🍘2〗─1─日本の災禍は終わらない。復興過程は漸騰型と優柔型。〜No.2No.3No.4 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・    
 日本列島は、雑多な自然災害、疫病、飢餓・餓死、大火などが同時に発生する複合的災害多発地帯であった。
 毎年、季節ごとに、何らかの災害が発生していた。
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 2020年8月号 Voice「現代社会  開沼博
 災禍は終わらない
 漸騰型と優柔型
 人類を襲う災禍(さいか)からの復興過程は、大きく二つに分別できる。ここでは『漸騰型(ぜんとうがた)』と『優柔型(ゆうじゅうがた)』と名付けよう。コロナ禍は後者だ。
 どういうことか。地震津波の被災地と原発事故の被災地とでは根本的に被害の質が異なるのではないか、という議論を聞くことがある。そしてそれを天災と人災の違いだと。おそらく、本質はそこにはない。より根本にある差異は、一方が災禍の直後が最悪の状態であり、そこから基本的には右肩上がり状況が改善していく漸騰型の復興過程を歩む。片や原発事故の災禍がダラダラ・ジワジワと進行・拡大しつつ、復興も進む優柔型の構造をもつ。
 優柔型災禍は、時間という変数の扱いが漸騰型災禍よりも複雑だ。端的にいえば、漸騰型は災禍からの回復の時間軸は短ければ短いほど良いが、優柔型はそうではない。無理に回復を急げば別のリスクがもち上がる。原発事故ならば、廃炉のリスクは時間軸を意識しながら統制されるべきものであり、そこを顧慮(こりょ)せず拙速(せっそく)に作業を進めようとすれば費用や作業員被曝量が青天井に増加しかねない。コロナ禍においても、感染拡大を速く完全に止めようとすれば、経済活動への被害を拡大させる。複数のリスクを同時に視野におさめながら、アクセルとブレーキをバランスよく踏む必要がある。
 しかしながら、多くの災禍は漸騰型災禍であるゆえ、その復興は『何が何でもとにかく速く進めることこそ絶対善』という前提で議論されがちだ。これは、さまざまな混乱の根本にある問題だ。拙速よりも巧遅(こうち)が求められることもある、という当然の認識が私たちのなかに共有されにくいのである。
 この歪みは、『災禍はいつ終わるのか』という問いが多くの人の関心事であるがゆえに生まれている。多くの人はこの苦難の終わりを想像することに希望をもとうとする。あるいはそういう前提のもとコミュニケーションをとる。だが、ここにこそ現実と認識のねじれがある。
 終わりがこないなかで
 『いつ終わるのか』。その問いの答えは明確だ。『災禍は終わらない』。たとえば、阪神・淡路大震災で家を失い仮設住宅に入り、被災者向けの公営住宅に移り住む、25年経(た)ったいまでも歳を重ね続けている人は存在する。いくら大々的な公的支援がなされても『あの災禍さえなければ、いま私はこうなってはいない』と恨(うら)む人は存在する。いくら表面的に街が綺麗になろうとも『あの失われた風景は二度と戻らない』と悔(く)やむ人はいなくならない。無論、大多数の人は時間の経過のなかで、災禍の非日常から離れ日常のなかに戻っていく。現段階でもコロナ禍など無かったかのような日常を送っている人はすでに少なくない。ただ、災禍の完全なる社会的な終わりは来ない。
 そのなかでできること、実際に人類がしてきたことは、大きく二つあるだろう。一つは、『災禍は終わらない』という前提を受け入れ、その終わらない部分にいる人を長期的に支える手立てを考えることだ。それは金銭的に解決できることもあれば、承認感・充足感のような感情面での補完こそが必要となることもある。もう一つは、社会的な節目をつけることだ。1923年の関東大震災のあと、そこからの復興の過程を示すべく日比谷公園で『帝都復興展覧会』が開かれたのは1929年のことだった。1995年の阪神・淡路大震災の際、当時の総理府が『阪神・淡路大震災復興誌』を取りまとめるというかたちで復興の歩みが振り返られたのは、震災から5年後の2000年のことだった。2002年には震災と防災をテーマにした科学施設『防災未来観』(現『人と防災未来センター』)ができている。
 これらは漸騰型災禍の例だが、より混乱が持続化した=優柔型災禍に近かった原爆投下後の広島において、広島平和記念公園が完成したのは1955年。つまり、5年から10年ほど経ったときに、社会的に災禍を振り返る場がつくられ節目がつけられている。無論、いずれの節目も『終わったことにされてたまるか』という一部の人の思いが残るなかにあるが、それでも仮に何の節目もつけずにきたら、災禍の風化はより明確だったに違いない。3・11については、岩手・宮城・福島に復興祈念公園が設けられる動きがここ数年で本格化しているが、これは歴史的にみれば順当だ。5年から10年先、いかに私たちはこの経験に節目をつけているのだろうか。」
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 日本の歴史における最大の人災とは、戦国時代、同じ日本人が乱取りで捕まえた敵の日本人を奴隷として中世キリスト教会と白人キリスト教徒商人に売って金儲けした事である。
 現代日本人は、日本人を奴隷として売って大金を稼いで日本に住み続けた日本人の子孫である。
 その事実を歴史の闇に葬り知らぬ振りをして綺麗事を言う現代日本人は、悍ましい日本人である。
 が、それが子供たちに教えられている日本の歴史である。
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 もし、日本でもアメリカのBLM運動が本格的に行われるのであれば、日本人が日本人を奴隷として金を稼いでいた事実を明らかにする必要がある。
 なぜなら、奴隷として売買された事実はアフリカ人でも日本人でも同じ事だからである。
 もし、奴隷問題を人道の罪として後世に残そうとするのなら、日本人が奴隷として海外に売られていった長崎や天草など中世キリスト教会が支配していた土地に記念碑を建てるべきである。
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 日本民族日本人は、数万年前から複合的災害多発地帯の日本列島で避難しても逃げ出さず、甚大な被害と夥しい犠牲者を出しながらも、堪えに堪えて、辛抱強く・我慢強く・頑張って生きてきていた。
 破壊されても復旧させ、崩壊して復興し、石にかじりつくように同じ場所で生活していた。
 それは、日本民族日本人の意地であった。
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 現代の日本人と昔の日本人は違う日本人で、グローバル思考の現代の日本人はローカル思考の昔の日本人が採用した災害対策や復興過程を時代遅れとして否定している。
 その為に、全国に残された災害の記録や復興の跡は軽視どころか無視されている。
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 日本人、特に現代日本人には歴史力がなく、歴史を学ぶ能力も低い。
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🌀14〗─1─武漢コロナウイルス禍と民度。お上の言うことをよく聞く国民性。~No.121No.122 

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 2020年7月27日 Microsoft News 文春オンライン 週刊文春WOMAN「お上の言うことをよく聞く国民性、『翔んで埼玉』ばりの排外主義……コロナ禍があらわにしてしまったもの
 なぜ日本では感染者が「断罪」されてしまうのか? なぜ日本のコロナ対策は「要請」と「自粛」なのか? コロナ対策成功のカギが「女性」という報道は本当なのか? 語り尽くした120分超!
 ◆ ◆ ◆ 
 中野 本日は自宅からのリモート座談会ということで、よろしくお願いします。磯田さん、後ろは掛け軸ですか?
 磯田 僕は京都に住んでいるので、本来、鴨川の納涼床の季節なんですけれど、今年はコロナの影響でお客も少ない。せめて川床の絵の掛け軸から涼を取れればと思い、その前に座ってみました(笑)。
 スー 磯田さん、はじめまして。今回、この座談会は、私と中野さんの持ち込み企画なんです。コロナの感染拡大によって、日本でも海外でも、「これまで社会の中で見えにくかったこと、気づきにくかったことが表に出てきた」という感触を二人とも持っていて、LINEで意見交換しているうちに、週刊文春WOMANに企画として提案しようと! 編集長に電話をして「どなたか我々とは違う視点を持つ方をご紹介いただきたい」と相談し、磯田さんに白羽の矢を立ててしまいました。
 中野 とくに私が推しました(笑)。というのも今回、世界各国が取り組んだコロナ対策は、ある種の社会実験だったと思うんです。結果的にどの国が成功し、失敗したかはまだ分かっていないところもありますが、磯田さんがご専門とされる歴史学は、過去の社会実験のデータの宝庫ですよね。感染症によって社会が歴史的にどう変わってきたのか、ぜひお伺いしたかったんです。
 磯田 光栄です。僕は「災害と病気はすべてをあらわにする」が持論なんですが、『後漢書』王覇伝に「疾風に勁草を知る」ということわざがあります。激しい風が吹いてきた時に強い草だけはそのまま立っている。つまり長所も弱点もあからさまになる。たとえば日本人は追いつめられると、型に走るんです。「みんなこうしますから」というところに安心感を求める。アメリカ人は訴訟を起こす。やはり、今回、中国を訴える動きが出ました。
 スー 先日、友人から回ってきたアメリカ人のフェイスブック投稿画像には、「マスクをすることは政府にコントロールされていることの証ではない。マスクは弱虫の証ではない」などと書かれていました。自由に対する信奉や、コントロールされることへの拒絶反応、強くあるべきという観念が、日本人の比ではない。アメリカで暮らすのも大変だなと思って。
 磯田 もう一つ言うと、新型コロナは専門家でなくても世界中に自分の考えを発信できるツール“SNS”を得て、人類が初めて迎えたパンデミックなのです。
 スー なるほど、確かに。
 磯田 また、今回興味深かったのは、日本人が、どこまでを「ウチ」と考えているか、でした。日本人は靴を脱ぐようにウチ(身内)とソト(部外)の区別が強い。「チーム日本」風にネット上に中韓への排外的な書き込みが出るのは予想済みでした。ところが、国内でも都道府県の往来をめぐり地域主義があらわになりました。一時、大阪と兵庫はギクシャク。岡山県知事は「岡山に来たことを後悔するようになればいい」と発言。“国民国家”日本も意外と脆いのかな、と思いました。

 中野信子「『翔んで埼玉』の埼玉狩りがまるでリアルに」

 中野 他県のナンバーがついた車は攻撃していい、という雰囲気が蔓延してますよね。『翔んで埼玉』の埼玉狩りがまるでリアルなものになってしまった。集団バイアスが働くとこんなことが起こるのかとリアルに見せつけられました。
 磯田 もう一つ僕の予想が当たってしまったのが、患者たたき。日本人は古来、ツミ・ケガレの観念で病を見がちでした。感染者の「落ち度」を探し、善悪レベルで断罪し始めないか。『報道ステーション』の富川キャスターも「謝罪」に追い込まれました。
 中野 脳の回路の中でも「善悪」と「美醜」を判断する機能は、とても近いところにあるんです。だから、日本人が「病には罪穢れがある」と思ってしまうのは、脳科学的にも納得がいきます。
 磯田 日本で初めてパンデミックが起きたのは第十代崇神天皇の時代、『日本書紀』には「疫病で大半の国民が死んだ」という記述と共に「請罪神祇」とあります。「請罪」には「のみまつる」と、かながふられていますから、平身低頭ひれ伏して神に許しを乞うたのです。ちなみに崇神天皇は西暦320年頃に実在した最初の天皇(大王)という学者も多い。この国の天皇制や伊勢祭祀の原型は、この時のパンデミック対策で、できた可能性もあります。
 スー そもそも日本人には病に穢れの意識があると考えると、感染者数が増えること自体が悪であり、国全体にシミがつくようなことだと捉える人もいるのかしら。「正確な罹患者数を知りたい」という声は多かったとは思いますが、同時に「体調が悪くても、検査するのは怖い」と口にする人もいました。穢れのレッテルは誰も貼られたくないですものね。
 磯田 たしかに。「マスクをしないで最後まで頑張ろうと思っている」と語った元総理もいて「竹やり」精神論だと批判を浴びました。
 スー 磯田さんのご著書『 天災から日本史を読みなおす―先人に学ぶ防災 』(中公新書)に「ペナルティーを科す西洋文化」と「要請と自粛の日本文化」という対比がありますが、日本は歴史的にずっとそうなのでしょうか。
 磯田 江戸幕府の権力が確立してからです。関ヶ原の戦いの1600年から100年間は、一都市で一年に数件、処刑をしている。見せしめです。言うことを聞かなかったら殺されるという血みどろの時代を経て、お上の言うことをよく聞く国民性にしつけられた。

 ジェーン・スー「片手に壊れたマスクを持ちながら自転車を漕いだ」

 スー 国民の相互監視でまかなってきた部分も大きいんでしょうね。実はこの前、都会のど真ん中で突然、マスクの紐が切れたんですよ。
 磯田 僕も切れちゃって、一生懸命結んだことがあります。
 スー そこで私が何をしたかというと、片手に壊れたマスクを持ちながら自転車を漕いだ。見ず知らずの人たちに「あるけれども駄目だったんだ」と知ってもらうためです。非国民ではないとアピールするようなことを、自分もやるんだなと苦笑しましたけど。
 磯田 100年前、スペイン風邪流行時のロサンゼルス市条例は、私たちからは考えられない内容です。罹患者は家の戸口に青色カードを掲示。肺炎になると白色カードにする。つまり「この家には患者がいる」と示すわけです。牛乳箱の置き場所まで指定し、規則を守らなければ、ロス市警が巡回して罰するとも書いてあります。
 中野 恐ろしい……。
 磯田 実はこの条例、日本の内務省衛生局も入手しているんです。当時の内務警察なら完璧に実行する力は持っていたはずなのに、実施しなかった。
 中野 なぜでしょうか?
 磯田 罹るかどうかは個人の問題で、国がそこまで介入する必要はない、と考えたのかもしれません。結局、実効ある指示は「マスクの装着」と「うがい」の2つだけ。当時は、手洗いの重要性は指摘されていませんでした。
 中野 今のお話を伺って、妙に納得しました。というのも、日本にはネオリベラリズムの思想が根強くあって、その人たちが有事の際にきまって口にするのが自己責任論。一見、新しい概念のようですが、意外と古くからある根性論とも似ているんですよね。要するに「何か悪いことが起きたら、お前がやれ」と、個人の問題にする。
 磯田 おっしゃるとおり。ロス型の隔離施策をやれば、感染の危険性がある場所を巡回する必要が生じるし、何か起きた場合に政府が重い責任を負わなくてはならなくなる。今回も「お家で14日間自己隔離してください」というお願いにとどめられました。でも一人暮らしの方もいる。生活支援を伴わない自己隔離は問題です。市中で蔓延し、大流行になると、多額の税金を使わざるをえなくなる。帰国・入国者に丁寧な検査対応と支援・不安解消をセットにした水際対策が大切です。
 スー この前の『週刊新潮』に「コロナ禍に田中角栄が首相だったら」という特集がありました。「俺が責任を取る」というリスクテイカーの不在を示唆しているのかなと。
 中野 日本社会の職階制は、実力じゃなく、その人が過去に果たした働きに対して職位が与えられる。だから職階が高い人ほど、リスクをとらなくなるんです。今のような緊急事態の対応が心もとないのは当然です。
 磯田 やっぱり台湾、ベトナムイスラエルなど、隣国と緊張関係にある臨戦態勢の国々は動きが早かった。日本は島国で75年戦争がなく、同じコロナウイルスSARSの害もほとんどなく、当初、楽観したのが、まずかった。
 スー つまり、誰がリーダーでも大勢に影響がないくらい平和な時代を、我々が享受してきたということですね。一方で、「各国のコロナ対策成功のカギは女性の感性」といったメディアのまとめ方には、違和感があります。
 中野 最近、雑誌の『フォーブス』で「コロナ対策に成功した国々、共通点は女性リーダーの存在」という特集が組まれていて、ドイツのメルケル首相やニュージーランドのアーダーン首相の名前が挙がっていました。でも、男性に比べて女性が優秀ということではないと思うんですよ。むしろ能力のある人が、適材適所で選ばれるシステムがきちんと構築されている国は、コロナのような緊急事態でも効率よく対応できる、ということを意味するだけじゃないかと。
 磯田 日本の政治家、特に自治体の首長は、常に、承認欲求、競争心、嫉妬深さを抑えないといけません。感染の最中に、知事が泥仕合になってはいけない。住民は納税者・主権者ですから行政の処置を大いに論じたらいいと思います。でも、首長どうしは、日本で住民安全への行政の共同責任を負っています。彼の非は我の非でもあると考え、協働すべきです。

