全体が一つの株式会社のようにふるまっているようにみえることからこう呼ばれる。極端な場合には日本経済が社会主義計画経済以上に統制された経済であるとみなされることもある。 1970年代にアメリカ商務省,J.C.アベグレンらによって主張された。しかし高度経済成長の原因をすべて政府の計画に求めることは到底不可能であり,学問的議論としては厳密さを欠いている。
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⚜2〗─1─1940年体制と日本的経営。~No.2No.3No.4 

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 1940年体制とは、昭和15年に近衛文麿首相、東条英機陸相松岡洋右外相らが戦争遂行の為につくった国家総力戦体勢である。
 それは、国家主導による社会主義統制経済・計画経済であった。
 1940年体制のもと天皇・国家・国民そして軍部が一丸となって、政府決定に従って団結し行動した。
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 日本的経営。
 日本のお家芸と考えられていた「日本的経営」は、1940年体制による戦後日本の竹の話で、戦前にはなかったし、明治の日本近代化にもなかったし、ましてや江戸時代の商いにもない。
 日本的経営は、日本民族の歴史の中で突然変異的に出現したのであって、日本の伝統的商業とは一切関係ない。
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 基礎研WEB政治経済学用語事典
 日本的経営とは、日本の大企業に特徴的な経営慣行・方式を指す言葉である。日本的経営は、戦中戦後にいくつかの慣行が形成され、高度成長期に整備され大企業を中心に幅広く見られるようになった。
 日本的経営を初めて評価したのは、ジェイムズ・アベグレン(『日本の経営』1958年)といわれる。それまで日本企業の後進性とみなされていた3つの側面、すなわち終身雇用(いわゆる長期雇用)、年功序列、企業内組合に再評価の光をあて、日本的経営の特長とみなした。
 1960年代の高度成長期には、新卒を正規社員として一括採用し、定年まで長期雇用し、年功序列(勤続年数と社内功績の積み上げ重視)によって社員の忠誠心を涵養し、企業別組合により労使協調を図る、といった経営慣行・方式が、日本の大企業を中心に中堅企業にまで広がりをみせる。急速な設備拡張などに伴い各企業とも人材が払底するなか、優秀な人材を囲い込み経営拡大を進めていく推進力となった。さらに、1970年代の石油危機に対しては、小集団活動などを軸に全社上げての取り組みを促し、いち早く石油危機を克服して80年代の「日本の世紀」をもたらす。日本的経営は、そうした影の主役として、内外の注目と評価を集めた。
 しかしながら、1990年代以降は、バブル経済が崩壊するなか評価も一転して地に落ち、グローバリゼーションさらにはアメリカナイゼーションの下で、雇用重視から株主重視への傾向が強まるなど、日本的経営離れが内外で進んだ。護送船団方式と呼ばれるなど裁量的な行政指導(見えない規制)を特徴とする戦後日本型金融行政は、主要銀行の経営破たんなどで行きづまり、ルール化・法制化による見直しを余儀なくされた。規制緩和は、金融だけでなく雇用慣行など各分野を巻き込んで進められた。非正規雇用の比率が急速に高まるなか「平等神話」は崩壊し、さらにアメリカ発の国際金融危機とリストラの下、格差と貧困の拡大が深刻な社会的問題となっている。
(1)J.C.アベグレン/占部都美監訳『日本の経営』ダイヤモンド社、1958年。
(2)尾高邦雄『日本的経営』中公新書、1974年。
(3)基礎経済科学研究所編『地球社会の政治経済学』ナカニシヤ出版、1998年、第5章。
(十名直喜)
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 グロービス経営大学院
 日本的経営とは・意味
 カテゴリー:人材マネジメント
 日本的経営
 Japanese management
 日本的経営とは、1970~80年代に経済成長を続けた日本の大企業の、際立った競争力の源泉とされる日本独自の経営システム。ジェームズ・C.アベグレンは『日本の経営』(1958年)の中で日本企業の特徴として企業別組合、終身雇用、年功制を指摘し、この3つは、日本的経営の「三種の神器」と呼ばれるようになった。
 日本的人事システムである「三種の神器」説にとどまらず、集団主義的な意思決定や日本人の心理特性などに起因する企業内の人間関係に着目した研究や、「系列取引」や「株式持合い」など組織間の相互関係に着目した研究など広範に展開され、日本企業の経済成長の源として注目を集めてきた。
