🍙42〗─1─岸信介が現代日本の社会保障や福祉の基礎を築いた。~No.256No.257No.258 

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 日本人には、良い日本人が2割、悪い日本人が3割、空気圧・同調圧力で流されるどっちともいえないようなあやふやで卑怯な日本人が5割。
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 岸信介は、現代の日本人から最も嫌われた政治家である。
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 岸 信介(1896年〈明治29年〉11月13日 - 1987年〈昭和62年〉8月7日)は、日本の政治家、官僚。旧姓佐藤。
 満州国総務庁次長、商工大臣(第24代)、衆議院議員(9期)、自由民主党幹事長(初代)、自由民主党総裁 (第3代) 、外務大臣(第86・87代)、内閣総理大臣臨時代理、内閣総理大臣(第56・57代)、皇學館大学総長 (第2代) などを歴任し、「昭和の妖怪」と呼ばれた。
 第56・57代 内閣総理大臣
 内閣 第1次岸内閣
 第1次岸改造内閣
 第2次岸内閣
 第2次岸改造内閣
 在任期間 1957年2月25日 - 1960年7月19日
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 岸信介は親中国派であったが、中国共産党ではなく台湾であった。
 旧軍人達も、中国共産党を敵として台湾に味方した。
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 1980年代頃までの日本は人口爆発期であったが、これ以降は人口増加は止まり人口減少が始まった。 
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 2020年7月31日・8月7日号 週刊ポスト「あの長期政権は何を残したのか
 岸信介 (57年2月~60年7月 1241日)
 安保より貧困追放!
 国民皆年金を創設した『キシノミクス』の功罪
 今年8月24日に安倍晋三首相の『連続在任期間』は大叔父である佐藤栄作首相の記録(7年8ヵ月)を抜き、歴代最長となる。
 『歌手1年、総理2年の使い捨て。一内閣一仕事でいい』
 そう語ったのは竹下登首相で、一つの内閣が達成できる仕事はせいぜい一つという意味だ。事実、第2次安倍内閣までの6代の総理(その一人は安倍首相)は在任ほぼ1年ごとに交代し、政権が不安定で『何も決められない政治』と言われた。
 では、歴代最長の安倍政権はこの国と国民の将来に何を遺すことができたのだろうか。それを検証するために、歴代の長期政権が遺した足跡を同時代の証言で辿っていく。
 シリーズ第1回は『昭和の妖怪』と呼ばれた安倍首相の祖父・岸信介首相(在任1241日)である。
 祖父の経済政策は『アベノミクス』と正反対だった!?
 『社会主義にだって賛成する』
 岸信介首相は、『日米安保条約を改定したタカ派再軍備論者』というイメージで語られる。
 戦前の東條内閣の商工大臣を務め、敗戦後、A級戦犯に指定、逮捕されながら不起訴となり、『自主憲法制定』を掲げて戦後政界に復帰すると、わずか4年で総理大臣にのぼりつめた。
 首相に就任した岸は訪米してアイゼンハワー大統領と会談し、日米安保条約を改改定する。この新安保条約が現在まで60年続く日米同盟の基礎となっているのは間違いない。だが、安保条約に反対するデモ隊が国会や首相官邸、岸の私邸にまで押しかける中、条約を国会で強行採決したことが強権的なイメージを後世に残した。
 新安保条約の発効を見届けた岸は60年7月19日に退陣する。
 ……
 安倍首相は安保改定を『隷属的な条約を対等なものに変えた』(『美しい国へ』)と祖父の大きな功績と受け止めている。
 しかし、商工省のエリート官僚出身だった岸の真骨頂は経済社会政策にあった。安保改定見据えていたのは『日本の経済的自立』と『貧困からの脱出』だったことはあまり指摘されていない。
 まだ政界復帰する前、私設秘書だった川部美智雄に語った言葉がある。
 『日本のためになるなら社会主義にだっておれは賛成する。但(ただ)しだ、今の日本を見て、戦争に敗れ、生産力は落ち、分配なんて話は何の意味もない。今はとにかく日本経済を復興させて物を増やすことだ。今、分配しようたって3つの物を10人で奪い合っているじゃないか。せめてあと7つ増やせ、そうすれば10人が1つずつ取れるじゃないか、今はその時代だ、経済復興優先の時代だ』
 それが岸の政界復帰の〝原点〟にある。
 『米国依存』の経済復興を転換
 57年2月に首相に就いた岸は就任会見で『汚職、貧乏、暴力の三悪を追放したい』と『三悪追放』をスローガンに掲げて経済政策に力を入れる。
 最初に取り組んだのは中小企業対策だ。
 当時の日本は『なべ底不況』と呼ばれる不況に直面していた。
 戦後、吉田内閣は軽工業による輸出振興で外貨獲得を目指した。外交官出身の吉田は欧米型の自由経済論者であり、GHQ主導の財閥解体独占禁止法によって自由競争を促する政策をとった。日本経済は折からの朝鮮戦争の特需に沸いたものの、米国の高い原材料を買わされたため貿易収支は赤字で、特需が終わると中小企業がバタバタ倒れた。
 吉田の路線を岸はこう批判していた。
 『中小企業は本質的に弱体なものであってこれを自由競争のまま放任すれば共倒れとなってしまうのである。これを振興する道は国家が確固たる中小企業対策を樹立し、保護助成を加えるということ以外にない』
 岸は、中小企業政策の大転換をはかる。
 中小企業団体組織法(57年)で中小企業が商工会組合をつくって生産調整、価格カルテル、大企業との団体交渉権を認めた。
 『強い中小企業の育成がなければ国際競争力には勝てない』
 というのが岸の考えであり、高い技術力をもつ分厚い層の中小企業がものづくりを支える日本の経済構造はここからはじまるといっていい。
 岸の経済政策の研究で知られている政治学者・長谷川隼人氏が指摘する。
 『吉田政権の復興政策は、軍事的にも経済的にも米国に依存して復興を進めようというものだった。朝鮮戦争を契機として繊維産業など軽工業を優先的に復興させる。その上で日米安保体制によって特需収入を持続しつつ防衛負担を抑制するという「日米経済協力」によって大規模な外貨導入をはかり、基幹産業の復興や重化学工業の育成を目指そうとしたわけです。
 これを岸は批判していました。岸は軍事的にも経済的にもアメリカという松葉杖に縋(すが)らなければ独立を維持できない状態から脱却することを国家の再建と位置づけ、輸出の即戦力となる中小企業を育成して外貨に頼らずに自前で復興を図るという考えでした。そのためには、統制経済的な政策が必要になります』
 高速道路と水力発電
 国家統制によって産業を保護しながら競争力を高めるという岸の考え方は、商工省の官僚時代に身につけたものだ。
 岸は商工省書記官時代(26年)、第一次大戦後の不況下の欧米を視察し、米国の工業力に驚き、疲弊する自由経済の大国・英国の惨状に失望して、英国以上の被害を受けながら国家主導で再建に向かう敗戦国ドイツの産業合理化運動を学んだ。
 『ドイツでは日本と同じように資源がないのに、発達した技術と経営の科学的管理によって経済の発展を図ろうとしていた。私は「日本の行く道はこれだ」と確信した』(原彬久『岸信介』)
 そう回想しているが、満州国の経営でそれを実践している。電力を得るために東洋最大と呼ばれた豊満ダム(中国吉林省)を着工し、道路インフラを整備していった。
 日本の戦後復興でも国家主導の経済発展を進めていく。
 『岸は日本初の高速道路「名神高速」の建設を57年に開始すると、翌年には道路緊急整備措置法をはじめとうる道路四法を成立させて道路整備5か年計画をスタートさせた。道路というと田中角栄首相が思い浮かぶかもしれませんが、その元をつくったのは岸です。電力については吉田首相は民間主導の石炭火力発電を重視したが、岸は発電単価が安く自給可能な水力発電に力を入れ、産業全体の生産コスト低減を図るべきと考えた』(長谷川氏)
 こうした岸の経済思想は後輩の通産官僚に引き継がれ、〝護送船団方式〟で外貨から日本企業を守り、育成していった。
 そして日本経済は岸内閣の下で『岩戸景気』と呼ばれる成長に向かうが、経済が成長すれば社会格差は広がる。
 『それが日本のためになるなら社会主義にだっておれは賛成する』
 そういってのけた岸は復興の次に富の分配が政治テーマになることがはっきり見えていたようだ。『貧乏追放』の公約は今でいえば貧困撲滅、格差是正である。
 実は、岸の政策の中で歴史に最も大きな足跡を刻んだのが日本の社会保険制度を確立したことだ。
 岸は3年間の首相在任中に、『国民健康保険法』『最低賃金法』『国民年金法』を次々に成立させ、社会のセーフティネットを構築していく。それまでの健康保険には農家は加入できず、厚生年金は自営業者などは対象外だった。この法律で現在の国民皆保険、国民皆年金制度の基礎ができた。
 最低賃金法については岸が国会答弁で目的を語っている。
 『日本の事情は、よく御承知の通り、特に中小企業が非常に多く、しかも従事している労働者の労働条件が悪い、賃金が低い、これを改善することが労働者にとって必要であるばかりでなく、中小企業の近代化や体質改善の上からいってもきわめて重要なものである』
 社会保障制度の父
 中小企業育成、産業インフラ整備、社会保障がいわば〝キシノミクス〟の三本の矢だった。
 アベノミクスが円安と金融緩和で輸出大企業を儲けさせ、一方中小企業や地方経済を疲弊させて社会の格差を広げたのとは正反対の政策である。
 『安保の岸』が〝社会保障制度の父〟だったとは意外に思うかもしれないが、そうした指摘に岸自身が語った言葉がある。
 『岸内閣の時代に社会保障や福祉の基礎がつくられたということが、私のイメージに合わないというか、私になじまないような印象を受けるらしい(中略)民生安定の手段として社会保障制度を志向することは、政治家として当然やるべきだあって、私としては別に気負ったわけではなかった』(『岸信介回顧録』)
 大蔵官僚で岸内閣時代に官房副長官の補佐役を務めていた藤井裕久・元財務相が語る。
 『岸さんは非常にバランス感覚に優れた政治家であり、その外交・安保政策の本質は、経済政策でもあったように思えます。安保改定のイメージから、岸さんをアメリカ寄りだと言う人がいるが、実際には国際協調主義者でした。なぜ国際協調を求めたのかというと、平和な世界は経済を良くする。国民の生活が良くなる。こういう考え方の人だったからです。
 岸内閣が57年に防衛力を漸増(ぜんぞう)させる「国防の基本方針」を策定した時、岸さんの官僚時代からの腹心だった椎名悦三郎さんが国防会議の時に「順番が大切だ」と語り、一番は国連、つまり国際協調。二番は民生の安定(国民生活)。三番が自衛隊。そして四番に日米安保を挙げた。安保改定を一番下に置いたが、岸さんは一切否定しませんでした』
 岸はその順番通りに動いた。首相になるとアジア諸国を2回歴訪して戦後賠償に取り組み、『国連中心主義』『アジアの一員としての立場の堅持』『自由主義諸国との協調』の外交三原則を打ち出して日本は国連安保非常任理事国に初当選させた。
 次に『貧乏追放』で国民年金法など社会保障法案を成立させ、最後に訪米して新安保条約を調印したのだ。
 そうやって岸が60年前に築いた日本社会のセーフティネットは、いま孫の代で壊れかかっている。それを〝歴史の皮肉〟というには切なすぎる。」
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 A級戦犯には、良いA級戦犯もいれば悪いA級戦犯もいた。
 良いA級戦犯達は、親ユダヤ昭和天皇の御稜威・大御心に添うべく、ナチス・ドイツの外圧を拒絶して数万人のポーランドユダヤ人難民をホロコーストから守った。
 さらに、日本陸軍は抗日軍(中国共産党軍・ファシスト中国軍)と玉砕するなどの激戦を繰り広げながら、その中で、河南省で餓死寸前の中国人1,000万人以上に食糧や医薬品などの軍需物資を大量に放出して助けた。