 磯田道史「専門家会議の記録はこれからでも作れるんですよ」

 中野 休校措置の際に「日本の政治家は専門家の意見を聞かない」という印象を広く持たれてしまい、他者に耳を傾けない人たちなのかと多くの人が受け止めてしまった感もありますね。これは磯田さんに一度お伺いしたかったんですが、今回のコロナで政府が専門家会議の議事録を作っていないことが発覚しました。本来あるべき資料が存在しないというのは、後年の歴史家にとって大問題なのではないでしょうか。
 磯田 そうは言っても本当はあるんですよ。
 中野 えっ、そうなんだ!
 磯田 どこかに、それなりのメモはきっとあります。また、関係者が生きている限り回想録が作れます。「あれだけ私が言ったのに政府は……」と内幕を明かす人が出てくることもある。政治家が「議事録さえなければ国会で追及されずに済む」なんて考えるのは甘い。議事録がなくて、かえって関係者の証言で政治家・官僚が実際より悪者になったりすることだってあるわけで、議事録は政治家や官僚を守るものでもあります。後ろ暗いことをしていれば別ですが。
 ◆ ◆ ◆ 
 続きは発売中の『 週刊文春WOMAN 2020夏号 』でご覧ください。
 ジェーン・スー/1973年東京都生まれ。作詞家・ラジオパーソナリティ・コラムニスト。『貴様いつまで女子でいるつもりだ問題』(幻冬舎文庫)で講談社エッセイ賞受賞。TBSラジオジェーン・スー 生活は踊る」が放送中。近刊に『これでもいいのだ』(中央公論新社)など。好評連載「彼女がそこにいる理由」は今号は休載。
 なかののぶこ/1975年東京都生まれ。脳科学者。東日本国際大学特任教授。京都芸術大学客員教授東京大学大学院医学系研究科脳神経医学専攻博士課程修了。医学博士。2008~10年フランス国立研究所ニューロスピンに勤務。著書に『サイコパス』(文春新書)、『空気を読む脳』(講談社+α新書)など。
 いそだみちふみ/1970年岡山県生まれ。歴史家。国際日本文化研究センター准教授。慶應義塾大学大学院文学研究科博士課程修了。『武士の家計簿』(新潮新書)で新潮ドキュメント賞、『天災から日本史を読みなおす』(中公新書)で日本エッセイスト・クラブ賞受賞。テレビ出演も多数。
(「週刊文春WOMAN」編集部/週刊文春WOMAN 2020夏号)」
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🍘12〗ー1ー危険な農薬が付着した食品が知らぬ間に日本に輸入されている。~No.38No.39No.40 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・    
 2020年7月23日 Microsoft News Newsポストセブン「トランプ大統領の圧力に屈し、安全が脅かされる日本の食卓
 © NEWSポストセブン 提供 危険な農薬が付着した食品が知らぬ間に日本に輸入されている(写真はイメージ)
 新型コロナウイルスの影響で、食の安全が脅かされている。中国・北京市の新発地卸売市場では、輸入サーモンの加工に使われていたまな板から、新型コロナウイルスが検出されたと報じられた。その一方で、中国は、アメリカの大手食肉工場からの鶏肉の輸入をストップさせている。理由は工場での新型コロナウイルスの集団感染だ。
 「鶏肉だけではありません。中国では、従業員600人以上の感染が確認されたドイツの食肉工場からも豚肉の輸入を停止しています。実はまな板の汚染について、中国は輸入したサーモンに原因があるという見方をしてもおり、中国に輸入される食材についてかなり疑心暗鬼になっているのです。中国はアメリカ、ブラジル、そしてカナダに対して、輸入する大豆が新型コロナに汚染されていないことを証明するようにも求めています」(全国紙外信部記者)
 そもそもなぜ、衛生面に配慮しているはずの食材を扱う場で集団感染が広がるのか。
 「食品工場の労働環境は、お世辞にも整っているとはいえません。出稼ぎに来た外国人労働者や移民が中心の従業員は宿舎に詰め込まれ、仕事中も行き帰りも、そして休憩時も、常に同じ狭い空間で過ごしています。つまり、1人が感染すればそれが爆発的に拡大する素地が整ってしまっているのです」(前出・外信部記者)
 こうした劣悪な労働環境の改善が問題収束のカギになるだろう。実際に、工場を閉鎖して立て直しを図っている会社もアメリカにはある。しかし、かの国の大統領が一筋縄でいくはずがない。アメリカのトランプ大統領は食料を安定供給するため「国防生産法」に基づき、食肉工場が操業を停止できないようにする大統領令に署名したのだ。
 「アメリカ政府の圧力は日本の食卓にも影響が出ていて対岸の火事ではないですよ」(流通ジャーナリスト)
 日本国内の移動の全面解禁を目前に控えた6月18日、厚労省は「ジフェノコナゾール」という耳慣れない農薬を、ひっそりと食品添加物に指定した。
 食品表示一元化検討会委員を務めたことのある薬学博士の中村幹雄さんは、こう説明する。
 「これは“ポストハーベスト農薬”と呼ばれる類いのもので、じゃがいもの収穫後に防かび剤として散布されます。ジフェノコナゾールは浸透性が高いため、じゃがいもを洗ったり皮をむいたりしても、その内側に残留する可能性があります。今後、アメリカ産などのじゃがいもには添加物として、この“ポストハーベスト農薬”が散布されるリスクがあるのです」
 こうした規制緩和は今後も続く見通しだ。
 「オレンジやレモンなどの柑橘類に使われている『アゾキシストロビン』という農薬も、近々、じゃがいもの防かび剤として使えるようになります。(厚労省の)薬事・食品衛生審議会で審議中ですが、食品安全委員会は許可を出しているので、時間の問題です。なぜこうした変更が続いているかというと、輸出を増やしたいアメリカ側の圧力に日本政府が屈したからです」(前出・中村さん)
 これまでは比較的安全だった食品も、安全なままではなくなってしまう。
 ※女性セブン2020年7月30日・8月6日号」
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🐡6〗─5─天保の大飢饉。飢餓被災者は蝦夷地へと移住した。〜No.26No.27No.29 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 鎖国して国外に避難できなかった当時の唯一の移住先は、蝦夷地(現・北海道)だけであった。
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 ロシアは、日本との交易とアジアへの領土拡大の為に侵出してきていた。
 幕府は、蝦夷地と北方領土を軍事力で守るべく東北諸藩に派兵を命じていた。
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 天保の大飢饉は江戸時代後期の1833年天保4年)に始まり、1835年から1837年にかけて最大規模化した飢饉である。1839年天保10年)まで続いた。1836年(天保7年)までと定義する説もある。
 寛永享保天明に続く江戸四大飢饉の一つで、寛永の飢饉を除いた江戸三大飢饉のひとつ。単に天保の飢饉とも言う。
 概要
 主な原因は天保4年(1833年)の大雨による洪水や冷害による大凶作であった。東北地方(陸奥国出羽国)の被害が最も大きく、特に仙台藩の場合は盛んに新田開発を行い、実高で100万石を超える石高を有していたが、米作に偏った政策を行っていたため被害が甚大であった。50年前の天明の飢饉と比較して、凶作対策が行われたため死者の数は少なかった。商品作物の商業化で農村に貧富の差が拡大したため、貧困の百姓が多く餓死した。各地で餓死者を多数出し、徳川幕府は救済のため、江戸では市中21ヶ所に御救小屋(5800人収容)を設置したが、救済者は70万人を超えた。米価急騰も引き起こしたため、各地で百姓一揆や打ちこわしが頻発し、天保7年6月に幕府直轄領である甲斐国一国規模の百姓一揆となった天保騒動や、天保8年2月に大坂で起こった大塩平八郎の乱の原因にもなった。特に大阪では毎日約150人-200人を超える餓死者を出していたという。
 一方、犠牲者を一人も出さなかったと伝えられる藩もある。たとえば田原藩では、家老の渡辺崋山が師であった佐藤信淵の思想をもとにした「凶荒心得書」を著して藩主に提出し、役人の綱紀粛正と倹約、民衆の救済を最優先すべきことと説き、給与改革や義倉の整備を実行して成果をあげた。また米沢藩でも天明の大飢饉の教訓を生かして義倉の整備や「かてもの」という救荒食の手引書を作成して配布するなどの事前対策が取られていた。
 大飢饉の名残
 主に東北から北陸や山陰の日本海側や、近畿から四国などまで広い地域で、「てんぽな」または「てんぽ」という形容動詞・形容詞が用いられる。大変な、とんでもない、とてつもない、途方もないなどの広い意味を表す。天保の飢饉に由来するともいわれ、現代まで言葉に残る大飢饉の名残と言える。まれにさらに強調した意味で「天明天保な」とも使われる。
 鳥取藩では「申年がしん」としてこの飢饉の悲惨さが伝説となって近年まで語り継がれていた。また飢饉の犠牲者を慰霊するための叢塚(くさむらづか)が東北地方を中心に現在も残っている。
 人口の変化
 当時の日本の推計人口は1833年からの5年間で125万2000人減少しており(後述の参考資料参照)、人口減少幅の規模としては天明の大飢饉に匹敵する。
 当時の日本の推計人口
(「江戸後期から明治前期までの年齢別人口および出生率・死亡率の推計」高橋 眞一)
 1833年天保4)  3,198万
 1838年天保9)  3,073万
 1843年(天保14) 3,177万 
 箱館方面への人口移動 
 餓死を免れようと密かに蝦夷地へ渡る人がでて、箱館方面の人口が増えた。渡来した者は、一時これを保護しておいて、1人につき米1升、銭200文を与えて帰らせるという対策などもとられたが、密かに住み着くものもいたためにこのようになった。
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 日本大百科全書(ニッポニカ)の解説
 1833~1837年(天保4~8)に起こった大飢饉。享保(きょうほう)、天明(てんめい)の飢饉と並ぶ江戸時代三大飢饉の一つ。1833年春から夏にかけ、西国を除く各地が冷害にみまわれた。このため東北・北関東地方で極端な不作となり大飢饉となった。米価は高騰し、村の貧農や、都市貧民の生活を圧迫した。幕府や諸藩は御救い小屋を設けたりして救済に努めたが、それでも膨大な餓死者や病人を出した。また商人らの米価つり上げに対して、値下げを求める一揆(いっき)や打毀(うちこわし)が各地で続発した。そのため、諸藩では米穀の領外搬出を禁止したりして飯米確保に努め、秋田・南部藩などは、加賀・越後(えちご)などから米を買い入れて一揆の再発防止に努めた。
 1834年と1835年の夏は、比較的天候に恵まれたが、餓死者と病人による労働力減少などで、生産が回復しなかったところに、1836年ふたたび冷害にみまわれ大凶作となり、米価が暴騰した。しかも、都市で食糧品以外の購買力が減退したので、特産物生産地などでは、米価暴騰と生産減という二重の不況となり、人々を苦境に陥れた。このため、各地の都市と農村で打毀が続発した。とくに甲斐(かい)(甲州一揆)や三河(加茂(かも)一揆)では大騒動に発展し、「世直し」を求めるに至ったので、武士のなかから幕藩の政策を批判する者が出た。とりわけ1837年の大塩平八郎の乱は、同年のモリソン号事件とあわせて幕藩権力を動揺させ、天保(てんぽう)の改革の契機となった。[青木美智男]
 [参照項目] | 秋田藩北浦一揆 | 大塩平八郎の乱 | 加茂一揆 | 飢饉 | 甲州一揆 | 南部藩一揆
 天保の飢饉
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例 
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 農民の生活をおびやかした飢饉
 天保年間の大飢饉
 天保3年より同10年にかけても連続的な大凶作であった。特に4年(1833)の俗称「巳の年のけがじ」の惨状は、最も甚だしく、当時の状況は、今なお語り伝えられ、又記録にも数多く残されている。まず、天保4年のこの年の天候について古記録によれば「この年、春より水不足にて、田畑の耕起もできず。各地に雨乞いが統くも、田植の時には水不足となり、田植ができぬ地が領内3割以上にも及ぶ。しかるに明日より土用という時に、天候一変し、さながら寒中の如き寒さとなり、除草の際には綿入れを着てはたらく。土用より30日間、連続の大降雨となり、鳥海山は、雪におおわれて見えないこと30日にも及ぶ。
 7月18日にいたり、ようやく、ねずみの尾の如き出穂あり。更に9月26日には、三尺余りの降雪あり。猿倉辺にいたりては、六尺以上も積る。斯く大雪にありても稲穂のみのりがないために直立してたおれず。」とあり、又、別の記録には「8月2日、あられ降る。下直根は軒場四寸積る。岡田代の加兵衛沢には、大笠程積る。お上においては、役人をもって検査の結果一粒三匁。」と記されてある。
 農民は、稲刈りの時になってもみのりはなく、直立した稲を雪の中からかきわけて刈り取ったが、食糧とすることもできず、その後天侯の回復をまって、皆きそって野山に出て、木の実、草の根を掘り求め、食物をあさりとった。
 時の藩主は、11代親愛であった。長年の江戸在勤の任もとけて帰国し、藩主みずから藩の政治をっかさどった時であった。藩においては、全力をあげてこの難民救済にあたった。まず小役米、年貢、畑年貢を半ば通り御免、利米を一割御免、又は諸年貢にも御免等の恩恵をあたえ、又、貧困の者に対しては、利息なしに米の貸しつけを行ったり、米の値段を十文安にして貧民に食わせるなど、特に貧困の者に対しては米味噌、うどん、みがきにしんなどの食糧をほどこした。
 酒田の本間家より金子を借用して米殻買い入れの資とし、特に土田近信を越後、酒田の間につかわして米の買い求めのためにほん走させた。豊前(大分県)中津藩より米千俵、伊賀(三重県)の藤堂家より500俵をかりうけて領民に施した。又、たびたび諸事倹約のおふれを出し、又政令をもって向かう3年間は質流しをしないこと、室を封じて酒造を禁ずるなどのことを実施した。しかし、農民の生活はますます窮追にせまられ、ついには家、屋敷、田畑を捨てて、知らぬ他国へ流浪する者が続出した。しかもその途中飢餓にたおれる者の数多く、領内だけでも日に7、8人を数えたといわれている。
 山寺、水上の両所に非人小屋を設けて、自領他領をとわず難民を収容し、食をあたえ医療を施して救済にあたった。後に帰村する者には、非人1人について、そうめん2把、みがきにしん10本と塩から一升づつをめぐみあたえた。その数は凡そ140人ぐらいと記されている。かかる藩の懸命の努力にもかかわらず、その被害は実に多く「笹子、宿、法内、蔵村合わせてつぶれ家51軒、死者208人。」の記録もある。如何に大きなぎせいがあったか推察されよう。伝えに残る「かぎの縄」まで食して懸命に生き長らえたのもこの時のことであった。もとここに部落があったと話だけが残されている箕輪、金ケ沢、大倉等の廃村のあとは、当時の人達の死に絶え又は離村したあわれなあとである。
 天保5年11月17日、領内の各寺院において無縁の餓死者の供養を行なったが、この時供養した無縁仏は、竜源寺151人、高建寺40人、祥雲寺42人、泉秀寺(老方)175人、蔵立寺(蔵)198人、慈音寺(笹子)338人、正重寺(直根)128人合わせて1,075人となっている。
 最近、当時の人達が書き残こした起請文が鳥海村赤沼集落より発見された。これは飢饉も峠を越したかと思われた天保5年8月5日、生き残った村人12名の者が、村の秩序を保ち、たがいの生活を護るために血判して神前に誓い合った文書である。これによれば、稲盗人、土蔵破り、畑盗人、野菜盗人等飢饉の時にもっとも罪の重いものを定めて、もしこの犯行をおかした者に対しては、それぞれの科金とその処理の方法を定め、その「右箇条郷中一統烈座之上誓相立決議致侯上は少しも違肖有是間敷侯若盗賊いたし者は当所鎮守天照皇太神宮鳥海山大権現罰明罰可蒙侯者也仍御神文血判如件」と書き、最後に村人の名を書き連ね、その下に指を切っての血判がなされている。赤黒く残る血こんのあとの未だに歴然たるものがあり、真に悲壮きわまるものである。当時の人達が未曾有の難をいかにして生きぬき、村の秩序をたもとうとしたかを知る貴重なる史料であろう。
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🐡6〗─4─天明の大飢饉。お伊勢講。御所千度参り。お蔭参り。天明の打ちこわし。〜No.23No.24No.25 