 日本的経営の根幹となっているのは、長期雇用を前提とした年功的人事システムだといえる。これは、シェア・規模拡大を図ってきた高度経済成長期の日本企業において、極めて合理的な人事システムとして機能してきた。
 その理由は、第一に、企業の人員構成と適合していたこと。急速な経済成長の下、大企業は毎年大量の若年労働力を確保し、少数のベテラン管理者がその若年従業員を指揮することにより、効率的な組織運営を実現することができた。
 第二に、年功的人事システムでは、勤続年数を重ねるうちに誰もが昇進・昇格できるとして、従業員の企業へのコミットメント(会社帰属意識)とモチベーション(仕事意欲)を高めることができた。
 第三に、長期雇用の下、OJT(On the Job Training)やジョブ・ローテーションが行われる中で、企業組織内に優れた技能や技術の蓄積ができたことである。
 しかし、経済成長の鈍化、技術革新の進展のもと、企業経営の基調は、規模と効率重視の工業化社会型から、付加価値重視の情報化社会型へと転換してきている。工業化社会においては、教育投資が能力形成につながり、さらに生産性の向上が実現されることとなり、日本的人事システムは極めて有効に機能してきた。しかし、現在の情報化社会においては、各企業の技術革新力、業務革新力が競争力の源泉であり、ホワイトカラーの専門能力がより重要性を増している。こうした専門能力は、必ずしも年功に比例して形成されるものではなく、教育投資が能力形成につながるとは限らない。また、長期雇用を前提に企業内での能力形成を重視してきた日本企業にとって、市場の急激な変化に合わせて短期的にそれに合った人材を育成することは困難になってきている。
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 日本大百科全書(ニッポニカ)の解説
 日本的経営
 国際比較を踏まえた日本の企業に独自とされている経営上の特質。日本的経営の特質を最初に指摘したといわれるアメリカのアベグレンJ. C. Abegglenは、その内容を〔1〕定年まで勤続する終身雇用制、〔2〕年功主義(学歴と勤続)による賃金(年功賃金制)と昇進(年功昇進制)、〔3〕企業別労働組合、〔4〕福利厚生施設の充実、をあげた。前三者は、その後、日本的経営の三本柱ないし三種の神器とよばれるようになる。しかし外国人の指摘は、文化的相違を反映しやすい人事・労務・労使関係に関連する特質に偏っている。外国人の研究と別に進められていた日本人自身の研究は、常務会、稟議(りんぎ)制度、部課制組織、会議体、総務部制など、より経営管理の中枢内容に接近した意思決定や管理の制度に関する特質を指摘した。後者の成果は外国にも伝わり、稟議、根回し、改善などは国際的に専門語として定着している。当初の制度的相違の研究は、やがてその本質の究明へと進む。間宏(はざまひろし)は、戦前のそれを経営家族主義、戦後のそれを経営福祉主義と規定した。また多くの論者は、欧米の個人主義に対し集団主義が日本的経営の柱であるとする。しかしもっとも重要なことは、日本的経営が人間中心主義の理念にたっていることである。経営の国際化とともに、日本的経営の国際的有効性が問題になってきた。一方に日本的経営は国際的普遍性をもつとの説があり、他方に変容が避けられないとの説がある。
 [森本三男]
 出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例
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 ウィキペディア
 日本的経営とは、日本の経営慣行を指す言葉。
 特徴
 家族主義
 日露戦争から第一次世界大戦後の1920年代にかけて、同時期に主たる財閥のコンツェルンとしての体制が出来上がると、こうした基礎の上に資本主義国としての日本の企業体制の根幹が出来上がった。主な経営者に、武藤山治出光佐三が挙げられる。経営家族主義の源流は、江戸時代の商家や武家における諸観念にあるが、明治20年(1887年)以来の工場法制定問題に絡んで、特に経営者から主張されるようになった。この考えが改めて高揚されたのは第二次世界大戦下の産業報国運動である。
 企業間関係
 メインバンク制、企業グループにより長期安定的な取引関係を結び、株式持合により部外者の経営介入を防ぐ。
 雇用制度
 新卒一括採用、終身雇用、年功序列により幹部社員の忠誠心を確保し、企業別労働組合により労使協調を図る(ユニオン・ショップ制)。
 市場慣行
 官僚統制、官民協調、業界団体内調整による規制の強い市場。大蔵省の金融業界における護送船団方式が典型例。通産省の特振法案も参照。
 情報公開
 緩い企業会計原則の下で、短期的な経営悪化に左右されない、長期的な視点での経営が可能になった。
 収益
 長期的収益、永続的発展のために福利厚生施設の設置、社員研修の充実を図る。
意思決定