 日本軍兵士の3分の2の大量死は、戦死ではなく餓死(栄養失調死)か病死であった。
 現代日本は、昭和天皇A級戦犯達の自己犠牲で行った歴史的人道貢献を完全否定する。
 それが、靖国神社問題である。
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 デイリー新潮
 安倍首相の思想の源流か A級戦犯の孫に迫る
 国内 政治
  『戦犯の孫―「日本人」はいかに裁かれてきたか―』林英一 著
 ネット書店で購入する
 2014年2月16日、安倍晋三首相の側近、衛藤晟一首相補佐官による「こちらこそ失望した」発言がまたもや日米間にきしみをもたらした。昨年暮れの安倍首相による靖国参拝、その後のアメリカの「失望した」発言。延々とくすぶり続けていた問題に油を注ぐ発言となり、菅義偉官房長官は火消しにやっきになった。
 アメリカ側も昨年12月にバイデン副大統領が日本政府に、靖国参拝は慎重にと告げていた手前「失望した」との対応にならざるを得ず、日米の間で不協和音が鳴り響いている。
 また年内に迫った日米防衛協力のための指針(ガイドライン)の改定に備え、憲法九条改正の論議を一旦横に置き、憲法解釈を閣議決定で変更するとの発言など、安倍首相念願の集団的自衛権の行使容認への動きが加速している。
 ここにはいくつもの問題がひしめき合っている。戦勝国に押し付けられた憲法を脱却しなければならない、同盟国との関係を良好に保たなければならない、近隣諸国との緊張を招いてはいけない、国内のハト派タカ派両勢力に配慮しなければならない。これらを同時に満たす解などあるのだろうか。
■準A級戦犯岸信介の孫
 さらにそこに安倍首相個人の思いが大きく関わってくる。ご存知のとおり、安倍首相は第五十六代内閣総理大臣岸信介の孫である。岸は第二次大戦の開戦時、東条内閣で大臣を務め、敗戦後、東京裁判A級戦犯として裁かれることになる。結局は不起訴となり釈放されるも、後々までA級戦犯というレッテルは決してぬぐえなかった。その後、政界に復帰し、保守合同を果たし、日米安全保障条約を批准したのも岸である。
 安倍首相の目指す「戦後レジームからの脱却」、そして諸外国に懸念を抱かせてでも強行する靖国神社への参拝。戦後日本で大きな意味を持つ日米安保を成立させた岸元首相を祖父に持ち、なおかつ岸が戦犯容疑者だったことが陰に陽に影響を与えているのであろう。
■戦犯の孫だからこそ
 今年2月に刊行された『戦犯の孫―「日本人」はいかに裁かれてきたか―』(林英一/著 新潮新書)のなかで、著者の林氏はA級戦犯の孫たちに焦点を当てている。
 “開戦時の首相”東条英機、“特務機関の「支那通」”土肥原賢二、“唯一の文官”広田弘毅、“開戦を回避できなかった外務大臣東郷茂徳、彼らの孫たちを取材・研究し、彼らの生い立ちと発言を追っている。孫たちの立場は複雑で、戦犯や戦後についての考え方もさまざまである。しかしどの孫にも共通していることは、自らを戦犯の末裔であると自覚するような体験を積み重ね、同時に、一族の宿命として、過去の歴史と向き合わざるを得なかったのである。戦犯の孫として社会のうねりに巻き込まれながら、誰もが自らの立場を鑑み、独自の考えを持つ必要に迫られ、否が応でも自分なりの言葉をもつに至ったようだ。なかでも広田弘毅の孫の肉声は特に貴重に感じられる。
 戦争犯罪や戦争責任を他人事としてとらえることができなかった彼らだからこそ、手のひらを返したように戦犯に責任を押し付けた日本人には、複雑な思いがあるようだった。
 このように「戦犯の孫」安倍首相の中にある国への思い、米国への思い、保守主義への本心を読み解くには、祖父岸信介にその源流を求める必要があるのだろう。
 また同書では「有名な」A級戦犯だけではなく、「無名な」BC級戦犯がアジア各地でどのように裁かれてきたのか、にも注目している。知られざる流転に満ちた人生を送った多くの「無名の」戦犯たちが多数いたことも忘れてはならない。
 デイリー新潮編集部
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 しんぶん赤旗
 2007年9月15日(土)「しんぶん赤旗
 A級戦犯容疑の岸信介元首相とは?
 〈問い〉 安倍首相は、著書『美しい国へ』で、祖父・岸信介氏について、「世間のごうごうたる非難を向こうに回して、その泰然とした態度には、身内ながら誇らしく思う」と書いています。一般的に、祖父を尊敬する心情は理解できますが、岸氏がA級戦犯容疑者になったのには理由があったのではないでしょうか。岸氏とはどんな人物だったのですか?(兵庫・一読者)
 〈答え〉 1960年の安保条約改定を強行したことでも知られる岸信介元首相(1896~1987)は、戦前、農商務省(後に商工省)で超国家主義的“革新官僚”として頭角を現しました。岸は1936~39年まで、日本のかいらい国家「満州国」において、東条英機関東軍憲兵司令官、参謀長を務めたもとで、関東軍と密接な連携のもとに経済・産業の実質的な最高責任者として権勢をふるい、「産業開発5カ年計画」による鮎川財閥の導入などによって資源の略奪をはじめ植民地支配をほしいままにしました。“2キ3スケ”(東条英機星野直樹岸信介鮎川義介松岡洋右)の名で恐れられたのも、このころです。
 この時期、「満州」経済は裏でアヘン取引によってばく大な利益をあげていて、そこからの巨額の資金が岸信介氏を介して東条にわたり、それが東条が首相になる工作に使われたとの説もあります(原彬久『岸信介―権勢の政治家』〈岩波新書〉、太田尚樹『満州裏史―甘粕正彦岸信介が背負ったもの』〈講談社〉など。
 岸はその後、41年、東条内閣の成立とともに、東条がもっとも頼りにする盟友の一人として商工大臣、軍需次官(大臣は東条が兼務)をつとめ、侵略戦争遂行のための国家総動員体制、国家統制による軍需生産増進、“大東亜共栄圈”の自給自足体制確立など戦時経済体制推進の施策をすすめます。
 ですから、岸が戦後A級戦犯容疑者として戦争責任を問われたのはごく自然のことでした。1945年9月、岸は笹川良一児玉誉士夫らとともに東京・巣鴨拘置所に収監されましたが、アメリカの対日占領政策の転換とともに48年12月に釈放されました。
 岸はみずからの戦前・戦中の役割を反省するどころか、それを正しい行為とみなす世界観、価値観を終生かたくなにもちつづけました。戦犯容疑者として収監されるとき、恩師から「自決」を促す短歌をおくられたさいに、返歌に「名にかへてこのみいくさ(聖戦)の正しさを来世までも語りのこさむ」と書いています。(原彬久、前掲書)。(足)
 〔2007・9・15(土)〕
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 現代の日本に、岸信介に匹敵する高学歴出身知的エリートはいない。
 現代の政治家、官僚そして企業人・経営者、学者が幾ら寄って集ってもしょせんその程度に過ぎない。
 何が違うのか、それは、目標を必ず実現させるという強い志と不退転の覚悟による行動力、広い知識と深い教養による思考力、世界と歴史を見据えた屈折のない確かな心眼力、そして思想と哲学の有無である。
 その結果、昔の日本人は日本の為に「何か」を残したが、現代の日本人は後世の為に「何も」残さない。
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 戦前の日本人は自分で考えて決断して行動していたが、現代の日本人は他人の言う通りに生きようとしている。
 強いリーダー待望論は、昔の日本より現代の日本に強い。
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 資源少国の日本は、食糧・物資・エネルギー(石炭・石油・天然ガス・ウラン・その他)アメリカの国内及びアメリカの影響地域から米ドル建てで購入し、アメリカ軍が安全を確保している海と空を利用して輸入していた。
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 戦後日本人は、歴史教育を受ける事で歴史力をなくし、歴史を正しく評価する教養も失い、マルクス主義系学者が捏造・歪曲したニセ歴史を定説として盲目的に信じ込んでいる。
 戦後の歴史教育で高得点を取ったのが高学歴出身知的エリート達である。
 そして彼らが、親中国派・媚中派や親韓国派・親北朝鮮派である。
 現代の日本史は、A級戦犯岸信介を完全否定し、その日本再生政策を認めていない。
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📉11】─5─日本学術会議と中国共産党の「千人計画」。~No.24 

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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。  
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・    
 日本学術会議は、大学・研究機関・学者が防衛省軍需産業に協力する事は反対するが、中国の大学・研究機関・民間企業に協力する事には反対しない。
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 全ての大学や研究機関、如何なる民間企業も、中国共産党の指揮監督下にあり、中国軍との軍事技術開発に携わっている。
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 日本の反戦平和団体・反自衛隊派・護憲派は、日本企業の軍事転用可能な最新装置を防衛省に納入し自衛隊が装備して国防に利用する事に猛反対するが、中国企業が販売し中国軍が装備して日本を威嚇し日本の安全を脅かしても反対しない。
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 産経IiRONNA 
 日本学術会議にちらつく中国の黒い影
 加藤勝信官房長官は、日本学術会議と中国の「千人計画」の関係について「学術交流事業を行っているとは承知していない」と述べた。だが、同会議は中国の別の組織と協力覚書を結んでおり、スパイなどの懸念が完全に払拭されたとは言い難い。「炎上」の最中こそ冷静に、多方面から物事を見つめることが肝要だ。
 日本学術会議会員の任命拒否問題を受け、プラカードを手に抗議する人たち=2020年10月8日、首相官邸
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 看過できない、日本学術会議と中国「スパイ」組織との協力覚書
 『田中秀臣』 2020/10/13
 田中秀臣上武大学ビジネス情報学部教授)
 日本学術会議問題で「炎上」が続いている。日本学術会議の会員任命で、菅義偉(すが・よしひで)政権が推薦者のうち6人を拒否したことが、「学問の自由の侵害」だとして問題化した。
 会員の任命拒否によって「学問の自由」が、具体的にどう毀損(きそん)するのか、筆者にはまったく分からない。
 学者たちは本務の雇用が安定している。日本学術会議会員という特別職の公務員になれないからといって、生活の心配もない。また、何か候補者たちでしか成し得ない「学問」も、とりたててないだろう。
 2004年の日本学術会議法の一部改正によって、現在の会員が候補者たちを直接選抜・推薦しているのが実情で、簡単にいうと既得権だけがモノを言うムラ社会である。もちろん個々の会員について、日本学術会議側の推薦理由は明らかではない。
 一応、2008年に起草された日本学術会議憲章に合う基準で選ばれたというのが、ざっくりした理由だろう。ざっくりした理由には、政府側もその任命を拒否した理由をざっくり示すのが道理だ。現段階では、菅首相は記者会見で「広い視野に立ってバランスの取れた活動を行い、国民に理解される存在であることを念頭に判断した」と述べているが、妥当な発言だ。