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 天明の大飢饉とは江戸時代中期の1782年(天明2年)から1788年(天明8年)にかけて発生した飢饉である。江戸四大飢饉の1つで、日本の近世では最大の飢饉とされる。
 経緯
 東北地方は1770年代から悪天候や冷害により農作物の収穫が激減しており、すでに農村部を中心に疲弊していた状況にあった。こうした中、天明3年3月12日(1783年4月13日)には岩木山が、7月6日(8月3日)には浅間山が噴火し、各地に火山灰を降らせた。火山の噴火は、それによる直接的な被害にとどまらず、日射量低下による更なる冷害をももたらすこととなり、農作物には壊滅的な被害が生じた。このため、翌年から深刻な飢饉状態となった。天明2年(1782年)から3年にかけての冬には異様に暖かい日が続いた。道も田畑も乾き、時折強く吹く南風により地面はほこりが立つ有様だった。空は隅々まで青く晴れて、冬とは思えない暖気が続き、人々は不安げに空を見上げることが多くなった。約30年前の宝暦年間(1751年-1763年)の4年、5年、13年の凶作があったときの天気と酷似していた。
 被害は東北地方の農村を中心に、全国で数万人(推定約2万人)が餓死したと杉田玄白は『後見草』で伝えているが、死んだ人間の肉を食い、人肉に草木の葉を混ぜ犬肉と騙して売るほどの惨状で、ある藩の記録には「在町浦々、道路死人山のごとく、目も当てられない風情にて」と記されている。しかし、諸藩は失政の咎(改易など)を恐れ、被害の深刻さを表沙汰にさせないようにしたため、実数はそれ以上とみられる。被害は特に陸奥でひどく、弘前藩の例を取れば死者が10数万人に達したとも伝えられており、逃散した者も含めると藩の人口の半数近くを失う状況になった。飢餓とともに疫病も流行し、全国的には1780年から86年の間に92万人余りの人口減を招いたとされる。
 農村部から逃げ出した農民は各都市部へ流入し治安が悪化した。それ以前の1786年には異常乾燥と洪水が起こっていた事も重なり、1787年天明7年)5月には、江戸や大坂で米屋への打ちこわしが起こり、江戸では千軒の米屋と八千軒以上の商家が襲われ、無法状態が3日間続いたという。その後全国各地へ打ちこわしが波及した。これを受け、7月に幕府は寛政の改革を始めた。
 背景
 幕藩体制の確立とともに各地で新田開発、耕地灌漑を目指した事業が行われた。しかし行きすぎた開発は労働力不足を招き、強引に治水した河川が耕作地に近接しすぎることで、洪水を頻発させ生産量低下の原因にもなった。
 さらに当時は、田沼意次時代で重商主義政策が打ち出され「商業的農業の公認による年貢増徴策」へと転換され、地方の諸藩は藩財政逼迫の折に、稲作の行きすぎた奨励(結果的に冷害に脆弱であった)や、備蓄米を払底し江戸への廻米に向けるなどの失政が重なった。大凶作の一方で米価の上昇に歯止めがかからず、結果的に飢饉が全国規模に拡大することとなった。これは、国内における飢餓輸出と同様の構造である。
 またコメを作物として見た場合、当時は耐寒性イネ品種が普及する以前であり、本来温暖な地域で生育する作物を寒冷な地域で作付けしたため、気温低下の影響を受けやすく、減作や皆無作などの危機的状況を招きやすかった。現在でこそ(コシヒカリなどの)冷涼地向き品種の作付けが主流となり、かつ冷害への対処技術も確立している日本の稲作であるが、当時は栽培技術や品種改良技術も未熟であったため、寒冷地での安定した収穫は困難であった。

 異常気象の原因
 異常気象の原因は諸説あり完全に解明されていない。有力な説は火山噴出物による日傘効果である。1783年6月3日 アイスランドラキ火山(Lakagígar)の巨大噴火(ラカギガル割れ目噴火)と、同じくアイスランドの1783年から1785年にかけてのグリムスヴォトン火山(Grímsvötn)の噴火である。これらの噴火は1回の噴出量が桁違いに大きく、膨大な量の火山ガスが放出された。成層圏まで上昇した塵は地球の北半分を覆い、地上に達する日射量を減少させ、北半球に低温化・冷害を招いた。天明の飢饉のほかフランス革命の遠因となったという。また天明3年3月12日(1783年4月13日)には岩木山が噴火、8月5日には浅間山天明の大噴火が始まった。降灰は関東平野や東北地方で始まっていた飢饉を、悪化させた。なお、ピナツボ火山噴火の経験から、巨大火山噴火の影響は10年程度続いたと考えられる。 しかし異常気象による不作は1782年から続いており、1783年6月の浅間山とラキの噴火だけでは1783年の飢饉の原因を説明できない。
 大型のエルニーニョ現象が1789年 - 1793年に発生して、世界中の気象に影響を与え、天明の飢饉からの回復を妨げたとの説もある。[誰?]
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 幕末トラベラーズ~
 日本史用語集
 江戸時代
 天明の大飢饉ってなんのこと?
 天明の大飢饉天明2年(1782年)~天明8年(1788年)
 天明の大飢饉は、天明年間に東日本を中心に発生した、江戸時代最悪と言われた飢饉のこと。
 解説
 江戸時代には飢饉が多く、全国で120~130回をかぞえたといわれますが、そのなかで三大飢饉といえば、享保の飢饉(1732年)、天明の飢饉(1782年~)、天保の飢饉(1833年~)です。享保の飢饉は西日本中心だったのに対し、天明天保の飢饉は全国的な規模でした。なかでももっとも深刻な被害だったのが天明の大飢饉でした。
 東日本では天明2年(1782年)から天候不順がすすんでいましたが、翌天明3年になって冷害、長雨、洪水がつづき、春から晴天の日がほとんどなく、夏でも冬の着物が必要なほどの寒さだったといいます。さらに天明3年7月には浅間山の大噴火による降灰で田畑が埋まって被害が拡大しました。
 とりわけ北関東、東北地方が悲惨でした。盛岡藩(南部藩)では全人口35万人のうち餓死者、病死者が6万人以上、弘前藩では10数万人以上も出たとされます。ひどいところでは犬、猫はもちろん餓死者の人肉までも、食べられるものをすべて食べ尽くしてもなお餓死する者が相次ぎ、道端には行き倒れた者の遺骸や骨が累々と重なっていたといわれています。
 天明3年の米の収穫は、石高59万石の仙台藩がたった2万5000石しかとれず、25万石の盛岡藩は6万石余りしかとれず、24万石の弘前藩にいたってはなんと収穫高ゼロでした。このことからもいかにすさまじい飢饉であったかがわかりますね。
 ちょっと詳しく…
 こうした悲惨きわまりない飢饉の原因はもちろん第一には自然災害ということなのですが、幕府や藩の政策にも問題がありました。
 当時、飢饉におそわれた藩があっても周囲の藩がそれを援助することはなく、多くは自藩の食糧を守るため、津留 (つどめ) という物資の流出をふせぐ措置をとっていたのです。また、もともと東北地方の気候は米の栽培には向いていなかったため、米以外の作物もつくられていましたが、江戸期に米の増産を強いられて水田の割合をふやした結果、天候不順がすぐに飢饉をまねく体質となっていました。またふだんから食糧を備蓄する余裕がなかったことも要因としてあげられるでしょう。
 飢饉につづいて疫病も流行し、全国で90万人以上が死亡したといわれます。避難民が農村から江戸へ流れ込んで治安が悪化し、江戸や大坂で米屋、商家の打ちこわしが起こり、騒動は全国にひろがりました。こうしたなかで富裕商人を厚遇していた田沼意次は批判をあびて失脚し、寛政の改革が開始されたのでした。
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 御所千度参りは、天明7年6月7日 (1787年7月21日)に発生した、京都御所の周囲を多数の人々が廻り、千度参りをした事件。
 この御所千度参りは、天明7年6月7日頃から始まった。初めは数人だったが、その数は段々増えて行き、6月10日には3万人に達し、6月18日頃には7万人に達したという。御所千度参りに集まった人々は、京都やその周辺のみならず、河内や近江、大坂などから来た者もいたという。
 京都は人であふれ、後桜町上皇からは3万個のリンゴ(日本で古くから栽培されている、和りんご)が配られた。他にも、有栖川宮一条家などでは茶が、九条家鷹司家からは握り飯が配られた。
 この事態を憂慮した光格天皇京都所司代を通じて江戸幕府に飢饉に苦しむ民衆救済を要求する。これは、禁中並公家諸法度に対する明白な違反行為であった。そのため、天皇の叔父でもある関白鷹司輔平も厳罰を覚悟して同様の申し入れを行った。これに対して幕府は米1,500俵を京都市民へ放出することを決定、法度違反に関しては事態の深刻さから天皇や関白が行動を起こしたのももっともな事であるとして不問とした。
 この背景には、天明の大飢饉や、同年4月に徳川家斉が将軍に就任した事から徳政を求める意味もあったと思われる。また、朝廷の行動が実際の救済行動に結びついたことで、尊王論の興隆の一因となった。
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 お蔭参りは、江戸時代に起こった伊勢神宮への集団参詣。お蔭詣で(おかげもうで)とも。数百万人規模のものが、およそ60年周期(「おかげ年」と言う)に3回起こった。お伊勢参りで抜け参りともいう。
 お蔭参りの最大の特徴として、奉公人などが主人に無断で、または子供が親に無断で参詣したことにある。これが、お蔭参りが抜け参りとも呼ばれるゆえんである。大金を持たなくても信心の旅ということで沿道の施しを受けることができた時期でもあった。
 江戸からは片道15日間、大坂からでも5日間、名古屋からでも3日間、東北地方からも、九州からも参宮者は歩いて参拝した。陸奥国釜石(岩手県)からは100日かかったと言われる。