 稟議制度に代表される、集団主義的・ボトムアップ方式の意思決定。コンセンサスや組織の調和を重んじる文化が背景にあるとされる。また日本企業ではしばしば相談役などの本来OBにあたる経営陣が影響力を残し、規定にない曖昧な部分から不透明な経営判断がされることがある。
 歴史
 第二次世界大戦前までは企業内で養成した熟練工の定着率が悪く、職の移動は常態化していたことで、昭和初期頃より各企業は終身雇用、年功序列制度を設けて熟練工の定着化を行ったことで日本的経営の制度が普及するようになった。
 終戦後、日本的経営は、GHQによる財閥解体労働組合の結成の推奨による経済民主化政策と共に、日本の企業は企業別組合による労使一体による経営と高度成長による右上がりの経済成長で定着した。経済成長が横ばいになると、終身雇用放棄論が声高に主張されたが、賃上げ抑制など労使協調で乗り越えた。1980年代には日本の驚異的な経済成長の立役者として懐古的にもてはやされていた。
 しかし、1991年末にソビエト連邦の崩壊やバブル崩壊などにより、「グローバリゼーション」という名でアメリカ型経営方式が礼賛されるようになった。更に、この時期は、日本国内では「ギブ・ミー・チョコレート」で育った世代が企業のトップに就き、アメリカでは1980年代からの整理解雇ブームが続いていた。従って、「失われた20年」が始まったことによって、日本企業は軒並みアメリカナイゼーションを実行し、それまでの日本型経済を投げ棄てた。
 しかしながら、その後の景気回復傾向や、失業の増大の中で、「失われた20年」の中においても日本式経営を継続させてきた企業が世界的に成功する例も現れ始めており、再評価の気運が高まっている。
 2009年時点で、30年以上の連続雇用は従業員1000人以上の男性社員に限定されており、その比率は労働人口の8.8%となっている[2]。
 学者の見解
 ジェイムズ・アベグレンの著書『日本の経営』(1958年)では、次の3点が日本的経営の特徴とされた。また、日本的経営は、西ヨーロッパやアメリカでは近代化の過程において解体した共同体が、企業体において再生産され続けたことによって成りたっていた面も指摘される。なお、これらの経済政策はケインズ主義を実行した内容であるが、これらは池田勇人などの明治30年代生まれ(1897年-1906年生まれ)が実現させた内容である。
・終身雇用
年功序列
企業別組合
 1918年の統計では、工場労働者の76.6%は勤続年数が3年未満であり、10年以上の勤続年数の労働者の割合は3.7%であった。エコノミストの河野龍太郎は「日本型雇用の下で働いていた労働者は、雇用者全体の2-3割程度である。大企業とその関連会社・官庁が中心であり、中小企業はその対象ではない」と指摘している。
 経済学者の竹中平蔵は「1920年代に、日本型雇用慣行の基礎ができあがった。それ以前の日本は、従業員の定着率が極めて低く、従業員の企業に対する忠誠心も低かったと考えられている。1920年代に生まれ広がった終身雇用と定期昇給は、戦後に定着し、労働生産性が長期安定的に改善に向かうための重要な基盤がつくられた。日本型雇用慣行は歴史は浅いものであり、決して日本固有の文化に根ざしたものではなかった」と指摘している。
 池田信夫は「年功序列は日本の伝統、儒教の影響ではなく、戦時経済の『総動員体制』のためにつくられた制度であり、戦後も官庁・大企業に受け継がれた」と指摘している。
 経済学者の田中秀臣は「戦後の『終身雇用』は、景気がよかったために出現した『長期雇用関係』に過ぎない。景気次第で『終身雇用』は容易にご破算になる可能性があったにもかかわらず、多くの労働者はその幻想を社会通念と信じていた。つまり、会社組織のあり方よりも、景気動向などのマクロ経済要因の方が影響が大きかった」と指摘している。田中秀臣は「中小企業では、戦後一貫して雇用の流動性は高かった」「中小企業の労働者の七割は、定年までに数回の転職を行っている」と指摘している。経済学者の野口旭、田中秀臣は「日本的雇用システムが維持できなくなった原因は、非効率性ではなくデフレーションによる実質賃金の上昇である」「『日本的雇用システム』自体は、マクロ経済が2-3%程度のインフレ状態であれば健全に機能する」と指摘している。野口、田中は「1990年代後半に日本で起きた名目賃金の低下は、日本経済にとって長年にわたって洗練化されてきた日本の雇用システムを破壊するという大きな代償を払った」と指摘している。
 経済学者の伊藤元重は「戦後の日本のすべての企業が終身雇用・年功賃金・企業別労働組合といった慣行を持っていたわけではなく、こうした慣行とは無縁の労働者も多く存在した」と指摘している。伊藤元重は「経済が成熟化し、少子高齢化が進む中、日本的な雇用慣行を維持することが困難となっている」と指摘している。
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世界が称賛する 日本の経営
新・日本の経営 (日本経済新聞出版)