 安倍政権への批判スキルの応用で一部のマスコミ、野党、背後から撃つのが得意な与党政治家、あるいは一部の識者らは、飽きることなく、問題の「モリカケ化」を狙うだろう。いずれにせよ、見飽きた光景が続くことになる。
 新型コロナウイルス危機によって、民間の就職も公務員の状況も厳しい。だが、日本学術会議は経済政策については、「財政再建」を重視する伝統があり、ろくな政策提言をしてこなかった。むしろ経済を失速させることに加担してきた組織である。
 この点については、前回の論説で詳細に記述したので参照されたい。率直に言えば、国民の血税で運営されているにもかかわらず、国民の生活を苦しめることに貢献してきたのだ。
 あくまでも私見だが、日本学術会議は民営化どころか廃止が妥当だと思っている。ネットでは、日本学術会議は学者の自己犠牲に等しいボランティア精神に支えられており、既得権などないかのような匿名の「若手研究者」の意見が流布していた。だが、実際には日本政府の研究予算4兆円の配分に影響を与える助言機関である。
 巨額の予算の配分には金銭的、名誉的な既得権が結びつく。また、日本の防衛装備品の研究開発に関する否定的な姿勢など、安全保障面にも直接の影響を及ぼしてきたことは自明である。
 自分たちの権限は示すが、他方で自らの機構改革には最大限消極的である。この点は嘉悦大学高橋洋一教授の論説が詳しい。
要点をいえば、なぜ税金で運営される国の組織でなければならないのか、合理的な理由がないのである。「学問の自由」を強く主張するならば、政府から独立する方が望ましい。
 日本学術会議は、財政再建に極端に偏った緊縮経済政策を提起し、日本の長期停滞のお先棒を担いでいたと筆者は先に指摘した。さらに、この長期停滞をもたらした経済学者の意見を、日本学術会議は、2013年に「経済学分野の参照基準(原案)」として提起し、日本の経済学の多様性を大学教育の場から排除しようとした。
 さすがにこの露骨なやり方は、さまざまな立場の経済学者やその所属学会によって批判された。だが、日本学術会議を通じて緊縮政策を公表してきたメンバーらが所属する日本経済学会は、何の反対声明も出さなかった。
 さて、日本学術会議と、中国政府が海外の研究者や技術者を知的財産窃取のためのスパイとして活用しているとされる通称「千人計画」との関係が話題を集めている。
 日本学術会議は千人計画と関わりを持ち、軍事研究などに協力しているという情報が会員制交流サイト(SNS)で拡散されたのを受け、ネットメディアのBuzzFeedが熱心にファクトチェック(真偽検証)をして、否定した。
 同記事では、「日本学術会議と中国の関係についていえば、中国科学技術協会との間に2015年に『協力覚書』を結んでいる」が、予算などの関係から「軍事研究や千人計画以前に、学術会議として他国との間で『研究(計画)に協力』」しているという事実がない、ということだ」と結論づけた。
 だが、他方で、このファクトチェックは重要な「ファクト」には無批判的だった。日本学術会議と中国科学技術協会との「協力覚書」問題は問題以前であるかのような、一面的とも言える主張をしているのである。
 この協力覚書に問題性がある可能性を除外しているBuzzFeedの主張を真に受けるのは危険だ。中国問題グローバル研究所の遠藤誉所長は論説で、「協力覚書」を結んだこと自体が、中国の習近平国家主席が主導していた「中国製造2025」の戦略と符合することを指摘している。
 {習近平国家主席に選ばれた2013年3月15日、中国工程院は中国科学技術協会と戦略的提携枠組み合意書の調印式を開いた。中国科学技術協会は430万人ほどの会員を擁する科学技術者の民間組織だ。
 (中略)
 アメリカと対立する可能性が大きければ、国家戦略的に先ず惹きつけておかなければならないのは日本だ。日本経済は減衰しても、日本にはまだ高い技術力がある。十分に利用できると中国は考えていた。
 こうして、2015年9月に日本学術会議と協力するための覚書を結んだのである。
 ニューズウィーク日本版「日本学術会議と中国科学技術協会」協力の陰に中国ハイテク国家戦略「中国製造2025」}
 「中国製造2025」は軍事面の強化も含んだハイテク立国政策、中国工程院は政府系研究機関である。さらに、一応は民間組織であるものの、中国科学技術協会は人的な交流を通じて事実上軍部と密接につながり、党中央の意思決定に強く従属する枠組みに取り込まれている。
 そんな中国の民間組織と「協力覚書」を交わしたままであることは、日本の安全保障の点から厳しく批判されるべきである。人材交流の実績が本当にないならば、実害がでないうちに明日にでも「覚書」を破棄した方がいいのではないか。
 いずれにせよ、日本学術会議の任命問題が話題になればなるほど、同会議の問題性が指摘されてくるのは、以前からその緊縮的な経済政策提言にあきれ果てていた筆者からすると「いい傾向」だと思っている。
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🐙7〗─1─【食料安保を問う】(上)低空飛行続く食料自給率 幅広い共感どう醸成。~No.20No.21No.22 ④ 

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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。  
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・    
 太平洋戦争の原因は、石油ではなく食料の為であった。
 軍国日本は、食糧・物資・石油の輸入国であったが、アメリカ・イギリス・オランダによる日本資産凍結と輸入禁止の経済封鎖によって食糧を購入する事も輸入する事もできなくなり、惨めに飢えて死ぬか武士として戦って死ぬかの二者選択で、戦っても勝てない事が分かっている武士らしく戦って死ぬ事を決断した。
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 現代日本人は昔の日本人ではない。
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 現代日本には、武士・サムライはもちろん庶民(百姓・町人)もいない。
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 2020年10月6日 産経新聞「【食料安保を問う】(上)低空飛行続く食料自給率 幅広い共感どう醸成
 食料の安定供給は国家の最も基本的な責務の一つとなっている(本文と写真は関係ありません)
 「食料の安定供給は、必ずしも確定的なものでは決してない」。9月8日、食品メーカーのトップらとテレビ会議で行った意見交換で、江藤拓農林水産相(当時)はこう強調した。新型コロナウイルス禍もあり、国民が十分かつ良質な食料を合理的な価格で常に入手できる「食料安全保障」への関心が高まっている。
 その指標の一つが、国内の食料消費が国内の農業生産でどれだけ賄えているかを示す「食料自給率」だ。
 8月に発表された令和元年度のカロリーベースの食料自給率は、過去最低水準だった前年度から1ポイント上昇の38%(概算値)だった。前年度から上がったのは実に11年ぶりだが、厳密には0・40ポイント上昇にすぎず、本格的な回復には程遠い。先進国では最低レベルだ。
 政府は3月、今後10年間の農政の指針となる「食料・農業・農村基本計画」を5年ぶりに改定し、カロリーベースの食料自給率を12年度に45%とする目標を掲げた。だが、7ポイントの隔たりを埋める道筋はみえない。
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 カロリーベースの食料自給率は昭和40年度に73%あったが、平成元年度に50%を切り、5年度と30年度は過去最低の37%に沈んだ。食生活の変化で、ほぼ自給できている米の消費が減少する一方、飼料や原料の多くを海外に頼る畜産物などの消費が増えたためだ。
 政府は12年から5年ごとに食料・農業・農村基本計画を策定し、その時点から10年後のカロリーベースの食料自給率の目標を45%(22年策定の基本計画は50%)に設定し、向上を目指した。だが、実際には低下傾向にあり、この間に45%に届いたことはない。
 「食料自給率の向上は政府が旗を振っている話としか認識されておらず、地方や農業者、消費者なども含めて幅広く共感を得られる『皆のもの』になっていない」。JAグループを代表する全国農業協同組合中央会(JA全中)で食料安保に長年携わってきた馬場利彦専務理事はこう語る。
 なぜ食料自給率を向上させるのか。幅広い国民の意識や行動に働きかける取り組みはまだこれからだ。
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 食料自給率の在り方には異論も聞かれる。元農水省官僚でキヤノングローバル戦略研究所の山下一仁研究主幹は「食料自給率は食料供給力の指標ではない。食料自給率の向上は、予算獲得や関税維持のための看板にすぎない」と厳しい。
 山下氏は「食料自給率が向上すれば、もう農業予算などいらないのではないかといわれてしまう。農水省にとっては、低いままのほうがいいのだ」と話す。
 9月3日に開かれた自民党の農林関連の会議。令和3年度の農林予算の概算要求に向けた党内議論が始まる中、出席者からは「政府の経済財政運営の指針『骨太方針』に明記された『食料安全保障の確立』を前面に出すべきだ」と、食料安保への言及が相次いだ。食料安保には農業保護と結びつきやすい一面がある。
 さまざまな見解があるとはいえ、江藤氏の後任となった野上浩太郎農水相が指摘するように、「食料の安定供給は国家の最も基本的な責務の一つ」である。第2次安倍晋三政権を継承した菅義偉政権には、国民への食料供給を盤石にする政策の深化が求められる。」
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 10月10日 産経新聞「【食料安保を問う】(下)コロナ禍、食料安保に一石 供給網の強靭化が急務 
 スイスでは約3年前、食料安全保障の憲法への明記を国民投票で決めた=北部フィリゲン近郊(ロイター)
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 「新型コロナウイルスの感染拡大は、食料安全保障を見直す一つの契機になった」。農林水産省の幹部はこう強調する。感染症という従来はあまり考慮されていなかったリスクが、食料安保を揺さぶっている。
 「コロナ禍」のもと、食料囲い込みのために農産物・食品の輸出を制限したのは累計で20カ国に達した。10月6日時点のまとめでは6カ国が続けている。こうした動きは、2008年に食料価格が世界的に高騰した局面でもみられた現象だ。国際機関などは輸出制限の乱用を戒めている。
 また、コロナ禍に伴う出入国制限の影響で、欧米では出稼ぎ労働者、日本では中国などアジア圏からの外国人技能実習生の確保が難しくなり、農業の生産現場は人手不足に悩まされた。
 足元ではコロナ禍以外の脅威もある。アフリカ東部やインドなどでは、大発生したサバクトビバッタの食害が深刻化。アジアで感染が拡大するアフリカ豚熱には有効なワクチンがない。
 「悪いときに悪いことがいくつも重なっていくと、『食料危機』が発生することもある」。農林中金総合研究所の平澤明彦基礎研究部長はこう警鐘を鳴らす。
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 ただしコロナ禍の中でも、世界全体でならせば食料の不足感はさほどない。米農務省が9月11日に発表した穀物などの需給報告によると、20~21年度の小麦やトウモロコシ、米、大豆の世界の生産量はいずれも過去最高となる見通し。穀物の国際価格も08、09年や12年といった過去の高騰局面と比べれば水準は低い。
 野上浩太郎農水相は「現時点で(日本の)国民への食料供給に大きな問題は発生していない」と話す。
 他方、コロナ禍では国内外で買いだめの動きがみられるなど、食料事情への鋭い反応が鮮明になった。