 お伊勢講
 しかし、制度上は誰でも伊勢神宮参詣の旅に行くことは可能だったとはいえ、当時の庶民にとっては伊勢までの旅費は相当な負担であった。日常生活ではそれだけの大金を用意するのは困難である。そこで生み出されたのが「お伊勢講」という仕組みである。「講」の所属者は定期的に集まってお金を出し合い、それらを合計して代表者の旅費とする。誰が代表者になるかは「くじ引き」で決められる仕組みだが、当たった者は次回からくじを引く権利を失うため、「講」の所属者全員がいつかは当たるように配慮されていたようである。くじ引きの結果、選ばれた者は「講」の代表者として伊勢へ旅立つことになる。旅の時期は、農閑期が利用される。なお、「講」の代表者は道中の安全のために二、三人程度の組で行くのが通常であった。
 出発にあたっては盛大な見送りの儀式が行われる。また地元においても道中の安全が祈願される。参拝者は道中観光しつつ、伊勢では代参者として皆の事を祈り、土産として御祓いや新品種の農作物の種、松阪や京都の織物などの伊勢近隣や道中の名産品や最新の物産(軽くてかさばらず、壊れないものがよく買われた)を購入する。無事に帰ると、帰還の祝いが行われる。江戸時代の人々が貧しくとも一生に一度は旅行できたのは、この「講」の仕組みによるところが大きいだろう。
 また、この「お伊勢講」は平時においては神社の氏子の協同体としても作用していた。「お伊勢講」は畿内では室町中期から見られた現象だが、全国的になったのは江戸以降である。江戸時代が過ぎてもこの仕組みは残った。なお戦後は講を賭博行為とみなしたGHQにより解散させられた(無尽講を参照)。しかし、地域によっては現在でも活動を続けている伊勢講もある。伊勢神宮参拝は数年に一度行うのみとして、簡素な宴席のみを毎年行う習慣が残存している地域もある。
 「お伊勢講」が無かった地域では、周囲からの餞別(せんべつ)が旅行費の大半を占めていた。
 
 1650年(慶安3年)
 慶安のお蔭参りは、記録が少なく、詳しいことはわかっていない。「寛明日記」によると、江戸の商人が流行らせたと言う。箱根の関での調べによると、正月下旬から3月上旬までで一日平均500-600人が参詣し、3月中旬から5月までで平均2100人が参詣したという。参詣するものは皆「白衣」を着ていた。
 参詣者:
 当時の日本総人口:1781万人(1650年)
 発生地域:江戸
 期間:1月~5月

 1705年(宝永2年)
 宝永のお蔭参りは、本格的なお蔭参りの始まりで、2ヶ月間に330万~370万人が伊勢神宮に参詣した。本居宣長の玉勝間の記載によると、4月上旬から1日に2~3千人が松阪を通り、最高は1日23万人である。
 参詣者:330万~370万人
 当時の日本総人口:2769万人(1700年)
 発生地域:京都
 期間:

 1771年(明和8年)
 4月11日、宇治から女・子供ばかりの集団が仕事場の茶山から無断で離れて、着の身着のままやってきたのが明和のお蔭参りの始まりと伝える。
 ピーク時には地元松坂では、自分の家から道路を横切って向かいの家に行くことすら困難なほど大量の参詣者が町の中を通っていった、と当時の日記にかかれている。参詣者らは「おかげでさ、ぬけたとさ」と囃しながら歩いてきた。集団ごとに幟を立てていたが、初めは幟に出身地や参加者を書いていたが、段々と滑稽なものや卑猥なものを描いたものが増えてきたという。お囃子も、老若男女がそろって卑猥な事々を並べ立てるようなものになった。
 参詣者:200万人
 当時の日本総人口:3110万人(1750年)
 発生地域:山城の宇治
 期間:4月~7月(5ヶ月間)
 経済効果:
 街道沿いの物価が高騰した。白米1升が50文が相場のときに、4月18日には58文に上がり、5月19日には66文、6月19日には70文まではね上がった。わらじは5月3日で8文だったものが、5月7日には13-15文になり、5月9日には18-24文に急上昇した。
 街道沿いの富豪による「施行」も盛んに行なわれた。無一文で出かけた子供が、銀を持って帰ってきたといった事もあったという。初めは与える方も宗教的な思いもあって寄付をしていたが、徐々にもらう方ももらって当然と考えるようになり感謝もしなくなって、中にはただ金をもらう目的で参詣に加わる者も出てきた。

 1830年(文政13年 / 天保元年)
 文政のお蔭参りでは、60年周期の「おかげ年」が意識されていた。伝播地域は、明和よりも狭かったが、参加人数は大幅に増えている。
 何故か参詣するときに、ひしゃくを持って行って伊勢神宮の外宮の北門で置いていくということが流行った。阿波の巡礼の風習が広まったとも言う。
 参詣者:427万6500人
 当時の日本総人口:3228万人(1850年
 発生地域:阿波
 期間:閏3月初~8月末
 経済効果:86万両以上
 物価上昇が起こり、大坂で13文のわらじが200文に、京都で16文のひしゃくが300文に値上がりしたと記録されている。
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 天明の打ちこわしとは、江戸時代の天明7年(1787年)5月、ほぼ同時期に江戸、大坂など当時の主要都市を中心に30か所あまりで発生し、翌6月には石巻、小田原、宇和島などへと波及した打ちこわしの総称である。天明7年5月の打ちこわし発生数は江戸時代を通じて最多であり、特に5月末の江戸打ちこわしは極めて激しかった。全国各地で同時多発的に発生した打ちこわし、とりわけ幕府のお膝元の江戸打ちこわしによって当時幕府内で激しい政争を繰り広げていた田沼意次政権派と、松平定信を押し立てようとする譜代派との争いに決着がつき、田沼派が没落して松平定信が老中首座となり寛政の改革が始まることになった。
 概要
 江戸時代の中期以降、都市の発展によって新たな就業形態が発生し、また大商人への資本の集積による中小商工業者の没落、そして荒廃が進んだ農村を離れ都市へやってきた農民たちによって都市貧民層が形成されるようになった。
 都市貧民層は通常、零細な商工業や日雇い就労などによって家族を養う収入を得ることができたが、米価高騰や銭の相場の下落によって容易に貧困状態に陥る生活基盤の脆弱さを抱えていた。天明期に幕政を主導していた田沼意次の政策によって銭の相場が高騰し、さらに天明期は天明の大飢饉をもたらした冷害、浅間山大噴火、関東地方の大洪水などの影響で米が不作となり価格が高騰し、商業の発展によって商人が米を投機の材料とする傾向が強まっていたこともあって、天明7年には全国的に米価が異常に高騰し、全国各都市の都市貧民層の生活は困窮のどん底に陥った。そのような中で天明7年5月に大坂で発生した打ちこわしはまたたく間に全国各地の都市へと広まり、江戸時代最高の打ちこわし件数を記録するに至る。特に江戸での打ちこわしは町奉行による混乱収拾が不可能な状態に陥る激しいものであった。打ちこわし発生後、ようやく困窮した人々への支援策が具体化し、混乱は収拾に向かった。
 天明7年5月から6月にかけて全国を席巻した打ちこわしの結果、打ちこわしの原因を作ったとされ、民衆の批判対象となった田沼意次を支持する勢力が没落し、松平定信が老中に任命され、寛政の改革がスタートすることになる。定信の政権は打ちこわしという民衆蜂起の直接的影響で成立した江戸時代唯一の政権であり、極めて強い危機感を持って大規模な打ちこわしを起こした都市の問題や、都市問題の原因ともなった農村問題などに取り組むことになった。そして全国で同時多発的に打ちこわしが発生し、将軍のお膝元である江戸では激しい打ちこわしによって一時無政府状態に陥った事実は将軍の権威の低下を招き、天皇が将軍に天下の政治を委任する大政委任論の成立と定着をもたらすことになった。
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 天明は日本の元号の一つ。安永の後、寛政の前。1781年から1789年までの期間を指す。この時代の天皇光格天皇江戸幕府将軍は徳川家治徳川家斉
 天明年間の出来事
 天明2年-8年(1782年-1788年): 天明の大飢饉
 天明3年(1783年)7月6日 : 浅間山で大噴火。死者約2万人。大飢饉が更に深刻化。
 天明4年(1784年)2月23日 : 筑前国志賀島で金印発見。
 天明4年(1784年)3月 : 田沼意知江戸城内で佐野政言に殺される。
 天明4年(1784年): 蝦夷地の開拓が始まる。
 天明6年(1786年)8月 : 田沼意次が失脚。
 天明6年(1786年): 最上徳内、千島を探検し、得撫島に至る。
 天明7年(1787年)4月 : 徳川家斉が将軍に就任。
 天明7年(1787年)5月 : 天明の打ちこわし(江戸・大坂で米屋が打ち壊された事件)。
 天明7年(1787年)6月 : 松平定信が老中に就任、寛政の改革を行う。
 天明7年(1787年)6月7日 : 御所千度参りが起こる。
 天明8年(1788年)1月30日 : 天明の京都大火により、皇居炎上、京都の大半が焼失。
 天明8年(1788年): 尊号一件始まる。
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🐡6〗─3─宝暦年間の大飢饉。〜No.20No.21No.22 