 生産者から消費者に食料を届ける「フードサプライチェーン(食料供給網)」の脆弱(ぜいじゃく)性が露呈したのもコロナ禍の特徴だ。米国で今春、食肉加工工場の従業員の間で新型コロナの集団感染が広がり、工場閉鎖が相次ぎ、食肉の供給不安が持ち上がったのはその好例だ。
 「食料供給網の強靱(きょうじん)化が世界の食料安保の確保に大きく貢献する」。9月上旬に開かれた国連食糧農業機関(FAO)アジア・太平洋地域総会で、日本の河野義博農林水産政務官(当時)はこう訴えた。
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 食料安保を重視する動きは、海外ではコロナ禍の以前からあった。スイスでは17年、食料安保憲法に明記することの賛否を問う国民投票があり、8割近い賛成を得た。農地など農業の生産基盤の維持、国際貿易の構築といった計5項目を促進する内容だ。
 スイスは酪農国だが、山岳地が多く耕地は少ない。17年のカロリーベースの食料自給率は52%と欧州では低いほうで、日本との共通点もある。農林中金総合研究所の平澤氏は「食料安保を実現するための条件を具体的に示しただけでなく、国民的合意を得られる内容とした」と意義を語る。
 世界の人口は途上国を中心に増加し、食料需要は増大する。異常気象や大規模な自然災害の多発も農産物の生産を脅かす。世界有数の農産物の純輸入国である日本は「総合的な食料安保の確立」に向けて入念なかじ取りが求められている。
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 この連載は森田晶宏が担当しました。」
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📉11】─4─日本学術会議から漂う「腐臭」。~No.23 

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 日本学術会議から漂う「腐臭」
 日本学術会議に推薦された6人の任命を見送った菅義偉首相の判断が波紋を広げている。同会議のトップや野党は「学問の自由を侵害した」と反発。ただ、任命権が首相にある以上、「侵害」の批判はあたらない。そもそも「学者の国会」を謳いながら、傲慢さが際立つ組織に成り下がった同会議は見直す時期ではないか。
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 「学者の国会」なんぞ笑止千万、日本学術会議に蔓延した知的退廃
 『田中秀臣』 2020/10/06
 田中秀臣上武大学ビジネス情報学部教授)
 科学者で構成する政府機関、日本学術会議がにわかに注目を集めている。日本学術会議が推薦した会員候補6人について、菅義偉(すが・よしひで)首相が任命を拒否したからだ。
 「学問の自由」を危険に陥れると、ひと月ほど前までは反安倍政権だったマスコミ、識者らを中心に批判の声をあげている。野党の一部も国会でこの件を審議するという。いつもながらご苦労なことである。
 日本学術会議については、既得権が異様に強い組織であり、その提言の類いも経済政策関係では弊害があるか、まったく使い物にならない、日本の経済学者の傲慢(ごうまん)と無残さの象徴であると以前から思ってきた。
 この機会に、ぜひ日本学術会議は民営化するなり、組織廃止するなりした方がいいのではないか、と個人的には強く思っている。
 日本学術会議とはそもそも何か。公式サイトに設置根拠となる法律とともに解説されている。
{昭和24年(1949年)1月、内閣総理大臣の所轄の下、政府から独立して職務を行う「特別の機関」として設立されました。職務は、以下の2つです。
・科学に関する重要事項を審議し、その実現を図ること。
・科学に関する研究の連絡を図り、その能率を向上させること。
 日本学術会議とは}
 また、日本の科学者を内外に代表し、210人の会員と約2千人の連携会員で職務を行うとしている。勝手に代表されても困るが、後述するように経済政策に関しては知的腐敗臭すらする提言しかしていないので、日本の経済学者の「代表」がいかにダメかを内外に広報する結果になっている。
 菅政権の任命拒否の理由は、具体的には明らかにならないだろう。もちろんリーク的なものはあるかもしれないが、個人投資家で作家の山本一郎氏がここで指摘しているように、現在の政権批判という基準で任命が拒否されたかどうかは分からない。
 安倍政権の政策に批判的で、その趣旨の発言がマスコミでも取り上げられていた劇作家の平田オリザ氏は今回、会員に任命されている。今回の任命拒否の理由として注目されている集団安全保障法制でも、平田氏は反対の立場だ。
 そもそも論として、拒否できる権能が政府側にあるのだから、それを行使したことは批判にあたらない。政治的な思惑で批判されているのだろうが、その次元でしかない。個人的には、またこんなつまらない問題で国会の審議時間を浪費するのか、とあきれているだけだ。
 日本学術会議が既得権を荒らされたので、抗議するのは分かるが、これまた国民には無縁な話だ。既得権、つまり会員になる権威付けが、そんなに「うまい」のだろうかという感想しかない。
 日本学術会議が明日なくなっても、ほとんどの国民にも研究者にも関係がない。「学者の国会」という意味不明な形容があるが、多くの研究者はこのオーバーな形容に噴き出していることだろう。
 今回の会員候補たちが、日本の科学者たちに事前に提示され、選出されたわけでもない。勝手に日本学術会議の内部で、既得権や忖度(そんたく)にまみれながら選んだだけだろう。
 むしろ「学者の記者クラブ」とでも言うべき存在だ。本家の記者クラブのメンツと同じように、自分たちが選ばれたわけでもないのに「国民の代表」だと勘違いして、官房長官らにくだらない質問を繰り返し、「巨悪と対峙(たいじ)している」と悦に入る記者たちと大差ない。
 「学問の自由」も侵されないだろう。むしろこの機会に、政府の影響を完全に離れた組織になるのはどうだろうか。年間10億5千万円が政府支出として日本学術会議にあてがわれ、また日本学術会議会員は非常勤の特別職国家公務員でもある。
 政府にすがって権威付けされていながら、自分たちの既得権を侵されたことで大騒ぎすることが、いかに知的な醜悪さを伴っているか。権威にすがる学者には分からないかもしれないが、多くの国民の率直な感想は、税金にあぐらをかいている学者たちに厳しいだろう。一言でいえば、甘えきっているのである。
 ちなみに、10億5千万円をポスドクや院生など若い研究者たちにまわせ、という意見を見たが、それでは足りない。無償の奨学金拡充とともに、どかんと何千億円も増やすべきだ。こんな少額では若手研究者も大して救えない。
 さて、この日本学術会議は、最近でも経済政策に関してはまさに知的腐臭の強い提言を繰り返してきた。例えば、東日本大震災での復興増税への後押しである。
 当時の第三次緊急提言では、財政破綻の懸念から復興増税が提言されている。この提言が出る前の学者たちの審議内容をまとめた報告書を見ると、日本の経済学者の知的堕落ぶりが明瞭である。経済の停滞を解消するための財政・金融の積極的な政策を回避するマインドが鮮明である。
 {(3)このような拡張的政策の一部は緊急の救済策や復興支援によって先取りされているが、さらに追加すべきかに疑念を表明する経済学者もいる。特に、物価インフレは日本の名目利子率に上昇傾向をもたらし、国債負担を増加させ、日本の財政規律に対する信認を揺るがす可能性があるからである。その時、日銀による金融政策はゼロ金利の時よりもさらに難しい舵取りが必要になるだろう。
 東日本大震災に対応する第三次緊急提言のための審議資料}
 また当時、筆者たちが主張していた日本銀行に復興債を引き受けさせ、それで大胆な金融緩和と財政支出をすべきだという正攻法については、日本の経済学者たちは下記のような認識だった。アベノミクスから新型コロナ危機を体験しているわれわれから見ると、日本の経済学者の大半がいかに使い物にならないか明瞭である。
 {復興債の日銀引き受けに関しては、すでに国の債務残高が860兆円に達している日本において、財政規律がさらに緩んだというメッセージを国の内外に与える可能性が高い。それは、長期金利の高騰などの大きな副作用をもたらすことになり、日本のギリシャ化の回避という立場から極力避けるべきだという意見が圧倒的に多い。
 東日本大震災に対応する第三次緊急提言のための審議資料}
 日本の債務残高は現在、1300兆円ほどだが、長期金利の高騰もなく、ギリシャ化の懸念もない。むしろ国際通貨基金IMF)など国際機関は新型コロナ危機でできるだけ財政政策で国民を救済し、またそれができない低所得途上国には日本などが財政支援すべきだとしている。
 いかに日本の経済学者たちが使えないしろものかを示す代表例である。ちなみに2013年の提言では、日本の長期停滞を脱出するのに、具体的には財政再建しか言及していない。
 アベノミクスのように積極的な金融政策と財政政策が主張されていたが、そのときも日本の経済学者は一貫して使えない提言を繰り返していた。金融緩和については、基本的には反対ともとれる姿勢を打ち出し、また経済成長との両立と言いながら、財政再建だけは具体的な提言をし続ける。その後の日本経済を考えると、これまた驚くべき知的退廃である。
 {日本も含めた先進国は、現在、高齢化の進行過程で低成長を余儀なくされていて、膨大な財政赤字から財政政策の選択肢が大きく制約される状況にある。この局面では、実体経済の底上げのために、金融緩和の強化が選択される傾向がある。一般的に、デフレ脱却のために金融政策は有効な筈だが、現在のデフレの背景には金融緩和だけでは解決できない需要不足等の要因もある。伝統的な金融政策の効果に限界がみられ、国債残高が膨大に積み上がるなかでの金融緩和の強化は、国債の信認維持にとりわけ注意しつつ運営していく必要がある。
 日本の経済政策の構想と実践を目指して}
 単に会員たちの権威好きを満たしているだけの腐臭の強い組織だと、何度も強調しておきたい。ちなみに日本の防衛に非協力的でいながら、中国の軍備増強に協力的で、スパイ行為の疑いも強い中国の千人計画を後押ししているという疑惑もある。本当だとしたら、これこそ国会で追及すべきだろう。
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🐙6〗─2─ノーベル平和賞に飢餓撲滅に尽力で国連の機関「世界食糧計画」に。〜No.17No.18No.19 ③ 

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 2020年10月9日18:10 産経新聞ノーベル平和賞に「世界食糧計画」 飢餓撲滅に尽力
 シリア内戦で住む場所を失った女性。国連機関「世界食糧計画」(WFP)から食料の提供を受けた=2017年10月10日、シリア・アインイッサ(ロイター)
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 【ロンドン=板東和正】ノルウェーノーベル賞委員会は9日、2020年の平和賞を、世界各地で食糧支援を行う国連機関の世界食糧計画(WFP、本部ローマ)に授与すると発表した。新型コロナウイルスの感染も拡大する中、飢餓の撲滅に向けた尽力が評価された。
 1961年に設立されたWFPは内戦や干魃(かんばつ)、地震などの被害に苦しむ約80カ国の約1億人に毎年計約150億食分の食料を支援してきた。ノーベル賞委員会は「食糧危機と闘い、紛争関連地域の平和に貢献した」と授与理由を説明。食糧安全保障を平和の手段とする多国間協力で重要な役割を果たしたとした。
 同委員会は「新型コロナの流行が全世界で飢餓による犠牲者の数を急増させており、食糧援助の必要性が高まった」とし、WFPが新型コロナ流行下で活動を強化したことを評価。学校の休校措置が広がる中、WFPは給食に代わり、持ち帰りの食料や食料引換券を配布するなどした。
 授賞式は12月10日に例年よりも規模を縮小してオスロで開かれ、賞金1千万スウェーデンクローナ(約1億2千万円)が贈られる。
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 10月9日21:18 Microsoft News 毎日新聞「飢餓解消へ尽力 コロナ禍の食料確保「めざましい能力発揮」 ノーベル平和賞にWFP
 ノルウェーノーベル賞委員会は9日、世界各地で飢餓の解消に向けて食料支援を実施してきた国際連合の機関「世界食糧計画」(WFP、本部ローマ)に2020年のノーベル平和賞を授与すると発表した。
 レイスアンデルセン委員長は理由について「飢餓との闘いへの尽力、紛争地域での平和のための状況改善への貢献」などを挙げた。委員長はさらに、新型コロナウイルスの拡大が飢餓の犠牲者も急増させたと指摘。こうした状況下、WFPは食料確保に向けて「めざましい能力を発揮した」と称賛した。また、WFPが宣言した「ワクチンができるその日まで、食料こそが最良のワクチン」との言葉を引き、コロナ禍に立ち向かう姿勢も高く評価した。
 委員長は、飢餓によって紛争が引き起こされ、さらに新たな飢餓を生む「悪循環」の存在も指摘。こうした中、19年には世界88カ国の約1億人に実施した支援の取り組みをたたえた。今年の平和賞は、飢餓による人道危機を直視するよう国際社会に促す重要なメッセージとなった。
 WFPは1961年に設立され、63年から活動。近年では内戦が続くシリアやイエメン、ミャンマー軍による組織的な迫害が指摘されるイスラム少数民族ロヒンギャの人々への食料支援を実施した。核開発問題などで経済制裁を受ける北朝鮮でも20年以上、支援を続けている。
 受賞決定を受け、WFPのビーズリー事務局長はツイッターに動画を投稿し、「世界80カ国以上で活動するメンバーにこの上ない栄誉だ」と述べた。ジュネーブの国連欧州本部ではこの日、WFPのフィリ報道官も出席した記者会見があり、その最中に受賞決定の知らせが飛び込んだため、会場から拍手がわく一幕もあった。
 ノーベル平和賞は各国の政府や国会議員、大学教授、過去の受賞者、国際機関の職員などによって推薦された候補者の中から、5人の委員会が選出する。今年は318個人・団体に対する推薦があった。国連関係では01年に国連がノーベル平和賞を受賞したほか、国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)、国連児童基金UNICEF)も受賞している。
 授賞式は12月10日、ノルウェーの首都オスロで行われるが、コロナ対策で例年より規模は縮小される。賞金は1000万スウェーデンクローナ(約1億2000万円)。【ロンドン服部正法、パリ久野華代】
 世界の食料危機
 国連世界食糧計画(WFP)などによると、世界中で食料不足に苦しむ人々は2018年に1億1300万人、19年は1億3500万人だった。新型コロナウイルスの影響で経済状況が悪化し、20年は19年の倍近い2億6500万人が食料危機に直面すると推計している。19年に急激な食料不安に苦しむ人々の大多数は、紛争▽気候変動▽経済危機――の影響を受けた国々に集中している。南スーダンでは人口の6割、イエメン、中央アフリカなど6カ国でも人口の少なくとも3割が危機に直面しているという。
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🗡23〗─1─江戸時代の科学技術。国友一貫斎の飛行機設計図。岡山の鳥人間・表具師幸吉。~No.71No.72No.73 

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 875年 後ウマイヤ朝の学者アッバース・イブン・フィルナスは、原始的なハンググライダーで飛ぼうとしたが負傷した。
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 1490年頃 レオナルド・ダ・ヴィンチがヘリコプターのような航空機のスケッチを残す。ダ・ヴィンチは他にもパラシュートやオーニソプターの研究もしている。
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 1785年夏 岡山の表具師浮田幸吉は、旭川に架かる京橋の欄干から滑空飛行に初めて成功し、河原で夕涼みをしていた町民を驚かせた。
 岡山藩主池田治政は、世を騒がした罪で岡山所払いとして追放した。
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 1793年5月15日 スペインの農夫ディエゴ・マリン・アギレラがグライダーで滑空したとされる。
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 ニッポン放送NEWS・NLINE
 あけの語りびと~こころを託す物語~
 「日本最古の飛行機の設計図」も作成…国友一貫斎が築いたもの
By - NEWS ONLINE 編集部  公開:2020-04-08  更新:2020-04-08
 ライフ上柳昌彦 あさぼらけ上柳昌彦
 それぞれの朝は、それぞれの物語を連れてやってきます。
 「国友一貫斎」という歴史上の人物をご存知でしょうか? 最近、新聞に「日本最古の飛行機の設計図が発見された」という記事が出て、話題を呼んでいます。
 一貫斎が、近江国(おうみのくに)国友村…現在の滋賀県長浜市国友町に生まれたのは、1778年。江戸時代の後期に当たります。ここは、大阪の堺と並ぶ火縄銃の一大産地でした。「国友鉄砲ミュージアム」の館長、吉田一郎さんに伺うと…。
 「江戸幕府から火縄銃の注文を受けると、鉄砲の部品を鉄砲鍛冶が分担して造り、最後に組み立てるという分業制でした。さらに鉄砲造りに欠かせないネジの開発や、銃の機関部には真鍮という新金属も使っています。言ってみれば日本の近代工業発祥の地で、ここで生まれた一貫斎は、鉄砲造りの名手として名をはせていたんです」
 転機が訪れたのは39歳のとき。その腕を見込んだ彦根藩が、慣例を破って直接、一貫斎に大筒の鉄砲を発注します。それに怒ったのが、鉄砲鍛冶を束ねる4人の「年寄」。幕府に訴え、一貫斎は江戸に呼び出されます。
 しかし一貫斎の高い技術力が認められ、訴えていた年寄側が敗訴に。江戸滞在は足かけ6年でしたが、一貫斎は無駄に過ごしません。
 その間、オランダからの西洋文明に触れて、さまざまな発明をします。まずは、オランダから伝わった空気銃の玩具(おもちゃ)を元に、連発式の「空気銃」を造り上げます。
 万年筆のような「懐中筆」…いわゆる筆ペンや、「玉燈(ぎょくとう)」というランプのような照明器具。また、アーチェリーに似た鋼の弓「弩弓(どきゅう)」や「水揚げポンプ」など、いろいろな発明をしています。
 「一貫斎の発明は他にもまだあるはず」と、長浜市の調査団が生家に眠っていた文書を調べたところ、今回の「飛行機の設計図」が見つかったのです。
 発見された10ページの冊子。そこには鳥の形をした飛行機のパーツが描かれ、「檜板を皮にて包也(つつむなり)」「板を次第に薄く削る也」などと、材質や加工方法も説明されています。
 木馬に乗った人間が翼を羽ばたかせて飛ぶ構造で、現存する飛行機の設計図としては国内最古です。しかし、設計図の通りに造っても飛ぶことはできないそうです。
なぜ一貫斎は空を飛びたかったのか…。そこには、天体への憧れがありました。
 一貫斎は、江戸の大名屋敷で目にした舶来の望遠鏡を元に、日本で最初の「反射望遠鏡」を造りました。太陽の黒点や月のクレーター、木星の縞模様、土星の環も観測しています。一貫斎の望遠鏡は、西洋の望遠鏡をしのぐ高性能でした。
 天保7年。一貫斎が58歳になったこの年、全国的に天候不順で「天保の大飢饉」が起こり、国友村の村人たちも餓死寸前にまで追い込まれます。
 一貫斎は晩年、天体観測に明け暮れていましたが、それを断念し、愛用していた望遠鏡を各地の大名に売り、村人を救いました。苦労して造った望遠鏡でしたが、村人たちの役に立ったことを喜びました。「天、遂に人の努力を無にせず」と叫び、神仏に感謝したと伝わっています。
 63歳で亡くなった一貫斎。「宇宙まで夢を追った偉人」だと、吉田さんは言います。
 「一貫斎がすごいのは発明だけでなく、設計図や解説書まで残していることです。それまでの職人は見て覚え、口伝えで技を残していましたが、一貫斎は設計図と共に文書化しているんですよ」
 最後に、一貫斎の口癖があると吉田さんが教えてくれました。それは、『技は万民のためにある』。国友一貫斎こそ、技術大国日本の礎を築いた人物かもしれません。
 ■国友鉄砲ミュージアム
 所在地:滋賀県長浜市国友町534
 料金:大人300円、小中学生150円
 営業時間:9:00~17:00(入館16:30まで)
 定休日:年中無休(12月28日~1月3日のみ休館)
 https://www.kunitomo-teppo.jp
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 国友鉄砲ミュージアム TEL / 0749-62-1250
 開館時間 / 9時から17時まで(入館は16時30分まで)
 国友一貫斎の生涯と技術力
 STORY
 ホーム >国友一貫斎の生涯と技術力
 国友一貫斎の生い立ち
 夢鷹図(部分)国友一貫斎像(国友一貫斎家資料)
 国友一貫斎は安永7年(1778)10月3日に、近江国坂田郡国友村(現在の長浜市国友町)に生れた。幼名は藤一、9歳となった天明6年(1786)には、家名を継いで藤兵衛と名乗った。自ら「一貫斎」、または「眠龍」と号し、「能当」の号も使った。彼が発明・考案した器物類へは、このいずれかの号をタガネで刻みこんでいる。
 また、一貫斎がその科学的知識の多くを学んだ平田篤胤は、一貫斎を「国友能当」の号で呼んでいる。「能当」とは、鉄砲の弾が「能く当たる」の意味からきている。実名は、「重恭」で、書状の自署などに使用することが多い。
 一貫斎の科学・技術における業績は多岐にわたるが、ここでは火縄銃と気砲、それに反射望遠鏡の製作と天体望遠鏡に限って、その事蹟を紹介する。
 鍛冶師としての一貫斎
 大小御鉄砲張立製作
 従来、火縄銃の製作は、師匠から弟子へ伝える秘事として扱われ、弟子入りの時も決して技法を人に明かさないという起請文を提出するのを常としていた。この常識を打ち破ったのが一貫斎であった。彼は、前老中である松平定信の依頼に従って、文政元年(1818)『大小御鉄砲張立製作』という本を著している。松平定信は18世紀末以来、ロシア船をはじめとする外国船が日本近海に現れ、通商を望む他、小規模な衝突を繰り返すことを憂慮していた。日本の国防・海防のためには、何よりも火器の充実が必要と考えたのである。そこで、火縄銃の大量生産を行なえるようにするため、一貫斎へその製作方法の公開を求めたのである。
 一貫斎はこの依頼に従って、『大小御鉄砲張立製作』を著した。この書物をもってすれば、鍛冶の心得さえあれば、如何なる大筒でも製作することが出来た。また、鉄砲製作方法は古来より伝わっているが、鍛冶によって様々であり一定しなかった。ここでは、火縄銃製作方法の統一を図っている。まさしく、火縄銃製作のマニュアルづくりであったと言えよう。この著作は、彼が優れた技術者であると同時に、文才・絵心にも恵まれた人物であったればこそ、実現できたことであった。この著作を、一貫斎は松平定信に献じ、翌年には金沢藩主前田家に献じている。
 空気銃「気砲」の製作
 一貫斎は、日本で初めて空気銃「気砲」を製作した。すでに、文化11年(1814)には、膳所藩に仕えた眼科医・山田大円より、オランダ渡りの空気銃の説明を受け、間もなくその模型の製作に成功していたと言われる。その後、江戸に出た一貫斎は、文政元年(1818)10月5日に、同様に江戸に出ていた山田大円から空気銃の実物を見せられた。この空気銃は破損していたが、修理する職人がなく放置していたものを、丹後峰山藩主京極高備(たかまさ)を通して、大円が借り受けたものだった。
 一貫斎はその場で、空気銃の修理を依頼され、短期間でそれを果している。一貫斎は作業に当たり、修理した空気銃の詳細なスケッチや記録を残しているが、その性能は彼にとって物足りないものであった。そこで、より性能が優れた空気銃を製作することを思いたったのである。