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 宝暦の飢饉は、江戸時代、宝暦4年(1754年)から宝暦7年(1757年)にかけて東北地方を襲った大飢饉。現在の岩手・宮城の両県にわたる範囲で約5万ないし6万人の餓死犠牲者が出たとされる。
 被害はそれだけにとどまらず、現在の青森県の一部を治めていた弘前藩領内では財政の立て直しをしたため餓死者は出なかったとも言われていたが、実際には多数の犠牲者がいたことが墓石調査により確認されている(弘前大学関根達人教授(考古学)による)。
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 一揆
 1748年(寛延2年):姫路藩寛延一揆
 1748年(寛延2年):寛延の百姓騒動[20]
 1753年(宝暦3年):籾摺騒動
 1761年(宝暦11年):上田騒動
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 サイバー記念館
 本記念館は、由利本荘市矢島地域(旧矢島町)に関係のある人物、史跡、歴史をネット
 ワークで紹介するものです。一部未整備の内容のものもありますが、資料が整い次第
更新してまいります。
 このページに対する問合わせは 由利本荘市矢島町総合支所市民サービス課
TEL 0184-55-4951  FAX 0184-55-2157
mail ysm-shinko@city.yurihonjo.lg.jp へ
 農民の生活をおびやかした飢饉 
 この時代の農民を極度に苦しめたものの一つに飢饉がある。その被害は、三年ごとと称せられるほどに周期的連続的なものであり、近世農村生活の破滅を招くほどのものでもあった。当地方においてもこの飢饅が数えきれないほどに発生しているが、当時のことは、今もなお語りぐさに伝えられ、或は文献に書き残されている・中でも被害の最も多く、近世における東北の三大凶荒と称せられている宝暦、天明天保年間の飢饉についてその概要を記します。
 宝暦年間の大飢饉
 宝暦5(1755)6,7年の3ケ年間、東北地方一帯をおそった凶作の被害は実に大なるものがあった。当地方においてもその被害は甚だしく、特に宝暦5年は、最も惨状をきわめた。この年は、なが雨が降り続き、冷気殊の外甚だしく、ついに大きな凶作となった。
 この時の記録によれば「宝暦五乙亥歳、冷気強くして大凶作なり。矢島御領分にては御毛引26,000俵なり。新荘村にては251俵、坂ノ下村にては540俵なり。乞食村里に満ち、餓死人路の辺にたおるもの実に多し。御上にては舞杉に大いなる穴を堀り、餓死人を埋む。或は兄弟妻子別れ去り、家をあけて他所へ出る者多し。百宅、直根に別して多し。家を離れて他所へ出る者は多く餓死せりという。この冬大雪にてとろろ、わらびの根など堀ることならず、餓死人いよいよ多し。御上にては、毎日かゆをにて飢人を救う。山寺に非人小屋をかける。ありがたきことなり。家財諸道具売りに出ることおびただし、盗人大いに起こる。」とある。又別の記録には「直根、笹子、中奥の沢方面の餓死実に多く、餓死人御領分にて三千余人。」と記されてある。その惨状は推して知ることができよう。
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 日本災害史
 日本人の死の歴史の中で「大量死」を経験してきた場合、それは災害をさすのではないだろうか。また日本人の死生観は構想の教えや時々の道徳によって生まれることもあるが、むしろ衝撃に満ちた災害や事件の体験から生まれるのではないだろうか。
 今回の「デス・ウオッチング」では、日本の歴史の中で、多くの人命を犠牲にした災害である飢饉、地震、火災を年代順にとりあげ、どんな教訓を与えてくれるかを探ってみたい。
 ●飢饉
 『日本書記』の欽明天皇の巻に、「郡国大水となり、飢えて人互いに食べる」という記事がある。飢餓の原因として干害(ひでり)、冷害、風水害があるが、戦国時代までは干害が最も恐ろしいとされた。
 1756年 宝暦の飢饉
 近世の四大飢餓の一つであるこの飢饉では、岩手と宮城の両県で合計約5万人の死者を出している。死者の葬送で、枕団子を持って行くと、流民たちがかけよって、それを奪い合うことも見られたという。
   ・   ・   ・   
 弘前市弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍
 通史編2(近世1)
 新編弘前市史 通史編2(近世1)
 第4章 幕藩体制の動揺と民衆
 第一節 藩体制の動揺
 一 宝暦・天明期の飢饉と農村
 (一)宝暦の飢饉
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 宝暦の飢饉
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 続く宝暦の飢饉でも八戸藩では、史料によって数値は違うが、四〇〇〇人から七〇〇〇人といわれる犠牲者を出し、『八戸藩史料』によると逃散も含めての数字であろうが、人口は一年間で二万人もの減少になっている。他の北奥諸藩でも同様で、盛岡藩では四万九四九五人の餓死者(「篤焉家訓」による。ほかに遠野通一一五一人)、仙台藩では全体で二万人程度の餓死者(『宮城県史』二二)を出したという。八戸藩は表高二万石のうち一万八五七三石の損毛(そんもう)、盛岡藩は表高一〇万石のうち七万七一七〇石の損毛であった。凶作は日本海側の諸藩にも及び、地域によっては水害や虫害も加わり被害を大きくした。
 この年もまた冷害に見舞われ、雪の消えるのが遅く、四月から八月までヤマセが吹き、さらに雨が降り続いて寒く、夏のさなかでも春の彼岸のような気候であったという(資料近世2No.一)。八月中には二度の霜害を受けて、成育がよくみえた田畑も立ち枯れて、ついに大凶作に至った。深沢・上磯(かみいそ)・下磯(しもいそ)および三新田では田畑がいっさい稔らず、十月に藩が幕府に届けた損毛高は表高四万六〇〇〇石のうち三万四二八〇石、新田一九万六三五三石余のうち、一六万一一三〇石であった(同前No.二)。
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 WEB防災情報新聞
 日本の災害/防災 年表「気象災害 ①古代~江戸時代編」
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寛延元年9月風台風、九州、四国、中国地方に暴風、高潮
……… 1748年9月24日~25日(寛延元年9月2日~3日)
寛延2年中国地方畿内風水害 ……… 1749年8月14日(寛延2年7月2日)
薩摩藩木曽川宝暦治水完成させる。総奉行・平田靱負自刃 ……… 1755年7月1日(宝暦5年5月22日)
・宝暦5年球磨川の洪水、せき止め湖決壊し八代大水害「瀬戸石崩れ(くえ)」
 ……… 1755年7月17日(宝暦5年6月9日)
・宝暦の大飢饉、東北冷害で大凶作となり米価高騰
……… 1755年7月下旬~56年5月(宝暦5年6月中旬~6年4月)
・宝暦6年畿内暴風雨、淀川、紀ノ川氾らん ……… 1756年10月9日~10日(宝暦6年9月16日~17日)
・宝暦7年梅雨前線豪雨、東海、甲信越、関東で水害、信濃川田切れ-大河津分水建設を嘆願
 ……… 1757年6月~7月(宝暦7年5月~6月)
・宝暦7年7月台風、紀州、四国、中国が暴風雨、高潮で被害に
……… 1757年9月8日~9日(宝暦7年7月25日~26日)
庄内藩、砂防林計画を本間家に許可-酒田港の繁栄を支える ……… 1758年4月13日(宝暦8年3月16日)
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 天変地異年表 近世後半(A.D.1716~1867)
 西暦    年号
1716(享保 1)年
  2月18日 霧島山が噴火。八重川増水し、死魚が流れる。(震災予防調査会報告86)
  9月26日 霧島山西岳大爆発。大被害をもたらす。(西藩野史19)
 12月 6日 京阪で地震。(続史愚抄69)(月堂見聞集 9)
 12月26日 霧島山噴火。(西藩野史19)
    この年、霧島山噴火し、災地積136300坪に達する。翌4月まで続く。(日向郷土史年表)
1717(享保 2)年
  1月 3日 霧島山噴火。134戸が倒壊し、死傷31人。(震災予防調査会報告86)(萬年記11)
  1月 7日 江戸で地震(月堂では8日)。(萬年記11)(月堂見聞集 9)
  4月27日 京で地震。(続史愚抄69)
  6月 1日 京で地震。(続史愚抄69)
  8月16日 京で地震。(続史愚抄69)
  8月15日 霧島噴火で近郷の田畑数十里が埋没。(西藩野史19)
  8月19日 浅間山噴火。(日本災異誌)
 12月 8日 数日にかけて江戸で地震。(月堂見聞集 9)(萬年記11)
1718(享保 3)年
  2月10日 江戸で地震。(日本災異誌)
  7月26日 飯田、伊那、伏見、淀で地震。(月堂見聞集10)(萬年記11)(続史愚抄69)
  9月 3日 浅間山噴火。(震災予防調査会報告86)
  9月12日 信濃で大地震。飯山城大破。民家多く倒壊。(月堂見聞集10)(談海続 2)
1719(享保 4)年
  1月    岩手山噴火。北麓へ溶岩流出。(震災予防調査会報告86)(地学349)
 12月 1日 江戸で大地震。(萬年記11)
1720(享保 5)年
  2月26日 京師で地震。(続史愚抄69)
  5月 1日 浅間山噴火。(日本災異誌)
  6月 4日 京師で地震。(続史愚抄69)
1721(享保 6)年
  5月28日 浅間山噴火。関東の者16人、石に当たり15人が死亡。(震災予防調査会報告86)(日本火山総覧)
  8月29日 京暴寒。鞍馬や貴船で雪が降る。(続史愚抄70)
1722(享保 7)年
  2月17日 京で地震。(続史愚抄70)
  7月    佐渡で疫病が流行。死者600人を越える。
  8月14日 東海道で海嘯。(日本災異誌)
    この年、浅間山噴火。(日本災異誌)
1723(享保 8)年
  1月 1日 浅間山噴火。(震災予防調査会報告86)
  2月 3日 京で地震。(続史愚抄70)
  7月20日 浅間山噴火。(震災予防調査会報告86)
  8月10日 五十里湖が決壊し、鬼怒川流域で181人が死亡。
 11月20日 九州で大地震。(続日本王代一覧 6)(大地震歴年考)(十三朝記聞 4)(泰平年表)(編年大事記)
 12月10日 京で地震。(続史愚抄70)
1724(享保 9)年
  6月20日 京で地震。(続史愚抄70)
1725(享保10)年
  3月 6日 京で地震。(続史愚抄70)
  4月18日 江戸で地震。(萬年記12)
  7月 7日 江戸・信州で大地震。(萬年記12)
  9月25日 長崎で大地震。昼夜に80余回起こる。(大地震歴年考)(十三朝記聞 4)
       (泰平年表)(続日本王代一覧 6)(編年大事記)
1726(享保11)年
  2月29日 越前勝山で津波大風。人畜溺死多数。(続日本王代一覧 6)(十三朝記聞 4)
   (地歴)(泰平年表)
  3月10日 江戸で地震。(萬年記12)
  3月14日 越前で大地震。470余人死亡。(徳川十五代史12)
  3月19日 越前弁慶ヶ岳で地震。大河が堰止められ洪水。(浮世の有様 2)
  4月15日 江戸で地震。(萬年記12)
  8月16日 京で地震。(続史愚抄70)
 11月27日 江戸で地震。(萬年記12)
1727(享保12)年
  1月 3日 京で地震。23日にも地震。(続史愚抄70)
  3月 4日 江戸で地震。(萬年記12)
  9月13日 江戸で地震。(萬年記12)
1728(享保13)年
  9月 2日 関東で大洪水。両国橋等が流され、3500人が死傷(死者1万余とも)。
       (萬年記12)(泰平年表)(柳営年表)(有徳院殿御実記28)(日本凶荒史考)
       (談海続 2)(窓の須佐美 2)(十三朝記聞 4)(一話一言 3)(続日本王代一覧 6)
 10月 9日 浅間山噴火。(日本災異誌)
 12月25日 江戸で地震。(萬年記??)
1729(享保14)年
  1月22日 江戸で地震。(萬年記12)
  2月 9日 江戸で地震。(萬年記12)
  7月 7日 能登鳳至郡で大地震。輪島で300余戸損壊。(石川県史 2)
  7月    広島城下で疱瘡と麻疹が流行する。
    秋、東国で疫病流行。(有徳院殿御実記30)
 10月    浅間山噴火。(震災予防調査会報告86)
1730(享保15)年
  1月24日 対馬で大地震。(日本災異誌)
  3月 7日 江戸で地震。24日にも地震。(萬年記12)
  7月17日 江戸で地震。(萬年記12)
 10月 1日 江戸で地震。4日にも地震。(萬年記12)
1731(享保16)年
  2月 3日 江戸で地震。(萬年記12)
  7月11日 江戸で地震。(萬年記12)
 12月25日 岩手山噴火。溶岩流出。(日本火山総覧)
1732(享保17)年
  1月 3日 江戸で地震。(萬年記13)
  1月13日 江戸で地震。(日本災異誌)
    夏から秋にかけて西国・四国・中国で蝗害。公私46藩236万石中収穫は628000余石のみ。
       (泰平年表)(続日本王代一覧 6)(続史愚抄71)(広島市史 2)(有徳院36)(大阪市史 1)
  9月26日 長崎で地震。昼夜80余回震動。(甲子夜話続58)
    この年、西日本で蝗害が多発し、飢饉となる。(浮世の有様 2)
1733(享保18)年
  4月16日 京で地震。(続史愚抄71)
  6月20日 浅間山が大噴火。前掛山残らず割れる。(震災予防調査会報告86)
  8月11日 広島で大地震。奥郡で被害多数。(広島市史 2)
    夏、西日本で疫病が大流行。(萬年記13)
1734(享保19)年
 10月27日 江戸で地震。(続史愚抄71)
 11月 7日 京で地震
 12月 5日 赤小豆の如き物降る。みな空穀なり。(本草綱目啓蒙23)
1735(享保20)年
 閏3月14日 江戸で地震。(萬年記13)
  9月    中国九州で犬の疫病流行し、多数死す。風犬と呼ばれる。病犬、人を咬殺する事多し。
       (続日本王代一覧 7)(泰平年表)(続史愚抄72)
 12月    江戸で疱瘡が流行し、幕府は直参に丸薬を配る。
1736(元文 1)年
  3月    仙台で大地震。(日本災異誌)
1737(元文 2)年
  4月 1日 江戸で地震。(萬年記13)
  9月 2日 広島で高潮。竹屋町の下堤を越え、堀川町・古月町浸出す。(広島市史 2)
1738(元文 3)年
  2月16日 江戸で地震。(萬年記13)
 10月18日 江戸で地震。(萬年記13)
1739(元文 4)年
  1月18日 江戸で地震。(萬年記13)
  7月 5日 中国地方で大風雨。出雲では民家2223戸、稲4万石が損害。
  7月12日 八戸で地震。(青森県史 4)
  7月14日 蝦夷松前で山崩れ。震動は津軽に及ぶ。(震災予防調査会報告86)
  9月11日 江戸で地震。(萬年記13)
1740(元文 5)年
  2月 1日 江戸で大地震。(萬年記13)
  5月    鳥海山が噴火。硫黄明礬の気が渓流に混入し、田地作物が損失。4、5年間河水に魚見ず。
        (震災予防調査会報告86)(日本火山総覧)
  6月27日 京で地震。(続史愚抄72)
  7月19日 松前海嘯。人家多数流出。死者多し。(青森県史 4)
 閏7月16日 集中豪雨により鴨川が洪水。三条大橋が損壊。
 閏7月17日 洪水により大和御所町で659軒が流出、218人が死亡。
  9月 1日 江戸で大地震。(萬年記13)
 11月28日 伊勢国紀州藩領で108村が蝗害のための減免を強訴。
1730~1740
    この頃、近江野洲郡橘村に一石が落ちる。掌の大きさで、甚だ硬く重くして、金色文理(筋目?)あり。(雲根志前 3)
1741(寛保 1)年
  7月19日 蝦夷渡島大島の江良岳が早朝爆発。大津波が発生し、松前藩領などで死者1467人以上。
        791戸が流出し、152隻が破損する。津波佐渡にいたり、東北地方で8人が死亡し82戸が流出する。
       (福山秘府)(津軽藩歴代記類)(佐渡年代記)(続史愚抄73)(続日本王代一覧 7)(十三朝記聞 4)
       (談海続 3)(北海道志)(青森県史 2)(日本火山総覧)
  9月 3日 江戸で地震。(談海)
1742(寛保 2)年
  1月    彗星河鼓南及河鼓に現る。(紫芝園漫筆 8)
  3月 2日 8日にかけて桜島噴火。(震災予防調査会報告86)
  4月17日 江戸で地震。(萬年記13)
  7月26日 江戸で地震。(萬年記13)
  7月28日 中部から近畿地方で、大風雨により洪水多発。小諸、松代等の城が破損。三条大橋が流出。
  8月 3日 大風雨で利根川や荒川が洪水。80万余石が水没。3900人が溺死(18000余とも)。
       (萬年記13)(年代著聞集下)(柳営年表)(談海続 3)(紫芝園漫筆 8)
1743(寛保 3)年
  5月10日 京師で地震。(続史愚抄73)
 10月 6日 長州藩領内で風雨・洪水で13万石余が被害、家屋3484戸が倒壊。
 11月    彗星東壁に出現。光芒斜め、奎指にあり。二旬稍衰。
 12月28日 彗星再度明るく輝く。11月以来稍が西北、営室下星へ向かい、近営室下星で切れる。(紫芝園漫筆 8)
1744(延享 1)年
  8月10日 西日本大荒れ。(広島市史 2)(日向郷土史年表)
  8月    長州藩領で風雨洪水。12万石が被害、5080戸が倒壊。
  8月    江戸芝で海嘯。家屋多数倒壊。死者多数。(日本災異誌)
1745(延享 2)年
  1月30日 京師で地震。(続史愚抄73)
  5月21日 京師で地震。(続史愚抄73)
1746(延享 3)年
  2月17日 京師で地震。(続史愚抄73)
  4月24日 江戸で強震。家屋多数破損。(談海続 4)
  8月23日 土佐で大風雨。(日本災異誌)
  8月    長州藩領で風雨洪水。13万石が被害、3670戸が倒壊。
 10月29日 京師で地震。(続史愚抄73)
1747(延享 4)年
  4月24日 京師で大地震。(続史愚抄73)
1748(寛延 1)年
  9月    中国地方で風雨洪水。安芸で死者132人、6421戸が流出。
        広島・三原両城破損。周防・長門では6830戸が流出。(広島市史 2)
1749(寛延 2)年
  4月10日 広島で大地震。(広島市史 2)
 10月17日 京師で地震。(続史愚抄74)
 11月19日 京師で地震。(続史愚抄74)
    この年、桜島噴火。(日本災異誌)
    この年、冷害と蝗害により東北大飢饉。(青森県史 2)(山形県史 2)(津軽凶歉記録1班)(津軽旧記類)
1750(寛延 3)年
  4月    武蔵で雹が降り、人馬作物に被害。
  7月30日 京師で地震。(続史愚抄74)
  8月23日 日向大風。高鍋藩領1300余石損。佐土原藩領200余戸倒壊。(日向郷土)
  8月26日 洛中大風雨。二条城天守閣落雷で焼失。(続日本王代一覧 8)(泰平風也集上)(泰平年表)
1751(宝暦 1)年
  2月29日 京で大地震。余震続く。人家土蔵多数破損。余震7月まで続く。
       (十三朝記聞 5)(泰平風也集)(地歴)(続日本王代一覧 6)(年代著聞集10下)(続史愚抄74)(浮世の有様)
  4月25日 越後高田で大地震。1日30余回。城下で大被害。死者千とも16300ともいう。
       (地歴)(続日本王代一覧 8)(泰平風也集)
 閏6月19日 讃岐で洪水。
1752(宝暦 2)年
  2月25日 会津地震。(石川県史 2)
  8月 3日 因幡で暴風雨により洪水。
1753(宝暦 3)年
  1月 9日 京師で地震甚だし。洛中築地破損多数。(続史愚抄75)
  2月16日 江戸で地震。(武江年表 5)
1754(宝暦 4)年
  6月19日 浅間山噴火。煙、地に這い作物を害する。秋過ぎまで度々噴火。(震災予防調査会報告86)
1755(宝暦 5)年
  4月10日 地震により日光山奥院が崩壊。
  7月13日 津軽大雪。3尺余積もる。(十三朝記聞 5)
    この年、翌年にかけて諸国大飢饉。(山形県史 2)(秋田県史 2)(青森県史 4)(凶荒史 2)(日向郷土史年表)
1756(宝暦 6)年
 7月 晦日 近江・大坂などで大地震。(日本災異誌)(十三朝記聞 5)(泰平年表)(編年大事記)
  8月 3日 大坂で大地震、火災。(日本災異誌)
  9月16日 翌日にかけて近畿、濃尾地方で暴風雨。淀川や紀ノ川が氾濫。
       (続日本王代一覧 8)(続史愚抄75)(泰平年表)(十三朝記聞 5)
    この年、桜島噴火。(震災予防調査会報告86)
1757(宝暦 7)年
  5月 4日 常陸で洪水。
  5月29日 加賀で大雨により金沢城下で被害。(泰平年表)
  5月    大雨で尾張等で洪水。322300余石が被害。(続史愚抄76)(十三朝記聞 5)
  6月19日 幕府、氾濫河川の普請のための検分に人を派遣する。
  6月26日 安芸で洪水と高潮。27118戸が被害。
  7月26日 出雲、讃岐、土佐で洪水。死者多数。
  8月20日 但馬出石で洪水。14000石が浸水。
  9月 5日  讃岐高松再度洪水。
 12月21日 幕府、信越、伊勢などの洪水被害諸藩に拝借金を貸与。
 12月    幕府、節倹令を出す。(徳川理財会要)
1758(宝暦 8)年
  2月19日 京師で地震。(続史愚抄76)
1760(宝暦10)年
  4月 5日 京師で地震。(続史愚抄76)
1761(宝暦11)年
  1月24日 京師で地震。(続史愚抄76)
 11月10日 京師で地震。(続史愚抄76)
1762(宝暦12)年
  4月18日 京師で地震。(続史愚抄76)
  7月16日 伯耆大山爆発。激水湧出し、100余人が死亡。(続史愚抄76)
 12月16日 八戸で大地震。被害多数。(青森県史 4)
1763(宝暦13)年
  1月27日 八戸で強震。家屋土蔵破損多数。(青森県史 4)
  2月 2日 京師で地震。(続史愚抄77)
  2月27日 京師で地震。(続史愚抄77)
  7月 9日 以降1769年にかけて三宅島噴火続く。(伊豆七島志)
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🐡6〗─2─享保の大飢饉は複合災害。餓死・疫病・害虫。地震。大火。打ち壊し、百姓一揆。〜No.17No.18No.19 

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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。  
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・    
 現代日本が教える日本の歴史は、日本天皇・日本国・日本民族を否定する事に重点が置かれている。
 ダメな日本天皇、無能な日本国、バカな日本民族、それが現代日本の日本史への評価・定説である。
   ・   ・   ・   
 現代の日本人が好きなのは、ご都合主義的時代劇であって事実に基づいた歴史ではない。

 現代の日本人は、歴史力がなく、歴史的事実が理解できず、日本民族史を正しく評価できない。
 日本の歴史は、日本民族だけの歴史であり、中国や朝鮮の歴史とは一切関係ない。
 国際派高学歴出身知的エリートは、欧米語を流暢に話し、世界情勢に詳しく、日本の歴史よりも世界の歴史をよく知っている。
   ・   ・   ・   
 現代日本は、公文書を残さないし議事録を作成しない。
 日記は、自己自賛の自己満足か、責任放棄か責任転嫁の自己弁護に過ぎない。
 政治家も、官僚も、学者も、専門家も、メディア・報道機関者も、・・・。
 その象徴が、武漢ウイルスに対する後手後手のお粗末な対応を続ける現代日本の哀れな姿である。
   ・   ・   ・   
 「食べ物が足りなくなったら外国から必要な食糧を買ってくればいい」、と言う高学歴出身知的エリートは相手にしない方が良い、何故なら冗談を真に受けると飢え死にするからである。
   ・   ・   ・   
 現代日本人は、武士・サムライでもなければその子孫でもない、そして百姓でもないしその子孫でもない。
 現代日本人と昔の日本人は別人の日本人である。
   ・   ・   ・   
 飢餓。疫病。害虫。風水害・江戸水没。地震。火山噴火。
 大火。
 打ち壊し、百姓一揆
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 江戸幕府や各藩も、村々の庄屋も、被害状況の公文書や記録などを残し、日々の様子を正確に日記として書き記し、それらから情報を集め、調査し、分析し、対策を立て、抜かりなく実行し、その後を考えて庶民の啓蒙に力を入れた。
 そのローカル的な差配は、グローバル化を目指す現代日本では通用しないとして切り捨てられている。
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 徳川 吉宗は、江戸幕府第8代将軍(在職:1716年 - 1745年)。将軍就任以前は越前国葛野藩主、紀州藩第5代藩主を務めた。
 江戸幕府の第8代将軍に就任した。紀州藩主時代の藩政を幕政に反映させ、将軍家宣時代の正徳の治を改める幕政改革を実施。幕府権力の再興に務め、増税と質素倹約による幕政改革、新田開発など公共政策、公事方御定書の制定、市民の意見を取り入れるための目安箱の設置などの享保の改革を実行した。徳川家重に将軍の座を譲った後も大御所として権力を維持し、財政に直結する米相場を中心に改革を続行していたことから米将軍(八十八将軍)と呼ばれた。
 この幕府改革で破綻しかけていた財政の復興などをしたことから中興の祖と呼ばれる。年貢率を引き上げるなど農民を苦しめた上で成り立った改革だったため、百姓一揆の頻発を招いた。また、庶民にも倹約を強いたため、景気は悪化し、文化は停滞した。

 趣味・嗜好
 松平明矩が重病になった時に、音楽による気分転換を勧めているが、自らも公務の余暇に「古画」(絵画)の鑑賞や、それの模写に没頭することを慰みとし、『延喜式』に見える古代の染色法の研究に楽しみを求めて鬱を散じていた。
 狩野常信に師事し、常信の孫・狩野古信に絵の手ほどきをしている。絵画の作品も何点か残されている(野馬図など)。また淡墨を使って描く「にじみ鷹」の技法を編み出している。
 室町時代から伝統的に武家に好まれた宋・元時代の中国画を愛好していた。享保13年(1728年)には、各大名家に秘蔵されていた南宋時代の画僧・牧谿筆の瀟湘八景図を借り集め鑑賞している。さらに中国から宋元画を取り寄せようとしたが、これらは既に中国でも入手困難だったため叶わなかった。代わりに中国画人・沈南蘋が来日し、その画風は後の近世絵画に大きな影響を与えた。
 好奇心の強い性格で、キリスト教関連以外の書物に限り洋書の輸入を解禁とした。これにより、長崎を中心に蘭学ブームが起こった。
 享保13年(1728年)6月、自ら注文してベトナムから象を輸入し、長崎から江戸まで陸路で運ばせた。この事により、江戸に象ブームが巻き起こった。
   ・   ・   ・   
 第8代将軍・徳川吉宗はコメ将軍として、質素倹約の緊縮財政を強行して赤字財政を立て直し、享保の改革で幕政を家康時代へと復古させた中興の祖ではない。
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 享保の大飢饉とは、江戸時代中期に起こった飢饉である。江戸四大飢饉の一つに数えられる。
 概要
 1731年(享保16年)末より天候が悪く、年が明けても悪天候が続いた。
 1732年(享保17年)夏、冷夏と害虫により中国・四国・九州地方の西日本各地、中でもとりわけ瀬戸内海沿岸一帯が凶作に見舞われた。梅雨からの長雨が約2ヶ月間にも及び冷夏をもたらした。このためウンカなどの害虫が稲作に甚大な被害をもたらして蝗害として記録された。また、江戸においても多大な被害が出たといい、その死者の供養のために隅田川花火大会が始まったという言説が広く流布しているが、享保の大飢饉隅田川花火大会は無関係である。
 被害は西日本諸藩のうち46藩にも及んだ。46藩の総石高は236万石であるが、この年の収穫は僅か27%弱の63万石程度であった。餓死者12,000人(各藩があえて幕府に少なく報告した説あり)にも達した(『徳川実紀』によれば餓死者969,900人)。また、250万人強の人々が飢餓に苦しんだと言われる。また、1733年(享保18年)正月に飢饉による米価高騰に困窮した江戸市民によって享保の打ちこわしが行われた。
 その他
 最大の凶作に陥った瀬戸内海にあって大三島だけは下見吉十郎がもたらしたサツマイモによって餓死者を出すことはなく、それどころか余った米を伊予松山藩に献上する余裕があった。 この飢饉を教訓に、時の将軍徳川吉宗は米以外の穀物の栽培を奨励し、試作を命じられた青木昆陽らによって東日本各地にも飢饉対策の作物としてサツマイモの栽培が広く普及した。
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 第一章江戸博物誌の歩み
 Ⅱ自然へのあついまなざしー18世紀
 吉宗から『本草綱目啓蒙』まで ―動植物への関心が全国に拡がる―
 将軍徳川吉宗の物産政策
 1.将軍徳川吉宗の物産政策
 江戸時代に入ると、おびただしい量の薬物や砂糖などが輸入され、その代金として莫大な額の金銀が海外に流出するようになりました。そこで吉宗は、国内で自給が可能な体制を整えようと、いくつかの方策を実行し、それが全国的に動植物への関心を高めました。吉宗の物産政策として以下の4点が挙げられます。
 ①採薬使の派遣
 国内で産出する薬物や有用品の探索と採取を目的として、幕府は各地へ採薬使を派遣し、併せて地元の人々に何が役立つかを教えました。これが、それぞれの地域で、動植物への関心を高めることになりました。
 ②全国的な動植物調査
 享保元文全国産物調査――享保20年~元文3年 (1735~38) に行われた調査です。幕府は各藩に対し、産出する動植物の品名を、利用の有無にかかわらず報告させました。
 ③海外産動植物の調査
 漢名で記されている動植物が和産のどの品に当たるか、日本にもある品かない品かなどの疑問を解くために、実物を取り寄せての調査も行われました。
④海外産植物の国産化
 国内に自生しない薬草や有用植物は、移植を目指しました。朝鮮人参やサトウキビがその例で、前者は十数年かけて大成功をおさめ、後者もやがて実を結びます。
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 NHK 知恵泉
 「江戸の危機管理II」(前編)
 天下泰平とされる江戸時代、実は度々災厄に見舞われている。そのとき人々はどう動いたか。江戸時代の危機管理を探るシリーズ第二弾。前編は徳川吉宗の疫病対策に着目する。財政の立て直し「享保の改革」で知られる吉宗は、麻疹の流行、飢饉による疫病のまん延に苦しめられた治世下で医療改革にも乗り出している。そのとき大きな役割を果たしたのがデータの収集と情報の伝達方法、被害を拡大させないためにとった吉宗の知恵を探る。
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 「江戸の危機管理II」(後編)
 天下泰平とされる江戸時代、実は度々災厄にあっている。江戸時代の危機管理を探る第二弾、後編は幕末に人々を悩ませたはしかとコレラを前に、格闘した人たちから、その知恵を考える。有史以来、人々を悩ませたはしか。そして開国を機に海外から入り大流行したコレラ。この時期は、それまでの日本の医療体制では解決できない感染症の“パンデミック”が相次いだ。この難問に医師はどう対処したか?その後の日本に残した知恵にも迫る
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 第1部 3. 蘭学の興隆 | 江戸時代の日蘭交流 - 国立国会図書館

 3. 蘭学の興隆
 (1)徳川吉宗蘭学の萌芽
 当初は貿易に限られていた交流も、しだいに知的な方面に進む。オランダ船で輸入されたものには、オランダ語の書籍もあった。これを通じて江戸時代の日本人は、西洋の学術「蘭学」を学ぶことになる。
 蘭学の芽生えは8代将軍徳川吉宗の時代である。彼は、殖産興業、国産化奨励の方針から海外の物産に関心を示し、馬匹改良のため享保10年(1725)など数回オランダ船により西洋馬を輸入、ドイツ生まれの馬術師ケイズルを招いて洋式馬術、馬医学を学ばせた。また、享保5年(1720)禁書令を緩和してキリスト教に関係のない書物の輸入を認め、元文5年(1740)ころから青木昆陽、野呂元丈にオランダ語を学ばせるなど、海外知識の導入にも積極的であった。
 第2部 トピックで見る
 2. 蘭学者の活躍
 江戸時代の学問の一つに、オランダ語を通じて日本が受容した西洋の学問や技術と、それに対する研究である蘭学が存在した。それは、医学、天文学本草、博物、植学、化学、地図、暦学などの自然科学を中心としている。はじめ、長崎のオランダ通詞によるオランダ語の学習が中心であった。その後、徳川吉宗のもと本草学の振興やオランダ文物の輸入が奨励され、青木昆陽、野呂元丈は吉宗からオランダ語学習を命ぜられ、蘭学の機運が醸成されていた。さらに、田沼意次が老中になると殖産興業政策を推し進めたこともその機運を助成した。福知山藩主朽木昌綱や、薩摩藩島津重豪といったオランダ好みである「蘭癖」の大名も現れている。
 蘭学興隆の大きな画期は、安永3年(1774)の『解体新書』の翻訳刊行にみられる、前野良沢杉田玄白中川淳庵らの西洋医学の導入であるといえる。江戸時代は家によって学問が受け継がれており、蘭学もその例にもれず、優秀な弟子によって伝えられた。この章では蘭学者たちの活動を、彼らの記した書物からうかがってみたい。
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 蘭学
 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説
 江戸時代中期から幕末にかけて,オランダ語,およびオランダ語を通して行われた西欧諸科学,技術および西欧事情の学習研究とその知識をいう。鎖国下の 17世紀初期,オランダとの交渉が始って以来興隆し,8代将軍徳川吉宗が蘭書輸入の禁を解き,青木昆陽,野呂元丈らにオランダ語を学ばせるにいたって本格化した。その成果はまず前野良沢杉田玄白中川淳庵桂川甫周らによる『解体新書』の翻訳刊行として現れた。それ以来『西説内科撰要』を翻訳した宇田川玄随,『暦象新書』でニュートン力学を紹介した志筑忠雄,『蘭学階梯』を著わした大槻玄沢,『波留麻和解』を完成させた稲村三伯,西善三郎ら多くの蘭学者が輩出し,蘭学塾も江戸,長崎のみならず大坂,京都をはじめ全国各地に広がった。シーボルト事件や蛮社の獄など一時弾圧を受けたこともあるが,開国後に移入された欧米の諸科学にその道を譲るまで洋学の中心的役割をになった。
 出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
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 享保の打ちこわしとは、江戸時代中期の1733年(享保18年)の江戸で起こった庶民による打ちこわしである。
 1732年(享保17年)夏に起こった享保の大飢饉による米不足で米価が高騰した際、庶民の間で米価高の原因は徳川吉宗に協力し、米価の安定に尽力していた米商人の高間伝兵衛が米を買い占め、米価をつり上げようとしているという噂が立った。それに対し、幕府は米を供出するなどして米価を下げようとしたが失敗した。
 そして、1733年(享保18年)正月に高間伝兵衛の自宅を1700人の庶民が襲い、家材道具や米俵等を川に投げ入れるなどした。これが江戸時代最初の打ちこわしとされている。
 なお、その時高間伝兵衛は房総にあった自宅に戻っていたので無事であった。その後、高間伝兵衛は自身が所持していた多量の米を放出して米価の安定に努めた。幕府は打ちこわしに関わった中心人物数人を流刑にした。
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 江戸時代の一揆
 「百姓一揆」も参照