 一貫斎が考案した空気銃「気砲」は、同年11月1日をもって製作が始められ、翌年3月9日に京極高備へ納品された。同時に気砲の使い方を解説した『気砲記』を著している。当初は3匁5分玉の口径を考えていたようであるが、実際に納入された気砲は1匁5分玉の細口径(約1.1センチ)となっている。
 文政2年(1819)5月24日には、若狭小浜藩主であった老中酒井忠進(ただゆき)の前で御前射撃を行っている。国友一貫斎家に残された文書には、この時の絵入り射撃記録があり、翌日には美濃岩村藩主であった老中松平乗保(のりやす)の前でも射撃を行っている。
 「気砲」とその原理の普及
 気砲記(生気之法)
 以後、一貫斎への大名からの「気砲」注文は後を絶たなかった。最も早く気砲の注文を行った越前勝山藩主の小笠原長貴(ながたか)や、伊勢桑名藩主の松平忠尭(ただたか)、水戸藩徳川斉脩(なりのぶ)、前老中松平定信、播磨姫路藩、伊勢津藩、近江水口藩、豊後岡藩主中川久教への納品などが確認できる。この内、桑名藩へ納品された「気砲」は、その代金が35両であったことが知られる。
 当時、空気銃は一般に「風砲」と呼ばれていた。一貫斎自身も『気砲記』の冒頭に、「蘭名ウインドルウル 俗ニ風砲ト云」と記している。しかし、彼は「風砲」という名称は理論的ではないとして「気を込めて発する鉄砲」であるから、「気砲」の名称を付けたのである。「気」はすなわち空気であろう。単なる「風」の現象で弾が飛ぶのではなく、「気」の圧縮によって飛ぶこと。一貫斎は、この事実に気づいていた。
 気砲弁記(国友一貫斎家資料)
 天保5年(1834)に佐々木采女(うねめ)に納品した「気砲」を使って、彼は空気の重さを測っている。ポンプで100回込めて重さが6匁、500回で25匁5分、さらに75回込めて23匁5分、これで弾を1回放って11匁5分を使い、残りが12匁になったと記す。一貫斎は空気に重量があることに気がついた初めての日本人であった。この点、日本の科学・技術史の上で特筆できる存在であろう。
 この「気砲」は、その後の日本の科学・技術に大きな影響を与えた。気砲開発直後の文政7年(1824)には、讃岐国香川県)の久米通賢(みちかた)が、独自の空気銃「風砲」を製作している。膳所(ぜぜ)の金工師奥村菅次(すがじ)も、一貫斎に影響されて「気砲」の製作を行なった。また、空気圧を動力とする「気砲」の原理は、田中久重(ひさしげ)の「無尽燈(むじんとう)」や、奥村菅次の「からくり噴水器」に応用されていった。
 反射望遠鏡の製作
 反射望遠鏡長浜市長浜城歴史博物館蔵)
 天保3年(1832)6月20日尾張国から帰国した一貫斎は、念願であった反射望遠鏡の製作に着手した。すでに和泉国貝塚の岩崎善兵衛が屈折望遠鏡を自作し、寛政5年(1793)に天体観測を行い、寛政8年(1796)には司馬江漢が『和蘭天説(オランダてんせつ)』を公刊し、コペルニクスの地動説を紹介していた。当時の知識人にとって、天体への興味はごく自然であり、彼も江戸滞在中に平田篤胤(あつたね)のグループから、天体に関する知識を得ていたと思われる。特に、尾張犬山藩主であった成瀬正寿(まさなが)の屋敷でオランダ製「テレスコフ御眼鏡」を見たことは、大きな刺激になった。それと同型のグレゴリー式反射望遠鏡を製作することは、彼の宿願となっていいた。

一貫斎の反射望遠鏡は、翌年の天保4年(1833)にほぼ完成した。これまでの日本では、岩崎善兵衛によって鏡を使用しない屈折望遠鏡は製作されていたが、鏡を使用する反射望遠鏡はこれが国産第一号であった。彼は天保7年(1836)に至るまで、反射望遠鏡の製作を継続し、その内の4基が現存している。
 一貫斎が望遠鏡の製作において、最も苦労したのは、①反射鏡の鋳込み方法と②その研磨、そのれに③ガラス製レンズの研磨であった。国友一貫斎家に伝来した資料によれば、実際に天体観測を行ないつつ、この問題について改良を続けている。その結果、①については100年経過しても曇らないであろうと予測した鏡を製作し得た。②の研磨も反射鏡に必要な放物面を磨き出すことに成功していた。③については、太陽観測用のゾンガラスまでも開発していた。彼の望遠鏡は、幕府天文方(てんもんがた)に大きな影響を与えた他、大坂の民間天文学者・間重新(はざましげよし)をして、オランダ製の望遠鏡より、「もや付」が少なく星が倍大きく観測できると驚嘆せしめた程であった。
 国友一貫斎の天体観測
太陽黒点観測図(国友一貫斎家資料)
 一貫斎は望遠鏡完成と同時に、天体の観測を始めた。天保4年(1833)10月11日が最初の観測で、月と木星のスケッチをしているが、月のクレーターや木星の二つの衛星に気がついている。天保6年(1835)正月6日よりは太陽黒点観測を開始、翌年の2月8日に至る計216回(毎日、五つ時と八つ時の二回観測)に及ぶ日本人初の太陽黒点連続観測を行なっている。天保7年(1836)には、月・太陽・金星・木星土星の見事な図面を残している。
 幕府天文方の安立信頭(のぶあきら)は、一貫斎の観測記録を見て、日本にある望遠鏡では到底見えそうもないものまで書かれていると驚嘆している。この天体観測は、もちろん彼の並はずれた観察力と洞察力に負うところが大きいが、天体に関する多くの情報も集めていた。現在、国友一貫斎の家には、上方の銅版画家中(なか)伊三郎が出版した月・太陽図が残っており、彼の研究の足跡がたどれる。この図面は、大坂の間重新から譲り受けたものとみられる。
一貫斎の死とその後
 毎年12月第一日曜日に行われる国友一貫斎碑前祭
 天保11年(1840)12月3日、一貫斎は63歳の生涯を閉じた。その科学性と技術力は独創的で、近世日本の中でもひときわ大きな輝きとなっている。しかし、当時の近江国友の鉄砲鍛冶の中には、それを継承するだけの人物が不在であった。また、科学と技術を産業化できる、蘭癖(らんぺき)大名などパトロンも不在であった。
 したがって、残念ながら彼の科学・技術は、地域で受け継がれることはなかった。しかし、日本近世の科学・技術力の水準を、総体として押し上げた人物として、その名は今以上に日本中で知られてもいいように思われる。
 写真資料の申請について
 本WEBサイト内の「国友藤兵衛(一貫斎)家資料目録」に掲載された資料について、研究目的に限り写真資料のご使用が可能です。
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 ウィキペディア
 国友 一貫斎(くにとも いっかんさい、九代目国友 藤兵衛(- とうべえ) 安永7年10月3日(1778年11月21日) - 天保11年12月3日(1840年12月26日))は鉄砲鍛冶師、発明家。幼名は藤一。号は一貫斎、眠龍。諱は重恭。能当(旧字では能當)と銘を切る。日本で最初の実用空気銃や反射望遠鏡を製作。その自作の望遠鏡を用いて天体観測を行った。
 生涯
 近江国国友村(滋賀県長浜市国友町)の幕府の御用鉄砲鍛冶職の家に生まれた。9歳で父に代わって藤兵衛と名乗り、17歳で鉄砲鍛冶の年寄脇の職を継いだ。
 文化8年(1811年)、彦根藩の御用掛となり二百目玉筒を受注することとなったが、国友村の年寄4家は自分たちを差し置いてのこの扱いに異議を申し立て長い抗争に発展した(彦根事件)。しかし一貫斎の高い技術力が認められ、文政元年(1818年)に年寄側の敗訴となった。
 文政2年(1819年)、オランダから伝わった風砲(玩具の空気銃)を元に実用の威力を持つ強力な空気銃である「気砲」を製作。その解説書として「気砲記」を著し、後には20連発の早打気砲を完成させた。
 文政年間、江戸で反射望遠鏡を見る機会があり、天保3年(1832年)頃から反射式であるグレゴリー式望遠鏡を製作し始めた。口径60mmで60倍の倍率の望遠鏡は当時の日本で作られていたものよりも優れた性能であり、鏡の精度は2000年代に市販されている望遠鏡に匹敵するレベルで100年以上が経過した現代でも劣化が少ないという[1]。後に天保の大飢饉等の天災で疲弊した住人のために大名家等に売却されたと言われ、現在は上田市立博物館(天保5年作、重要文化財)、彦根城博物館に残されている。
 その他、玉燈(照明器具)、御懐中筆(万年筆、毛筆ペン)、鋼弩、神鏡(魔鏡)など数々の物を作り出した発明家である。この他に人が翼を羽ばたかせて飛ぶ飛行機「阿鼻機流」を作ろうとしていた事もある[2]。また、彼は自作の望遠鏡で天保6年(1835年)に太陽黒点観測を当時としてはかなり長期に亘って行い、他にも月や土星、一説にはその衛星のスケッチなども残しており、日本の天文学者のさきがけの一人でもある。
 天保11年(1840年)、国友村にて死去。享年63。
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🍙32〗─1─舞鶴引揚記念館に秘められた世界的価値。国民的記憶とユネスコへの登録。~No.205 

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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。  
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・    
 引揚げの歴史の中には、不当にも日ソ中立条約を破棄したソ連軍・ロシア人共産主義者による非人道的日本人難民(女性や子供)大虐殺が存在する。
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 舞鶴市
 引き揚げの史実と引揚者をあたたかく迎え入れたまちの歴史を次世代へ継承! 『引き揚げ第1船入港日10月7日 舞鶴引き揚げの日』
 [2020年9月10日]ID:5359ソーシャルサイトへのリンクは別ウィンドウで開きます Facebookでシェア
 10月7日は『舞鶴引き揚げの日』です!
 『舞鶴引き揚げの日』条例 制定の背景
 舞鶴引揚記念館では、昭和63年の開館以降、引揚体験者や舞鶴市民の皆さんと共に引き揚げやシベリア抑留の史実を継承するとともに、平和の尊さを国内外に発信する取り組みを進めてきました。
 引き揚げ最終船の入港から60年以上が経過し、戦争を知る世代が少なくなる中、引き揚げやシベリア抑留の史実、また、博愛の精神をもって引揚者を迎え入れた舞鶴市の歴史を次世代へ継承するとともに、平和に対する意識の高揚を図るさらなる取り組みを進めていくことが重要であると考え、舞鶴港に引き揚げ第1船「雲仙丸」が入港した日10月7日を「舞鶴引き揚げの日」と制定しました。
 次世代へ引き揚げの史実を継承!平和へのメッセージを発信!
 舞鶴市では、昭和20年10月7日、引き揚げ第1船「雲仙丸」の入港から昭和33年9月7日の引き揚げ最終船「白山丸」の入港までの13年間にわたり、およそ66万人と遺骨1万6千柱を迎え入れました。
 当時の舞鶴の人々は、終戦直後で食糧も物資も充分でなく自分たちの生活もままならない状況でしたが、お茶やふかし芋をふるまい心身ともに疲れ果てた引揚者を、まちぐるみであたたかく迎え入れました。これらの記憶は、次世代の子供たちにも伝えたい「まちの歴史」です。
 『舞鶴引き揚げの日』の制定をきっかけとして、戦争を知らない世代にわかりやすく「引き揚げの史実」を語り継ぎ、「あたたかく引揚者を迎え入れたまちの歴史」を伝え、平和への願いを発信するさらなる取り組みを進めていきます。
 『舞鶴引き揚げの日』協働で目指す「3年間で市民認知度100%」プロジェクト
 「引き揚げやシベリア抑留の史実」「まちぐるみで引揚者を迎え入れたまちの歴史」「恒久平和への願い」を、まちぐるみで次世代へ継承する取り組みへとつないでいくため、令和元年度に協働で目指す「3年間で市民認知度100%プロジェクト」を立ち上げました。
 「舞鶴引き揚げの日」の認知度を調査するため、街頭アンケートを実施したところ、プロジェクト1年目の認知度は「33%」でした。
 プロジェクト2年目となる今年度も、認知度アップを目指して取り組みを進めますので、ご協力をお願いします!
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 産経新聞 iRONNA編集部
 「引き揚げ者の街」舞鶴に刻まれた記憶
 戦後75年の節目を迎え、先の大戦について考える機会が増えたことだろう。中でも終戦を迎えながら帰国に困難を極めた「シベリア抑留」は戦後を象徴する歴史の一つだ。その主な引き揚げ港となった京都府舞鶴市に「舞鶴引揚記念館」がある。同館の資料に改めて目を向ければ、歴史を超えて語り継ぐべき「戦後」が見えてくる。
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 終戦直後の引き揚げ、なぜ「国民的記憶」にならなかったのか
 『加藤聖文』 2020/10/07
 加藤聖文(国文学研究資料館准教授)
 今から75年前、大日本帝国という、現在の日本国よりも広大な支配領域を持つ国家が存在していた。
 大日本帝国は台湾、朝鮮半島、大連と旅順を含む遼東半島の先端部(関東州)、サハリン島の南半分(南樺太)、ミクロネシア南洋群島)を支配していた。さらに満洲国といった傀儡(かいらい)国家を通じて中国東北を実質的に支配し、日中戦争が始まると、中国本土にも蒙古自治邦政府、南京国民政府といった傀儡政権を樹立した。最盛期には東南アジアも占領した。
 1945年、大日本帝国は第2次世界大戦に敗れたことによって崩壊する。私たちは昭和天皇が国民に終戦を伝えた玉音放送が流れた8月15日を境に、大日本帝国の時代であった戦前と、日本国の時代となる戦後を切り分け、この年を起点に「戦後何年」といった呼び方をしている。
 大日本帝国が崩壊すると、歌謡曲『リンゴの唄』(霧島昇並木路子)が流れる平和な時代がスタートしたように思われがちだが、ここには大きく見落とされた現実がある。
 大日本帝国が支配領域を拡大するにつれて、そこに日本人が渡っていった。国際化社会といわれる現在ではビジネスパーソンなどが海外に移り住み、アジアには約40万人の日本人が居住している。この数は敗戦時の樺太(サハリン)にいた日本人とほぼ同じである。同時期のアジアには、現在の9倍に近い350万人の民間人が居住しており、現在の大阪市の人口、270万人より80万人も多い。
 これだけの日本人が敗戦によって「外国」となった地域に残留することになった。彼らが日本へ帰還することは海外引き揚げと呼ばれ、帰還者らは引き揚げ者と呼ばれた。ただし、彼らが平穏無事に帰還できたわけではない。
 ポツダム宣言を受諾する際、日本政府は在外出先機関に対して民間人の現地定着方針を指示した。
 理由は二つある。一つは物理的な理由だ。敗戦時、民間人350万人と、ほぼ同数の日本軍将兵がいた。
 合計すると、当時の日本人口の1割にあたる700万人が残留しており、彼らを短期間で帰還させることは輸送能力から見て不可能であった。しかも、日本軍将兵の本国帰還を求めたポツダム宣言に従い、将兵を優先しなければならなかった。
 その他にも機雷除去による港湾施設の回復や、住居や食糧の提供など課題は山積していた。そのため3~4年は帰還できず、その間は現地で自活することを求めたのである。
 もう一つは、日本政府の国際情勢に対する見通しの甘さだった。日本政府はポツダム宣言を受諾すれば戦争は終わり、海外に残留する民間人や将兵は、連合国が人道的に取り扱ってくれると期待していた。満洲や中国本土では、数年間の自活を可能とするための代償として、旧ソ連軍や国民党に労務提供を持ちかけるほどであった。
 しかし、現地定着方針は完全な失敗に終わる。現地の社会情勢が日本政府の予想をはるかに超えるほど悪化したからである。
 中国では国民党と共産党との内戦が始まっていた。さらに、大戦最末期に旧ソ連軍が進攻した地域(満洲北朝鮮南樺太)は、直接の戦場となったことから社会的混乱が激しくなり、在住日本人の大量難民化にともなって死者が激増した。
 戦争とは究極の国家エゴであり、自国の利益を犠牲にしてまで他国を優先することはあり得ない。旧ソ連独ソ戦で荒廃した国土の復興が第一であって、そのためには占領地にあった工場も個人資産も戦利品として持ち出し、労働力が足りなければ将兵をシベリアへ連行した。中国も復興のために日本人を利用し、できることは何でもさせた。そして、海外引き揚げに最も重要な役割を果たした米国も同じだった。
 米国は、数年はかかるとみられていた日本人の帰還を、自国の船舶を使ってわずか1年余りで完了させた。しかし、これは日本への同情が理由ではなく、中国の安定化を図る上で残留する日本人、特に無傷で敗戦を迎えた100万人を超える支那派遣軍が障害となっていたからである。
 日本政府の甘い見通しは外れたが、結果的には敗戦から1年余りという予想を超えた早さで大半の日本人が帰還できた。この外れた見通しと結果のギャップが、海外引き揚げの歴史を覆い隠してしまった。
 早く帰還できたとしても引き揚げ者にとって、国家の庇護を受けられないまま難民状態に置かれた1年余りは、戦争が終わったとは決して言えない状況であった。
 引き揚げ者は、崩壊した大日本帝国清算を一身に引き受けた人々であり、犠牲者は満洲を中心に30万人近くに上った。亡くなった人の数では東京大空襲の8万4千人、広島の原爆の14万人、沖縄戦の民間人9万4千人を大きく上回る。しかも、犠牲者の慰霊は民間有志に限られ、今も遺骨は現地に埋もれたままである。
 帝国の遺児となった引き揚げ者が故国にたどり着いたとき、大日本帝国は日本国という国になっていた。作家のなかにし礼が、満洲からの引き揚げ船で聞いた『リンゴの唄』を「残酷」と感じたのは、引き揚げ者と戦後日本の深くて越えがたい意識の断層をよく表している。
 短期間で終了した海外引き揚げは、戦後日本の中で、国民的記憶にはならなかった。日本は戦後復興から高度経済成長を経て経済大国化していき、引き揚げ者の存在は顧みられることもなく、海外引き揚げの歴史は忘却されていったのである。
 その一方で、10年にわたって長期化したシベリア抑留は、歌謡曲や映画にもなった『岸壁の母』などで広く知られることになる。京都府舞鶴市にある舞鶴引揚記念館が事実上のシベリア抑留記念館であることは象徴的である。
 敗戦まで「帝国臣民」の一員とされていた朝鮮人や台湾人の存在も忘れてはならない。彼らも大日本帝国の拡大とともに居住範囲が広がり、敗戦によって現地に取り残された。
 しかし、日本政府は現地定着方針を指示した際、彼らの庇護を放棄して連合国に丸投げした。彼らの祖国への帰還は日本人以上に困難であり、帰還後、さらに苛酷な政治の荒波に翻弄(ほんろう)されることになった。
 東アジアから東南アジア、太平洋にわたる広大な地域に支配を拡大していった大日本帝国の歴史は、まさに日本の近代史そのものであり、多くの民族を巻き込んだ点では東アジアの近代史でもある。
 海外引き揚げの歴史が日本人の意識の奥底に沈殿し社会に埋没したことで、何ゆえに引き揚げ者が発生したのか、そもそも彼らはなぜ海を渡り、そこで何をしていたのかを深く考える機会が失われ、多くの日本人が大日本帝国を忘却する結果をもたらした。そして大日本帝国の記憶を封印したことが、東アジア諸国との歴史認識をめぐる軋轢(あつれき)の一因となったとも言える。
 日本の将来は、アジアとの共存なくしては成り立たないであろう。しかし、経済的利益を追求するだけではなく、歴史を振り返る中で自らの立ち位置を定め、将来を見通す目を養わなければ、時勢に翻弄されるだけに終わる。
 そのような意味において、海外引き揚げという歴史を通して、日本とアジアとの関係を再認識することは意義のあることではないだろうか。
  ・  ・  
 家族愛や祖国愛…、舞鶴引揚記念館に秘められた世界的価値
 『iRONNA編集部』 2020/10/07
 黒沢文貴東京女子大現代教養学部教授)
 舞鶴引揚記念館に所蔵された資料の価値について語る東京女子大黒沢文貴教授=2020年9月11日、京都府舞鶴市(iRONNA編集部、西隅秀人撮影)
 舞鶴引揚記念館(京都府舞鶴市)が所蔵する資料は、海外からの邦人の引き揚げ、特にシベリア抑留に関わるものですが、この抑留と引き揚げの問題は、日本人にとって戦後の歴史の中で、本来は極めて馴染み深いものです。
 ご存じの方も多いかと思いますが、シベリア抑留とは、第2次世界大戦の終戦後、武装解除された日本人捕虜や民間人たちが、当時のソ連・モンゴル領内に移送され、強制収容所に抑留されて労働に従事させられた歴史的事実のことを指します。
 その数がおよそ60万人にのぼることから、家族や親戚の中に、シベリア抑留からの帰国者がいる方も多く、ある種国民的な歴史の記憶と言えるでしょう。二葉百合子さんたちが歌われた『岸壁の母』が有名ですね。
 ただ、戦後50年、60年、70年、今年は75年という節目ですが、このように時が経つにつれて、当時の記憶が徐々に薄れてきていることは言うまでもありません。
 そうした中で、5年前の2015年10月に、舞鶴引揚記念館の所蔵する資料570点が国連教育科学文化機関(ユネスコ)の「世界の記憶(世界記憶遺産)」に登録されました。世界記憶遺産に登録されたことで、舞鶴引揚記念館の資料が、人類が共有すべき世界的に重要な資料として認定されたわけですから、改めてシベリア抑留と引き揚げに関する歴史をわれわれが知る、よいきっかけになったと思います。
 また、戦後の長い間、特に1950年以降は国内唯一の引き揚げ港となった舞鶴市の市民の方々、抑留者や引き揚げ者を、真心をもって温かく迎えた歴史を持つ舞鶴市民にとっても、この歴史の記憶がかなり薄れつつありました。
 こうした中で、自分たちの故郷の歴史を再認識する機会にもなったわけであり、その意味でも、ユネスコへの登録はとても意義深いものであったと思います。歴史の舞台となった場所に、歴史博物館があるということは、その地域にとっても重要なことです。
 第2次世界大戦に関係する歴史は、現在に近い近現代の戦争をめぐる歴史であるだけに、常に敵味方や戦勝国と敗戦国、さらには加害と被害という観点から語られることの多い歴史です。そうした視点がどうしてもつきまとうだけに、記憶遺産としては本来、非常にハードルの高い分野であったと思います。
 過去に登録された近現代史の分野の記憶遺産といえば、たとえばナチスによるユダヤ人迫害を逃れ、ドイツからオランダ・アムステルダムに移り隠れ住んだ少女アンネ・フランクによる『アンネの日記』がありますが、これを記憶遺産とすることに、あえて異論を唱える人はいないでしょう。
 ですが、シベリア抑留や引き揚げとなると、そもそも終戦時になぜ約660万人もの軍人を含む在外邦人が存在したのかという問いを抜きにしては語れないこともあり、歴史認識をめぐる対立の中に引き込まれる可能性が高いため、そもそも記憶遺産に挑戦するには困難なテーマであったと思います。
 とはいっても、抑留者や引き揚げ者がさまざまな困難や苦労、また筆舌に尽くし難い体験を乗り越えて舞鶴の地に降り立ったこと自体は、日本人が忘れてはならない歴史のひとコマであることに間違いありません。