 江戸時代前期には、直訴や逃散など武力を用いない一揆が主に行われた。中期には全藩一揆や惣百姓一揆、強訴などと呼ばれる大規模な蜂起が主流となる。何万人といった百姓が集結する大規模なものであるが、家屋を少し傷つけたりする程度で、放火や略奪・殺傷などは厳しく統制されていた。農民が武装することはなく、鎌や鍬などの農具を持ち、鉄砲や竹槍を攻撃のために使用することはほとんどなかった。このため対応する武士側も原則的に強硬な対応は取れず、鉄砲を用いるのには幕府の許可が必要とされた。一揆の発生は幕府から統治の失敗と見られることもあり、最悪の場合は領主の処罰や改易の恐れもあった。このため領主側も対応には穏便な対応を取らざるを得なかった。百姓一揆の闘争形態の分類として、代表越訴、惣百姓一揆、村方騒動、国訴などが挙げられる。

 1726年(享保11年):山中一揆(美作津山八千人暴動)
 1729年(享保14年):岩代五十四ヶ村農民暴動
 1739年(元文4年):元文一揆(勘右衛門騒動)
 1748年(寛延2年):姫路藩寛延一揆
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 地震
 1729年8月1日(享保14年7月7日) 能登半島地震 - M6.6 - 7、死者少なくとも5人。
 1730年11月11日(享保15年10月2日) 常陸沖で地震 - M7.3、津波で船の流失あり。
 1731年10月7日(享保16年9月7日) 宮城県南部で地震 - M6.5、死者数名、家屋が倒壊。
 1741年8月29日(寛保元年7月19日) 寛保津波 - M6.9(Mt8.4)、死者2,033人。北海道西南沖の大島で火山性地震。大津波発生、佐渡能登・若狭にも津波
 1751年5月21日(寛延4年4月26日) 高田地震 - M7.0 - 7.4、死者1,541人。越後・越中地震。高田で火災など。
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 防災情報新聞
 享保元年江戸で謎の疫病大流行、8万人が死亡、赤痢?疫痢? ……… 1716年8月(享保元年7月)
 幕府、小石川養生所を開設 ……… 1723年1月13日(享保7年12月7日)
 幕府、家庭用救急医療書を出版 ……… 1730年4月3日(享保15年2月16日)
 ウンカ大発生し享保の大飢饉-江戸初の打ち壊しとサツマイモ登場
  ……… 1732年8月上旬(享保17年6月中旬)
 疫病退散を祈り、江戸大川(隅田川)で花火大会はじまる-歴史は隅田川花火大会へ引き継がれる
  ……… 1733年7月9日(享保18年5月28日)
 享保18年インフルエンザ全国的流行、世界的な大流行の一環か。風神送りとは
  ……… 1733年7月~8月(享保18年6月~7月)
 幕府、疫病救急法を刊行、諸国に頒布する ……… 1734年1月(享保18年12月) 
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 高額な薬草を輸入する為に銀が海外に流出していた。
 徳川吉宗は、銀の流失を防ぐ為に薬草の自給率を上げるべく、国内の産物調査『諸国産物帳』制作を諸藩に命じた。
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 3-3-3 享保の改革と社会の変化
 医薬知識の普及(『普救類方』)
 解 説
 8代将軍徳川吉宗は,1729(享保14)年,薬の知識の不足により多くの命が地方で失われていることを憂い,庶民向けの医学書である『普救類方』を幕府の医師に命じ編纂させました。つづいて1733(享保18)年,享保の飢饉後に疫病が流行したため,応急の薬の処方を記した『救民薬方』を印刷し全国の村々に配付しました。
 写真は『普救類方』で,著者は林良適と丹羽正伯です。全12 冊からなるこの本は,庶民も手に入れ易いように代銀9匁8分という格安の値段で販売されました。「頭之部」「面之部」「目之部」「鼻之部」など身体の部位毎に病状を列挙しています。その症状に対して,内外の医学書の中から,庶民にも入手可能な薬や簡単な治療法を選んで平易な和文で紹介しています。また最終巻では薬草の種類を図入りで解説しています。
 例えば,頭痛の対処法には,
 頭痛に,いたちささげを粉にして水にてとき,こびんに付べし。又ハ, いたちささげを袋に入枕にしてよし。  本草綱目
 と,中国の本草書である『本草綱目』を引用し,マメ科多年草である「イタチササゲ」を用いた処方を説明しています。その他,数種類の書物から別の処方も示しています。
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 丹羽 正伯(元禄4年(1691年) - 宝暦6年4月14日(1756年5月12日))は、江戸中期を代表する本草学者である。
 人物
 伊勢国松阪(現・三重県松阪市)に生まれた。家業は医者である。
 本草学を京都の稲生若水に学んだ。
 その頃、江戸幕府将軍に就任した徳川吉宗は、幕府の財政の健全化に力を入れていた。その一環として、当時輸入に頼っていた薬草類を国産に切り替え、また有益な薬草の発見により医学を進歩させたいと考えていた。薬草の探索を行う目的で正伯が登用され、享保5年(1720)に江戸幕府の採薬使に任じられ、野呂元丈・植村政勝らと箱根や富士などの中部地方、さらに東北各地の採集に向かわせられた。採集された薬草は、駒場や小石川養生所の幕府の薬草園で栽培が試みられた。享保七年(1722)に幕府医師として三十人扶持で召し抱えられ、さらに下総国の幕府薬草園15万坪の運営管理、薬草の栽培を命じられた。
 この正伯が管理をしていた下総滝台野薬園がその後、同地の現在の地名である千葉県船橋市薬円台の由来となった。また、「薬園台」を「正伯新田」と呼んでいた古例もあり、古地図にも記されている。
 享保12年(1727)、庶民向けの治療法と薬草・薬種の解説本『普救類方』全12冊が幕府から刊行された、丹羽正伯と小石川養生所の幕府医師林良適の共同編集で狩野派の絵師による絵がつけられている。
 その他の主な著書に、師の稲生若水から引き継いだ本草学書「庶物類纂」がある。これは中国の書物から本草学に関するものを翻訳したものであり、正伯はこれに影響を受け、日本全国の動植物、鉱物等産物を網羅的に調査した「諸国産物帳」を編纂した。「庶物類纂」は元文3年(1738年)に完成し幕府文庫(紅葉山文庫)に納められ、同年5月に吉宗から銀百枚を褒美として与えられた。正伯はその後も『庶物類纂』増補を行った。
 正伯は宝暦6年に江戸で没した。後に薬園台村の人びとにより、顕彰の供養碑が建てられ、その正面には諦通院日慮と刻まれている。
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 ~幕末トラベラーズ~
 日本史用語集
 江戸時代
 享保の大飢饉(きょうほうのだいききん)ってなんのこと?
 享保の大飢饉享保17年(1732年)
 享保の大飢饉は江戸の三大飢饉(享保天明天保)のひとつ。享保の改革の最中に西日本を中心に発生した。冷害や長雨などの天候不順と害虫の被害のため稲作が大打撃を受けて大飢饉となった。
 解説
 何年も続いた天明の飢饉や天保の飢饉にくらべると、被害は”享保17年(1732年)の西日本”と限定的だったといえますが、それでも200万人以上が飢え1万2000人の餓死者が出ました。
 幕府は被害の大きかった地域に米を分けてあげたけれども、そのために米不足になって江戸の米の値段が5倍ほどにあがり、生活がくるしくなった民衆が商家を打ちこわすという事件が起きました。
 享保の大飢饉のあと、幕府は青木昆陽 (あおきこんよう) を登用して、飢饉にそなえて関東を中心にサツマイモを普及させ、これが天明の飢饉のときに人々をすくったといわれています。
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 リスク対策.com
 安心、それが最大の敵だ 自然災害
 江戸期最悪の水害<寛保洪水>と一冊の名著
 大災害の政治権力に与える衝撃
 高崎 哲郎
 1948年、栃木県生まれ、NHK政治記者などを経て帝京大学教授(マスコミ論、時事英語)となる。この間、自然災害(水害・土石流・津波など)のノンフィクションや人物評伝等を刊行、著作数は30冊にのぼる。うち3冊が英訳された。東工大、東北大などの非常勤講師を務め、明治期以降の優れた土木技師の人生哲学を講義し、各地で講演を行う。現在は著述に専念。