 シベリア抑留を経て引き揚げてきた人たちの存在は、戦争によって生まれたある種の悲劇です。戦争が終わった段階で、武装解除をされた段階で、かつてジャン・ジャック・ルソーが『社会契約論』の中で述べていたように、「武器をすてて降伏するやいなや、ふたたび単なる人間にかえった」、つまり軍人はもはや軍人ではなく、一人の人間、市民にたち戻った存在といえるわけです。ポツダム宣言に従えば、すみやかに故郷の家族のもとに帰れるはずであった人々です。
 しかし、シベリア抑留者たちは、すぐには帰国できませんでした。東南アジアなど他の地域からの復員と引き揚げが進む中で、シベリア抑留者の引き揚げが始まったのは、終戦から1年以上経ってからのことであり、それも決して順調に進んだわけではありません。米ソ対立の冷戦構造もあり、長い人は11年に及ぶ抑留生活を強いられたわけです。その過程で、結果的に帰国できずに現地で亡くなられた方々が、約6万人もおられました。
 翻って今現在、世界各地でさまざまな国際紛争や内戦によって故郷を失い、難民となってしまう極めて多くの人々がいます。シベリア抑留の人たちは、もちろん今日の難民や故郷喪失者とはまったく歴史的背景などの前提が違うので、同じとは言えませんが、戦争や紛争の惨禍、さらには国際情勢などが原因で、故郷への帰還が困難な人々という視点に立てば、似たような境遇と言えなくもないでしょう。
 実はそうしたことも頭の片隅に置き、恐らく抑留と引き揚げの歴史をご存じではないユネスコの審査員の方々にどのようにしたらご理解いただけるのかに思いを巡らしながら、ユネスコへの申請書を執筆していました。もちろん日本が降伏した時点で、すでにソ連はドイツ軍人などの旧敵国人を大量に抑留して、祖国再建のための労働力にしていましたので、そうしたシベリア抑留と同様の同時代的な出来事も、申請書を書くにあたり重要な歴史として重視しました。
 要するに、そうした人々に共通するのは、自らがコントロールできない、まったく不条理な状況に突然放り込まれ、筆舌に尽くし難い労苦を味わらなければならなかったということです。しかもそれは、なかなか終わりの見えない、心身ともに疲弊する労苦であったわけです。
 国家というレベルではなく、一人ひとりの人間、個人という目線に立てば、そうした理不尽な境遇に置かれた人々が必死に残そうとされた資料には、その希少性も含めて、当然のことながら資料自体に大きな価値があります。自ずと人々に訴えかける大きな力が、資料そのものにあります。
 なぜならそこに、人類共通の普遍的な思いを見いだすことができるからです。それは例えば、生への欲求、人間愛や家族愛、そして同胞愛や祖国愛という普遍的なレベルの思いです。恐らく、そうした視点を基調に据えて訴えたことが、ユネスコの委員の皆さんの胸に響き、記憶遺産としての価値を認めてもらうことに繋がったのではないかと思っています。
 先にも触れましたが、「戦後から何年」という節目を迎えるごとに、残念ながら記憶は薄れていきます。ただ戦後の日本は、戦前に形成された「大日本帝国」が解体され、終焉を迎えたところから再出発しました。平和な文化国家へと変化していく、その大きな変わり目に、抑留と引き揚げの歴史はあります。
 ですから、戦後日本社会の一側面を表すその歴史は、まさに国民が記憶し共有すべき戦後の大きな歴史のひとコマであるといえます。また、今日のように、国際的な相互依存関係が深まり、人々の往来や交流が盛んに行われている状況においては、自国の歴史をきちんと知るということが、他国の方々との親密な交流や無用な摩擦を避けるためにも必要なことであると思います。
 現在は国民国家の時代ですから、どうしても近現代の歴史は国単位で語られることが多くなります。しかし、国家は一人ひとりの人間によって成り立っています。ですから、抑留と引き揚げの歴史も、一人ひとりの個人の目線、その時代を生きた人間の苦悩や喜びに、もっと目を向けてみることが必要でしょう。歴史は一人ひとりの人間が織りなす営みによって生まれる、人々が紡いだドラマです。
 その意味では、シベリア抑留の悲劇は、抑留者だけの問題ではなく、帰国を待ちわびる家族の問題であり、広くは同胞を迎える日本国民や社会の問題でもあります。抑留者とその家族にとっては、帰国後の生活の問題でもあります。
 抑留者にとっても、家族にとっても、帰国と、それを待ちわびた末の再会によって、ようやく長い戦争が終わったわけです。その時点からが、真の意味での彼らの戦後の始まりであったといえます。国家レベルの戦後と個人目線に立つ戦後には、ギャップがあるという視点も、戦後を語る中では大切ではないでしょうか。
 記憶遺産の審査基準には、唯一無二性がありますが、それは言葉を変えて言えば、一人ひとりの人間の生きた証となる資料を求めている、ということだと思います。誰それの残したものということが明確であることが必要であり、その点で舞鶴引揚記念館の記憶遺産に登録された資料も、その要件を十分に満たしたものばかりです。
 私の舞鶴引揚記念館とのお付き合いは、同館の「あり方検討委員会」が舞鶴市に設けられて以来のことになります。特に委員会の答申に基づき同館が再び市直営となり、その後ユネスコへの挑戦を表明されてから、つまり2012年以来、その所蔵資料の調査にあたり、また記憶遺産への登録申請のための有識者会議会長としても、同館には携わってきました。
 われわれ歴史研究者は、なによりも原資料に無上の喜びを感じますが、舞鶴引揚記念館の資料に初めて接したときの思いは、まさに宝の山に出会ったという印象でした。シベリア抑留に関する学術研究も、まだまだ発展途上の段階にありました。
 記憶遺産の登録基準には、資料が本物であること、唯一無二の希少性、代替不可能な世界的重要性を持つものなど、いくつもの基準があり、それらを全てクリアしなければなりません。舞鶴引揚記念館の登録資料は、当然のことながら、そのすべての基準を満たしています。過酷な労働・生活環境の中で、筆記用具も満足に与えられない中で、抑留者たちは工夫を凝らし、必死の思いで生きた証として資料を残そうとしました。
 しかし、強制収容所や帰還のために集結したナホトカ港での記録物の没収、さらには帰国した舞鶴での連合国軍総司令部(GHQ)の検閲により没収されたものも多く、現存していること自体が非常に貴重なものばかりです。
 その他、舞鶴引揚記念館には、帰国後に書かれた回想記の類や絵画、またスプーンなどの制作物など多数の資料が所蔵されています。それらは記憶遺産の基準からは残念ながら外れますが、抑留と引き揚げの歴史を知ることのできる、貴重な資料であり、それぞれが強烈な印象を与えるものばかりです。
 シベリア抑留者は、ポツダム宣言の趣旨を踏まえれば、本来すぐにでも帰国できるはずだった人々です。それが事情も分からないうちに抑留され、酷寒の地で満足な食事も与えられずに過酷な労働を強いられたわけです。そうした環境下での肉体的な消耗はいうまでもなく、精神的な苦痛にも計り知れないものがあったでしょう。そうした極限状態に置かれた人間一人ひとりの魂の叫びが、それらの資料には凝縮されているのです。
 記憶遺産に登録された多数の資料の中でも、最も印象的なものの一つに、シベリアで抑留されていた北田利氏が家族に宛てた「俘虜(ふりょ)郵便はがき」があります。これは往復はがきになっていますので、奥様も返信を出されています。
 ただ、これらのはがきが全て宛先に届けられたわけではありません。抑留者と家族との間を結ぶ唯一の手段がはがきでしたが、それが届いているのかどうかに、当事者は非常にやきもきします。そうした北田夫人の心情は、夫人が残されたノートがあり、その中にはがきの内容も書き写されており、はがきとしては今日現存しないものでも、その内容を知ることができます。
 北田氏は、抑留者の中でも最長となる11年間抑留されていました。その間の帰国を待ちわびる家族の心情や様子が、その夫人のノートには克明に記されています。11年間の心の変化や子供たちの成長ぶり、冷戦状況の中でなかなか帰国が実現しないもどかしさなど、さまざまな家族の思いがつづられており、まさに涙なくしては読めない内容です。心を打たれます。家族にとっても、夫が抑留されているということが、いかに過酷なものであったのかが、よく分かる資料です。
 ユネスコの世界記憶遺産に登録されたことで、私自身は一定の役割を果たせたと思っています。ただ、記念館が所蔵する資料は、そもそも約1万6千点もあります。同種のものも多数ありますが、たとえば俘虜郵便はがきにしても、それら一つひとつの内容を精査していけば、強制収容されていた時期や収容所の場所による違いも見えてくるはずですので、それらの調査も今後の課題だと思っています。そうした調査を積み重ねていくことによって、シベリア抑留の実態や全体像が、より正確に明らかになってくるのではないでしょうか。
 シベリア抑留の研究には、ロシア側の資料の利用が不可欠ですが、その意味で、舞鶴引揚記念館がユネスコの登録申請に向けて、抑留者のロシア側の送り出し港であったナホトカ市との共同申請を模索したことや、登録後も関連資料を調査する目的でロシア、中国、ウズベキスタンなどに調査団を派遣していることは、大いに評価できるでしょう。戦後も75年が経過して、新たな資料収集には困難がつきまといますが、実態や実像をさらに明らかにするための調査や研究は、今後も続けていければと思います。
 さらに、そうした学術研究の進展や新たな資料の発見によって、シベリア抑留研究もより深まりを見せていくことになります。また時代の変遷に伴い、歴史解釈や歴史認識も変わることがあります。ですから舞鶴引揚記念館の展示の仕方や内容も、そうした変化の中から生まれる最新の知見を参考にしながら変えていく必要もあるでしょう。
 正確な歴史的事実を国民が知るためには、舞鶴引揚記念館のような歴史博物館の果たす役割には極めて大きなものがあります。抑留と引き揚げの歴史をのちの世代に残していくためにも、かつてのような全国規模での応援が強く望まれるところです。
 最後に、ユネスコ世界記憶遺産とは、登録資料の世界的価値の認定ですから、今は新型コロナの関係で海外の方の来館は難しい状況ですが、コロナが終息した後には、ぜひ世界各地から舞鶴引揚記念館においでいただければと思っています。もちろん日本各地の方々、特に若い方々の来館も切に願っています。(聞き手、iRONNA編集部)
 くろさわ・ふみたか 歴史学者東京女子大現代教養学部教授。1953年、東京生まれ。上智大文学部史学科卒。同大学院文学研究科博士後期課程単位取得満期退学。博士(法学)。専門は日本近現代史。都立日比谷高校、西高校の教員を経て、宮内庁書陵部に入庁。宮内庁書陵部編修課主任研究官として「昭和天皇実録」の編修業務にあたる。外務省「日本外交文書」編纂委員のほか、軍事史学会会長も務める。著書『大戦間期日本陸軍』(みすず書房)で第30回吉田茂賞を受賞。その他の著作に『歴史に向きあう』『二つの「開国」と日本』(共に東京大学出版会)など。 
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