 江戸期最悪の水害<寛保洪水>と一冊の名著
 江戸中期の1742年(寛保2年)夏、日本列島中央部、とりわけ関東甲信越地方は大型台風に直撃され未曽有の災禍に見舞われた。中でも旧暦7~8月にかけて襲った数度の大水害(大洪水と高潮)で江戸下町は水没したのである。徳川幕府「中興の祖」とされる第8代将軍吉宗の治世下に襲った江戸期最悪の洪水の経過と災禍を検証する。
 1742年8月28日(寛保2年旧暦7月28日)頃より台風による暴風雨が畿内を襲い、関東でもこの日以後雨が降り始めた。翌々日の8月1日の夜に入ると、江戸では雨とともに北東の激しい風が吹き始めていた。深夜・四ッ時(午後10時)頃から激しい南風に変わり強烈な嵐が吹き荒れだした。
 さらに強風が江戸湾からの高潮を隅田川・荒川に呼び込み、その結果、翌2日明け方七ッ時(午前4時)頃から水位が上昇し、満潮と重なった六ッ時(午前6時)には沿岸部は平常水位よりも8.9尺(2~3m)も上昇して江戸の下町を壁のような潮流が襲った。溺死者が次々に濁流に流された。
 同じ頃、利根川、荒川、多摩川の上流域で発生した大洪水の激流が、堤防を各地で切り下流の江戸方面に流れ始めた。特に堤防が破壊された利根川の激流は関宿城や忍(おし)城を押し流した後に江戸下町方向に南下し、8月3日(1742年9月1日)夜には江戸下町を直撃した。水位の上昇は8月7日まで続き、この間に本所・浅草・下谷一帯だけで1000人以上の溺死者が出た、とされる。町奉行石河政朝の報告によれば、本所では街中での水位が5尺(1m50cm)、多い場所では7尺に達し、軒まで水没した家屋が続出した。 隅田川にかかる両国橋・新大橋・永代橋など多くの橋が押し流された。ところが減水しはじめた8月8日に再度の暴風雨が江戸を襲って却って水位が上昇し、浅草・下谷では遂に水位が1丈(3m)に達し(「徳川実紀」)、完全に水が引くまでに20日から1か月を要した。
 「江戸水没」という事態を重視した幕府は、船をかき集めて川と街路の区別が付かなくなった下町へと派遣して、溺れている人や屋根や樹木の上で震える人を救出した。同時に被災者に粥や飯を支給した。史料によれば、食料の支給を受けた人数は8月6日で6000人分、被害のピークであった8日には1万人分、水が引いて支給を昼のみに限定した16日でも7000人分を要した。また、被害の少なかった江戸の有力町人の中には独自に炊出しを行ったりした者もいた。幕府は備前・長州・肥後などの被害の少なかった西国諸藩10藩に命じて利根川・荒川などの堤防や用水路の復旧(御手伝普請)に当たらせて事態の収拾を図った。注目したいのが信州(現長野県)である。信州は千曲川の大氾濫に加えて相次ぐ土石流により流域全域が壊滅状態となった。被災民は、この年が戌年(いぬどし)であったことから、未曾有の水害を「戌の満水」と名づけその大災禍を後世に伝えた。
 西国大名の御手伝普請
 10月6日、将軍につぐ実力者・老中松平左近将監乗邑(のりさと)、同松平伊豆守信祝(のぶとき)、同本多中務太輔忠良(ただよし)の採決により10の大名が御手伝普請に特命された。大名の手伝い普請というのは、幕府が必要な材木、坑木、鉄物などを負担し、特命を受けた大名が普請人足費、竹材木の伐採費、運賃、などを負担した。各藩は家老級の重臣を惣奉行にたて、家臣団を被害現場に出した(御手伝普請が形を変えた<政治的弾圧>であることは言うまでもない)。
 •肥後・熊本藩 藩主 細川宗孝、 普請場所 江戸川 庄内古川 古利根川 中川 横川 綾瀬川
 • 長門・萩藩 藩主 毛利宗広 、普請場所 上利根川右岸
 • 伊勢・津藩 藩主 藤堂高豊、普請場所 権現堂川 思川 赤堀川(現在利根川中流部)鬼怒川 栗橋関所前
 • 備前岡山藩 藩主 池田継政、普請場所 上利根川左岸 烏川 神流川 渡良瀬川
 • 備後・福山藩 藩主 阿部正福 、普請場所 下利根川
 • 但馬・出石藩 藩主 仙石政辰 、普請場所 小貝川
 • 越前・鯖江藩 藩主 間部詮方 、普請場所 新利根川
 • 讃岐・丸亀藩 藩主 京極高矩 、普請場所 荒川 芝川 星川 元荒川
 • 日向・飫肥(おび)藩 藩主 伊東祐之 、普請場所 荒川
 • 豊後・臼杵藩 藩主 稲葉泰通 、普請場所 荒川
 幕府は、有無を言わせないために直接藩主に通達した。江戸藩邸に在府中である岡山、津、鯖江、出石、飫肥臼杵藩の藩主には直接登城することを命じた。他の藩の場合は奉書を送った。被災地での真冬の重労働が始まる。幕府は翌年の出水時期(4月)までに決壊堤防の復旧工事を終了させるよう厳命した。
 熊本藩は他藩より大幅に遅れを取った。10月21日熊本で幕府老中奉書が届けられた。物頭兼普請奉行長谷川主水は、藩命により大坂(現大阪)で資金調達をしたので遅れて江戸についた。12月7日普請を開始した。現場作業や小屋に関しては江戸の町人や名主など有力農民に請負させた。工事遅れの厳しい書状が届いた。翌年4月30日熊本藩重臣は老中の私邸に出かけ普請が4月29日に完了したことを届け、翌5月1日、江戸城に届けたが、咎めもねぎらいの言葉もなかった。熊本藩出費は12万7280両であった。幕府からの褒賞はあったが、小藩よりも少なかった。熊本藩からの幕府にたいする贈り物は役人の役得とされるが、一部の者は受領を拒んでいる。
 信州の被害は甚大であり自力で復旧に取り掛かれる状況からは程遠かった。そこで松代藩・上田藩・小諸藩など各藩の藩主や家老さらには旗本領地の名主らは関八州のように御手伝普請による復旧を繰り返し必死に幕府に要請した。だが、幕府は関東を優先するとして、信州各藩の訴えに耳を傾けず、わずかな復旧資金を提供するだけであった。松代藩などは独自に再建の道を探るしかなく、苦難の道を歩むのである。
 「日暮硯」~改革の人・松代藩家老恩田木工
 「戌の満水」を検証するに当たって、「日暮硯」(ひぐらしずずり、岩波文庫)を再読してみた。140ページほどの文庫本だが、読み始めたら巻措(お)くあたわずで半日で読了してしまった。政治のあり方、上に立つ者の心得、個人の生き方に多くの示唆を与える含蓄の深い名著である。本書は、江戸中期の宝暦年間に信州松代藩(現長野市南部、真田家、外様、10万石)の家老・恩田木工(おんだもく、1717~1762、知行1000石)が、大洪水などにより破滅寸前に陥った藩財政の立て直しを藩主幸弘(当時10歳半ば)から一任され、改革に臨んで嘘をつかず、誠実・思いやりを信条とし、藩救済の功績をあげた事蹟をつづった説話集である。本書は分かりやすいのが何よりである。以下、「日暮硯」(岩波文庫)の「解説」を参考にし、一部引用する。
 江戸中期になると、商品経済が発達し、全国の大名は参勤交替や江戸藩邸での多大な出費を余儀なくされ、加えて幕府から強要される御手伝普請(江戸城改修、河川改修工事などの大規模土木事業のヒト・モノ・カネ)の負担などから財政は火の車に陥った。不作や凶作も相次いだ。
 松代藩では地理的要因による困難さがあった。山間のこの地は善光寺平などの肥沃な平野もあったが、千曲川犀川の二大河川が領地内を流れており長年大水害に苦しめられて来た。中でも寛保2年の大洪水は江戸期最悪の出水となり、信州地方にも記録的被害を及ぼした。「戌(いぬ)の満水」と後に呼ばれるようになったこの大洪水は、死者が関東甲信越だけでも2万人を越えたとの説がある。松代藩は本丸まで濁水に没し藩主以下家臣たちは船で高台まで脱出し難を避けた。かつてない大打撃を受けたが、幕府からの復旧支援の手は打たれず、この大水害以降領地石高の3分の1は回復不可能なまでに荒廃した。飢饉も相次いで、藩財政は極度に窮乏した。藩士の俸禄は半減され、農民に対する年貢取り立ては苛烈を極めた。全領地に及ぶ百姓一揆が相次いで起きた。藩政は混乱し、なす術もない状態に陥った。
 改革者の志を語る名著
 若年の藩主幸弘は、藩財政を立て直のため年寄りの家老らを差し置いて、30歳後半の家老恩田木工を勘略奉行に抜擢した。恩田に「宝暦の改革」(1754年開始)のすべてを託した。3年間で改革の完遂を命じた。恩田は「改革が失敗に帰したら切腹する」と藩主の面前で確約した。(藩主幸弘は47年間藩政のかじ取りを行ったが、治政がよく行われ松代中興の祖の名君と称されている)。恩田は、藩主はもとより藩内有力者の信頼を得て一大改革を導いていく。
 本書では、恩田の一大改革に臨む決意と実行が次々に紹介される。彼は一大改革を成就するために率先垂範がすべてとして「藩の家臣から農民に至るまで、嘘は絶対にゆるせない」と厳命する。同時に質素倹約を藩士から領民に至るまで命じ、自らも1飯1汁を堅持し妻子と離別を決意する。改革反対派は「恩田は狂気にかられた」と噂を広げる。妻子が恩田の指示に従うと確約したことから離別は中止される。
 恩田は、藩情の把握のため、藩士はもとより名主や農民に至るまで徹底した聞き取りを行う。直接伝えにくい情報は書面で通知させる。ここでも「嘘(虚偽の報告)は厳禁」である。聴取の結果、重税による農民の困窮と道徳的堕落、腐敗役人の跋扈(ばっこ)、藩士の文武両道に対する怠慢などが見えて来る。彼は次々に手を打つ。
 (1)年貢の軽減と金納(2)荒廃地の再開発(3)悪徳役人の追放(4)賭博や遊芸の禁止(5)正直の奨励と文武の鍛錬による風儀の改善(6)神仏への信仰心の重視…。行財政改革道徳心高揚は3年後には一応の成功を見た。恩田は役人の怠慢な行為などには厳格に処した家老として描かれている。だがそれは専制政治につきものの理不尽さとは大いに異なる。「改革に際し自己をまず厳しく律しなければならない」とした恩田は、その禁欲的生活や激務から宝暦12年正月惜しまれて世を去った。享年46歳。
 「日暮硯」を座右の書とした政財界の首脳や教育者・研究者は少なくない。本書は実践的な書物といえ、長年読み継がれてきた理由は文章が平易で物語としての構成も起伏に富んでいて巧みであることによろう。が、本書の主題が正直・信頼・合意・思いやり、そしてそれらを踏まえたうえでの成功という普遍的な性格をもった問題だという点が重要だろう。これらのテーマは時代の差異やイデオロギー・社会体制の相違を超えて通用し、どこにおいても求められる普遍的な価値に関わるものである。本書がざっと300年の歳月を越えて長い生命力を有している所以だろう。今日、政財界や有識者ら社会の指導的立場に立つ人々の倫理観の確立を望む声が各方面から聞こえてくる。自らを厳しく律してから他者に倫理を訴える指導者がどれだけいるかが問われるのだが、はたして恩田の精神を汲むことができる世の指導者はいるのであろうか?
 参考文献:拙書「天、一切ヲ流ス 江戸期最大の寛保水害・西国大名による手伝い普請」、「徳川実紀」、「日暮硯」(岩波文庫)、「松代町史」、筑波大学附属図書館資料など。
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 江戸時代 か行
 【享保の大飢饉とは】わかりやすく解説!!原因や影響(死者数)・その後など
 江戸四大飢饉と言われた中でも寛永の大飢饉につづき、2番目に起こった「享保の大飢饉」。
 西日本で起こった大飢饉で、多くの餓死者を出す事態となりました。
 今回は、そんな『享保の大飢饉(きょうほうのだいききん)』について、どんな被害が出たのかなどわかりやすく解説していきます。
 享保の飢饉とは?
 享保の大飢饉とは、1731年末から1732年に起こった米の不作による大飢饉のことです。
 その影響は中部、四国、九州北部、中でも瀬戸内海周辺の被害がもっとも大きく、西日本の米の不作が深刻な状況となり、十分な食料が確保できない事態となります。
 その後、この大凶作が全国へと広まり、民衆の暮らしに大きな影響を与えることとなりました。
 この時代、食料のほとんどを米に頼っていたため、米の不作は食料問題に直結するものだったのです。
 享保の大飢饉が起こった時期と原因
 日本において1731年の終わりから雨が降るなど悪天候がつづき、年が明けた1732年に入っても天候に恵まれませんでした。
 夏に入っても梅雨が2か月間も明けずさらには冷夏も重なり、米が育たない事態となりました。
 この影響は中部、四国、九州北部、中でも瀬戸内海周辺の被害がもっとも大きかったとされています。
 享保の大飢饉以前の米の価値
 1716年に将軍となった8代目徳川吉宗米将軍(米公方)ともよばれるほど、米の価格の安定に尽力し、享保の改革を打ち出し様々な取り組みを行いました。

また、米を食い尽くすイナゴやウンカなどの害虫の大量発生も伴い、稲に多大な被害を与えました。
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 ✔ 上米の制・・・1722~1730年のあいだに実施された制度。倹約令によって支出をおさえさせながら、臨時に大名から石高1万石につき100万石を納めさせ、かわりに参勤交代の負担を軽減させた。
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 ✔ 定免法・・・米の収穫量にかかわらず、毎年一定の年貢量を納めさせる制度。これにより、幕府の収入は安定した。また、米の収穫量によって年貢率を決める方法「検見法(けみほう)」を導入した。
 ※そのほか、新田開発も押し進め、米の増産に励みました。  
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 しかしその結果、米の価格が暴落することとなり、米農家はたいへんな被害をうけました。この打開策として幕府は堂島米市場を開きました。
 常島米市場とは、1730年に大阪の常島に開かれた米市場のことで、大阪は年貢が多く集まる場所でもあり、蔵屋敷(江戸時代に大名が年貢や領内の特産物を販売するためにつくった倉庫兼家屋)におさめた年貢米を入札制によって米仲介買人に売っていました。落札者には1枚で10万石の米と交換できる米切手とよばれる証券を発行しました。
 幕府は常島米市場への介入によって米の価格を人為的に操作しようと試みましたが、大阪の米仲買人などに猛反対されるなど、失敗に終わりました。
 この2年後に享保の大飢饉が起こります。
 享保の大飢饉による死者数
 諸説ありますが、享保の大飢饉の死者数は1万2千人ほどの餓死者が出たともいわれています。
 しかしこの人数は各藩が幕府に少なく報告していたのではないかというか見解もあり、19世紀前半に編纂された「御実紀」(ごじっき)、通称「徳川実紀」とよばれる全517巻にもおよぶ江戸幕府の公式史書によると・・・
 死者は約97万人、飢餓に苦しんだ人は250万人にものぼったとされています。
 享保の大飢饉の被害の大きさ
 西日本の46の藩が飢饉に見舞われました。
 当時全国に約270の藩があったと考えられますので、およそ6分の1の藩が飢餓に苦しんでいました。
 この46藩の総石高が236万石(1万石=約1500トン)ほどで、この年に収穫された米の量は前年の27%弱の63万石ほどでしたので、到底住民の生活に必要な量には達していませんでした。
 ちなみに1石は約150㎏で成人男性が1年間に食べる米の量を基準としています。
 通常約236万人の男性が1年間食べていける収穫量があったはずが、63万人分しか獲れなかったということは、4人中3人ほどが餓死する計算になりますので、大変な飢饉であったことがうかがえます。
 享保の大飢饉の影響
 米の不作によって市場に出回る米が激減し、米の価格の高騰も深刻な問題となりました。
 これに大打撃をうけた民衆のあいだには、「米の値段が上がった原因は米商人である高間伝兵衛と将軍が協力して、米を買い占めているせいだ」といううわさが広まり、1733年には打ちこわしが起こりました。
 この享保の打ちこわしは、1733年の正月に約1700人が高間伝兵衛の自宅を襲い、家財道具や米俵を川に投げ入れるなどして多くの被害がでました。
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 高間自身は房総の家に戻っていたため無傷。その後、高間は持っていた多量の米を放出し、米の価格を安定させようとしました。
 この打ちこわしのあと、幕府はこの打ちこわしにかかわった中心人物を流罪に処しました。
 幕府もこの事態に対策を打とうと、囲い米を解放し価格を下げようとしました。
 囲い米とは、江戸時代に江戸幕府や各藩が万が一に備えて米や穀物などを社倉(江戸時代に設けられ、庶民の収入に応じて貯蔵、貸与などの目的で自治的に管理されたもの)や義倉(国内の要所に設けられた倉庫で、災害や飢饉に備えて米や穀物などの食料を庶民から集めたり、富者から寄付してもらったりして貯蔵したもの)に蓄えて、万が一に備えた制度のことです。
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 この制度は情勢が不安定だったため、飢饉に備えてというよりも戦などの軍事的な事態への備えた兵糧米としての役割が大きい部分もありました。
 しかし、米の価格を下げることはできず、失敗に終わりました。
 享保の大飢饉の被害が少なかった大三島
 現在の愛媛県今治市に位置する大三島(おおみしま)では、下見吉十郎(あさみ きちじゅうろう)という六部僧によって広められたサツマイモを栽培していたため、飢えに苦しむことがありませんでした。
 サツマイモは干ばつに強く、肥料なども少なくて済むので育てやすい野菜でした。
 長期間にわたって収穫が可能で、栄養価も高く食糧に困ったときには大変重宝する食材です。
 このことから将軍徳川吉宗は、各地でサツマイモの栽培を奨励するようになり、東日本にも広まっていきました。

 まとめ
 ✔ 1731年末から1732年に起こった米の不作による大飢饉で、その影響は中部、四国、九州北部、中でも瀬戸内海周辺の被害がもっとも大きく、全国に広がる大規模なものになった。
 ✔ 原因は長雨と冷夏、イナゴやウンカなどの害虫の大量発生である。
 ✔ 諸説あるが、享保の大飢饉の死者数は1万2千人とも97万人弱ともいわれ、飢餓に苦しんだ人々は250万人にも及んだ。
 ✔ 西日本46藩の総石高約236万石(1万石=約1500トン)のうち、この年に収穫された米の量は前年の27%弱の63万石ほどだった。
 ✔ 米の価格が高騰した原因が米商人の高間伝兵衛と徳川吉宗による米の買い占めのせいだとのうわさが広まり、高間の家が襲われる打ちこわしが起こった。
 ✔ 幕府は囲い米を放出するなど、米価の引き下げを試みるが失敗に終わる。
 ✔ 飢饉の被害が少なかった愛媛県大三島にならい、比較的育てやすいサツマイモの栽培を奨励し、東日本にも広まっていった。
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